カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神学は知恵である ー 『今日のカトリック神学』の要約(最終)

2021-09-30 20:53:32 | 神学


 この最後の第3節は「学術と知恵」と題されている。結局神学は単に学術であるだけではなく、知恵そのものであり、他の学問を知恵へと招くものであるというのが主旨のようだ。

 神学は知恵である。英知である(1)。

 あまり聞き慣れない表現だろうが、よくかみしめてみよう。人間は部分的な諸真理に満足できない。究極的な真理を理解したいと望む。そして神学は究極の真理は「超越的」であると主張する(2)。
 イエスがヨハネ福音書で最初に語った言葉が繰り返される。

「何を求めているのか」(ヨハネ1・38)

 あなたは何を求めているのか(3)。それは知恵ではないですか、というのが本文書の主張のようだ。


第3節 学術と知恵

[旧約での知恵]

 旧約の知恵文学(4)は知恵を天的・女性的に擬人化して知恵神話を語る。知恵は実践知だけを意味するのではない。旧約の人々は、自然には秩序があるという不思議さに知恵をもって対処し、現実生活の不条理に立ち向かった。旧約では知恵文学の中心的メッセージは「主をおそれることは知恵の初め」だといわれる。これは3度現れるという(詩篇111・10,箴言1・7と9・10)。

[新約での知恵]

 イエスは知恵文学の伝統の中に立っていた。福音書によればイエスは知恵文学をよく知っていたようだ。「知恵ある者には隠して・・・幼子のような者にお示しになる」(マタイ11:25)とのイエスのことばは、旧約での知恵概念が新たに「転換された」ことを示している。
 パウロは、イエスの十字架上での死を「愚かさ」としてしか見ない「世の知恵」を批判した。パウロは、それは「神の力、神の知恵」だと述べた(コリントⅠ:18-25)。知恵の逆説性を説いたわけだ。

[ギリシャ的な知恵]

 教会は、知識のみで救いが得られると考えるグノーシス主義は認めないが、知恵は知識を統一する見方だというギリシャ哲学の知恵概念と出会う。そして新たな知恵概念を神学の中に組み込んでいく。学術は個別的な諸原理に光を当てるが、現実全体を示すことはできない。現実全体の統一された眺めを与えるのは知恵である。教父たちにとり、賢者とは神と永遠の真理に照らして万事を判断する人のことであった。

[哲学的な知恵]

 哲学は文字通り、愛 philos と 知 sophia の二語からなるギリシャ語の訳語で、知を愛すること、すなわち 愛知 を意味する(5)。特に形而上学 metaphysics は、人間の感覚を超える超越的存在への哲学的問いとして存在してきた(6)。形而上学はやがて中世のおいて神学と出会うことにより、人間の知識をより高い知恵へと高める道を求め始める。

[キリスト教的な知恵]

 キリスト教的な知恵は、哲学のような純粋に人間的な知恵を超越する。それは大きく見て二つの形式をとる。
 一つは神学的知恵で、信仰によって照らされた理性の働きをさす。それは獲得された知恵だという。もう一つは神秘的知恵とよばれるもので、それは聖霊のたまものである。「聖人たちの知」とも呼ばれる。神は、霊的な人間に神的な事柄を知り、それを「被る」(かぶる)ことを許すという(7)。


[神学的知恵と神秘的知恵]

 キリスト教の知恵はこの二つの形式をとるが、両者は混同されてはならない。霊性を求める知恵は神学を避けたりはしない。逆に霊性を求める熱心な霊的生活は神聖な神学を必要とする。アヴィラの聖テレジアは修道女たちが神学者に助言を求めることを繰り返し望んだという(8)。

[知恵としての神学]

 信仰は、経験され、研究される。知恵としての神学は信仰のこういう多様性を「統合する」。知恵とは統合する力のことである。この知恵としての神学は、現代神学が直面している二つの大きな課題の解決に役立つ。一つは、信じる者たちと神学的省察との間のギャップ、つまり、信徒と神学者との間のギャップを橋渡しする方法を提供する。 もう一つは、非キリスト教文化において宣教を促進する方法を提供する。教会の宣教活動を助ける。知恵としての神学はこの二つの課題に応えることができる。

[神秘と否定神学]

 神の神秘を論じると(9)、神学的知識には限界があることがすぐにわかる。理性は、信仰によって照らされ、啓示によって導かれると、自らのうち限界があることにすぐに気づく。だからキリスト教神学は否定神学の形式をとることがある。
 否定神学は、神の神秘への知的なアプローチは無意味だといっているわけではない。知的なアプローチには限界があると言っている。神学的議論はいつも以下のような道をたどる:


  肯定の道 → 否定の道 → 卓越性の道

 肯定の道とは原因結果論など被造物の中に完全性があることを示し、否定の道とは神の完全性が被造物の中には不完全な形でしか存在しないことを示し、卓越性の道とはそれらの完全性は神の内にあると述べる。

 神学は神の神秘を語る。だが神学は自らの知識は真実であっても神の実在の前では不十分であることを知っている。神を完全に把握することはできない。アウグスティヌスは言っている。「もしあなたが把握しているならば、それは神ではありません」。

 カトリック神学の基準は、聖書の知恵伝承に根ざしながら、神の神秘を研究するなかで真の知恵を求める。神学は、所有することではなく、神に所有されることを求める。


【結び】

 本文書は、カトリック神学を特徴づける展望と原理を示し、神学の基準を提示してきた。神学が考察するのは、啓示された栄光・恵み・真理である。神学は、創造されたものより、むしろ神のうちにある希望を説明しようとする。だから神学は基本的に栄唱的であり(10)、賛美と感謝にによって特徴づけられる。



1 繰り返しになるが、知恵も英知もwisdomの訳語だ。ギリシャ語で言えば ソフィア sophia だ。知恵という言葉は、知恵文学とか知恵の書(旧約続編)という言葉で日本人にもなじみ深い。知恵の意味は、「問題を解決する良い考え」(『新明解』)という普通の意味だけではない。新約聖書では結局は知恵とは歴史的存在としてのイエスそのひとをさす。「知恵」はやがて「ことば」(ロゴス)に置き換えられていくが、知恵とはイエスのことを指すことを忘れてはならない。
2 「超越」 transcendence という概念も難物だ。わかったようでよくわからない概念だ。そもそも神学と哲学で定義や用法が異なるようだ。普通は「日常的なものを超えているもの」(『新明解』)という程度の意味だが、『広辞苑第7版』は一言では説明しないで、神学・中世哲学・カント哲学・現象学・実存哲学の定義を個別に紹介している。よほど多義的な概念なのであろう。哲学で用いられる絶対者・超越者という言葉は神概念の代替物のようだが、超越概念と同一ではない。
 哲学では日常という現実・現状を外へ・上へ超えて真理を求めようとする人間の普遍的経験をさすが、それは「内在への回帰」(自分の内部に立ち帰る)と不可分なので常に「現状批判」という機能を持つようだ。神学ではトマス・アクィナスの「存在の類比」論のように「神をいかに理解し・説明し・表現するか」という問いへの答えとして超越概念が用いられた。否定神学も同じく、神の絶対的超越性と人間の受動性を表現しようとした。現代哲学ではキルケゴールやハイデッガーの超越概念が支配的なようだが、神学では神の超越性とは結局はイエスの受難と復活のことをさしているようだ。
3 「何を求めているのか」という日本語ではそのコノテーションが明らかではないが、日本語で理解してなにか形あるものを欲望しているという意味にとるとそれは間違いに近いようだ。英語だと What are you seeking ?  という訳の聖書が多いようだし、ドイツ語だとほぼ Was sucht ihr ?  だ。seek も suchen もなにか内面的なものを求めるというニュアンスがあるらしい。何か形あるものではなく、内的なものを探し求めるという意味のようだ。
4 知恵文学とは旧約聖書のなかで、啓示ではなく知恵について語る諸文書のこと。ヨブ記・箴言・コヘレトの言葉・続編(外典)の知恵の書とシラ書(集会の書)を指すことが多いようだ。。
5 哲学という訳語は教科書的には西周がフィロソフィーの訳語として明治7年に造語したものとされるが、窮理学、理学などという訳語も用いられたようだ。
6 形而上学とは結局は超越的存在への哲学的問いであり、中世の神学を支えていくが、近代に入ると主観性・実証性の思想の中で解体され、近代科学に取って代わられる。中世の形而上学は終焉したが、経験的な知覚を超えるものを対象とする学問・学知としては今後も消えることなく存在し続けるのであろう。
7 あまりなじみのない用語だが、pati divina の訳語らしい。神学の専門用語なのかもしれない。「平安と沈黙の中で、観想し、神と個人的につながること」を意味しているようだ。
8 アヴィラのテレジア『完徳の道』

(アヴィラの聖テレジア 大テレジア 1515-1582)

 

9 神秘 mystery という言葉もよく使われるが、正確に理解しようとするとやっかいな言葉だ。ギリシャ語では神秘とは目や耳を閉じることを意味したらしいが、現在は普通は神の隠れた意思・計画のことを意味する。特にキリスト教では「秘跡」概念との区別が難しい。キリスト教の文脈では神秘とは信仰に属する秘められた事柄、啓示に示された真理のことをさす。具体的には「聖体の秘跡」のことをさすので、三位一体の神は「神秘的」とされる。要は、いくら頭で考えてもわかりませんよということのようだ。
10 栄唱 doxology とは、ギリシャ語のdoxa(栄光)とlogos(言葉)という言葉の合成語。プロテスタントでは「頌栄」(しょうえい)と訳される。神に栄光を帰する祈りのことで、三位一体の神を讃える内容からなる。栄唱には様々な形式があるようだが、ミサでは賛歌がなじみ深い。

 

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神学は学問なのか ー 『今日のカトリック神学』の要約(7)

2021-09-27 21:01:18 | 神学


 カトリック神学はそもそも学術(学問)なのか? この素朴な問いに、本文書は「神学は・・・学界において独特の立場を要求する」と宣言する。近代において合理主義と実証主義によって神学が学術の世界から追い出されてしまったことへの、国際神学委員会の反論と挑戦である。では、「独特の立場」とは何か。神学はどのような学術として認められたいのか(1)。

第2節 方法および専門分野の多様性における神学の唯一性

 第2節はこのように題されているが、「多様性における唯一性」とはなんともわかりづらい。要は、この節は二つのことを言っている。
 まず、神学は専門分化が進み、「諸神学の複数性」(2)が生まれたという指摘と、第二に、神学は「他の諸科学」との交流による「学際的な協力」のもとに発展してきているという指摘だ。この神学の専門分化と他の諸科学との相互作用によって神学はかっての神学とは異なるものに変わってきており、学術として独特の立場・位置・評価を求める、と言っているようだ。

[1]「諸神学」または神学の専門分化

 ギリシャ教父やラテン教父たちは神学ということばを「単数形」でしか用いられないと思っていた。神学は神話ではなく神のことばと思っていたからだ。だが、中世末期にいたり、スコラ神学と神秘神学の区別、思弁神学と実証神学の分離が起こると、神学という言葉は「複数形」で用いられるようになった。

 神学の専門分化は大きく見て以下の三つの形で進んだという。

①分野の拡大:聖書研究・典礼・教父学・倫理神学・司牧神学・霊性・要理・教会法などが独立した領域として成立してくる
②スタイルの多様化:超越神学・救済史神学・分析神学・スコラ形而上学神学・解放の神学などスタイルが多様化した。これは他の学問(社会科学・自然科学・文献学・歴史学・生命科学・哲学など)など外からの影響が神学に及んで、神学に異なった思考様式が共存し始めたからだ。
③実践面での多様化:主題・場所・制度・意向・文脈・関心の面で多様性が増大した

 神学の専門分化が進むのは不可避である。それは人間は真理を全体としてはつかめず、特定の側面でしか把握できないからだという。真理はいつも新たな目で見るしかない。それは、対象が多様だからだけではなく、人間が抱く疑問が相違しているからだという(3)。


[2]「他の諸科学」または学際的研究の進展

 神学はもともと哲学と協力し合って発展してきた。この関係は現在も基本ではあるが、近代では別のパートナーが見つかった。他の諸科学である。聖書研究はテキスト分析により、教会史は史料批判の発達により助けられている。組織神学・基礎神学・倫理神学は自然科学・経済学・医学との対話から学ぶ。実践神学は社会科学との対話から益を得る。神学が他の諸科学から学ぶことは多い。
 だが、こういう学際的協力は大事だが、神学者は他の専門分野の知見をまるで教導権でもあるかのように受け取ってはいけない。神学固有の原理や方法に照らしてそれらの知見やデータを採用し利用しなければならない。
 この場合は哲学は重要な役割を果たす。神学が他の諸科学と交流するとき、哲学は両者を「仲介する役割」をもっている。諸科学の成果をより普遍的なビジョンの中へと組み込むのは哲学である。たとえば、生命の進化に関する科学的知識は哲学に照らして解釈されることになる。

 他の諸科学の中で、宗教哲学や宗教社会学など神学と宗教を対象とした宗教研究との関係は特に興味深いものがある。19世紀には神学と宗教研究は対立関係にあった。一方で神学は信仰を前提としているから科学ではないという主張があり、他方、宗教研究は信仰を否定するものだから神学に反するという主張があった。両者の間でさまざまな論争があった。だが、現在は、この論争は実りある対話に取って代わられつつある。宗教研究はいまは神学の研究の方法の中に組み込まれている。
 とはいえ、神学と宗教研究との間には本質的な相違が残っている。宗教研究は宗教現象を信仰の真理から切り離して文化的関心のもとに研究する。神学は宗教現象を教会と信仰の内側から省察することによって宗教研究を超えていく。

 以上見てきたように、近代の合理主義と実証主義は神学を学術という家族から追い出したが、カトリック神学はいかなる形式であれ科学の自己絶対化は自己還元であり、病弊であると批判する姿勢に変わりはない。神に関する学術・信仰に関する学術として神学は、諸科学の調和に重要な役割をはたす。神学が学界において独特の立場を要求するとはこういう意味である。

 

(神学・宗教学分野で2020年世界大学ランキング1位のノートルダム大学 米国インディアナ州 カトリック系)

 

 

 



1 本文書での学術という訳語の意味がはっきりしないのでなんとも言えないが、ここでは学問とはsciencesの意味で、「理論に基づいて体系化された知識と方法」(「広辞苑」)という意味にとるなら、独自の理論と方法の存在がキーとなる。本文書は、当然と言えば当然だが、中世以来の「大学」での営為を学術と見なして議論を展開している。
2 これもわかりづらい翻訳だ。わたしなりに理解すれば、つまりは、専門分化の中で様々な形態の神学が複数生まれた。その複数性とは多元主義や相対主義のことではない。複数性とは様々な神学が誕生し発達したという意味のようだ。
3 人間が抱く疑問は無限だからだということであろう。こういう文言を読むと、現代のカトリック神学の懐の広さと深さが伝わってくる。

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現代神学はポストモダンを乗り越えたか ー 『今日のカトリック神学』の要約(6)

2021-09-25 17:03:37 | 神学

 第3章は「神の真理を説明すること」と題されている。大仰なタイトルだが、文章は謙虚に書かれている。
 この章は3節からなっている。本章は、神学は神の真理を説明できると言っているわけではない。神学が神の「真理」を説明するとは、神学が神の「啓示」を、「理性」を用いて、「合理的方法」を使って、「霊的体験」と結びつけて、真の「知恵」(英知とでも訳すべきか(1))へ通じようと努力することを意味する、と述べているようだ。

 神のことばは啓示だが、啓示はなにか神から人間に一方的に与えられ、人間がただ受動的に受け取るもの、という印象を持ちやすい。本文書はこれは間違いだという。啓示は受動的に受け取るものではない。人間は「知性」を通じて、啓示された真理を能動的に受け入れる(2)。知性は、真理を理性的で学術的に表現しようとする(3)。


第1節 神の真理と神学の合理性

 神の真理は、信仰において受け入れられると、人間の理性と出会う。そして学術は理性の意識がとる最も高次の形式である。学術は多様な複数の形式を持ち、「実証的な科学」(数学・経験科学など)に限定されない。
 だから、神の真理は信じる者の理性を必要とする。信仰は姿勢を刺激し、その限界を拡張する。そのため、信仰と理性の対話、神学と哲学の対話は、信仰の面からのみならず、理性の面からも要請される。ここで、教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「信仰と理性」が説明される。要は、信仰が受け入れる真理と、理性が発見する真理とは、矛盾するものではない。
 同じように、宗教と哲学も長らく対立してきたが、キリスト教は神話神学や政治神学から自然神学を自立させることに成功した。自然神学とは、啓示によらない神認識という意味だが、スコラ神学は代表例だろう(4)。
 同じように、東方の神学者たちはギリシャ哲学を援用し、神学を神秘主義化させずに「否定神学」を発展させた(5)。
 ここから、回勅にそって、中世から啓蒙時代までのスコラ神学の発達と挫折、啓蒙思想との出会いと打撃と克服の過程が簡明に叙述される。そして現代の新しい挑戦として「ポストモダンの危機」をあげている(6)。真理は一つしかないのか、理性は本当に真理に到達できるのか、それほど重要な理性がなぜ暴力や不寛容につながるのか、などなどポストモダンの挑戦は厳しい。だがカトリック神学は哲学による形而上学的方向付けの力を受けてこの危機を乗り越えていかねばならない。神学は哲学と対話する。
 このように回勅『信仰と理性』は哲学的懐疑主義と信仰主義をともに拒否し、神学と哲学の関係刷新を求めている。
 カトリック神学の基準は、信仰の真理を、理性を用いて知的・論理的に提示することにある。そのためにも哲学的理性との緊密な関係を認めねばならない。

 


1 わたしはカテーテル手術でしばらく入院していたので前回の投稿から少し間が空いてしまった。この第3章は結論部分で大事なところだ。
 知恵も英知もwisdomの訳語なのだが、英知という訳語は14世紀以降の霊性神学の中で好んで用いられるようだ。W・ジョンストン『愛と英知の道』(サンパウロ 2017)。なお、『広辞苑第7版』は英知を「深遠な道理をさとりうる優れた才知」と説明しているがちょっと一般的な説明で、知恵概念との異同は意識されていないようだ。
2 ここでは「理性」と「知性」ということばが訳し分けられている。原語がわからないのでなんとも言えないが、どう訳し分けているのだろう。理性・知性・悟性・感性などの用語の使い分け・訳し分けは、歴史的経緯もあり、哲学・心理学でも難問のようだ。理性 reason Vernunft と知性 intellect Verstand を敢えて使い分けるなら、理性は推論的能力で間接的、知性は直感的で直接的とでもいえようか(知性は直感的との説はカントによる大批判があるようだが)。日本語では「悟性」 understanding Verstand という用語も知性と同義語として使われることがある。カント以降は、「理性ー悟性ー感性」という認識能力の序列論が受け入れられているので、悟性は理性と感性の中間的存在で、理解力一般という程度の意味らしい。この場合、感性 sensibility Sinnlichkeit は知性に対立して、感覚・情念を指すようだ。真・善・美のうち、善と美は感性の対象だが、真(理)は知性の対象となるらしい。要は、本文書は、理性と知性を訳し分けている、使い分けている点が重要だ。
3 「学術」の原語はわからないが、学問と芸術を含むという意味か、学問と技術(応用)を含むという意味かは本文書ではっきりしない。ことによったら単に学問という意味かもしれない。
4 現代哲学では理性と信仰は区別されており、自然神学に存在の場はない。だが、近年の日本におけるネオ・トミズムへの関心の増大には目を見張らせるものがある。近代理性への不信が、日本人の関心を信仰には向かわせず(せいぜいスピリッチュアル)、自然神学に向かわせているのかもしれない。
5 否定神学 negative theology とは、神は全能であるなどの肯定的表現は神の無限性を表現できないとして、神は「・・・ではない」という否定的陳述でしか表現できないとする神学のこと。アレキサンドリアのクレメンスやオリゲネスなどギリシャ教父に遡るといわれる。霊性神学に大きな影響を与えている。いわゆる不可知論ではない。
6 ポストモダンと言っても具体的に何を念頭に置いているのかははっきりしない。ポストモダンとは普通は、理性による啓蒙を基礎とした近代の制度や思考は袋小路に陥っており、消費社会や情報社会に対応する新しい実践を求める思想を指す。脱近代主義とも訳される。いわゆる「大きな物語」を否定し、懐疑主義的で、自己言及的で、相対主義的な思想を含むようだ。社会学では機能主義の時代の後ポストモダニズム論の影響が強く働いた時期があり、1980・90年代には大いにもてはやされた。フェミニズム論はその例と言えるかもしれない。

(ポストモダンのシンボルだったルーズソックス)

 

 

 

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時のしるし ー 『今日のカトリック神学』の要約(5)

2021-09-19 17:32:51 | 神学


第2章 教会の交わりのうちにとどまること

第5節 神学者たちの交流

 神学者の奉仕も個人的であると同時に、共同体的・団体的でもある(1)。神学者の仕事は同じ召し出しを持っている人々との連帯の中で実現される。
 では、神学者とは具体的に誰のことを言うのか。どういう人を神学者と呼ぶのか。誰がそう呼ぶのか。資格はあるのか、などなどいろいろ疑問がわいてくるがここでは簡単に説明されている。
 神学者とは、神学部や学校で神学を教えたり、神学会の会員であったり、著作家だったり、教師だったりする。いわば専門的な神学者だ。
 他方、叙階を受けた神学者や、修道生活を送る神学者もいる。また、最も数が多いのは「信徒神学者」だ。信徒神学者は、他の神学者たちが持っていない経験、すなわち、「教会と世界、福音と生活都内だの相互作用に関する分野の経験を持っている」(44頁)という。神学者はこういう信徒神学者とともに働くことによって自分たちの努力が時代的制約を持っていることを自覚する。

 神学者の価値ある仕事は、昔なら「討論」、現代では「書評」だという。討論や書評を通して神学の概念や方法を洗練させていく。この洗練の過程は優れて個人的でゆっくりとなされる。だが今日のコミュニケーション手段の急速な発達はこの自己矯正のメカニズムを十分機能させなくなってきている(2)。
 だから、エキュメニカルな対話と協力は神学者たちの交流にとってますます重要になってきている。なぜならエキュメニカルな対話と研究はいつも「たまものの交換」だからである。


(神学者 ジョンストン師)

 

 


第6節 世界との対話

 キリスト者は人間的な出来事(個人的な・世界的な)出来事や危機に直面し、それを解釈するとき、いつも「信仰」が問題となる。信仰に照らして判断し、応答する。それは一人では難しいので司牧者と神学者の手助けを必要とする。つまり神学があきらかにする「時のしるし」を示す。
 時のしるしとは、「歴史に与える影響と規模の故に、その時代の相貌を定義する人類史上の出来事や現象」のことで、その時代の人々の必要や抱負を表現しているという。本文書は、具体例として、以下をあげている。「歴史性の発見、啓蒙思想とフランス革命、奴隷解放運動、女性の権利の普及促進運動、平和・正義・自由・民主化のための運動、環境保護運動」。こういう例示が時代的制約を持っていることは言うまでもない(3)。

 教会はときにはそうした運動に「過度に慎重になり・・・それらの意義を軽視してきました」(49頁)。しかし現在「信仰の感覚」のおおかげで、福音に照らした良い見極めができるようになった。これは神学者と世界の諸文化との対話のおかげだ。
 第二バチカン公会議は、神学者のおかげで、自らの教えに関してさまざまな「時のしるし」を認識できるようになった。神学者は「諸宗教間対話」の実現に大きな貢献をしている(4)。
 公会議は次のように述べているという。「信徒は、民族的宗教的諸伝統に精通し、その中に隠れている神のことばの種を喜びを持って見いだし、尊敬すべきです」(5)。なぜならそれらは、「すべての人を照らす真理の光をしばしば反映している」からだという。 つまり、「カトリック神学の基準は、神学は世界との不断の対話のうちにあるべきだということです」(51頁)。

 

(宗教間対話)

 

 


1 ここでは、「共同体的」は「団体的」と言うことばと対比的に使われているようだが、明確な定義がされているわけではない。普通、団体はVerbandの訳で、明確な統制機構を持つ組織集団のことを指す。英語でいうassociation(結社)とは異なる概念だ。M・ウエーバーは、指揮者・管理スタッフが社会関係の秩序を維持している集団を団体と呼んでいる。指揮権の存在が重要な指標となる。ウエーバーは、団体の秩序が「強制」で維持される場合を「強制団体」(Anstalt アンシュタルト)と呼び、秩序が成員の「合意」によって維持される場合の団体を「任意団体」(Verein フェアイン 日本では協会と訳されることが多い)と呼んで、両者を区別している。本文書にはこの区別はない。
2 パソコン、スマホなどのデジタルツールの発達とその影響の拡大に警戒心を抱いているようだ。
3 「歴史性の発見」とは何を意味しているかわからないが、おそらくはルネッサンス・宗教改革など近代ヨーロッパのの成立を指しているのであろう。逆に言えば、テロ・核・イデオロギー対立・開発・同性婚問題などが例示されていない点は興味を引く。
 21世紀の現在の視点から見れば、さらに新たな「時のしるし」をあげるべきだろう。生命倫理問題、社会格差、難民・移民問題、感染症問題などだ。
4 エキュメニズム運動の中で「諸宗教間対話」が進んだ。第二バチカン公会議の最大の成果と言って良いかもしれない。諸宗教間対話の重要性は強調しても強調しきれない。だが第二バチカン公会議後半世紀経た今、その成果はまだはっきりとは姿を現していないようだ。カトリックと、国教会・正教・プロテスタント諸宗派との対話は進んでいるようだが、イスラーム教・ヒンズー教・仏教などとの対話はまだ途上のように見える。
5 第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』、これは『第二バチカン公会議公文書全集』(南山大学監修 1986)に所収されている。この公文書全集は参照には便利である。
 日本の文脈で言えば、仏教や神道の中に「神のことばの種が隠れている」と言っているのであろう。ちなみに、教皇庁諸宗教対話評議会は、毎年、日本の神道や仏教(灌仏会)に新年の「メッセージ」を送っている(https://www.cbcj.catholic.jp/category/document/docroma/docromainterreligious/)。

 

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「信仰者の感覚」に配慮する ー 『今日のカトリック神学』の要約(4)

2021-09-18 20:33:28 | 神学


第2章 教会の交わりのうちにとどまること

第3節 「信仰者の感覚」への配慮

 信仰者の感覚とはわかりづらい日本語訳だが(1)、要は、一般信徒の考え方、思想、運動という意味だ。
 神学者は、聖書と教導権(教皇・司教・司祭)に耳を傾けるだけでは不十分だ。神学者は「信仰者の感覚」にこそ耳を傾けねばならない。「信仰者の感覚への配慮はカトリック神学の基準」だという(37頁)。

 信仰者の感覚といっても、なにも特定の時代・地域・文化の多数意見のことではないし、また、司教や司祭から教えられたことをオーム返しに「後追いで肯定する」ものでもない。信仰者の感覚は、「教会内で神のことばを受け取り、理解し、生きる神の民のうちに深く根づいている信仰の感覚」のことを意味するという。

 具体的に言えば、それは、大衆の経験や表現、教会内の新しい思想や運動の諸潮流のことだ。神学者はそういう新しい動きを「使徒伝承への忠実性」という視点から吟味し、評価する責務を負っている。そしてその評価はいつも建設的でなければならない。なぜならその評価は謙虚さと愛に裏づけれている必要があるからだという。

(バチカンと解放の神学)

 

第4節 責任を持って教導権に依拠すること

 教導権は神学の不可欠の構成要素である。教導権は神学に優るのだが、司教と神学者は別個の召し出しを持っているので、互いを必要とする。特に教導権は神学を必要とする。
 教導権はしばしば神学に「介入する」者として捉えられがちだが、神学はいくら精緻であっても司教たちの判断に取って代わることはできない。教導権は神学に優る。だが、教導権には「異なったレベル」があり、教導権の教えがすべて同じ重みを持つわけではない。重要な教導権とそうでもないレベルの教導権があるという意味のようだ。
 この不安定性、揺らぎは、神学では、「神学的資格ないし特徴」と呼ばれる。これも曖昧な表現だが、教導権が神学の動きと連動しているという意味で、神学では重要な用語のようだ(2)。

 ここで、司教と神学者の関係が問題となってくる。大概はその関係は良好だが、時には緊張が生じることもある(3)。だがこの緊張は当たり前のことあり、嘆くことではない。国際神学委員会は、1975年にすでに、「真の生があるところにはどこにでもいつも緊張があります」と言っているという(41頁)。

 ここで、登場するのが、「神学および神学者の自由」というテーマだ。神学者は教導権から「自由」なのか。教導権に依拠しない神学的主張があり得るのか。本文書は「そうだ」という。神学者の主張はは「真に知的な責任に由来します」という。神学者は自らの知性にのみ責任を持ち、教導権に左右されてはならないというわけだ(4)。
 神学的探求の中で新たな論争が起こると教導権はしばしば抑圧的力ないしはブレーキとしてみなされる。そしてそういう問題を探求すること自体が神学の任務の一部となる。


(司教と神学者 ラッチンガーとK・ラーナー)

 


1 日本語として何かなじまない訳語だが、これは訳語の問題というわけではない。この用語は実は『教会憲章』でも使われており(第12条、「信仰の感覚とカリスマ」)、「信者の総体」と言い換えられている。
2 たとえば、解放の神学をめぐる過去数十年の動きは世界の動きと切り離しては理解できない。無視から批判、攻撃、黙認、受容とバチカンの眼は変わってきた。昔、知り合いの若いシスターがよく言っていた。「解放の神学って間違っているんでしょ、ネオカテクメナート(新求道共同体)って間違っているんでしょ」。いま、彼女は、世界が、バチカンが変わったことを知らずに、そのまま年老いてしまった。
3 司教は神学者たちをうさんくさく思うし、神学者は司教たちに「司教の団体性」についてあれこれ言う。F・カー『二十世紀のカトリック神学』(2011)。
4 聞きようによってはかなり断定的な言明だ。国際神学委員会の自信がうかがわれる。

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