カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

C年待降節第一主日

2015-11-29 20:20:12 | 神学
 今日11月29日から教会は新しい年に入りました。C年の待降節第一主日です。一年の経つのが早いものです。
 ところで、「ミサ典礼書の総則」の変更が今日から実施が始まりました。今までもお祈りや動作の変化がいくつかありましたが、今回からのものはかなり大きな変化になりそうだとのことです。
 今日のごミサは第一回目ということもあり、それほど大きな変化ではないと神父様はおっしゃっていましたが、それでもいくつか変化があり、実行しました。カズラやローソクなど司祭や祭壇の変化もさることながら、信者の側では、第一朗読・第二朗読のあとの沈黙の取り方、アレルヤ唄の歌い方、福音書朗読前の十字の切り方、聖変化の時の礼の仕方、などが変わりました。侍者の動作にも変化があったようですが、私にはわかりませんでした。これからも更に変化が実施されるとのことです。司祭の側と信者の側の動作・挙動が同時に変わるわけですから、定着するまで時間がかかることでしょう。さすが聖変化の時跪けとはならないでしょうが、全体として昔のごミサに戻りつつあるような印象を受けました。
 信者としての動作の変更にはいずれ徐々に慣れていくでしょうから、私のような高齢者でもなんとかついて行けるだろうと思います。問題は、この変化が教会にとり何を意味しているのか、教会をどこに導いていこうとしているのか、あまりはっきり説明されていないことです。私は最近はカトリック新聞はネットで読む程度で詳しいことは知りませんが、おそらく丁寧な説明がなされているのでしょう。とはいえ、一般信者の側ではまだまだ理解が深まっていないのではないでしょうか。
 私の個人的印象は、教会を第二バチカン公会議以前に戻そうとする司教たちが力を持ち始めているのではないか、というものです。フランシスコ教皇様の環境論を中心とするいわば「革新的・改革的」スタンスのなかで、こういう典礼の変化はどう位置づけられるのか、見ていきたいと思っています。典礼のことですから、一般信者があれこれ言ってもどうなることでもありませんが、「典礼の土着化」という視点からも今回の変化は注目していきたいと思っています。
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『カトリック神学への招き』(その13)ー 第15章「霊性神学」

2015-11-23 22:23:26 | 神学
「学び合いの会」は11月23日、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第5部「実践神学」の第15章「霊性神学」(山岡三治)に入りました。
 ジョンストン師が神秘主義神学の権威だったこともあり、宗教史の専門家である著者の山岡師が現代の霊性神学の特徴をどのように整理されるか興味がありました。結果としてはほとんど霊性史の紹介に終始し、特に新しい知見や主張はなされていない印象を持ちました。
 著者はまず「霊性」概念の定義から始め、直ちに「霊性史」に入っていきます。肝心の霊性神学とは何かという問題を素通りしているため、オーガナイザーは別資料を用いながら霊性神学論を詳しく紹介されました。
 著者はまず「霊性」の定義から始める。霊性とはspiritualityの訳語として「身心統合的体験」と定義されるが、残念なことにそもそも「霊」の定義・説明はなされない。『岩波キリスト教辞典』によれば、「霊」は、ギリシャ語では(パウロでは)pneuma,ラテン語ではspiritus,英語ではspirit,ドイツ語ではGeistで、聖書のなかでは「風」や「息吹」とされ、根源的な宗教的精神性と定義されている。日本語(漢字)では「精神」と「霊」という言葉をどのように使い分けるのか私は勉強不足でわからないが、聖書では人間の三元論をとるので、(プネウマ・プシュケー・ソーマ、一応、霊・魂(心)・身体と訳しておく)、肉体と精神という二元論で考えがちな思考を持つ人には霊という概念はなかなか説明しにくい言葉のようだ。しかも、日本語の霊という言葉にはアニミズム的傾向がこびりついているので、キリスト教的な霊の概念はますます説明が難しいように思われる。
 他方、「霊性」という言葉はspiritualityの訳語として用いられ、神学用語としては比較的新しい言葉だという。霊性とは、霊が心と身体によって性格づけられて発出するもの、と定義されるという。神秘主義思想はさまざまな宗教で発達したが、霊性神学という形をとったのはカトリックだけのようだ。たとえば、「習徳神学」や神秘主義にあまり関心を示さないプロテスタンティズムではこの霊性という言葉は用いられることが少ないという。
 では、霊性神学とはなにか。広義では霊的生活についての神学と定義されるが、狭義では習徳神学と神秘神学にわかれる。近代までは神秘神学が主流だったが、18世紀以降習徳神学が過度に強調されるようになる。ヤンセニズムはその一例だという。この偏向は第二バチカン公会議によってやっと軌道修正がなされたという。いま、習徳神学といってもピンと来る人は少ないのではないか。仏教的に言えば、自力と他力の違いとでもいえようか。霊性神学は神学としては理論ではなく、実践重視だから、神との一体化を可能とする方法・手段としては、現代では習徳神学は訴求力を失ってきているのかもしれない。
 本論文は使徒時代以降の霊性史が詳しく述べられている。詳説は省くとして、ジョンストン師の神秘主義論からみて二点指摘しておきたい。まず、ジョンストン師が強調したスペインの神秘主義(十字架のヨハネやアヴィラのテレジア)はトリエント公会議への対応として登場したという説明だ。こういう説明の仕方は神秘主義思想の保守性を過度に強調するもので、ジョンストン師の理解とは異なるような気がする。ジョンストン師はむしろ神秘主義思想の歴史的連続性・地域的多様性を強調していたのではないだろうか。
 第二は、19世紀以降の聖性の強調(たとえば信心会の隆盛)は、個人中心の信仰強化に傾き、共同体(教会)全体としての信仰強化の道を弱めたという指摘だ。これは重要な指摘に思えた。第二バチカン公会議は教会の共同体性を強調した。例えば、黙想会への関心や参加は20世紀に入って突然高まった。信仰を個人の霊性の向上としてのみ見がちな傾向に警鐘を鳴らしたわけだ。この意味では、ジョンストン師は、あくまで個人の霊性を強調しており、かれの『愛するー瞑想への道ー』のなかでも、共同体の霊性の向上という視点はあまり強調されていなかったと思う。私はここにかれの第二バチカン公会議へのスタンスを垣間見れる気がするが、それは言い過ぎだろうか。 
 霊性神学のテーマとして4つあげられている。祈り・霊的識別・共同体の霊性・後継者育成である。「祈り」では、黙想・観想・霊操の区別が説明される。わかりやすい説明がなされているが、これも、ジョンストン師の視点から見れば、一面的な説明の印象を持たざるを得ない。なぜなら、これらはどれも「言葉」による祈りの説明だからだ。ジョンストン師は祈りにおける「身体」の重要性を繰り返し指摘していた。霊性は身体と不可分の関係にあることは、かれが禅の修行の中で発見し、カト研が彼から学んだ教訓だった。著者が霊性神学における身体論を取り上げていないのは残念でならない。
 勉強会のあとの質疑では、もっぱら現代の「聖霊(降臨)運動」の評価が論じられた。いろいろな運動体があり一般化はできないし、司祭や信者によって評価が分かれるので今日の参加者の意見が一致したわけではないが、なべて警戒的な意見が多かったのは興味深かった。霊性神学は新しい段階に入りつつあるのかもしれない。
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