四 啓示の伝承と教会
1 啓示の伝達者が使徒
使徒は啓示の伝承者だから特別の地位を有する。イエスによって成就された啓示を直接体験した使徒たちのみが権威ある啓示の仲介者とされた。使徒たちは福音が伝えられるよう後継者を司教として残し、この伝承が聖書と聖伝として保存された(1)。
啓示は信者個人によって伝えられるものではなく、教会の中に保たれ、繰り返し提示される。教会は教える権威を持つが、啓示に取って代わることはできない(1)。
2 伝承と聖書
使徒たちの証言は最初はもっぱら口頭によって伝えられた。その後文書化され、新約聖書としてまとめられた。聖書は伝承として現れた使徒たちの教えの記録である。聖書と聖伝(Holy Tradition)は教会に託された神の言葉である(2)。
3 啓示と教導職
ここから啓示という神の委託物を後世に伝える使命と責任を持つ者として教導職という考え方が導きだされる。この教会教導権こそが教会を支えている(3)。
4 私的啓示と公的啓示
私的啓示とは個人あての啓示で、シエナのカタリナとか、ファティマの牧童などがその例だ。公的啓示は聖書と聖伝のみであることが第一バチカン公会議で定められている。私的啓示は例外的事例であり、キリスト者のための信仰上の指針ではない。本人以外に信じることを義務付けられることはなく、無視することもできる。
五 啓示研究の類型
啓示研究には三つの類型があるといぅ。
①実証的・現実的タイプ(語るー聞く):啓示を具体的な歴史的出来事という観点から眺める。聖書に記された史実のことである。啓示は神の救いの歴史であり、聖書と伝承のうちに保たれた神の啓示である。
②概念的・抽象的タイプ(教えるー学ぶ):啓示とは教義の体系だと考える。たとえば、スコラ神学では、体系化された教義は超自然的に授けられ、人間の知識体系を神的に補足するという。啓示の伝達の手段は学習で、教会の教導職を重視する。
⓷直接的・神秘的タイプ:啓示は神との生命的出会いであり、友人や恋人との語らいのようなものである。個人主義や主観主義に陥る危険性がある。
この啓示研究のタイプまたはアプローチの比較は興味深いテーマに思えるが、小笠原師は具体的には何も述べられない。
六 啓示観の多様性
啓示観には大きくみて二つの類型があり、そのどちらにも二つの緊張関係が見られるという。
①客観的基準と信仰の間の緊張:啓示をおとぎ話や幻想から区別して、客観的基準を重視する立場がある。他方、客観的基準ではなく、信仰を中心に論じる立場もある。
②個人と共同体の間の緊張:神の言葉の共同体的性格を重視する立場と、啓示は個人への聖霊の働きかけと主張する立場がある。前者は啓示は人類全体に向けられたものと理解するのに対して、後者は個人への内的呼びかけと理解する。
このように啓示観には多様性があり、緊張もある。主観性と客観性、個人性と集団性の対立など色々な学説があるが、極論に陥ってはならない。こう述べた後、小笠原師は啓示の特徴を次のように整理された。
神秘的でありながら知性にも適っている
秘儀でありながら言葉で表現される
社会的でありながら個人的なもの
検証不可能でありながら、見分けられるもの
すでに与えられたものでありながら、なお完成されるべきもの
師によれば、啓示神学の課題とは、問題を解決することよりは、問題と取り組み続けることにある、という。何か途中で置いてけぼりにされたような気分だが、啓示を理解し尽くすことはできないということなのであろう。
注
1 ここは教会論として難しいところである。たとえば、使徒は12使徒のみでパウロは使徒とは呼べないとか、伝承なんて認めないとかいう議論がいつも出てくる。使徒や伝承の定義次第だが、この部分はもう少し丁寧な説明が欲しかった。増田祐志『カトリック教会論への招き』(2015)。
2 カトリックでは「聖書と聖伝」と並び称するが、聖書は聖伝の一部という考え方もあるという。また、聖書のみ認め、聖伝など認めない考え方もあるようだ。
3 『教会憲章』はこの普遍教会教導権について詳しく説明している。信仰と道徳に関する通常普遍教導権の教えの不可繆性についても議論は絶えないようだ。このたびの教皇様の来日を機会にこの種の議論はまた蒸し返されてくるだろう。