カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代のキリスト論 ー キリスト論の展開(7)

2019-06-26 21:36:39 | 神学


 20世紀以降のキリスト論は新しい段階を迎える。特に第二バチカン公会議をはさんで新しいキリスト論が続々と登場してくる。スコラ学から新スコラ神学へ、そしてさらに婚姻神秘主義へと、多様化が進んでいく(1)。

Ⅰ 新スコラ学から新しい神学への変化

 従来の教会の公式神学は新スコラ学または新トマス主義(ネオ・トミズム)であったが(2)、これを乗り越えようとする「新しい神学」形成の動きが出てくる。神学校ではトマス哲学が教えられていたが、どう考えてもトマス主義者とは呼べない神学者たちが登場してくる。
 このような動きの先駆けとしていつも名前が出てくるのが、ドイツのカール・アダム(1876-1966)とロマーノ・グアルディーニ(1885-1968)である。カール・アダムはイエスの人間性を強調して、史的イエス研究に好意的な立場をとっていたという(教会から告訴されたこともあったらしい)。グアルディーニも新スコラ主義に明確な批判的立場をとり、著作には回勅を引用しなかったりで、教会との関係では苦労したようだ。二人とも第二バチカン公会議には直接的にはかわわらなかったようだが(グアルディーニは公会議準備会の典礼委員会に少しいたようだ)、公会議に与えた影響は大きかったという。E・H・カーは、二人ともどの修道会にも属していなかったことを「単なる偶然ではない」と評している(『二十世紀のカトリック神学』21頁)。

Ⅱ カール・ラーナー(1904-1984)
 知らない人がいない20世紀最大のカトリック神学者。ドイツのイエズス会司祭。第二バチカン公会議の顧問神学者。人間論的キリスト論の影響力は大きい。「無名の(匿名の)キリスト者」論は第二バチカン公会議の革新的意義を表現している。もちろんキュンクらからの批判もあったが、この考えは現在でも生きているようだ。日本では、お弟子さんだった粕谷甲一師を通してのラーナーファンは多いようだ。

Ⅲ W.パネンベルク(1928-)
 ドイツのプロテスタント神学者。歴史神学者。啓示概念を歴史と結びつけ、救済史を未来から理解しようとする。救済を考える視点の転換をもたらした功績は大きい。といっても、プロテスタント神学では、イエス・キリストの生涯に歴史を見るバルト神学とはあまりにも対照的な終末論的議論なので、批判者もいるようだ。また、贖罪論を重視するカトリック側からも批判されたようだ。

Ⅳ J・モルトマン(1926-)
 ドイツのプロテスタント神学者。パネンベルクの同僚で、K・バルトの後継世代。収容所生活を背景として、終末における希望の重要性を説いた「希望の神学」を提唱したという。終末論から「十字架の神学」を再解釈したという。現在では、フェミニズム神学の嚆矢としても注目されているという。

Ⅴ J・B・メッツ(1928-)
 ドイツのカトリック司祭。K・ラーナーの弟子。政治神学の提唱者(3)。モルトマンとは親好があったようだ。教会が政治に積極的に関与すべきだと主張した。「解放の神学」へ影響を与えたようだ。しかし神学を政治に限定することは神学を矮小化するものだと批判する者も多いという(4)。
Ⅵ 解放の神学 liberation theology
 解放の神学と言っても、中南米のそれ、北米のそれ、フェミニスト神学、アウトカーストの神学など、その内容も範囲も広い。また、説明の仕方が解放の神学への立場性を表してしまうので紹介はなかなか難しい。キリスト教の「福音」の本質を非抑圧状況からの「解放」と考える神学とでもいえようか。信仰や価値観の変換だけではなく、社会構造の変換も求めるのが特徴といえそうだ(5)。
 中南米で言えば、グティエレス(ペルーの司祭)の『解放の神学』(1971 邦訳あり)が有名だし、北米では公民権運動を支えた黒人解放の神学、女性解放運動を支えたフェミニスト神学がある。

Ⅶ 諸宗教の神学 theology of religions
 あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、宗教が複数形なのがポイントだ。これは第二バチカン公会議以降導入された新しい用語で、キリストの唯一性・絶対性を主張するキリスト教が、他宗教をどのように認識するか、ということを議論する神学だ。平たく言えば、キリスト教は仏教やイスラム教とどのようにすれば共存できるのですか、ということだ。
 教義学から言えば、キリスト教とは異なる宗教ー仏教やイスラム教ーにも通底するような、共通するような神学や教義を見いだすことは不可能だ。なぜなら、おのおのの宗教は自分たちの聖典、信仰箇条、教団組織、歴史を持っているからだ。しかし教義学ではなく、哲学的な神学の立場に立てば、固有のの歴史をもって発展してきた特定の宗教に拘束されないなにか普遍的な要素を探究したくなる。しかも、単に様々な宗教の抽象的な共通点を探すのではなく、宗教体験の共通性、超越者とのかかわり方の共通性を見いだしたいと思う。諸宗教の神学とはカトリック側からのそういう試みのひとつである。
 普通は、諸宗教の神学は、排他主義・包括主義・多元主義の比較が議論の中心となっている。よく知られている類型なので改めて紹介するまでもあるまい。

①排他主義 exclusivism
 古代以来の他宗教否定の思想。「教会の外に救いなし」(プロテスタントなら、「キリスト教の外に救いなし」)がスローガン。第二バチカン公会議では否定されたが、現在でも一部の信者は信奉している。
②包括主義 inclusivism
 異なる宗教の存在を認め、他の宗教の教えにも一定の価値があることを承認する思想。第二バチカン公会議以来の教会の公的立場である。
 教会憲章の第1章第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題され、以下のように書かれている。
「さらに、福音をまだ受け入れていない人々も、いろいろなしかたで神の民に秩序づけられている。・・・実際、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音並びにその教会を知らないとはいえ、誠実な心を持って神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神のみ心を、恵の働きのもとに行動によって実践しよう努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(24頁)

 つまり、カトリック教会の「外にも」本来キリストに属する成聖と真理の存在を認めている。また、救い主はイエス・キリストのみだが、救いは教会の外、全人類に及ぶとする。 K・ラーナーの「無名のキリスト者」の思想が反映されていることが分かる。キリストの救いは他の宗教にも隠された形で存在するという。よく言われることだが、キリスト以前に亡くなった人も、キリストを知らずに亡くなった人も、みな救われます、という宣言だ。

③多元主義 pluralism
 多様な宗教が同じ社会に同時に存在することを認め、お互いの価値を認めあいながら共存していこうとする思想。
 多元主義は社会科学ではメインの方法的立場だが、宗教的多元主義は排他主義や包括主義を前近代的なモデルとして批判することが一般的だ。現在、実際に諸宗教間の対話に努力している人々にはこの宗教的多元主義を基本的立場にしている人が多いようだ。さまざまな宗教の教えに優劣をつけられないという考え方をとるからだ。
 思想史的に見れば、宗教的多元主義は、啓蒙主義の影響、グローバリズムによる他宗教との接触の増大、エキュメニズム運動の普及、世俗主義の拡大などを背景に生まれてきたと言われる。司祭や神学者のなかにも多元主義に近い主張をする人も多いようだが、教会は多元主義には与しないようだ(6)。
 R・パニッカーという著名な神学者がいるという。インドの元司祭だという。かれは、「多元主義によって我々は我々自身の偶然性・有限性に気づく」という言葉でよく知られているという。宗教的多元主義は、絶対性の否定としての相対性、唯一性の否定としての多元性を基礎とするという。
 多元主義は相対主義に陥る危険性を常に持つが、宗教的多元主義においてもこの課題は乗り越えられてはいないように思われる(7)。

Ⅷ 結び
 かっては新スコラ主義一辺倒だったカトリック神学は、第二バチカン公会議をへて様々に開花した。多様なキリスト論が提唱されているのが現状である。

 S氏はこのように述べて、いろいろなキリスト論がありますと言われた。個々の神学についての個人的評価には入られなかった。質疑では包括主義について質問があったが、これはカトリック教会が昔から潜在的に持っていた思想で、たとえば望みの洗礼の秘跡もそのひとつだと言われた。興味深い議論の展開であった。



1 婚姻神秘主義とは nuptial mysticism のこと。神秘主義思想のひとつ。F・カー 『二十世紀のカトリック神学』(2007,邦訳2011,教文館)は、「新スコラ主義から婚姻神秘主義へ」という副題がつけられている。
2 新スコラ学と新トマス主義を同一視してよいのかどうかはわたしはわからない。辞書的に言えば、新スコラ学とは、19世紀後半から登場した、中世のスコラ学の復興を目指す運動をさす。トマス的なスコラ学の精神を継承しながらも、理性と信仰の統合、科学と形而上学の統合を図ろうとする。日本では、この運動が登場してきたころ、岩下壮一師が激しく批判していたことが知られている(『信仰の遺産』など)。
 新トマス主義は近代化の中で影響力を失いつつあったトマス・アクイナスの思想や哲学を復興させようとした19世紀後半以降の教会の試みを指す。例えば、トマス思想は「永遠の哲学」だからすべてのカトリック系の学校で『神学大全』の勉強が求められたという。哲学と科学、信仰と理性の総合を目指した。ラグランジュ、コンガール、カール・ラーナーらの名前が浮かんでくる。
 カト研の皆さんはよく覚えておられるでしょうが、ジョンストン師は自分が学んだ神学校が如何にスコラ哲学、トマス主義一辺倒だったか、B.ロナガンを初めて読んで天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたことなどを、よく語っていたものである(『Mystical Journey』 p.38)。1930年代から40年代のアイルランドでの話である。
3 政治神学とは何かはあまりはっきりしないが、政治神学というとまずC・シュミットの名前が挙がる。かれの『政治神学』(1922)は、近代の国家論の主要概念は世俗化された神学概念にすぎないとして国家論を展開した。しかし聖書神学の裏付けがない主張だったため神学者に与えた影響力は少ないようだ。かわりに影響力があったのがメッツのようだ。
4 E・H・カーはその著『20世紀のカトリック神学』の中では、メッツを独立した章としては扱っていない。考えてみればこれは不思議なことだ。ラッチンガー(ベネディクト16世名誉教皇さま)による政治神学批判の文脈でメッツが言及されるにすぎない。ラッチンガーは、メッツの、歴史を終末論にのみ基づく救済と考える議論を批判する。歴史は連続的なものであり、過去を排除すべきでないし、政治神学は存在論を無視していると批判している。
5 フランシスコ教皇さまは解放の神学に好意的だ、少なくとも否定的ではない、ということで、このアルゼンチン出身の教皇さまに批判的な眼を向ける人も多いようだ。昨年、中米エルサルバドルの故オスカル・ロメロ大司教が列聖された。フランシスコ教皇さまの大決断だ。第262代教皇、故パウロ6世と同時の列聖だったから、日本のメディアでも驚きをもって(または喜びをもって)報道されたことが記憶に新しい。日本では2018年10月14日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で菊池大司教さまの司式で列聖感謝ミサが捧げられている。
6 諸宗教の神学は、諸宗教の共存に関する議論をこのように整理して包括主義の立場をとるという。社会科学から見れば、これらの問題は諸宗教の共存に限定されず、言語やエスニシティをぬきに議論しても論争の決着はつかない。国家や民族の共存というテーマにまで関わってくる。
 エスニシティ論では、かっては文化的多元主義を説明するとき、同化論・るつぼ(melting pot)論との比較がよくおこなわれたが、最近のエスニシティ論では「統合主義」integrationism と呼ばれる新しいアプローチの議論もあるようだ。これも現実の移民問題や難民問題、Brexit問題と関連付けたとき、あらたな解決策とも言えないようだ。諸宗教の神学はこれからの発展がもっとも期待される神学の分野のように思える。
7 相対主義は近代哲学(カントなど)や現代哲学(プラグマティズムなど)を支える思想的基盤で一方的に批判することはできないが、宗教的多元主義の文脈におかれると奇妙な議論に結びついてくる。例えばどの宗教も平等だという文脈でよく使われる例で、富士山の登山口の話がある。富士山に登るには吉田口、須走口、御殿場口などいろいろなルートがある。だが、頂上は同じだ。だから、たどりつくところは同じだからどの宗教にも優劣はないという話になる。これはなんとなくわかりやすい話なのでよく使われる。だが考えてみるとこれは奇妙な譬え話だ。ちょっと考えると次のような疑問が湧いてくる。
①こういう一見耳障りのよい話は実は自分が聞きたいと思っている話であり、話の真偽にそれほど関心はない場合が多いのではないか。
②こういう説明をすることで自分の立場が強化される集団がある。例えば、オーム真理教もキリスト教や創価学会も同じだと言われると違和感を感じる。しかしキリスト教も生まれた当時はオームみたいに迫害されていたのではないの、と言われるとなんとなくそういう気になる。これは相対主義的思考のトラップなのではないか。
③吉田口も須走口も同じだというが、本当に同じなのだろうか。登りやすいルート、難しいルート、長いルート、短いルートというのがあるのではないか。
④頂上は同じだと言うが、吉田口と須走口がたどりつく頂上は本当に同じなのか。別の場所にたどりつくのではないのか。天国と涅槃は同じだというわけにはいかない。
 などなど、この譬え話は安易に使うととてもあぶないと思う。私はむしろこういう譬え話が現代の日本でのみ深く受け入れられている、戦前の日本では、外国ではほとんど聞かれない、という事実に興味を引かれる。これが何を意味するのか、もうすこし考えてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「救われる」とはどういうことか ー キリスト論の展開(6)

2019-06-25 22:25:40 | 神学


 6月の学びあいの会は「キリスト論の展開」の第三回目であった。朝方の地震と大雨の中でおこなわれたが、出席者の顔ぶれはいつもと変わらない。今日のテーマは救済論だった。
 救われる、救済される、とはどういうことなのかを考える機会となった。仏教が輪廻からの脱出、業からの解脱が目標なら、キリスト教は救済が目標の宗教だ。キリスト教はユダヤ教、イスラム教とならんで救済宗教と呼ばれるが、ではキリスト教では救われるとはどういうことなのか。

Ⅰ 2種類のキリスト論

 S氏は川中師に倣って、キリスト論には広義・狭義のに二種類があるという。1つはいわゆる狭義のキリスト論で、「受肉のキリスト論」と呼ばれる。イエスとは誰か、何者だったのか、と問う普通のキリスト論だ。細かい議論はあったものの、カルケドン公会議(451)以降特に進展はなく、新しい教義は出されていない。
 第二の広義のキリスト論とは救済論のことだ。イエス・キリストは何のために人になられたのか、その使命は何であったのか、と問う。「過越のキリスト論」と呼ばれることが多い。キリスト論がなぜ救済論を含むのか、ここは岩島忠彦師の説明をみてみよう(岩波キリスト教辞典)。

 岩島師によると、救済論 soteriology は、キリストによる救いの業を論じるキリスト論、救いへの人間の参与を論じる恩恵論(秘跡論)の両方を含むが、神学科目としてはキリスト論が救済論と呼ばれているようだ。
 救済論はキリスト教神学すべてに関連しているわけだから、キリスト論に限定されるものでもないようだ。旧約聖書(ユダヤ教)では神の選民にたいする救いの約束とその成就が中心テーマで、出エジプトがその象徴的出来事だ。新約聖書では、原罪・贖罪・受難と十字架の死・義認(義化)・神と人との和解など、新しいテーマが展開される。
 キリストによる人類の救済は特に教義として確認されることはなかったが、われわれがいつも唱えている使徒信条、または、ニケア・コンスタンチノープル信条がキリスト教の信仰箇条と見なされている。現代では、救いとは、罪や地獄からの救いという消極的理解から、救いとは「歴史の完成」であるという積極的理解まで含むようになってきているという。また、人間だけが救われるのか、魂を持たない動物などは救われないのか、などという素朴が疑問に答えるために、救いは万物に及ぶという宇宙論的救済論が支配的になってきているという。この辺は岩島師に特徴的な説明なので、もう少し丁寧に見ていこう。

Ⅱ 新約聖書の救済論

 新約聖書では、イエス・キリストが救い主である、というテーマが一貫して流れている。聖書のどこを読んでもこのテーマは変わらない。
 救いという言葉には「~からの解放」という意味と、「~への解放」という意味の2つの側面がある。前者は救いの消極的側面で、罪・悪の束縛、サタンの支配からの解放とか、贖罪・贖い・犠牲などという言葉で説明される。後者は救いの積極的側面で、神との和解、一致・平和・交わり、神の子とされる、神の賜物を受ける、などという言葉で説明される。意味する範囲は広く、深い。それは、救いとは、ある出来事、行為、というよりは、ある関係、相互作用を示しているからかもしれない。 神学は、キリストは如何にして救いを実現されたか、を問うてきた。新約聖書が明らかにしているのは、受難・十字架の死・復活、によってであるという。過越キリスト論と呼ばれる。「新しい過越」による救いの実現を描いているのが新約聖書だという説明だ。

Ⅲ 教父たちの救済論

 教父といっても、ギリシャ教父、ラテン教父、使徒教父(使徒時代の教父で、新約聖書に収められなかった文書の執筆者たち)がいて整理が難しい。教父学という学問分野もあり、多くの著作集などが刊行・邦訳されているようだ。グレゴリウス一世を最後のラテン教父というなら、大体キリスト誕生の一世紀から7世紀くらいまでの教父たちのことのようだ。共通する主な特徴をあげてみよう。

①反グノーシス主義 使徒教父たちは、受肉や受難も仮象にすぎないとした「仮現説」 docetism を批判した。キリストがこの世界を救われるとした。
②和解の救済論 キリストによる神と人間の和解を強調したパウロの獄中書簡(エフェソ書、コロサイ書など
③最後のアダム論 パウロは、キリストを第二のアダム、最後のアダムと呼び、人類の救い主とした④教育者としてのキリスト アレキサンドリアのクレメンス(150-215)は信仰を覚知(グノーシス)まで高めることを目指し、信仰が持つ教育的意義を強調した。かれのグノーシス主義の評価は別として、第二バチカン公会議ではかれのケリグマ論は影響が大きかったようだ。

4 贖罪の思想史

 救済論の中で贖罪論の持つ意味は大きい。というより、かっては救済論は贖罪論と同義だったようだ。現在はむしろ「復活論」を中心とした救済論の議論が重要になってきていることを考えると、贖罪論の比重の高さは奇異に思えるほどだ(1)。

 贖罪 atonement  とは、死や罪、不幸からの救済という意味だが、もともとは身代金を払って捕虜や奴隷を買い戻す、解放するという意味だ。奴隷制度を持たなかった日本社会にはこういう制度は定着しなかったので、現代の日本でもなかなかすんなりとは理解されない考え方だ。
 贖罪という考え方は旧約聖書にみられ、新約聖書にも引き継がれたようだ。だが、イエスが自分の「死」を「罪」の「贖い」であると直接説明している箇所は福音書にはないようで、これは極論すれば、パウロの神学といってよいのではないか。パウロは生前のイエスを知らない。イエスの公生活がどんなものだったか知らない。パウロは「伝承」からこの贖罪論を受けつぎ、展開したように思われる。

①アウグスティヌス(354-430)の原罪論
 贖罪思想の源泉は原罪論だ。創世記に描かれる人間と神との関係の破綻が始まりだ。アウグスティヌスはこの原罪論の確立者とされる(2)。以後、贖罪は受難と死が中心となる。罪の犠牲に焦点が合わさってくる。

②カンタベリーのアンセルムス(1033-1109)
 「スコラ学の父」と呼ばれるようだ(3)。その論文、「なぜ神は人なったのか Cur Deus homo ?」は、贖罪論では重要な論文で、原罪でも有効だという。アンセルムスは普通「理解せんがためにわれ信ず」という言葉で知られているが、信仰と理性的探究の関係を明らかにし、信仰における理性の重要性を指摘している(4)。

③トマス・アクィナス(1225-1274)
 トマスの救済論はカトリック教会の救済論の基本となっている。流れとしてはアウグスティヌスにつながるという。
「キリストの十字架は、功徳、償い、犠牲、贖い。キリストは自由と愛をもって十字架を引き受けられ、神はこれをよみせられた。キリストは人類の愛のために死んで、神はよみがえらせた」(『神学大全』(5)。

④マルティン・ルター(1483-1540)
 ルターはスコラ神学に反発しつつもそれを「栄光の神学」とよび、自らの神学を「十字架の神学」と呼んで区別した。スコラ神学では十字架と死は贖罪と結びついていた。だがルターによれば、パウロは、十字架は「弱さ、愚かさ」を示し、同時に「賢さ、強さ」を示すという十字架の逆説を述べていたという。十字架は贖罪とは直ちには結びつかないという。これは「信仰義認論」につながっていく。ルターはコリントへの手紙などをそのように読むようだ。もちろん普通は十字架と死をともに贖罪と結びつけて理解し、説明する人も多い。つまり、キリストの十字架は罪人の贖いとして払われた代償の死のことであるという理解だ。十字架の神学の議論は終わってはいないようだ。

⑤自由主義神学
 自由主義神学とは何かは難しい問題だが(6)、贖罪論との関係に限定すれば、「キリストは倫理の師」という主張を掲げているのが特徴のようだ。ギリシャ教父の教育論に近い主張だ。

Ⅴ 結び

1 救済論の重点の変化

 救済論には、受肉・公生活・十字架・復活という4つの側面があるが、その強調点は時代と共に変化してきた。

 古代ー受肉
 中世ー十字架
 現代ー公生活と復活

つまり、中世以降は救済論は贖罪の思想が中心となる。特に十字架が強調されてきた。イエスの公生活はほとんど無視されてきた。キリスト論と救済論が分離してしまうのだ(7)。

2 原罪と受肉との関係

 救済論で繰り返し問われてきた問いに、「もしアダムが罪を犯さなかったら、キリストの受肉はあったか?」というものがある。
 アウグスティヌスやトマス・アクィナスは当然NOと答える。原罪がなければ受肉はなかったはずだから、「原罪は幸いなる罪」 felix culpa という考えだ。
 だが、ドゥンス・スコトゥス(1263-1308)はなんとYESと答える。なぜなら、キリストの受肉は贖罪のためではなく、創造の完成のためだから、という考えだ。この考え方は、カール・バルトやカール・ラーナーなど現代の神学者たちにも引き継がれている。もちろん、スキレベークス(1914-)のようにトマス的な考えをとる神学者もいるという。

 S氏は、第二バチカン公会議以降のキリスト論はさまざまで、これという定説はないという。これはおそらく川中師の評価でもあるのだろう。
 そこで、このあと、「現代のキリスト論」へと続いたが、要約は次回にまわしたい。



1 聖堂の十字架は磔刑像が多いが、復活のキリスト像を掲げる教会も多い。磔刑像を怖がる子どもたちがいるというのもあながちばかにできないのかもしれない。
2 加藤信朗『アウグスティヌス『告白録』講義』 知泉書館 2006 は、アウグスティヌスの原罪観を解説しているが、確立者・完成者という評価ではなさそうだ。
3 スコラ学 scholasticism には中世のスコラ学と19世紀以降の新スコラ学がある。スコラ学とはある特定の思想や学問ではなく、中世の学校(schola)での学習の「方法論」のことをいう。哲学・神学・医学・法学などで、対立する意見や問題を探究するための弁証法的手法のこと。具体的には「講読」と「討論」を通して知識を獲得する方法のことをいう。現代風に言えば実証的・経験的ではない方法論と言った方がわかりやすいか。
4 信仰は、理性的判断、合理的判断を排除するという誤解が現在でも見られる。残念なことだ。なお、この論文は私は読んだことはない。
5 3巻48とあるが、どの部分からの引用かは確認できなかった。
6 自由主義神学は19世紀の新しい神学だ。啓蒙主義思想の中で生まれ、その源は、カントの批判哲学・ヘーゲルの弁証法哲学・シュライアーマッハーの自由神学だという。基本的な特徴は、近代科学や世俗化を肯定し、聖書や教会の歴史的・批判的研究を奨励する。いわゆる「史的イエス」研究はその代表的成果である。他方、バルトらの弁証法神学はそれが持つ楽観的な進歩主義、教会と国家の同一視などをきびしく批判しているようだ。例えば日本では、長老派の、バルト流の東京神学大学系統の神学者と、組合派の同志社大学系統の神学者のの対立として現れてくるようだ。あまり単純な類型化は好まないが、著名な佐藤優などの貢献は大きい。
7 パウロは、イエスに会っていないとはいえ、イエスの公生活には不思議なほど言及しない。ベトレヘムで生まれた話から、突然ゴルゴタの十字架の話になる。キリスト論(ベトレヘム)と救済論(ゴルゴタ)が分離してしまっているようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩人を5人挙げよ

2019-06-08 14:49:12 | 教会


 知人と雑談をしていたら、「恩人を5人挙げるなら誰か、その中に信者さんはいるか」と問われた。あまり普段考えたことのない問いで一瞬驚いた。本当はいつも胸に秘めて感謝していなければならない人々のはずだが、きちんとまとめて考えたことはなかった。

 考えてみると、これは難しい問いだ。そもそも恩人とは誰のことか。領域ごとに異なるかもしれない。進学や職業選択でお世話になった人、思想や信仰面で影響を受けた人、金銭面でたすけてもらったことのある人、日常生活でお世話になっている人、趣味とかお稽古ごとの指導者などなど。小中高の先生を挙げる人もいるかもしれない。または職場の上司を挙げる人もいるかもしれない。

 5人、というのも難しい。まず、両親を挙げる人は多いだろう。だが5人の中に両親を含めてしまうと、数が足りなくなるかもしれない。または、5人も挙げるのは無理だ、恩人は一人だ、という場合もあるだろう。

 その中に信者さんはいるか、も難しい問いだ。代父や代母を挙げるにしても、恩人のカテゴリーに入るのだろうか。結婚式のお仲人さんと同じで、実質的な場合と形式的な場合があるだろうから、一概に代父や代母を含めるわけにもいかないだろう。

 などとあれこれ考えているうちに、答えに詰まってしまった。というより、改めて考えてみようと思った。私の場合は5人の名前は一応すうっと出てきたが、もう亡くなった方とご存命中の方を混ぜてもよいのかどうかは、判断がつかなかった。これはわれわれがもう、終活とは言わないが、高齢者の段階に入っているから出てくる疑問なのであって、現役の人たちが考える恩人とは意味が異なるのかもしれない。

 ということで、結構楽しい話題になった。よい機会なので自分ではまとめてみてブログに残してみたが、忘れないためのメモ代わりだ。こういうことはエンディング・ノートにでも書いておくことで、人様に公開するものでもあるまい。連れ合いに話したら、「頭がおかしくなったのではないか」と一笑に付された。ごもっともです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『社会学史』(大沢真幸)を読んで

2019-06-05 12:14:33 | 社会学


 2019年刊行の『社会学史』(講談社現代新書)を読む。力作である。
学説史を書いているうちはその学問はまだ自立していないと言われる。だが、われわれはまだ定番の社会学史の教科書を持っていないのだから、これは価値ある試みである。氏は、現在、学説史を書く理由を、学問には「直進する学問」と「反復する学問」があり、物理学は前者、社会学は後者とする。言わずもがなの弁解で、これはすぐに批判の対象とされたようだ。

 大沢氏は社会学を「近代社会の自己意識」と定義する。その通りである。これだと社会学を政治学や法学と区別する理屈が必要だが、どうも「全体分析」(全体は部分の総和以上)に特徴を求めているようだ。分析の対象や方法に特徴を求めているわけではなさそうだ。

 社会学の基本的問いを、「社会秩序はいかにして可能か」に求め、具体的には「個人と個人」の関係の分析と、「個人と社会」の関係の分析という2つの部分問題に分かれるという。行為論と構造論ということのようだ。答えは「偶有性」(contingency)だという。偶有的とは、必然ではないが、不可能ではないこと、「他でもあり得たこと」という意味だ。社会秩序は偶有的だという。その通りだが、ではなぜ今こうなっているのか、他ではないのか、の説明としては弱いように思える。どうも氏は思想としてポストモダンや社会構成主義への批判・克服の拠点を探しているようだ。

 社会学を学ぶとは、「通常のものの不確実性の感覚」を持つことだという。この辺は氏が実際に社会学を教室やゼミで教えていて身につまされたのであろう。またはもっと個人的な出来事から学んだ感覚なのかもしれない。

 社会学史には3つの山があるという。1つは19世紀の誕生前後。フランス革命の前後の社会契約論(ホッブスとルソー)、および、サン・シモン、コント、スペンサーだ。二つ目は19世紀から20世紀への世紀の転換期。マルクス・フロイト・デュルケーム・ジンメル・ヴェーバーの時代。第三の山は1960年代から現代まで。パーソンスの構造機能分析、意味の社会学(ミード、シュッツ、ゴフマン)、意味構成的システム論(ルーマンとフーコー)、だという。現代社会学では、ベックのリスク社会論、バウマンのリキッド・モダニティー論、ネグリ・ハートの帝国論に言及している。時代の区分は普通だが、社会学の誕生をアリストテレスから説き起こすのには驚いた。ルーマンとフーコーの評価が高いのが印象的だ。

 本書は、マルクス・フロイト・デュルケーム・ジンメル・ヴェーバー(ウエーバーとはいわない)までの説明は力が入っていて読み応えがある。整理の仕方が明解だ。パーソンス(パーソンズと呼んでいる)からは疲れが出たのか、話につながりがなくなり、簡単になる。頁数としてみるとこの第三部以降の方が量が多い。

 最後は、ご自分の主張が展開される。今後の社会学理論発展への提案ということであろう。相関主義から実在論の復活へ、つまり、構成主義から存在論へという主張がなされる。偶有性論は社会学にとっては、「神の存在の存在論的証明」になるという。偶有性だけが相関主義からの脱却の途だという。興味深い主張で、現在の理論社会学者の多くが社会学を「規範論」として作り替えようとしているのとは別の途を考えているようである。現在の社会学界は「理論派と実証派」の分裂・対立が深まっているように思えるが、どちらも新しい発展の方向を模索している段階なのであろう。ヴェーバーやパーソンのような大きなブレイクスルーが起きることを期待したい。

 本書の特徴はやはりマルクスとフロイトを社会学者として扱っていることだろう。特にフロイトを取り上げるのはパーソンスの『社会的行為の構造』に倣っているようだ。私は一番興味深く読んだが、やはり社会学とどうつながるのかははっきりしなかった。「社会の無意識」とはデュルケームの「社会的事実」のことなのだろうか。

 社会契約論の説明は明解だが、自然法思想をとると社会学的な問い(秩序はいかにして可能か)は生まれ得ないと唐突に断定するところから話を始める。氏の別の著作で論じられているとはいえ、社会学誕生の背景としては、やはり啓蒙思想の展開について論じて欲しかった。

 大沢氏はゲーム理論の専門家で、キリスト教神学にも造詣が深く、いわゆる「秀才肌」の社会学者のようだ。1958年生まれと言うからまだ若い。これからどういう方向に進むのか興味深い。
 本書は社会学史と銘打っているが、著者独自の視点が明解なので、社会学理論の教科書としても使えるだろう。社会学の専門課程で広く用いられるだろう。
 氏の説明に学ぶことは多かったが、疑問に思う点も少なからずある。改めて読み直して検討し、整理してみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富永健一先生の学問と人を語る会に出て

2019-06-02 11:31:32 | 社会学


 この2月23日に亡くなられた富永先生の偲ぶ会の代わりに追悼講演会が5月26日にひらかれた。発起人は今田高俊氏および10人ほどの元ゼミ生だった。場所は東大本郷キャンパス法文2号館1番大教室。当日は日曜日で天気はよく、安田講堂の前は観光客で大賑わいであった。

 第一部は、「富永先生の社会学を語る」で、盛山和夫・間々田孝夫・友枝敏雄の三氏が話された。第二部は、「富永先生の人を語る」で、東大の元同僚、学会の友人、新宿高校の同級生、元郵政省のチーム、財団の関係者、慶応大学の元学生さんなどが思い出を語られた。
 会は2時間の予定が大幅に伸びて終わったのは5時頃だったろうか。
印象が消えないうちにに少しメモを残しておきたい。

 今田氏の挨拶は簡単だが丁寧なものだった。富永社会学のピークは1970年頃だったこと、理論と実証を強調されていたこと、テーマは近代化と社会変動論だったこと、構造機能分析は1980年代には力を失っていたこと、などを簡単に紹介された。小室直樹氏の話を紹介されていたの印象的だった。

 盛山氏は、富永さんのテーマは、変動論・原理論・階層論・近代化論だったと整理され、かなり詳しくご自分の理解を紹介された。
 変動論では、「社会システムのパーフォーマンス水準」の測定という意味で社会指標研究に入っていったという。
 原理論では機能要件分析を中心にパーソンスを超えようとしていたという。
 階層論ではSSM調査にも関わったが、産業化テーゼに強くこだわっていたといいう。
 近代化論は変動論の完成版という意味で取り組んでいて、ポストモダン批判は一貫していたという。盛山氏はまとめとして富永さんの方法論としての「個人主義的観点の維持」を強調しておられた。
 間々田氏は経済社会学者としての富永氏を紹介された。貯蓄行動の調査はよく知られていたが、経済社会学を比較社会学の1つとして位置づけていたという。社会指標論のことのようであった。『経済と社会』というタイトルの本を完成させるのが夢だったという。ウエーバーとパーソンスが頭にあったのであろう。

 友枝氏は主に学説史研究の視点から富永社会学の特徴をまとめておられた。特に、晩年はルーマン研究に熱意を注いでおられたという。友枝氏の話はおもに「池辺三山」(元東京朝日新聞主筆 富永氏の母方の祖父か)についてであった。池辺三山のジャーナリズム思想はは「欧化主義とナショナリズム」の統合にあったという。

 第二部では何人かの方が個人的な思い出を語られた。富永さんは人柄がよかったので多くの人に慕われたようだ。富永さんが学会に登場したころー1960年代後半から1970年代ーは機能主義社会学とマルクス主義社会学が真正面から対立していた時代だった。だが今日の集まりにはパーソニアンだけではなく、、マルクス主義社会学者、ウエーバリアン、シュッツ流の現象学的社会学者たちの顔も見られ興味深かった。
 それにしても参加者は50名ほどだったろうか。大教室に空席が目立ったのは少し寂しかった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする