カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

エックハルトはキリスト教の趙州従諗か ー 仏教概論(13)(学び合いの会)

2023-01-29 15:24:30 | 神学


 ここでは、上田閑照氏の「禅と神秘主義」という論文が紹介される(1)。この論文は、西洋思想の中では禅の思想に最も近いと言われるエックハルトを禅と比較し、両者の異同を明らかにした試みだという。つまり、エックハルトと趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)を比較して、キリスト教神秘主義と禅がどこで類似していて、どこが異なるのかを、明らかしようとする。

 

【趙州従諗】                【マイスター・エックハルト】

         

 

 

Ⅲ 禅と神秘主義

1 趙州従諗の問答

 趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)とは、中国の9世紀の禅僧である。中国の唐の時代の大禅匠(最も偉い高僧)と呼ばれるようだ。趙州の禅問答は前回すでに紹介したが、もう一度見てみよう。

「如何是祖師西来意  庭前柏樹子」
 (如何なるか是れ祖師西来意  庭前の柏樹子)

 意味は、祖師(達磨大師)がインドから中国に来た目的や意義は何かと問われ、趙州従諗が「それは庭先の柏の木だ」と答えたということのようだ。すでに見たようにいろいろ解釈があるというが、普通は、仏とは何かとか、禅とは何かとか、つまらないことを考えないで、柏の木のように無心になりなさい、ということらしい。禅におけるの意味を説明しているというのが上田氏の説明のようだ。

2 エックハルトの問答

 上記の禅問答(公案)に対応するキリスト教の問答は、エックハルトの次のような問答だという。
「何故に神は人となり給うたか・・・神は何故なし」

 この「神に何故なし」という答えは、公案の「庭前の伯樹子」や「西来無意」に対応するという。「何故に神は人となり給うたか」に対する答えは、伝統的には贖罪論にしたがって、「それは汝らをキリストと同じく神の子として生み給わんとする故である」(アンセルムス)というものであった。「神に何故なし」というエックハルトの答えはこういう伝統的な答えとは全く違う。神に(創造や存在の)理由や原因を問うても意味はないということなのであろう。
 エックハルトは「何故なしに生きる」(ohne warum leben)という。何故とか、何のために生きるとか、問わない。生は生自身から湧き出る。だから生きるが故に生きるのだという。ニヒリズムに陥りかねない言説だが、エックハルトの思想の特徴がよくわかる。
 エックハルトは「一人一人が神の子になる」とも言う。これも「一人一人が仏となる」という仏教の教えを思い起こさせる。エックハルトの教えはどれも禅的なトーンを持つように聞こえる。違いがあるとすればエックハルトの議論は論理的なのだという。禅の思想にはこういう論理性は見いだせないという。

3 エックハルトの神の概念

 それではエックハルトは神とはどのようなものとして捉えていたのだろうか。「神に何故なし」とはどういう意味なのか。それは、キリスト教では、神は純粋存在で、つまり存在そのものであり、その行為は「充満」そのものだからだという(2)。だから、神とは何かとか、神はなぜ人となったのか、と問われても、「神は神だから」と答えるしかないというわけだ。

4 シレジゥスの薔薇(バラ)

 「シレジゥスのバラ」の話(格言)は有名なたとえ話らしい Angels Silesius (1621-1677)はドイツの神秘主義詩人で、エックハルトの思想を、時代を超えてよく表現している詩人だという。これは詩の一つらしい。

Die Ros ist ohn warum;sie bluehet,weil sie bluehet.(3)

 いろいろな訳があるようだ。「バラは何故なしに在る。それは咲くがゆえに咲く」。または、「バラは理由なく咲いている。誰が見ているかも気にせずに、ただ咲いている」など。私が勝手に直訳すれば、「薔薇が咲くのに理由はない。咲くから咲くのだ」とでもなろうか。
 要は、バラは「何故なき神」の命の現れなので、神の内にバラを見ることができるし、バラの内に神を見ることができる、ということのようだ。
 こういう説明の仕方は神と被造物(薔薇)を同一視しているように聞こえ、汎神論に無限に近い響きがある。異端視される危険性があることは否めない。だが、エックハルトは神と被造物は明確に区別していたという。

5 理(ことわり)から事(こと)へ

 上田氏は、シレジゥスのバラのたとえは禅に大分近づいているがまだ幾分「理」が残っているという。まだ少し理屈っぽいということらしい。さらに単純化して単に「バラの花」という「事」にすれば、より禅的な表現になるという。つまり、「バラの花」は「庭前の柏樹子」に対応するという。宗教は哲学や思想のように「理」ではなく、「事」(体験)を重視する。神を理屈で理解するのではなく、事として、事実として理解するのだという。
 ここでは上田氏は禅を宗教として説明しておられるようだ。実はこの「理」から「事」へ、という議論は先生の「言葉(ことば)」論へと発展していくという。「ことば」は「事」と交わることが(ことをめぐって話し合うことが)その原初的な事態だが、やがて「虚・実性」を持ってくると言う。ことばは、「あること 存在すること・もの」を語るが、同時に「ないこと ないもの」をも語る。こうしてことばは「虚の力」を持ってくる、という議論になるようだ(4)。

6 切捨と突破

 では、結局、禅とキリスト教はどこが似ていて、どこが異なるというのか。上田氏は一言では言っておられないが、あえて言えば、禅とキリスト教は、真理を獲得する神秘主義的志向、方法においては類似しているが、真理をどう捉えるかという点で異なると言っておられるようだ。
 方法論で言えば、禅の「切捨論」は、エックハルトの「離脱論」(Abschiedenheit)や「突破論」(Durchbrech)に近いという(5)。神秘体験、真理の獲得と絶対者との合一のための手法は似ているということであろう。
 他方、何を真理と見なすかという点では、趙州従諗とエックハルトでは、禅とキリスト教では、異なるという。
 エックハルトは、「神は何であるか」と問われ、「無である」と答える(Got ist ein nicht)。これは神はいないという意味ではなく、人間の語る有ではなく、あらゆる有をこえる有で、人間の言葉で表されるものではないという意味だという。無の背後に実体が存在するとする。 weder diz noch daz (6)(これに非ず あれに非ず)で、究極の真理を「実体」として捉えている。つまり神は実体として理解されている。
 他方、仏教では、究極の真理を「縁起」として、つまり「関係」として捉える。無の背後にあるのは実体ではなく関係のみだと考える。実体論を徹底的に否定するのが禅の思想だという。「有に非ず、無に非ず、有に非ざるに非ず、無に非ざるに非ず」が禅の思想で、キリスト教と禅の根本的違いはここにあるという。実体か関係か。ここから先は哲学というよりは世界観や宗教の世界の話になるようだ。


1 上田閑照(1926-2019)は京大の宗教哲学者。京都学派とも呼ばれるようだ。わたしはこの論文そのものは読んでいない。ざっと読んだのは『エックハルトー正統と異端の間で』(1998)である。氏はエックハルト論を展開する中で、最後には「非神秘主義」という神秘主義を超える思想的立場を打ち出し、それは「平常心」のなかに見いだせると主張されたようだ。

 氏に対するイエズス会からの批判に対しては「世界観的な強い対決姿勢を感じる」と述べている(同書493頁)。とはいえ、すでに述べたようにジョンストン師はイエズス会だが上田氏のエックハルト論を高く評価している。 

 なお、上田氏は14世紀の「デヴィチオ・モデルナ運動」(Devotio moderna)を「新しき信心運動」ではなく「近代的敬虔運動」と訳しておられる。中世修道院制によらない「共同生活の兄弟団」と説明しておられる。トマス・ア・ケンピスもこの運動の中で生まれたと言っておられ(同書280頁)、氏の神秘主義理解の特徴を知ることができる。。
2 これはキリスト教の充満論で、自然科学でいう真空論の対概念である充満論とは別物である。私の理解では、キリスト教では、神は完全で自己充足しているが、神が世界を創ったとき世界は存在で充満していたと考える説のようだ。
3 現代ドイツ語ではない古い表現。ohn は ohne など。
4 といってもわたしにはよくわからなかった。『非神秘主義』 2008 岩波現代文庫。実はこのことば論は、インターネットの発達の中で書き言葉と話し言葉の区別が曖昧になる中で大きな挑戦を受けていると聞く。言語学ではなく哲学のテーマなのであろう。
5 離脱論、切捨論については2018年5月の報告で少し触れている。エックハルトは「人間は被造物から離脱しなければ神に近づくことはできない」と延べ(離脱論)、趙州従諗は「如何是祖師再来意→庭前柏樹子」と述べている(切捨論)。
6 これも古い表現、表記。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エックハルトは異端か ー 仏教概論(12)(学び合いの会)

2023-01-27 11:23:15 | 神学


Ⅱ 神秘主義

1 神秘主義とは何か

 ここでは、キリスト教神秘主義の歴史、その定義、論争などが紹介された。議論の焦点はドイツ神秘主義であり、エックハルトの評価であった。

 キリスト教神秘主義の定義はトマス・アクイナスを持ち出すのが常道らしいが(神の体験的認識 cognito experimentalis)、要は、神秘主義では、信仰を前提として、神を、分析的にではなく直観的に、認識することを意味するようだ。信仰が前提であること、直観的であること、が強調される。
 このように神秘主義とは本来はキリスト教に固有の概念なのだが、実際には、他宗教にも神秘主義が見いだされるというのが今日の我々の理解だ。キリスト教の独占物ではない。なぜか。なぜ他宗教にも神秘主義が見いだせると考えるようになったのか。
 それは、キリスト教では神秘主義は神からの賜物、与えられるもの、という意味が常にあったが、今日では、それは人間が努力によって手に入れることができる、いわば下からも神秘主義に至ることができると考えるようになったからだという。意味の範囲が広がったのだ。したがって、現在、仏教や禅の神秘主義を論じても違和感はなくなっているのだろう。賜物としての神秘体験と、努力による神秘体験と言い直してもよいのかもしれない。

 ここで、中世および近世のカトリックの神秘家の紹介が簡単になされた。つぎのような表が配られた。

 

【中世神秘主義の歴史】

 なじみのある名前で特に追加の説明は必要ないだろうが、念のために、2点補足しておこう。

①キリスト教の神秘主義思想は14世紀が最も大事だ。14世紀はよかれあしかれ神秘主義のエネルギーが満ちあふれていた時代だったようだ。
 ここにある「デヴィチオ・モデルナ運動」(Devotio moderna)とは聞き慣れない言葉だろうが、主にラインラント一帯で盛んであった「新しき信心」運動のことらしい。いわゆる「共同生活兄弟会」でさまざまな集まりがあったようだ。トマス・アケンピス(1379-1471)の『キリストに倣いて』を知らぬ人はいないだろう。また、イギリスではジョンストン師も訳した『不可知の雲』も生まれている。
②この時代の中心物はやはりマイスター・エックハルト(1260-1327)であり、弟子のヨハネス・タウラーとハインリヒ・ゾイゼだという。14世紀は論争の時代だった。エックハルトの神秘主義論を巡る論争は現在でも決着がついていない。エックハルトが異端とされたのである(1)。

2 ドイツ神秘主義 Deutsche Mystik

 12世紀から15世紀くらいまでドイツの修道会で支配的であった思想をさすようだ。様々の修道会で影響力を持っていたようだが、中心はやはりドミニコ会であり、エックハルトであった。観想による神との一致を求めるいわばエリート的な、知識人的な神秘主義思想だったようだ(2)。ドミニコ会は観想修道会から托鉢修道会に変わるが、現在でも観想が中心で、霊性神学の担い手といってもよいであろう。
 ドイツ神秘主義は宗教改革以前の思想的潮流なので、現在でもカトリック神学だけではなく、プロテスタント神学においてもその影響力が残っていると言われる。

3 エックハルト Johannes Eckhardt (1260-1327)

 ドミニコ会の司祭・神学者。ザクセン管区長(47男子修道院、70女子修道院を管轄)。民衆の霊的指導のための説教が素晴らしく、名声を博したという。万物を超越した神という概念は、神のペルソナ性を超えるとして教会から非難されたという。また、彼の離別論突破論(下記の②と③参照)は汎神論的とされたようだ。このため、1326年時のケルン大司教であったハインリッヒ二世により異端審問が開始される。エックハルトは『弁明書』で自分の思想の正当性を訴えるも1327年に死去した。1329年に教皇ヨハネス22世は汎神論の疑いがあるとして異端と認定した(3)。
 
 エックハルトは理屈だけではなく、とても活動的な人だったようで、遁世とか怠惰な内的享受を批判し、隣人への奉仕を優先したという。その教説は以下のように整理されるようだ。

①関心は人間の魂と神の一致。神は純粋な存在で、あらゆる事物の中に神は現有する。
②人間は被造物から離脱しなければ神に近づけない。
清貧・孤独・独身による魂の解放、過去・未来への固執からの解放、謙譲・自己滅却こそが人間を内面の自由に導く。Abschiedenheit (離別)論と呼ばれるという。
③神との一致のためには不断の内的鍛錬が必要。神へ向かっての突破(Durchbrech)がある。突破論と呼ばれる。。
④被造物はそれ自体は無。固有の存在を神に負っていて、神の存在と一である(この主張が汎神論だという誤解を生んだ)。
⑤神を概念化したり、対象化したりしないで、自らを神へ開き、直接把握する。
⑥魂の内奥において神の誕生を実現する。人間は心の内奥において神の子となる。
⑦神との一致によって人間は神の業に参与する。

 まるで禅の教えのように聞こえるがどうだろうか。彼の思想的特徴としては次の2点挙げられるという。まず第一に、「魂の内奥における神の誕生」という考え方は、オリゲネス、ディオニュソス、アクイナスらの影響によるという。また第二に、教会の教えと秘跡に対して忠実な態度や、民衆への霊的指導への熱意は明らかで、反教会的な姿勢はみられないという。それでも彼の教えは異端とされたという。

4 W・ジョンストン師のエックハルト論

 本報告にはなかったが、ここでカト研のジョンストン師のエックハルト論を少し見てみる。師のエックハルト評価は高いようだ。
 ジョンストン師はその著『愛と英知の道』(2017)のなかで、「なぜエックハルトは非難されたのでしょうか・・・エックハルトが仏教徒とキリスト教徒の対話の先駆者でもあるからです」(4)と述べている。師によると、エックハルトが非難され、異端視されたのは、彼の思想が正統思想ではなかったからでもなく、また、教会政治の犠牲になったわけでもないという。それはエックハルトが想像力豊かで、説教によって信徒の心を揺り動かしたからだという。いわば芸術家肌の人だったのであろう。
 ジョンストン師は、エックハルトの異端扱いの撤回を望んでいたようだ。次のように書かれている。「エックハルトの問題全体を教会で再検討してほしいというドミニコ会の申し出が聞き入れられ、福音書のイエス・キリストを神秘的に理解する正統な代弁者として、彼の名誉が回復されることを、望むばかりです」(5)。
 エックハルトの異端問題は決着がついていないし、ジョンストン師はイエズス会でもあるので、師のエックハルト評価は慎重な表現になっている。だが禅の実践を通してなされた師のエックハルト評価は極めて高いものであるという印象を受ける。


1 S氏はエックハルトの異端は解除されたと説明しておられたが、少し言い過ぎだったようだ。ヴァチカンは、エックハルトの考え方や主張は汎神論的で異端だが、エックハルト個人を人間として異端視しているわけではないと言っているのであって、解除とまでは言っていないようだ。つまりドミニコ会の度重なる請願にもかかわらず現在でもエックハルトの神学的主張は異端とされたままのようだと理解しておきたい。
2 フランシスコ会のようにいわば一般民衆の霊性の向上をめざすというよりはエリート的だった印象がある。ボナベントウラ(1221-74)は「神秘神学のトマス・アクイナス」と呼ばれるようだ。
3 異端扱いされたガリレオ・ガリレイの異端認定は撤回された(2008年に故ベネディクト16世はガリレオの地動説を認めた)。だが、「神秘家の中のガリレオ」と長く評されてきたエックハルトの異端認定は上に述べたようにいまだ撤回されてはいないようだ。
4 W・ジョンストン 『愛と英知の道』 2017、116頁
5 同上117頁。「正統な代弁者」という訳文は何か落ち着かない。エックハルトはドイツ神秘主義の第一人者なのだから、spokesmanは「代表者」と言いたいところだ。原文は以下の通りである。

「One can only hope that the Dominican proposal that the whole question of Eckhart be ecclesiastically re-examined will lead to his reinstatement as an orthodox spokesman for a mystical understanding of the Gospel of Jesus Christ.」(Mystical Theology, p.50)

 ついでに望むなら、「福音書のイエス・キリスト」ではなく、「イエス・キリストの福音」と(直訳風に)訳したい。エックハルトはキリストを論じているのではなく、福音書の解釈を論じているからである。
 ジョンストン師はここで、京大の上田閑照(次回に紹介する)氏はエックハルトを「正真正銘のキリスト教徒」(authentically Christian)と見なしていたと強調している。
 神秘主義にはあちこちに落とし穴がある。「神との一致」と汎神論をどう区別するのか。観想は静寂主義とどう違うのか(contemplation vs. quietism)。神秘体験と性的放縦をどう区別するのか、など落とし穴は無数にある。また、神秘家を装う偽予言者もいる。神秘神学は絶えず革新されねばならないというのがジョンストン師の考えだったようだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禅は神秘主義思想だ ー 仏教概論(11)(学び合いの会)

2023-01-25 16:36:01 | 神学

 2023年1月の学び合いの会は大雪が予報された厳寒のなかで開かれた。コロナ禍第8波のなかマスク解禁も取り沙汰されるも、お集まりの皆さん10名は全員マスクをしておられた。
 今回は仏教概論の第4回目で、タイトルは「仏教とキリスト教 ー 禅と神秘主義」となっている。内容は、禅の話と、神秘主義思想の話、「禅と神秘主義」という上田閑照氏の論文の紹介である。
 実はこのレジュメは2018年5月のこのブログですでに報告してある。内容を再度繰り返すのもおかしいので、ここではこの報告を聞いた私の個人的印象をコメント風に少し記してみたい。

 本報告の論点は、結局は、禅は宗教ではなく神秘主義思想である、というものだ。宗教や神秘思想をどう定義するかで変わるので限定的な命題だが、キリスト教との対比でいえばわかりやすい命題のように思える。というか、禅はそのように理解した方がわかりやすいし、キリスト教との親和性(1)を理解しやすくなる。


 そこで、禅と神秘思想はどこが類似していて、どこが異なるのか、を中心に整理してみたい。

Ⅰ 禅

1 禅の定義

 禅の定義には唯名的定義実存的定義があることは2018年5月の報告でも紹介したが、あまりはっきりしなかった。そこで、石井清純師(2)の説明がわかりやすかったので借用してみる。師は禅の思想の特徴を以下の4点にまとめている。禅を思想として捉えるなら、これは禅の定義とみてもおかしくないだろう。

①経典や文字は直接真理を伝えていないのでそれに依拠しない:不立文字・教外別伝
②自分の本性(本質)は、本来的に清らかなものである:   自性清浄
③悟りとはその清らかな本性を認識し、自覚することにある: 見性成仏・本来面目
④正しい教えは、釈迦牟尼仏以来、師と弟子の心から心へ伝授される: 以心伝心

 つまり、繰り返しになるが、禅では、仏法(真理)は文字や言葉では表現しつくすことができないという考え方が基本にあるようだ。徹底した文字や言語への不信である。

 キリスト教は全く異なる立場をとる。ヨハネは、「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった(ヨハネ1・1 新共同訳)と述べる。言葉に関するキリスト教と禅との違いに驚かざるを得ない。言葉を神と見なすキリスト教と、言葉を無とみなす禅との違いとでもいえようか。では、禅では神は無なのか。これは禅問答(公案)をみればわかる。

2 公案(禅問答

 公案とは、禅における問答、質問と答えのことをいうようだ。基本は修行者への質問だろうが、禅が考える真理(仏法)を伝える手法だとされているようだ。代表的な公案を少し見てみよう。

僧問洞山、如何是仏               僧、洞山に問う、如何なるか是れ仏
 洞山云、麻三斤                   洞山云く、麻三斤 

 この禅問答は前回すでに紹介したようにいろいろ解釈があるようだ。普通の訳は、「僧が洞山に質問した、仏とはどのようなものですか」。すると、 洞山が答えた、「重さ三斤の麻布だ」。重さ三斤の麻布とは僧侶の袈裟の重さのことで、僧侶のことを指しているという。要は、「あなた自身も(つまり我々も)本質は仏だ」ということらしい。臨済宗の代表的公案だという。

如何是祖師西来意 庭前柏樹子
 如何なるか是れ祖師西来意 庭前の柏樹子

 これは黄檗宗で著名な公案らしい。達磨大師がインドから中国へはるばる来られた真意は何か、という問いに、趙州(じょうしゅう)和尚が、それは庭に生えている柏(柏槙)のことだ、と、問いには無関係な答えをする(柏は柏槙のこと、伯樹子の子は単なる添え字)。その意味についてもいろいろ解釈があるのだろうが、普通は、柏のように心境一体、無の境地を表すということらしい(3)。


狗子仏性 無
 狗子に仏性ありや 無

 これも臨済禅の代表的公案だという。犬にも仏性があるのですか、と問われると、趙州和尚がひとこと無と答えたという。仏教では、涅槃経では、すべてのものに、森羅万象に仏性が宿っている、と言っているのだから、では犬畜生にも仏の本性があるのですか、という問いだ(狗子の子は犬の子供という意味ではないという)。意味はよくわからないが、どうも「犬の本性、仏性は無である」という答えだったらしい。この禅問答は、仏教の「無」の精神を最もうまく表現していると言われるらしい(4)。

趙州狗子(臨済宗)

 

 神秘主義を、トマス・アクイナスにならって「神の体験的認識、直感的認識」と理解するなら、真理(絶対者)に近づく方法(座禅や黙想など)に関しては禅もキリスト教も近いようだが、真理(または神)の認識(関係か実体かなど)には違いがある、とでも整理しておこう。次回は神秘主義を考えてみる。


1 親和性とは曖昧な表現だが、その理念と実践は同一ではないが類似性があり、互いに学び合う(影響し合う)ところがあることを強調できそうなので使ってみた。
2 石井清純師(駒澤大学元学長)は『禅問答入門』(2010)で、禅は思想であって、禅とは禅問答のことである。そして禅問答は公案として示され、公案は真理を伝える方法である(つまり公案とは真理のこと)、と述べている。禅は宗教ではないとは明言していないが、禅を思想として捉えているようだ。宗教を絶対者への信仰を中心とする教義、儀礼、組織からなる集団と考えるなら、禅を宗教としては見ない方がわかりやすい気がする。
3 伯樹はどうも日本の柏の木とは異なるものらしい。
4 といわれても、私にはわからない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする