カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教会の誕生日ー聖霊降臨の主日(ペンテコステ)

2020-05-31 12:48:48 | 教会

 緊急事態宣言は解除され、最初の日曜日となる。今週も関口教会のミサに出る。関口の後、山手教会の英語ミサも覗いてみる。
久しぶりの英語ミサだったが、言葉も典礼もなにか古臭い印象が残った。日本語ミサは現代的なのかもしれない。

 聖霊降臨の主日。復活節第8主日とは言わないようだ。明日から「年間第9週」にもどる。ペンテコステとは、歴史的には春の最初の
収穫祭だったようだが、現在は教会の誕生日とされている。教会にとっては重要な主日だ。

 新型コロナウイルス対策の2020年度第2次補正予算案を巡り、「持続化給付金」の対象に教会など宗教法人は含まれないことに
なったようだ。憲法89条違反の疑いとは大げさだが、今回のコロナ禍に各宗教団体がどのように対応したか、いずれはっきりして
くるだろう。

 菊池大司教はお説教の中で、結局、公開ミサの予定についてはなにも触れられなかった。6月以降も今のまま動画配信のミサを
続けるのだろうか。
わたしの教会では13日から地区別の分散ミサが始まるようだが、教区によって公開ミサのあり方は異なってくるのかもしれない。

 今日の朗読はどれも使徒たちを宣教に遣わす話のようだ。

(聖書と典礼)


第1朗読は、使徒言行録 2:1-11(聖霊が降る)
「みなは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国のさまざまな言葉で語り始めた」

第2朗読は、一コリント12:3b-7(霊の賜物),12-13(ひとつの体と多くの部分)
「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えない」

福音書は、ヨハネ20:19-23
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす・・・聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、
あなた方が赦せば、その罪は赦され」る。

 ついでと言っては申し訳ないが、鈴木勁介師の川柳もひいておこう。聖霊降臨の主日の句で、わたしの好きな句だ。
 「案ずるな 聖霊がいて 君がいる」(福音せんりゅう A年 39頁)
 なにか元気がでてくる。

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使徒継承ーキリスト教のエッセンス(1)

2020-05-30 09:30:55 | 教会

 これから、入門講座で用いられるテキスト、『キリスト教のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望の道しるべ』(小笠原優)を
読んでいきたい。神父様には僭越のそしりを免れないことを承知の上で、私の個人的感想も付け加えてみたい。

 本書は、主に6章からなり、260頁の大著である。目次をみてみよう。


はじめに
導入  キリスト教のエッセンスを学ぶーより善くいきるための希望と道しるべー
第1章 なぜ「キリスト教」というのか
第2章 イエスをめぐる歴史的な背景
第3章 イエスの教えと行動
第4章 イエスの死と復活
第5章 キリスト教の誕生
第6章 死を超えた希望を生きる
結び  キリストを信じて生きる


 タイトルで見るとイエス論が中心のようだが、各章で聖書が引用され、詳しい説明がなされている。つまり、福音の解説が中心だ。また、
キリスト教の発展の歴史も触れられており、さらに秘跡や典礼についても言及がある。広い範囲をコンパクトにカバーしているという
印象を受ける。

 このテキストは入門講座のテキストとしてはいくつかの特徴を持っているようにみえる。この本の完成に協力された信徒のO氏によると、
本書の最大の特徴は「求道者の目線」から作られていることだと言う。キリスト教を司祭や講師の視点から教え諭すというよりは、
入門講座の参加者が知りたい・聞きたい・疑問に思うことに答えることを基本にして作られているのだと言う。それはこの本の出版の経緯の
説明からもわかる。

 「はじめに」には本書の出版の経緯が触れられている。本書は横浜教区の「カテキスタ養成講座」での小笠原師の講義がベースで、それに
参加者があれこれ注文をつけて修正されて完成したのだという。注文といっても実際は、講義の後に毎回原稿用紙2枚以上の「レポート」の
提出が義務付けられ、受講者はその場でのレポートの作成は大変だったという。受講者の数はのべ200名を越えているという。この講座は
現在も続いているようだ。

 この「レポート」には入門講座担当者が実際の経験から得た疑問や問題点、提言が数多く書かれていたようだ。小笠原師はそれらを以下の
7点に整理・要約している。

①「宗教感覚」が後退し、「人間至上主義」(ヒューマニズム)が強い現代社会のなかで「キリスト教信仰」を生きていかねばならない
②現代社会では、人間の尊厳が軽んじられ、人間として生きる意味が問われている
③今日の日本社会で人々は「習俗化した宗教感覚」を保ち、「多神教」的宗教環境のなかで生きている
④既成宗教には批判の目が向けられている。キリスト教もそうした宗教のひとつとでしかないと誤解されている
⑤こうした状況で、キリスト教信仰の真髄・価値が問われ、その伝達方法が問われている
⑥教会内では信仰養成はなおざりにされ、主観的な聖書中心主義が横行し、使徒継承の信仰に立たない聖書理解がなされている
⑦教会の公的な「カテキズム」は生活の現実から離れており、その言葉遣いや表現からは「キリストの救いの喜び」が伝わってこない

 どれももっともな指摘だ。とはいっても、人間主義(ヒューマニズム)が最初から批判の俎上に載せられている。ヒューマニズムこそ
至上の価値観と教え込まれてきた戦後日本人にとり、ヒューマニズムだけでは良くないと言われると「えッ、なんのこと?」とのっけから
途方に暮れるだろう。
 小笠原師はこれらを受けて、本書の「基本姿勢」を以下の7つにまとめている。本書の主張と見て良さそうだ。

①キリスト教信仰の「エッセンス」とは「贖いの奥義・過ぎ越しの奥義」のことで、求道者が求めるものである
②このエッセンスは、「使徒継承のカトリック教会の信仰」への導きである
③イエス・キリストとの出会いを引き起こすために「聖書」そのものに立ち返る
④聖書の理解に人間学や宗教学の視点を大切にする
⑤聖書を主観的に読むのではなく、「使徒継承の信仰」という土台に立って読む
⑥「使徒継承の信仰」とは、イエス・キリストによって示された「奥義」を受け入れ、生きていくことである
⑦講義は「ラセン的に」展開していく(順番に読んでいかないと理解できない 講義に途中参加はできない)

 贖い(あがない)だの、過ぎ越し(すぎこし)だの、聞いたこともない言葉が頭から登場してくる。求道者は身構えてしまうことだろう。
ここで、「奥義」とは「ミュステリオン」のことで、普通、「神秘」とか「秘義」と訳されているものだ。普段は馴染みのない言葉だが、
「神のご計画」とでも呼べばわかりやすいのかもしれない。

 ここでの基本姿勢の説明で興味深いのは、小笠原師がくりかえし「使徒継承の信仰」と言っていることだ。使徒継承とは教会の教えの
正当性の根拠であり、これはカトリックの教えですということを示す。師のカトリックとしての立場性をはっきり示しており、
キリスト教信仰といっても、カトリック信仰のことですよと言っているようだ(1)。

 

(魚:ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ  イエス・キリスト・神の・子・救い主という5つのギリシャ語の単語のイニシアルの組み合わせが魚 イクトゥス という文字になる 魚がキリスト教のエンブレムになっている根拠)

 

 

(キー・ロー:ギリシャ語で ΧΡΙΣΤΟΣ の最初の二文字で、キリストをあらわす パックスと発音する)

 

 本書の特徴の第二は、すべての章・節に「まとめ」と「考えるヒント」という2つの欄が設けられていることだ。特に、「考えるヒント」
欄は「レポート」の「課題」のようだし、また、分かち合いの話し合いのテーマにもなりそうだ。難問が多い。

 本書のもう一つの特徴は、「コラム」が21件、「理解を深めるために」が15件、含まれていることだ。コラムはたとえば「その1」
は「神社・お寺・教会」と題され、その違いが説明されている。入門講座でよく出る質問への答えや説明がなされている。

 他方、「理解を深めるために」は、神学上の重要なテーマを取り上げ、小笠原師が自分の主張を展開する場のようだ。たとえば、
「その第1」は、「天の国について」と題されている。「天の国とは神の国の言い換えです」、と師の主張が述べられている。これはこれで
いろいろ議論のあるテーマだろうが、このような、議論をしだしたら切りのない神学上のテーマを取り上げて、師が自説を展開される場に
なっているようだ。

 さらにいえば、本書は「注」や「参考文献」も充実しており、「索引」もきちんとある。「主の祈り」や「信仰宣言」も説明されており、
いたりつくせりだ。

 各章の下に「節」がおかれ、節だけでいえば本書は合計21節からなる。入門講座が1年間で終了するとすると、週2回位の開催が
想定されているのかもしれない。

 このように、本書は、これが入門講座のテキストか、と思わせるほどの水準とボリュウームという印象を与える。カテキスタ養成講座の
テキストが下敷きだからなのだろうが、易しい入門書ではなさそうだ。これから、私もわかる限りで、フォローしてみたい。


1 使徒継承とはキリストの教会が使徒たちから継承されてきたという意味だ。大問題で論争の的だが、小笠原師は、「司教ー司祭ー助祭」
という「位階制度」として説明している(第5章第4節)。教会の使徒性をあまり強調しすぎると、教会が司教の集まりになってしまい、
司祭や信徒が視野から抜け落ちてしまう恐れがあるので、説明は難しいようだ。

(使徒継承・流れ)             (使徒継承・叙階)

      

 

 



 

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入門講座で何を学ぶのか(3)ー受洗後の世界

2020-05-28 09:22:38 | 教会

6 入門講座の内容

 入門講座では何を学ぶのか。というより、なにが教えられているのか。いくつかの教会の入門講座の案内をネットで検索してみたが、
なにか統一した指針があるわけではなさそうだ。基本は対象(受講者)次第らしい。イグナチオ教会のように「基本的に未信者の方対象」
(1)と限定しているところと、私の教会のように信者さんもどうぞというところでは、講座の内容も、教材も、異なることだろう。

 とはいえ、洗礼を目的と考えれば、結局は二つのテーマが必ず取り上げられていることが解った。一つは「福音」のメッセージの解説だ。
もう一つは「イエスの生涯」を追うことだ。同じことといえば同じことだが、視点を変えて同じことを説明するということらしい。
結局は、共観福音書を学ぶことが入門講座の中心らしい。「聖書を通してキリスト教の信仰の基礎を学ぶ」とか、「洗礼に必要な知識と霊性
を学ぶ」、というような表現にはそういう意味が込められているようだ。

 実際には、聖書から重要な箇所をみつけて、その部分の解説を聞きながら理解する、という流れらしい。共観福音書といっても、同じ
場面が異なって描写されたり、触れられていなかったり、読み方は指導がないと難しい。また、各人が聖書を読むといっても、各人が
勝手に読むのではなく、「聖伝」とともに読む、ということになる。多様な聖書解釈があるなかで、いわばカトリック教会の正統的な解釈の
もとに読むことが望まれる。これも説明が伴わないと難しい。カテキスタの学識と経験が試される場面なのかもしれない。
 

(カテキズム・要約)

     

 他方、あまり取り上げられないテーマもあるようだ。たとえば、、典礼・神学・教会の歴史・教会組織の特徴、などだ(2)。このへんは
カトリックとプロテスタントでは強調点が異なるのかもしれないが、キリスト教信仰を理解し、体験する(祈り)ことを目的としている
点では共通だろう。また、これらのテーマは受洗後の勉強の中で学習していく(と期待されている)ものなのであろう。

 

7 入門講座の教材

 入門講座で使われる教材にはなにか定番のようなものがあるのかもしれない。 サンパウロなどをみると以下のようなものが目についた。

『「カトリック入門 ─日本文化からのアプローチ」』
『「はじめて教会へいらしたあなたに~カトリック教会のごあんない~』
『こころにひかりを」』
『「キリスト教とは何か』(粕谷甲一)

 テレビやラジオやSNSでも講座が開かれているようだが、なにか決まった教材があるわけではなさそうだ。
 また、多くの神父様方が競って入門書を書かれているようだが、それぞれ個性があって、しかも一段上をねらっているようで、
定番といえるほどの評価の定まったものはまだないようだ。

 そこで、ここでは私の知人が教会で用いている入門講座の教材をとりあげて、入門講座では 何が教えられているのか、受講者は何を
学んでいるのかを見てみたい(3)。

小笠原優 『キリスト教のエッセンスを学ぶ ー より善く生きるための希望の道しるべ』 2018 イー・ピックス 
 これは入門講座の「基礎コース」用で、以下の「発展コース」用も近く出版されるという。 
小笠原優『信仰の神秘』 2020(近刊) イー・ピックス
  (小笠原師はサレジオ会、現在は教区司祭として菊名教会主任司祭 東京カトリック神学院教義学担当)


(エッセンス)

 

 私自身は入門講座にも、カテキスタ養成講座にも出たことはないので、なにか見当違いな紹介になることを恐れる。
できるだけ、入門講座の担当者、カテキスタの資格を持っている人、元受講者の方などの話を聞いて、自分の考えを整理しながら、
次回から教材の要約に挑戦してみたい。

 

8 受洗後の世界

 さて、無事に洗礼式が終わり、ミサに出てご聖体拝領ができるようになる。苦労の末のあとにいただく聖体拝領だし、まわりからも
祝福され、感激もひとしおだろう。

 そのあと何が起こるのか。教会が地区単位に組織されていれば班なり組なりに所属し、家庭集会などを通して顔を合わせることになる
(4)。青年会、壮年会、婦人会など、名称はなんであれ、世代別の組織に入ることになる(5)。加入は任意とはいえ、ほぼ自動的に
所属することになるようだ。また、教会には数多くの活動団体が動いており、ボランティア活動に誘われることもあるだろう。
熱意があれば教会の組織活動に参加することになる(6)。

 受洗直後の人がこういう世界にすぐに飛び込んでいくのは勇気がいるだろう。代父・代母が導きになるのだろうが、時間がかかることも
あるだろう。

 実は、受洗直後の人が最初に直面する課題は、こういう教会活動への参加ではなく、主任司祭との関わり方らしい。これは司祭が司牧を
どのように考えているかにも左右されるので一概には言えないが、なかなか難しいら問題らしい。。特に最近は、告解する機会も減り、
家庭集会の開催も少なくなると、神父様とじかに話をする機会もなかなか見つからないようだ。司祭は数年単位で異動していくとはいえ、
司祭とかかわらないで信仰を維持することはなかなか難しいだろう。

 教会活動への参加も任意とはいえ、仕事を持っている人、フリーの人、専業主婦や定年退職者など各自の事情に応じて、直面する問題は
多岐にわたるだろう。新たに洗礼を受けた人が教会生活が自分の生活の一部になるまでにはしばらく時間がかかりそうである。
ここから入門講座とは違う、新たな教会生活が始まっていく。入門講座はこういう受洗後の教会生活の姿をもう少し知らせてもよいのかも
しれない。洗礼を受けたあと待っているのは、典礼や神学の勉強だけではないことをもっと強調してほしいものだ。今風に言えば、「受洗後
のケア」の整備が求められているようだ。アフター・コロナで教会活動も変わっていくだろう。洗礼を受けた新しい人たちが教会に新風を
吹き込んでほしいものだ。

1 いまどき「未信者」という言葉がまだ使われていることに驚く。入門講座だから使われている言葉なのだろうか。
2 たとえば、『カトリックの信仰』(岩下壮一)などは、宗教とはなにか、神とはなにか、などの話から始まっている。真正面から
大上段に振りかぶって講義に入るが、現在の入門講座ではこういうアプローチは少ないようだ。とはいえ、子供向けの要理の絵本などでは
神さまの話から始まるものが多い印象がある。
3 私の教会では、神父様による入門講座以外に、カテキスタによる講座が3つ開かれている。曜日と時間の多様化がなされている。
受講者は自分の都合に合わせて選べるようだ。教材は同一のようだ。
4 洗礼式が終わると入門講座はそれでお終い、というわけではないようだ。その後の教会生活への導入をも手助けするという。
「サポートチーム」という名称の活動が始まっているようだ。洗礼式が終わって勇んでミサに出ても、知っている人がいない、話す相手が
いないでは、足が遠のいてもおかしくない。教会の人間関係はガッチリ出来上がっている。そこに飛び込むことは、本人次第とはいえ、
手助けが必要だと思う。
 教区教会は基本的に「地域集団」なので、信徒は地元の教会に所属することになる。とはいえアソシエーションの性格も持っているので、
地元以外の教会にあえて所属することは珍しいことではないようだ。
5 こういう世代別の組織はどこでも活動が不活発になるようだ。地域単位の組織、世代単位の組織が消滅して、ほとんど自発的な
ボランティア団体が中心となってで動いている教会もあるという。現在のようにコロナ禍で公開ミサが中止になり、教会活動がほぼ
止まっている時は、足腰の強い組織とそうでない組織の違いがはっきり現れるようだ。そういう意味では、教会の構成単位の特徴を、
お寺(檀家)や神社(氏子)、政党(後援会)などのそれと比較してみるのも面白そうである。
6 ちなみに、私の所属教会(信徒数1500名前後の中規模教会)では、教会委員会の下に、7つの「部」が組織され(財務部、総務部、
司牧部など)、その下に20を超える「会」または「係」と呼ばれる活動がある。顔ぶれは重複が多いとはいえ、教会活動の主力部隊
として数十人が日常的に動いているようだ。大規模な教会だと役員だけで数十人を数えるところもあるらしい。
 他方、地方の小さな教会では、日曜日のミサに出るのは10人前後、教会活動は数人の熱心な信徒に頼り切りというところもあるという。
教会の特徴は主任司祭の個性が強く反映されるとはいえ、基本的にはこういう下部組織のあり方が各教会の特徴を現してくるのかもしれない。

 

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入門講座で何を学ぶのか(2)ー入信式の流れ

2020-05-26 10:48:49 | 教会


 やっと緊急事態宣言が解除された。これで公開ミサも視野に入ってきた。「三位一体の主日」くらいからは聖体拝領したいものだ。

3 入門講座と入信式

 考えてみると、われわれのカト研も入門講座のようなものだったのかもしれない。第二バチカン公会議以前だから入信準備のための儀式は
まだ制度化されていなかったと思われる(1)。入門講座という名称もなかった気がする。カト研では、信者も、まだ洗礼を受けていない
人も、一緒に部活動をしていた。部活動は「指導司祭」のもと、聖書の勉強が中心だった。やがて洗礼を受ける人もいた。召し出しがあって
司祭の道を選ぶ人も何人もいた。すでに神学部や哲学科に所属している年長の先輩たちもいた。なにか雑多な集まりであったとも言える。
「カトリック研究会」といっても、カトリックを宗教社会学のように「研究」するのではなく、カトリックに「入門」するための部活動
という性格が強かったと思う(2)。

 第二バチカン公会議のあと、カトリック入信の儀式が制度化されたようだ。『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会)だ。
それによると、受洗(入信)には、3つの「儀式」(段階)と4つの「期間」があるという。

3つの儀式(段階)とは、

①入門式
②洗礼志願式
③入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)

4つの期間とは、

①求道期前(福音の告知)
②求道期(入信準備期)
③洗礼準備期(狭義の入門講座)
④入信の秘跡直後の期間


 (入信の3段階)

 

 つまり、求道者のための入門講座は、この入門式、洗礼志願式、洗礼式をカバーするようだ。式といっても、入門式は皆の前で
挨拶する程度、洗礼志願式は、個別に小教区ごとになされるか、最近のように共同志願式で複数の教会の求道者が一堂に会して
おこなわれるようだ。

 洗礼式はミサの中でおこなわれることが多いようだ(3)。最近はこういう形式をきちんと踏む傾向が強くなってきている印象が強い。
洗礼を受けるのは大変なことだと改めて思う。

4 誰が入門講座を開くのか

 入門講座で教えているのは誰なのだろう。神父や牧師は当然仕事の一つになっているのだろう。カトリック教会では実際には信徒が
カテキスタ(4)として講師役を務めていることが多いらしい。カテキスタは人格高潔・博学宏遠の長老格の人がなるらしく、
信徒の鏡として敬われる人が多いようだ。かならずしも年配者とは限らないようだ。知識よりは人格が問われるらしい(5)。
 

(カテキスタ認定証)

 

 入門講座を要理教師が担当するというのがルール化されているのかどうか私にはわからない。要理教師には1級、2級と資格の階級が
ある司教区もあるようなので、おそらくルール化されているのであろう。この資格は、カテキスタ養成講座とか信仰養成講座とかの名称の
講座で勉強した上で司教から与えられるらしい。これらの講座が開催される教会は限定されているようで、しかも小教区の主任司祭の
推薦がないと受講できないという。しかもこの資格には有効期間の限定があるようで、大学の卒業証書のように一旦もらったら生涯有効と
いうものでもないらしい(6)。自動車の運転免許証のように書き換えが必要なようだ。一応3年毎らしい。いずれにせよ、
資格条件はかなり厳しいと思われる。実際には主任司祭がこの人と見込んだ信徒に頼んで資格を取ってもらい、入門講座を開いてもらって
いるようだ。

5 入門講座の回数

 洗礼の準備としては普通一年間の勉強があり、洗礼志願式を経て、復活徹夜祭での洗礼となるようだ。講座は、毎週一回、隔週ごと、
月1回などいろいろあるようだ。月1回の講座出席としても、年間52週のうち少なくとも12回はあるようだ。時間も、1時間半から
2時間あるという。「分かち合い」もあるので、講義ばかりというわけでもないようだ。

 入門講座を開催する場所も気を使うと言う。曜日や時間がコースによって異なるのだから、会議室がいつも用意できるわけではない。
ポストコロナのこれからはテーブルを囲んで対面式でというわけにも行くまい。教室での講義のような一方的なものになるのかもしれない。

 アジアの諸外国と較べても、日本での準備は、回数も多いし、時間も長いという。アジアの諸外国では半年で数回講座にでて洗礼を受け、
あとで勉強を続けるというパターンが多いと聞く。

 日本では、長い経験と紆余曲折があってこういうパターンが定着したのだろう。私は個人的には1年は長すぎると思うが、
こういうパターンがいつ頃定着したのか詳しくはわからない。



1 第二バチカン公会議が大きな転機になっているようだ。教会では洗礼志願者が急増した時期もあったが、それはこの入門講座が
制度化されたせいかもしれない。とはいえ、この 『成人のキリスト教入信式 儀式書』 はなかなか普及しなかったようだ。
 そこで、例えば横浜教区では、『信仰の道を、求道者とともに歩むために』(横浜教区典礼委員会)を発行して普及を図っているという。
この儀式書の解説書だという。私はまだ手にしたことはない。
2 「カトリック研究会」という名称が使われるようになったのは、岩下壮一師の(現在の)真生会館、「カトリック研究社」時代に
遡る。当時は「研究」という言葉がもっと広い意味を持っていたのか、岩下師が時代の中であえて選んだ用語だったのかはわからない。
 なお、カト研は、基本的には信者だけから構成される「カト学連」(旧カトリック学生連盟など)とは、その成立の経緯や、活動、
性格が異なっていた。
3 「求道者」という言葉もこういう過程の中で定着していったようだ。求道者は、「きゅうどうしゃ」と読んだり、「ぐどうしゃ」と
読んだり、読みも一定ではなかった。私などは当時はこれはプロテスタントの用語でカトリックではあまり使われないと思っていた。
現在は、「きゅうどうしゃ」はキリスト教用語、「ぐどうしゃ」は仏教用語として使い分けが定着している印象がある。といっても
教会の中で、会話や文書で実際に使われているのを現在でもあまり見たり聞いたりしたことはない。
 なお、入門講座で勉強したいと思う人を求道者と呼ぶなら、かれらは必ずしも自分の住まいに近いの教会の門をたたくわけでは
ないらしい。たとえそうであっても他の教会の入門講座を紹介されることもあるようだ。こういう場合、洗礼を受けた後、所属教会をどこに
するかという難問が生まれるらしい。
 また、教会にすでに友人・知人がいる場合が多いようだが、まったく知っている人がいない教会の門をたたくこともあるだろう。
求道者といってもいろいろな形があるようだ。また、求道者の視点から入門講座を見たとき何が見えてくるのか、これは改めて
考えてみたい。
4 入門講座の担当者がかならずしもカテキスタの資格を持っているとは限らないようだ。だが、いちいち区別するのも面倒なので、
ここでは入門講座の担当者をカテキスタと一括して呼んでおきたい。
 カテキスタとは「要理教師」と訳されているらしい。「カテキズムを教える人」という意味のようで、昔風に言えば公教要理の先生や
シスターか。カテキスタは司教から許される資格・任務の一つで、だれでもなれるわけではなさそうだし、希望する人も少ないようだ。
入門講座の担当者でカテキスタの資格がある人は、養成講座をきちんと受けて「修了証」をもらっているようだ。繰り返すが、入門講座の
担当者がかならずしも資格を認定されたカテキスタであるとはかぎらないようだ。といっても、すべての教区がカテキスタの養成講座を
開いているのかどうかはわからない。入門講座の担当者は奉仕の精神にあふれる人格者と思える。
5 実際にはカテキスタと呼吸があわない受講者もいるようで、他の講座に変わることもあるようだ。実際に成人洗礼を受けた人に受洗の
動機を尋ねると、なんとか神父様に出合ったからとか、何々さんの影響でとか、友人や配偶者が信者だからとか、人との出会いを挙げる人が
多い。本を読んでとか、ネットでとか、教会が近いからとかいう知的・地理的理由をあげる人もいるが、印象としては数は少ない。
教義よりは人格が重要なようだ。
 こういうことは出会いの問題なので一般論は難しい。とはいえ、教会ではこの受洗の契機の話題は結構微妙な話題らしく、誰からもいつも
聞けるわけではない。「入り口」よりは「出口」が大事ということであろう。つまり、どういうキッカケで受洗したにせよ、現在どのように
信仰を守っているのかということのほうがもっと大事なことだからだろう。
6 大卒という資格のようにこういう努力して獲得された属性が、いわば生得的な属性のように(性別や年齢のように)生涯変化しない
というのも不思議といえば不思議だ。大学教育が単に知識や技術の獲得だけではないという歴史的経緯が反映されているのかもしれない。
使徒職にも事効説と人効説があるとか、秘跡は聖務者(聖職者)が行えば、破門された司祭が行ったものでも、「有効」だという「教会法」
の規定も、同じような考え方に基づいているのかもしれない。

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見上げれば 空の広さに 主が見える ー 主の昇天の祝日

2020-05-24 14:00:38 | 教会

 標題は、主の昇天の祝日(A年)向けに鈴木勁介師が作られた福音川柳である(『福音せんりゅう』38頁)。今日は川柳どおりの青空だ。

 

 

復活節第7主日だが、今では日本では主の昇天の主日といったほうがピンとくる。復活節もいよいよ終わりに近づいた。
今日は久しぶりに文字通り良い天気に恵まれた。緊急事態宣言がまだ解除されていないが、やっと出口が見えてきたようだ。
テレビのYouTubeで関口教会のミサに出る。なにかこれが日常化しつつある感がある。

 今日の第1朗読は使徒言行録1:1~11,第2朗読はエフェソ1:17~23,福音朗読はマタイ28:16~2-0だ。
昨日もらってきた「聖書と典礼」によると、今日のキーワードは、「昇天」(1)と、イエスの言葉「わたしは天と地の一切の権能を
授かっている」だという(2)。関口教会のYoutubeのミサ中継は文字が入るので「聖書と典礼」は要らないのだが、手元にないと
なにか不安になる。

 菊池大司教のお説教は昇天の祝日についてではなかった。ベネディクト16世とヨハネ・パウロ2世の回勅を引用しながら、コロナ禍の
あとへの「希望」と「連帯」について縷々説明しておられた。いつもどおりのわかりやすいお話であった。すべての人のための「善益」と
いう言葉が印象的であった。

 緊急事態宣言からの脱出も視野に入ってきた。教会のミサはどのような形になっていくのだろうか。「キリスト
の聖体」の祝日に洗礼式がセットされた教会もあると聞いた。公開ミサも始まるのか。不安でもあり、楽しみでもある。

 


1 入門講座を担当しているカテキスタの人によると、「昇天」という出来事は、「復活」という出来事より、すんなりと理解されるという。
現代の日本人は、死後、「霊魂」(「霊」とは言えないところが悩ましい)がどこか別の場所に移るという観念を共有しているからだろうと
言う。とはいえ、訃報の通知などで、「召天」とか「昇天」とかいう言葉を使っているケースに時々出会うが、違和感を感じる。
さすがキリスト教では、成仏とか鬼籍に入るとかは言わないが、同じキリスト教でも、ロテスタント、正教とカトリックでは用いる用語が
違うようだ。カトリックでは「帰天」(または古くは「帰郷」)という言葉を使う。Homecoming という英訳もあるようだが
あまり見たことはない。
2 「権能」という言葉もよくわからない。日本語では法律用語らしいが、聖書だと、英語なら、power, authority か。function, priesthood という訳語もあるようだ。言葉の詮索より、「宣教せよ」というのが趣旨らしい。
 

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