カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

創造論か進化論か ー 創造論5(学び合いの会)

2022-05-31 10:58:42 | 神学


Ⅵ 教義史

1 古代

①使徒教父たち

使徒教父たちはは聖書の創造に関する信仰を継続し、更に展開していった(1)。
「ヘルメスの牧者」 ー 「無からの創造」(creatio ex nihilo)(2)

②ギリシャ哲学
 プラトン哲学は神の存在は認めるものの、この世界も永遠の存在であり、神による創造という思想はない。神も世界も永遠とされる。世界は、神の意志や、業の結果ではなく、すべては必然ないしは運命だと考える(3)。

②グノーシス主義
 グノーシス主義は善悪二元論で、霊が善、物は悪とするから、物を造った創造の業は悪であり、創造主は悪い神だという悲観的世界観からなる(4)。

③エイレナイオス
 エイレナイオスは2世紀後半のフランス・リヨンの司教。グノーシス主義の正体を暴露し、正統信仰を守ることを生涯の課題としたという。主著『対異端駁論』では、神による無からの創造は神の恵みであり、やがてキリストにおいて神と人とが一つになると主張し、創造を救いのわざとする楽観論を唱えた。ギリシャ哲学とグノーシス主義に反論した。
 創造に関する信仰は、やがて325年のニケア公会議において、「我は信ず 唯一の神 全能の父、天と地 見えるもの見えざるもの すべての造り主を」と表現され、公式の教義となる。

④アウグスティヌス
 アウグスティヌス(354-430)は最大のラテン教父。ローマ帝国末期、396年には北アフリカのヒッポの司教となる。アウグスティヌスは、啓示の真理と哲学的創造論を総合した。新プラントン主義を拠り所としながら、プラトンの多神教的傾向とは異なり、神の唯一性・超越性を強調した。マニ教の二元論に対して世界はすべて良いものとして造られたとした(5)。
 アウグスティヌスの時間論と創造論は特徴的だ。創造以前に時間はなく、時間は神によって創られた。神自身は時間を超越している。神には過去も未来もなく、常に現在である。従って、神は時間に関係なく創造する。すなわち、今も世界を造り続けているという。「継続的創造説」とも呼ばれる。(6)。

2 中世

 中世のスコラ神学はアリストテレスの影響が大きい。アリストテレスの神は人格神ではなく、リアリティがない。しかしトマスは神を存在論的に理解する(7)。神は存在そのもの、絶対的現実性、神はすべての存在の根拠そのものとされる。無からの創造という信仰が表明される。フィレンツ公会議(第17回公会議 1439-42)(8)では存在論的な神理解が公式に宣言された。

3 近世

①理性中心の啓蒙主義の時代には、様々な創造理解がなされた。特に自然科学の発達により、様々な問題が提起された。
 無からの創造は根拠のない神話とされた。アイザック・ニュートンは信仰者ではあったが、様々な自然法則を発見し、自然法則は神の定めた秩序であり、彼はそれを発見することによって神を讃美すると考えた。機械的宇宙論と呼ばれる。
 だが、多くの自然科学者は無神論的傾向へ向かい、あるいは自然界の秩序から汎神論的な方向へと向かった。

②カトリック教会は、聖書の記述を歴史的事実として捉え、聖書の記述に反する思想を弾圧した。例えば、コペルニクスの地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは裁判にかけられた。ただし、コペルニクスはカトリック司祭であり、ガリレオは信仰深い人であった。この事件の背景にはバチカンとハプスブルグ家の対立があったと言われる。

③チャールズ・ダーウインの進化論(『種の起源』1859年)が問題となる。創造のとき、神が創られたあらゆる種は普遍で、進化の余地はないという思考から、19世紀末から20世紀初頭にかけて教会内には進化論に反対する動きがあった。特にサルから人間が進化したというテーマが問題とされた。当時の教皇やバチカンは、人類一元説、反進化論の立場をとっていたからだ。だが、聖書学の発達は、創世記が過去に起こった歴史的事実を記したものでないことを明らかにした。ピオ10世やピオ12世は聖書学を奨励していたのだから皮肉である。

④ヨハネ・パウロ2世は1992年10月31日にガリレオの主張の正しさを認めた。実に359年ぶりにガリレオの破門をとき、名誉を回復した。1996年にはヨハネ・パウロ2世は進化論を認めた(9)。
 このように、カトリック教会に関しては、ガリレオ事件も進化論問題も解決済みである。だが、アメリカのプロテスタントの一部にはファンダメンタリストと呼ばれる宗派が存在する(10)。
 1925年アメリカ南部テネシー州議会は、聖書の天地創造論に反する理論を公立学校で教えることを禁じた。だが、デートンの高校教師スコープスは進化論を教えたかどで逮捕され、裁判にかけられ、罰金刑を受けた(スコープス裁判とかモンキー裁判とか呼ばれる)。同様の法が南部のいくつかの州でも制定された。テネシー州の州法は1967年に廃止され、翌68年には連邦最高裁判決ですべての反進化論州法は無効とされた。
 だが、1981年には進化論と創造論を同じ時間数だけ教えるべきだという授業時間均等法がアーカンソン州で施行されたが、1987年にこれは連邦憲法違反だとして判決がでている(11)。


4 現代における科学と信仰の問題

 この問題に関しては、大きく見て三つの考え方があるという。

①自然科学から教義を理解する考え方

 自然科学の成果を聖書に当てはめて説明しようとする。すべての教えはプロセスであるというプロセス神学の影響がある(12)。方向性を持って進んでいくという考え方をとる。自然科学から創造信仰を再解釈しようと試みる。
 ティアール・シャルダン(1955年没 フランスのイエズス会司祭)は「キリスト教的進化論」を唱えた。進化の過程は神の創造の業であり、すべてはキリストと通して神に向かって進化するとした。主著『現象としての人間』(1955)は創世記の伝統的な創造論を破棄したため、バチカンからは禁書処分されたという(死後に処分は取り消される)。実証科学からは批判されたが、かれの主張はカトリック思想界に大きな影響を与えたという(13)。

②聖書原理主義の考え方

 聖書の記述を絶対視し、そこから自然科学を論じる立場。

③自然科学と信仰を区別する考え方

 両者は目的が異なるので相互に矛盾することはないという考え方。K・バルトなどもこの考え方をとっているという(14)。

Ⅶ 結び

 創造論と聞くと、創世記を思い出し、非科学的な神話伝説の類いであると考えがちである。しかし創造論神学は、自然科学における宇宙や地球の始まりの研究とは目的を異にする、まったく別物である。

 キリスト教における創造とは、世界を造り、その中のものを生じさせる神の業である。世界とは全く異なり、世界を超越した神の存在が前提である。その神は、世界に対して無関心ではなく、愛によって世界を造り、世界に関与し続ける。その意味で創造論とは、唯一全能の神への信仰と内容的にほとんど同一のものと言って良い。
 創造は神の愛の業であり、それはまた救いである。神がその業によって人間を神の似姿として造られたという信仰から、人間の価値・人間の尊厳・人権・命の尊さへの確信が生まれる。さらに、地球の尊さ、そして人間が神によってあらゆる被造物の管理を委ねられたことによる人間への環境保護の義務も確認される。
 キリスト教の信仰は、創造が神のロゴスによってなされ、キリストを中心とし、キリストを目指していることを宣言する。
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:3 協会共同訳)

 

 進化か創造か

 

 


1 教父 Fathers of the Church  とは、1世紀後半から8世紀ごろまでの古代・中世のキリスト教世界でキリスト教の正統信仰を伝え、かつ聖なる生活を生きた人々を指す。教父の資格・条件として4箇条挙げられる:古代性・正統的教え・聖なる生涯・教会の承認 だ。多くの使徒は殉教するが、使徒教父のあとは護教家が続く。ローマのクレメンス、アンティオケののイグナティウスなどは使徒教父と呼ばれる。ラテン語で著述した教父はラテン教父と呼ばれる。テルトゥリアヌスやアウグスチヌスである。4大ラテン教父にはヒエロニムスも含まれる。ギリシャ語で仕事をした教父をギリシャ教父と呼ぶ。カイザリアのバシレイオスやアレクサンドリアのアタナシオスなどである。教父はほとんど司教だが、司祭や信徒の場合もあり、またすべての教父が聖人というわけではないという。
2 「ヘルメスの牧者」とは新約外典の一つ。使徒教父文書である。紀元120~140年頃ローマで書かれた文書だという。著者ヘルメスは使徒教父の一人である。幻影が描かれ、黙示文学的だが、信仰者の悔い改めを強調しているという。3部よりなり、5編の幻、12編の戒め、10編の比喩からなるという。この書名は、ヘルメスが牧者として出現した天使から啓示を受けたことに由来するという。キリスト教の創造論は、「言葉による創造」と「無からの創造」(creatio ex nihilo)の強調が中心だが、前者は旧約、後者は教父時代に概念化されたという。
3 プラトン哲学をこのように表現するのはだれでも躊躇するだろう。西洋哲学はプラトン哲学への脚注にすぎないとすら言われるくらい偉大だからだろう。
4 グノーシスとは知識という意味で、古代のキリスト教会が対決した異端思想だ。だが善悪二元論だからダメだというこういう簡単な説明では誤解を生みかねない。もう少し丁寧な説明が欲しいところだ。
5 マニ教はササン朝ペルシャ時代にマニ(276年没)によって始められた世界宗教。古グノーシス主義を集大成した体系と言われる。アウグスティヌスは青年期にマニ教を信仰し、32歳でキリスト教に回心した話を知らない人はいないだろう。
6 創造論には大きく見て①全体的創造論と②継続的創造論があるという。前者は、何もない無から新しい全体を一気に創る創成論で、後者は創造主が無限の力によって永遠的存在の充溢をずっと目指すとする創成論である。アウグスティヌスの、つまり、キリスト教の創造論は②のヘブライ的創造論に近い。 時間についても、時間は世界が創造されたときに創られたのであり、神は時間の外側に立っており、過去や未来は客観的な存在ではないという(「告白論」第11巻 加藤信朗『アウグスチヌス告白論講義』2006 知泉書館)。創造以前の宇宙とはどういうものかと問うことは無意味だということだ。時間は空間と共に延びたり縮んだりする。こういう時間観は現在のビッグバン論でも共有されているというのは興味深い。
7 突然に「存在論的に理解する」と言われてもなんのことかよくわからない。存在とはザイン Sein のことだと理解するなら、キリスト教神学はギリシャ哲学に基づいて聖書を理解してきたといえる。ギリシャ哲学と言っても、神を「善」や「一」として理解するプラトン的理解とともに、アリストテレスにならって神を「存在」として理解するような思考も登場した(アリストテレスは12世紀にやっと中世のキリスト教会によって発見または再発見される)。トマス神学はこの流れの中に位置づけられよう。この場合の存在は「実体」という意味であり、神は現実的な働きをする(たとえば御子イエスを地上に派遣する)至高の存在者であるとされた。「神は存在そのもの」とはこういう意味だと理解したい。存在論をデカルト以降の普通の認識論とあえて区別するのなら、近代における存在論から認識論へのコペルニクス的転換、そいてその後のハイデッガーらの存在論への回帰(実存論)という西洋哲学史の流れのなかでの話のようだ。
8 フィレンツ公会議は日本の世界史ではバーゼル公会議の一部として説明されることがある。場所が移動したのでバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議と呼ばれることもあるようだ。前回のコンスタンツ公会議(1414ー1418)での公会議優位説のかわりに教皇優位説がとられる。
9 進化論 evolution theory とは、地球上に存在する生物の種が、別々に創造された永久不変のものではなく、少数の共通の祖先から長い年月をかけて次第に変化分岐して現在の姿になったという科学上の理論といえよう。人間はサルから進化したという説はその頂点だろう。日本では学校教育を通して進化論が徹底的に教え込まれているので、創造論はほとんど理解できないようだ。「弱い創造説」というのもあり、人間以外の生物の進化は認めるが人間だけは神から創造されたという考え方だ。だが、これもほとんど注目されることはない。
 創造説は真理か否かと言うより、近代社会の合理主義や世俗主義がキリスト教信仰を揺るがしているという危機感がファンダメンタリズムに創造説を現在でも残存させているのであろう。世俗主義が徹底した日本社会に創造説が理解され、受け入れられる余地は全くないだろう。進化論と創造論の対立を強調するのは生産的ではない。進化の全過程が創造なのであり、神の恵みなのだと理解したい。なお、生物学的な進化論にはダーウイン的な自然選択的進化論とメンデル的な遺伝的進化論があり、いまだ発展段階にあるようだが、「社会進化論」も多様な展開を見ているようだ。たとえば、社会システム論の展開などであるが、これは別のテーマとなる。
10 ファンダメンタリズム fundamentalism  とは、定義も範囲の確定も難しい。原理主義とか根本主義とか訳される。正典などの教義や規範をそのまま守り、世俗主義や自由主義に対抗する思想・宗教勢力を指すと考えておこう。イスラム教など他宗教内の復古派・超正統主義派をさすこともあるが、ほぼアメリカのプロテスタントの特定の派(例えば福音派 evangelical)などをさすようだ。福音派全体をファンダメンタリストと呼ぶことは出来ないだろうが、福音派は聖書の無謬性を主張し、世俗主義を批判する。政治的には保守派で、リベラル派を批判する。思想的には千年王国思想を共有しているという説もある。21世紀に入ってその思想的影響力はますます拡大しているとも言われる。
11 進化論への態度は、人工中絶問題(プロ・チョイスvs.プロ・ライフ)や銃規制問題(人が悪いvs.銃が悪い)とならんで、アメリカ社会を深く分断する。人種問題や階級問題よりも分断の溝は深いようだ。党派対立の源でもあるという。日本社会の現状からは想像すらできない分断の溝だ。現代の日本で、進化論が疑問視されたり、人工中絶が社会問題化したり、銃の所有が自由の名のもとに許されるとは考えられない。善し悪しは別として、われわれは比較社会論的に言えば、こういうきわめて世俗化した社会に住んでいるようだ。M・ヴエーバーのいう「脱呪術化」の着地点は「神々の永遠の闘争」なのだろう。
12 プロセス神学という名称はホワイトヘッド(A.N.Whitehead 1861-1947)のギフォード講演(『過程と実在』1929)に由来するという。人間と世界の過程的・進化的性格を強調し、神自身も世界と交流することによて発展する過程の中にあると説いたという。つまり人間と世界の関係を論ずる「神論」である。
13 我々カト研のメンバーが学生だった頃はシャルダンとマルティン・ブーバー(『孤独と愛ー我と汝』1958)を読むことがなにかかっこよいことのように思われていた。その思想史的意義はわからなかったが、第二バチカン公会議の時代の雰囲気がそうさせていたのであろう。やがてシャルダンのキリスト教的進化論は実証科学からは批判されていくが、現在でも思想的影響力は残っているようだ。上智大学理工学部には「テイヤール・ド・シャルダン奨学金」があるという。また、ブーバーの「対話の思想」は我々をエキュメニズムへと導いていった。のんびりしていたわけではない。大学紛争が目前に迫っていた。
14 例えば、三田一郎 『科学者はなぜ神を信じるのか』(講談社 2018)など。三田師・氏は物理学者でカトリックの助祭という。本書は、信者には学ぶところは多いが、あまりに護教的と評する人もいるようだ。

 

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人間は世界の管理者か ー 創造論4(学び合いの会)

2022-05-29 10:39:15 | 神学


Ⅳ 新約聖書

 新約聖書とはキリスト教が経典として認めている27文書(1)のこと。キリスト誕生以前に書かれた旧約聖書に対して、キリスト誕生後紀元50年から150年頃までに書かれた文書である。27文書が正典として認められたのはカルタゴ教会会議(397年)だという(2)。
 中身は旧約にならって、歴史・書簡・預言に分けられる(歴史書は4福音書と使徒言行録、書簡はパウロなど、預言は黙示録)。

 新約聖書には世界の創造を直接の対象として述べた箇所はない。なぜなら神による世界の創造はあまりにも明白な事実で、改めて述べる必要がなかったからだという。

① 神は言葉によって世界を創造した ヘブ 11:3、第2ペテロ3:5
② 神はすべての創造者  マタイ 19:4 マルコ 13:19 
③ 神が創造者であることは明白 ロマ 1:19 1コリ 8:6
④ イエスは神の名において創造界を悪から解放した ルカ 11:20

 イエスの「神の国の到来」メッセージは、神の創造の計画の達成を意味する。

Ⅴ 聖書における人間観

1 人間は神によって創られ、神によって生かされた存在である

 ①人間は被造物である 存在根拠を自らの内に持たない。人間は根本的に神に依存し、神に生かされた存在である。ギリシャ哲学では人間は自己完結した自然的小宇宙と見なすが、聖書の人間観は対照的である。
 ②人間は塵から創られたはかなく脆い存在
 ③人間は神の息,霊によって生かされている存在。聖書的人間論は肉体と霊魂の区別をしない(従来の教会の表明では「人間は肉体と霊魂の混合物」というものであった)。

2 人間は神の像、世界の管理者である

①神の像
 創1:26~27 「われわれのかたちに、われわれの姿に人を造ろう・・・神は人を自分のかたちに創造された」(協会共同訳) 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう・・・神はご自分にかたどって人を創造された」(新共同訳) これは人間と神の間の対応関係を意味する表現とされる

②神は人間に被造物の管理を委ねられた
 創 1:26 「すべてを支配させよう」 1:29「すべてあなたたちに与えよう」(新共同訳)
 創 2:15~17(善悪の知識の木の話) は被造物と守ると言う話、2:19~20 は被造物に名をつける話だ

 人が被造物を支配するとは何を意味するのか。古代社会における支配とは、支配者が部下から利益を得るのみならず、部下に利益を還元することを意味した。古代における王の支配は専制君主的なものではなく、政治的・社会的・自然秩序を保証するものであった(王職と呼ばれた)。
 現代の環境問題と聖書の教えとの関係について、一方において環境破壊をキリスト教のせいにする論調がある。すなわち、創世記における人間による被造物の支配という思想が人間の自然破壊行為につながっているという見解である。他方、この支配という言葉の意味は、神の代理者として「善良な管理者」の務めを果たすことであり、キリスト教は自然を神から預かったものとして大切にするという意味であるとの主張もある。歴代教皇は自然保護を訴えておられる(3)。

③人間の尊厳
 人間は神に似せて造られた、いわば神の像であり、他の被造物とは異なる尊厳を有する。人間の尊厳は創造主たる神に由来する。人命はこのうえなく尊い。自殺自死は神に対する侵害である。人権の尊さの根源は神にある(4)。

 
 ウクライナの子ども

 



1 正典以外の外典・僞典を含まない。なお、新約に僞典はない。外典は新共同訳聖書には「続編」として収められている。正典の条件はいくつかあるようだが、結局は使徒に由来するかどうかで識別されているようだ(カルタゴ教会会議)。正典ではなく、続編にも入っていないが、「ヤコブ原福音書」のようにイエスの幼少時を記したものや、「トマス福音書」のようにグノーシス主義ゆえに外されたが現在でも読まれる外典もあるようだ。荒井献編 『新約聖書外典』(講談社 1997) 『トマスによる福音書』(講談社 1994)など。
2 教会会議は公会議(全地公会議)ではない。司教区の司教が集まる会議のようだ。現在は教会会議には公会議と世界代表司教会議(シノドス)の二つがあるようだ。来年開催予定のシノドスのテーマは「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」であり、既に準備が始まっているようだ。アジア シノドスとかアマゾン地域 シノドスとかもあった。
3 S氏は、自然の管理は、神の代理者としてであり、所有者としてではないので、勝手に処分したり出来ないという意味だと説明された。神の代理者、自然の管理者という考え方はつぎの教義史でも論じられる。
4 この辺の議論は尊厳死、安楽死問題につながる。また、人権論も、人権の根拠を「神の似姿としての人間の尊厳」に求めるのが一般的だが、自然法思想・社会契約説をもふまえた幅広い人権論(人間の発展権など)が議論されているようだ。

 

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創造は恵みである ー 創造論3(学び合いの会)

2022-05-27 09:40:20 | 神学


Ⅲ 旧約聖書

2 預言書

 預言とは神から啓示を受け、それを告知することを意味する。日本語では神の言葉を預かるという意味だと説明されることが多い。予言ではない。だが預言者は神の言葉を告知するだけではなく、来るべき時代についても語った。

 預言者の資格・条件ははっきりしないが、神の霊そのものには求めず、神の言葉を「持っている」という事実・言明に求められたようだ(1)。
 預言者はサムエルの時代に登場するが、活動が活発化するのは王国の分裂以後である(2)。北王国にエリア、エリシャ、ミカヤが現れ、南王国にはイザヤ、ミカが現れ、以後続々と続く。イザヤ・エレミヤ・エゼキエルは三大預言者と呼ばれる。預言者の託宣や活動は多岐にわたるが、総じて祭儀を批判する点で共通する。自分たちのヤーウエ信仰を守るためであったのであろう。

 第2イザヤ 40:27~31,44:24~28 は、アケメネス朝ペルシャを建国し、メソポタミアを統一したキュロス2世による「バビロン捕囚」からの解放・救済の出来事を語っている。創造と救済が重なっていると言われる(3)。

3 知恵文学

 知恵文学は、神との契約を論ずるのではなく、人間そのものを語る。人生論のような箴言や詩篇、愛の歌を集めた雅歌、人生の不条理を語るヨブ記などだ。続編の知恵の書とシラ書(集会の書)も含まれる。
 知恵とはヘブライ語で「ホクマー」と言うらしく、神への信仰と従順が知恵の中心で、神が与える賜物であるとされる。また知恵は天地創造の要因とされ、女性的存在に擬人化されているという(箴言8章)(4)。

 箴言 8:22~ 「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先だって・・・」   創造の業に知恵が立ち会う場面とされる

 ヨブ記 38~41章 「主の声とヨブの答え」 ここでは、神は、「お前は何も知らないのに、わたしに答えてみよ」と言う。ヨブ記は義人の苦しみが中心テーマで、知恵文学とされるが、「対話」形式をとった教訓書で、一種の叙事詩ともいえる。

4 旧約聖書の創造信仰の要点

① 神話的性格は希薄である
② 神の絶対性
③ 無からの創造
④ 歴史に関わる神
⑤ 言葉による創造
⑥ 創造は恵みである

 創造信仰の特徴はこのように整理された。さらに言えば、創造信仰の中心は、③無からの創造論、⑤言葉による創造論 の二つに集約されるだろうが、実はともに神の恵みであるという視点が最も重要なのだという(5)。


 協会共同訳聖書

 


1 使徒の登場をもって預言者は登場しなくなる。預言者は「カリスマ」(賜物)を持つ者だが、偽予言者が後を絶たない。教会は、最後の使徒の死をもって預言者の登場は終わったとしている。以後の預言はすべて「私的預言」であり、「公的預言」ではないとされる(出現した聖母の預言など)。ムハンマドはイスラム教では最後の預言者と呼ばれ、イエスは預言者の一人として扱われているようだ。
 なお、カリスマ概念は、神からの賜物としての宗教的資源として用いるのではなく、一つの人格的威力として社会科学の用語としても用いられる。たとえば、『カリスマ』(C・リンドホルム 1990)など。ただ、社会学から見れば、リンドホルムのM・ヴェーバーの評価は少し辛すぎる。
2 ソロモンの統一王国は紀元前928年に分裂する。北イスラエル王国は10部族、南王国は2部族から成るユダ王国と呼ばれた。前722年に北イスラエル王国が、前587年に南王国が滅亡し、捕囚時代に入る。
3 ちなみに、50年にわたるイザヤの予言活動はすべてイザヤ書の最初の39章に納められているので、1~39章は「第一イザヤ」と呼ばれる。紀元前539年のバビロン捕囚の終焉前後の前6世紀の出来事を語る40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれ、捕囚を解放したペルシャ王キュロス2世の台頭が背景となっている。56~66章はは「第三イザヤ」と呼ばれ、紀元前520年に始まり、前515年に完成したエルサレムの神殿の再建を前提としている。
4 ギリシャ語では知恵は ソフィア sophia だ。新約聖書では知恵は歴史的にはイエスそのものであったから知恵を「ことば(ロゴス)」に置き換えて、神の受肉について語る。ちなみに、上智大学の上智はソフィア(知恵)という意味である(Sophia University)。上智大学が1956年まで男子校(女子は入れない)だったことをカト研の皆さんは覚えておられることだろう。現在はざっと7割が女子学生だという。上智のキャンパスには、クルトルハイムを除いて、昔日の面影はない。
5 創造信仰という言葉は聞き慣れないだろうが、聖書学ではよく使われる言葉のようだ。こういう形での創造信仰の要点の要約に関して、S氏の説明は簡単だったが、④と⑥についてはコメントされていた。
 ④の歴史に関わる神とは、神は人間の歴史に介入するということだと説明された。イエスの誕生のことを言っておられたのであろう。神は、遠くから世界をじっと見つめているのではなく、人間の歴史に直接介入してくるという視点はすぐれてキリスト教的な考え方であろう。
 また、⑥の創造は恵みという点に関しては、これは「グリーン主義の否定のことだ」と説明された。グリーン主義とはなにかははっきりは説明されなかったが、それを社会的公正と持続可能社会の実現を目指す思想と考えるなら、それは資本主義批判であり、脱石油・脱炭素を目指す環境主義と近い思想となる。現教皇フランシスコは環境主義者だと支持者からも批判派からも目されていることを考えると、なにかすっきりしない説明であった。「創造は恵み」説はむしろ、創造か進化か、という創造論と進化論の無益な対立を止揚する視点と理解したいところだ。この点は次回の教義史のところで再度取り上げてみたい。

 

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創造物語は二つある ー 創造論2(学び合いの会)

2022-05-25 10:00:18 | 神学


 創世記には二つの創造物語が並列されている。1章と2章はそのまま連続しているわけではない。

Ⅲ 旧約聖書

1 創世記

 聖書の創造物語は、神・人・自然の創造に関する教説の重要な典拠である。人は、創造の始原に立ち返り、自らの生存の意義を確認する。自分は何のために生まれてきたのか。どこに向かっているのか。創造物語の根底には強烈な救済論的志向がある。つまり、救済と選びの信仰がある。

 創世記には実は二つの創造物語が並列されている。一般にはあまり知られていない論点なので少し詳しく見ていこう。これを理解するには、たとえば創世記1章と2章の違いを理解するためには、聖書の交差配列や旧約聖書についての知識が必要になってくる。誰でも知っている話と言われればそれまでだが、前もって少し整理しておきたい。

 旧約聖書は一応紀元90年頃編纂されて成立したとされる。旧約聖書というのはキリスト教側からの呼称で、2世紀頃の初期キリスト教会がつけた名称のようだ。パウロや初期の福音書記者たちは当然この名称は知らないし、使っていない。ユダヤ教ではヘブライ語で書かれた聖典がまとめられたのはその頃(紀元1世紀頃)としているようだが、諸説あるようだ。最も古い書物は紀元前1500年頃というから古い(1)。
 
 その成立過程を見てみよう(2)。

【旧約聖書の成立過程】


 ギリシャ語訳聖書が多様な歴史的背景、地理的背景を持つことが解る。

 

 旧約39巻は普通4つに分けられる。①モーゼ5書 ②歴史書 ③知恵文学 ④預言書 の4部門だ(3)。
 旧約聖書の中でモーセ5書はユダヤ教のトーラーで、律法ともいわれる。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記からなる(4)。
 モーセ5書は、1000年以上にわたる伝承の保持の結果として歴史の中で生成されてきた。編集した人も、地域も、時代も異なるが、彼らは伝承を尊重しながらも、その中の事柄や言葉を、思想や解釈を絶対視しないで、保持してきたようだ。その意味でモーセ5書は矛盾に満ちた書であり、複雑な構造を持っているという。
 だが、そこにこめられた編集者の意図を見逃してはならない。例えば、1章と2章は重複し、関連性は見られないが、編集者はそれぞれの資料を切り捨てることが出来なかったと考えられる。二つの創造物語はこうして残されてきたのであろう。ここに、現代人の感性からすれば、矛盾、不可解、奇妙に見える表現や内容が見いだされるのは当然だが、全体を貫く編集者たちの意図と、信仰を忘れてはならないだろう。

 以下に挙げる口頭伝承は「資料仮説」と呼ばれる。モーセ5書が、旧約聖書が、書かれた背景、資料が複数あることを示している。この資料仮説そのものも広く受け入れられているわけではなく、批判もあるようだが、モーセ5書がなぜこれほど複雑なのかを示してくれるだろう。

 【口頭伝承】

①祭司資料(P資料) 創1:1~2-4a

 創世記は GENESIS  (ギリシャ語 γένεσις) と呼ぶ。創世記は1章の1の「初めに、神は天地を創造された」から始まる。2章の4aまで続き、「これが天地創造の由来である」と書かれている。これが第1の創造物語である。
 この由来という訳語は、新共同訳では「由来」、フランシスコ会訳では「経緯」、聖書協会訳では「次第」とされるが、ギリシャ語訳から来ている。
 創世記には、思想的には、申命記史家の契約思想、第二イザヤの救済論、エゼキエル書の「主の栄光」説などの影響がみられるという。
 また、歴史的に見れば、捕囚期後半のバビロンで成立したものとみられ、捕囚民への希望を伝える文書となっている。J資料(ヤーヴィスト資料)より新しく、後に追加されたもののようだ。
 メソポタミア神話「エヌマ・エリシア」との関連があると言われる。天の水の話(創1:7,詩148:4-6)、洪水の原因、生命の泉の話などだ。地は混沌という話も同じらしい(創1:10,ヨブ6:18,イザ24:10)。
 文学的には、章の構成はユダヤ人独特の「交差配列」で(5)、J資料に較べて整然とした洗練された文体だという。

②ヤーヴィスト資料(J資料) 創2:4b=3-24

 2章の4bは「主なる神が地と天を造られたとき・・・」から始まる。これは1章とは別の創造物語のようだ。
 J資料はP資料より古く、紀元前950年頃のもので、素朴であり、神を擬人化している点が特徴だという。天地の創造物語に加えて、原初の人間の物語がある。人祖とエデンの園の物語がある。土から作られた無価値で卑小な人間に、神は命の息を吹き込むという話だ。古代メソポタミアのリギガメシュ叙事詩でも、神は粘土で形作ったものに神の血や肉を混ぜて人間を作るが、神の生命を吹き込むということはないという。無からの創造という発想もないようだ。
 神はさらに女を作り、男女のパートナーシップが成立する。そして人間はすべての生物の名づけ主となり、神の代わりに、そして神のために、世界を管理する。人間のみが神と独自の関係を持つとされる(6)。



1 たとえば、古事記は712年、日本書紀は720年完成という。日本神話では天地開闢から日本列島の形成が語られるが、紀元前1500年代は日本は縄文時代でハード型土偶が流行っていた時代だ。

2 七十人訳とは70人訳ギリシャ語旧約聖書のこと。ヴルガダ訳ラテン語聖書は16世紀以降、カトリック教会の公認聖書となっている。
3 聖書は全66巻といわれるが、旧約39巻、新約27巻のことで、続編13巻は含んでいないようだ。日本語の新共同訳、協会共同訳には旧約聖書続編も含まれている。なお、聖書の各書の配列の順番は時系列順ではない。どういう経緯でこう言う配列で聖書が編纂されたかは聖書学の話になる。
4 創世記は天地創造の物語。出エジプト記はモーセがユダヤ人を率いてエジプトから脱出させる物語。レビ記は律法の細則集。レビとは人名、部族の名前。民数記とはイスラエルの2回にわたる人口調査に由来するが、中身は物語と律法の混合体である。申命記とは死を前にしたモーセがおこなった三つの長い説教が中心である。申命とは命令を改めて申し伝えるという意味のようだ。なお、歴史書では約束の地に到着してからのイスラエルの民の歴史が描かれる。知恵の書は箴言、詩篇、雅歌、ヨブ記、有名なコヘレトの言葉(昔の伝道の書)、人生の不条理を描くヨブ記などが含まれる。預言の書ではイザヤ書以下預言者が語った未来が語られる。おのおのにどの書が含まれるかは聖書をみていただきたい。
5 聖書の交差配列についてはかってこのブログで触れたことがある(2018年10月23日投稿)。
6 人間は自然の一部であるという考え方ではない。人間が手を加えない、伸び放題の山林を自然と呼ぶのか、それともきれいに管理された山林を自然と呼ぶのか。キリスト教の独特の自然観、人間観は長い歴史的背景を持つようだ。

 

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無からの天地創造説は珍しい ー 創造論(学び合いの会)

2022-05-23 21:41:57 | 神学


 5月の学び合いの会は久しぶりの五月晴れのもとに開かれた。会合にはマスクをしない人も数人おられ、コロナ禍も少しづつ落ち着き始めているようだ。

 今回からはいわゆる「神学的人間論」が取り上げられる。神学的人間論というのもわかりづらい表現だが、どうもカトリック神学の視点からの人間論という意味のようだ(1)。具体的には、創造論・原罪論・恩恵論・終末論を指し、さらに神論とマリア論を含むようだ。一言で言えば救済論のことのようだ。神学の中で言えば、教義学の中で(つまり実践神学以外で)キリスト論と教会論には含まれない領域を扱う幅広い分野を指すようだ。今回は創造論が取り上げられた。テーマとしては以下の通りだ。

1 概要
2 さまざまな創造神話
3 旧約聖書
4 新約聖書
5 聖書における人間観
6 教義史
7 結び

 細かく、専門的な議論が続くが(2)、私が理解しうる限りでの要約を試みたい。

Ⅰ 創造
  creatio(ラ) creation(英)Schöpfung独) creation(仏)

 創造とは、一切の世界に対する神の行為とわざを意味し、また、世界の神への全面的依存を理解しようとするテーマを指す(3)。創造論とは創造に対する神学的探究を意味する。それは自然科学が立証しようとする世界の形成や神化についての問いに対する答えではない。

 世界には、文化・歴史によって様々な創造論が「創造神話」という形で存在する。卵が割れて宇宙が誕生したとか、神が海から島をつり上げたとかいう神話だ。だが、キリスト教の創造論はまったく独自だ。他に例を見ない。キリスト教は、唯一の神による「無からの創造」を主張する。それは神の創造物に対する愛のわざであり、救済史と密接に関わっている。
 創世記では、天地創造に先立つ物質は何もなかったという。先立つと言うが、これは「時間」とは何かという問題にも関わるので改めて考えてみたい。

 創造論における以下に挙げる論点はどれも詳説が必要だが、ここでは主要な論点だけを指摘しておくにとどめたい。

①キリスト教の創造論は旧約聖書・新約聖書のいくつかの箇所に記されている。
②初代教会から現代に至るまで多くの神学者によって創造論が考察されてきた。古代中世においては、ギリシャ哲学やグノーシス主義などの思想に対する議論がなされた。
③近代においては、自然科学との対立という形をとった。地動説のガリレオ批判や進化論の問題などだ。だが現代カトリック教会においてはこれらの問題、すなわち自然科学との対立は解消されている。
④現在は創造論に関係する問題として環境問題が論じられている。創世記の記述は果たして環境破壊的なのか、それとも環境保護的なのか、という論争である。現教皇フランシスコは環境保護を強く主張しておられる。
⑤創造論はすでに触れたように原罪論と恩恵論に密接に関係する。これらは神学的人間論と総称され、教義学の一部をなしている。


システィナ礼拝堂(ミケランジェロの天地創造)

 

 

Ⅱ さまざまな創造神話

 古代人は身近な現象から世界や人間の起源を類推して、創造物語を作った。そこには似通ったいくつかの物語の共通のパターンがある。

①創造神の意志による創造:旧約聖書の創世記が典型。無からの創造が主張される。
②原人(世界巨人)の死体からの創造(死体化生説):アッカド(マルドクによるティアマト殺害)(4)、インド(プルシア)(5)、中国(盤古)(6)
③宇宙卵からの創造:フィンランドの神話(カレワラ)(7)、ギリシャ(オルフェウス教)(8)
④世界の両親による創造:日本の記紀神話(いざなぎ・いざなみ)(9)
⑤進化型:東南アジア(洪水の後の生物が出現した)
⑥海の底の泥による創造:シベリア

 旧約聖書の世界像は、アッカドのものと類似している。天・地・水の3分割などはアッカドの創世叙事詩に近いという。「エヌマ・エリシア」の影響もあるという(10)が、同一ではないという。キリスト教の創世記は無からの創造を唱えている点で異なるという。



1 光延一郎『神学的人間論入門ー神の恵みと人間のまこと』 教友社、2010
2 基本的には小笠原優師が東京カトリック神学院で講じておられる講義の一部のようだ。哲学が終わって神学課程に入った神学生向けの話のようだ。昔は哲学2年神学4年といって医学部と同じ課程だったようだが現在の態勢はわからない。中世には医学部も神学部の一部だった名残かもしれない。
3 創造の定義は辞書により(つまり寄稿者により)強調点が異なる。カトリックでもプロテスタントでも共通するのは、①無からの創造と、②言葉による創造 を区別している点だ。これはまた、①宇宙の創造と、②人間の創造 の区別でもある。これは、創世記の1章と2章が別の創造・誕生物語を語っているからであろう。創造論は神の人間および世界に対する関係を論ずるもので、プロテスタント神学では神の能動的行為としての創造と受動的な創造のわざとしての被造物を区別し、被造物としての人間の自己理解を強調する傾向があるようだ。
4 アッカドとはメソポタミア(現在のイラク)をしめるバビロニアの北半分の地域をさす。マルドクとはバビロニアの最高神で、敵のティアマト殺害のなかで天地の創造が語られるという。天と地はマルドクが分離したのだという
5 プルシアとはインド神話の神のことらしいが、詳しいことは解らない
6 盤固とは古代中国で天地を開闢した神の名前のことをいうようだ
7 カレワラとはフィンランドの民族的な叙事詩 一種の英雄譚でフィンランドの至高の古典とされる
8 オルフェウス教とはオルフェウスを創始者とする古代ギリシャの宗教。なお、「卵生神話」は世界各地で見られるという。
9 イザナギ・イザナミは古事記が語る国産み物語に登場する日本最古の夫婦神。高天原の神から生まれ、日本列島を作ったとされる。
10 エヌマ・エリシアまたはエヌマ・エリシュとは、バビロニア神話の創世記叙事詩のこと。マルドク神が中心らしい。

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