「学び合いの会」では、2016年10月24日は、前回の「ヨハネ福音書が神学に与えた影響」に続いて、「ヨハネ福音書のプロローグ」が紹介されました。前回の話は、ヨハネ福音書は結局は「ロゴス・キリスト論」(ロゴス=キリスト)であるというものでした。それは、いわば「上から目線」のキリスト論とはいえ、カトリック神学の骨格をなしている、という説明でした。ということで、それではヨハネ福音書の「プロローグ」(「序」の第一章1-18節、賛歌1・2・3)をきちんと読んでみよう、というわけです。
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
これは、新約聖書のなかで最も有名な、最も人口に膾炙した文言だろう。聖書を読んだことがなくとも、この文言を聞いたことのない人はいないのではないか。この文言を読み、味わうことは、クリスチャンの最大の喜びであろう。と同時に苦しみの種にもなる。なぜなら、ヨハネ福音書を理解するためには旧約聖書の知識が不可欠だからだ。
ヨハネの賛歌は初代教会で用いられた賛歌だったようで、「プロローグ」としての賛歌は3つの部分に分かれている。賛歌1は1~5節、賛歌2は9~14節、賛歌3は16~18節、で、途中1:6~8、1:15に洗礼者ヨハネの紹介・説明が入っているが、これは賛歌ではないようだ。第19節からは第一部「徴の書」が12章50節まで続き、第二部「栄光の書」は第13章から20章まで続く。そして第21章が「エピローグ」となる。つまり、ヨハネ福音書には最終章が二つあるとされる所以だ。第20章の最後の章と、エピローグとしての第21章である。
賛歌1からみてみよう。1-1はプロローグ中のプロローグで、特別な節だ。旧約は(殆どが)ヘブライ語で書かれ、新約は(殆どが)ギリシャ語で書かれたので、ギリシャ語をみてみよう。といってもわかるわけではないが。
Greek en arch hn o logoV kai o logoV hn proV ton qeon kai qeoV hn o logoV
Greek ?ν ?ρχ? ?ν ? λ?γο?, κα? ? λ?γο? ?ν πρ?? τ?ν θε?ν, κα? θε?? ?ν ? λ?γο?.
「初めに」は「この世の初めに」というよりは、旧約聖書創世記1-1にあるように、「聖書の初めに」という意味が込められているという。創1-1は「初めに、神は天地を創造された」〈共同訳)となっている。
「言があった」の「ことば」はロゴスの訳語だ。ロゴスには二重の意味が込められているようで、一方では言葉、発言、物語などと訳され、他方、理性・原理・法則などと訳される。ギリシャ語以外の言語でこの二重の意味を一語で表現することは難しいようだ。つまり、これはギリシャ哲学のメインテーマだ。旧約でいえば知恵文学のテーマで、第二正典の「知恵の書」などが思い起こされるようだ(第二正典は、外典、アポクリファ などと呼ばれる。偽典を含むこともある。日本語の共同訳ではプロテスタント側の意向で「続編」と呼ばれるが、カトリックとしてはあまり居心地の良い名称ではない。そのうえ、旧約続編つき・引照つきの新共同訳聖書が高価なのも困りものだ)。
1-1で特に興味深いのは「定冠詞」の使い分けだという。「言葉は神と共にあった」の「ことば」は定冠詞つきで、「言葉は神であった」の「ことば」は定冠詞がついていない。したがって他の言語への訳は難しいようだ。
そこで他言語での訳をちょっと見てみよう。
ラテン語 In principio erat Verbum,et Verbum erat apud Deum,et Deus erat Verbum
英語 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
ドイツ語 Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und das Wort war Gott.
日本語はどうだろう。
バルバロ訳 はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった。
新共同訳 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
フランシスコ会訳 初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。
私の手元にある聖書ですらこうなのだから、「ことば=ロゴス」の解釈は素人の私には手が出ない。これらの福音書が書かれた当時はまだ三位一体の教義が確立されていないために、三位一体の明示的な表現は見いだせないのであろう。三位一体の教義が確立するのが第一コンスタンチノポリス公会議(381)だとすれば、300年近く昔に書かれた文書なのだ。
1-2は「先在のキリスト論」、1-3は「創造論」、1-4は「言・光・命としてのキリスト論」、1-5は「光と暗闇 論」で、一節ずつゆっくり味わいたい。
さて、賛歌2である。1:9~12は「最小のイエス伝」と呼ばれるようで、イエスの生涯を最も簡潔に述べているのだという。紹介者のS氏は仏教の「般若心経」のように簡潔で力強い賛歌だと説明されたが、至極名言だと思った。といっても、この節に、当時のヨハネ教団とイエスの周りに集まったグループとの微妙な関係を読み取る聖書学者もいるようで、別の読み方があると言うことなのだろう。1:14は「受肉」論で、この賛歌のクライマックス部分だ。「サルクス」を日本語では「肉」と訳しているが、サルクスはギリシャ哲学の精神と肉体の二元論の意味での肉ではなく、肉体と霊魂を備えた人間そのものという意味だ。なにか別の訳語が欲しいところだが、ESV版聖書では flesh と訳されており、GoodNewsBibleでは a human being と訳されている。「肉となって」とは「イエスは本当の人間になった」という意味だ。「宿られた」も「契約の箱を納めた幕屋を張った」ということのようだが、ESVでは dwelt among us であり、GoodNewsBibleだと lived among us となっている。ドイツ語では、(das Wort) hat unter uns gewohnt だ。dwell とか live とか「宿られた」という表現で、「神の臨在」とか、「神殿」が含意しうるかどうか、私にはわからない。
賛歌3を見てみよう。1:16~18はイエスの地上での生涯を賛美し、1:17はモーゼとイエスを比較する。イエスは第二のモーゼであるという命題だ。1:18はモーゼですら神を直視しなかったのだから、神を見た人はいないという。イエスが神であることを宣言しているわけだ。ここは明示的ではないが三位一体の秘儀を含意しており、やがて確立される三位一体論がこのヨハネ福音書に大きく依存していることを示しているという。
ロゴスの賛歌、これがヨハネ福音書の思想的基盤であり、この基盤の上にキリスト論が展開される。これがこの福音書の特徴だという。
紹介者S氏も熱の入った説明で、聖書を皆で一緒に読んで味わうという喜びを共有できた。小難しい神学や聖書の話も結局は我我の信仰を深めるものでなければ、何の役にも立たない。良き学びあいの会の一日であった。
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
これは、新約聖書のなかで最も有名な、最も人口に膾炙した文言だろう。聖書を読んだことがなくとも、この文言を聞いたことのない人はいないのではないか。この文言を読み、味わうことは、クリスチャンの最大の喜びであろう。と同時に苦しみの種にもなる。なぜなら、ヨハネ福音書を理解するためには旧約聖書の知識が不可欠だからだ。
ヨハネの賛歌は初代教会で用いられた賛歌だったようで、「プロローグ」としての賛歌は3つの部分に分かれている。賛歌1は1~5節、賛歌2は9~14節、賛歌3は16~18節、で、途中1:6~8、1:15に洗礼者ヨハネの紹介・説明が入っているが、これは賛歌ではないようだ。第19節からは第一部「徴の書」が12章50節まで続き、第二部「栄光の書」は第13章から20章まで続く。そして第21章が「エピローグ」となる。つまり、ヨハネ福音書には最終章が二つあるとされる所以だ。第20章の最後の章と、エピローグとしての第21章である。
賛歌1からみてみよう。1-1はプロローグ中のプロローグで、特別な節だ。旧約は(殆どが)ヘブライ語で書かれ、新約は(殆どが)ギリシャ語で書かれたので、ギリシャ語をみてみよう。といってもわかるわけではないが。
Greek en arch hn o logoV kai o logoV hn proV ton qeon kai qeoV hn o logoV
Greek ?ν ?ρχ? ?ν ? λ?γο?, κα? ? λ?γο? ?ν πρ?? τ?ν θε?ν, κα? θε?? ?ν ? λ?γο?.
「初めに」は「この世の初めに」というよりは、旧約聖書創世記1-1にあるように、「聖書の初めに」という意味が込められているという。創1-1は「初めに、神は天地を創造された」〈共同訳)となっている。
「言があった」の「ことば」はロゴスの訳語だ。ロゴスには二重の意味が込められているようで、一方では言葉、発言、物語などと訳され、他方、理性・原理・法則などと訳される。ギリシャ語以外の言語でこの二重の意味を一語で表現することは難しいようだ。つまり、これはギリシャ哲学のメインテーマだ。旧約でいえば知恵文学のテーマで、第二正典の「知恵の書」などが思い起こされるようだ(第二正典は、外典、アポクリファ などと呼ばれる。偽典を含むこともある。日本語の共同訳ではプロテスタント側の意向で「続編」と呼ばれるが、カトリックとしてはあまり居心地の良い名称ではない。そのうえ、旧約続編つき・引照つきの新共同訳聖書が高価なのも困りものだ)。
1-1で特に興味深いのは「定冠詞」の使い分けだという。「言葉は神と共にあった」の「ことば」は定冠詞つきで、「言葉は神であった」の「ことば」は定冠詞がついていない。したがって他の言語への訳は難しいようだ。
そこで他言語での訳をちょっと見てみよう。
ラテン語 In principio erat Verbum,et Verbum erat apud Deum,et Deus erat Verbum
英語 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
ドイツ語 Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und das Wort war Gott.
日本語はどうだろう。
バルバロ訳 はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった。
新共同訳 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
フランシスコ会訳 初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。
私の手元にある聖書ですらこうなのだから、「ことば=ロゴス」の解釈は素人の私には手が出ない。これらの福音書が書かれた当時はまだ三位一体の教義が確立されていないために、三位一体の明示的な表現は見いだせないのであろう。三位一体の教義が確立するのが第一コンスタンチノポリス公会議(381)だとすれば、300年近く昔に書かれた文書なのだ。
1-2は「先在のキリスト論」、1-3は「創造論」、1-4は「言・光・命としてのキリスト論」、1-5は「光と暗闇 論」で、一節ずつゆっくり味わいたい。
さて、賛歌2である。1:9~12は「最小のイエス伝」と呼ばれるようで、イエスの生涯を最も簡潔に述べているのだという。紹介者のS氏は仏教の「般若心経」のように簡潔で力強い賛歌だと説明されたが、至極名言だと思った。といっても、この節に、当時のヨハネ教団とイエスの周りに集まったグループとの微妙な関係を読み取る聖書学者もいるようで、別の読み方があると言うことなのだろう。1:14は「受肉」論で、この賛歌のクライマックス部分だ。「サルクス」を日本語では「肉」と訳しているが、サルクスはギリシャ哲学の精神と肉体の二元論の意味での肉ではなく、肉体と霊魂を備えた人間そのものという意味だ。なにか別の訳語が欲しいところだが、ESV版聖書では flesh と訳されており、GoodNewsBibleでは a human being と訳されている。「肉となって」とは「イエスは本当の人間になった」という意味だ。「宿られた」も「契約の箱を納めた幕屋を張った」ということのようだが、ESVでは dwelt among us であり、GoodNewsBibleだと lived among us となっている。ドイツ語では、(das Wort) hat unter uns gewohnt だ。dwell とか live とか「宿られた」という表現で、「神の臨在」とか、「神殿」が含意しうるかどうか、私にはわからない。
賛歌3を見てみよう。1:16~18はイエスの地上での生涯を賛美し、1:17はモーゼとイエスを比較する。イエスは第二のモーゼであるという命題だ。1:18はモーゼですら神を直視しなかったのだから、神を見た人はいないという。イエスが神であることを宣言しているわけだ。ここは明示的ではないが三位一体の秘儀を含意しており、やがて確立される三位一体論がこのヨハネ福音書に大きく依存していることを示しているという。
ロゴスの賛歌、これがヨハネ福音書の思想的基盤であり、この基盤の上にキリスト論が展開される。これがこの福音書の特徴だという。
紹介者S氏も熱の入った説明で、聖書を皆で一緒に読んで味わうという喜びを共有できた。小難しい神学や聖書の話も結局は我我の信仰を深めるものでなければ、何の役にも立たない。良き学びあいの会の一日であった。