カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「ヨハネ福音書のプロローグ」 学びあいの会 2016年10月例会

2016-10-25 10:06:32 | 神学
 「学び合いの会」では、2016年10月24日は、前回の「ヨハネ福音書が神学に与えた影響」に続いて、「ヨハネ福音書のプロローグ」が紹介されました。前回の話は、ヨハネ福音書は結局は「ロゴス・キリスト論」(ロゴス=キリスト)であるというものでした。それは、いわば「上から目線」のキリスト論とはいえ、カトリック神学の骨格をなしている、という説明でした。ということで、それではヨハネ福音書の「プロローグ」(「序」の第一章1-18節、賛歌1・2・3)をきちんと読んでみよう、というわけです。

初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。

 これは、新約聖書のなかで最も有名な、最も人口に膾炙した文言だろう。聖書を読んだことがなくとも、この文言を聞いたことのない人はいないのではないか。この文言を読み、味わうことは、クリスチャンの最大の喜びであろう。と同時に苦しみの種にもなる。なぜなら、ヨハネ福音書を理解するためには旧約聖書の知識が不可欠だからだ。
 ヨハネの賛歌は初代教会で用いられた賛歌だったようで、「プロローグ」としての賛歌は3つの部分に分かれている。賛歌1は1~5節、賛歌2は9~14節、賛歌3は16~18節、で、途中1:6~8、1:15に洗礼者ヨハネの紹介・説明が入っているが、これは賛歌ではないようだ。第19節からは第一部「徴の書」が12章50節まで続き、第二部「栄光の書」は第13章から20章まで続く。そして第21章が「エピローグ」となる。つまり、ヨハネ福音書には最終章が二つあるとされる所以だ。第20章の最後の章と、エピローグとしての第21章である。

 賛歌1からみてみよう。1-1はプロローグ中のプロローグで、特別な節だ。旧約は(殆どが)ヘブライ語で書かれ、新約は(殆どが)ギリシャ語で書かれたので、ギリシャ語をみてみよう。といってもわかるわけではないが。

Greek en arch hn o logoV kai o logoV hn proV ton qeon kai qeoV hn o logoV
Greek ?ν ?ρχ? ?ν ? λ?γο?, κα? ? λ?γο? ?ν πρ?? τ?ν θε?ν, κα? θε?? ?ν ? λ?γο?.

「初めに」は「この世の初めに」というよりは、旧約聖書創世記1-1にあるように、「聖書の初めに」という意味が込められているという。創1-1は「初めに、神は天地を創造された」〈共同訳)となっている。
「言があった」の「ことば」はロゴスの訳語だ。ロゴスには二重の意味が込められているようで、一方では言葉、発言、物語などと訳され、他方、理性・原理・法則などと訳される。ギリシャ語以外の言語でこの二重の意味を一語で表現することは難しいようだ。つまり、これはギリシャ哲学のメインテーマだ。旧約でいえば知恵文学のテーマで、第二正典の「知恵の書」などが思い起こされるようだ(第二正典は、外典、アポクリファ などと呼ばれる。偽典を含むこともある。日本語の共同訳ではプロテスタント側の意向で「続編」と呼ばれるが、カトリックとしてはあまり居心地の良い名称ではない。そのうえ、旧約続編つき・引照つきの新共同訳聖書が高価なのも困りものだ)。

1-1で特に興味深いのは「定冠詞」の使い分けだという。「言葉は神と共にあった」の「ことば」は定冠詞つきで、「言葉は神であった」の「ことば」は定冠詞がついていない。したがって他の言語への訳は難しいようだ。
そこで他言語での訳をちょっと見てみよう。

ラテン語 In principio erat Verbum,et Verbum erat apud Deum,et Deus erat Verbum
英語   In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
ドイツ語 Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und das Wort war Gott.

日本語はどうだろう。

バルバロ訳 はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった。
新共同訳 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
フランシスコ会訳 初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。

私の手元にある聖書ですらこうなのだから、「ことば=ロゴス」の解釈は素人の私には手が出ない。これらの福音書が書かれた当時はまだ三位一体の教義が確立されていないために、三位一体の明示的な表現は見いだせないのであろう。三位一体の教義が確立するのが第一コンスタンチノポリス公会議(381)だとすれば、300年近く昔に書かれた文書なのだ。
1-2は「先在のキリスト論」、1-3は「創造論」、1-4は「言・光・命としてのキリスト論」、1-5は「光と暗闇 論」で、一節ずつゆっくり味わいたい。

 さて、賛歌2である。1:9~12は「最小のイエス伝」と呼ばれるようで、イエスの生涯を最も簡潔に述べているのだという。紹介者のS氏は仏教の「般若心経」のように簡潔で力強い賛歌だと説明されたが、至極名言だと思った。といっても、この節に、当時のヨハネ教団とイエスの周りに集まったグループとの微妙な関係を読み取る聖書学者もいるようで、別の読み方があると言うことなのだろう。1:14は「受肉」論で、この賛歌のクライマックス部分だ。「サルクス」を日本語では「肉」と訳しているが、サルクスはギリシャ哲学の精神と肉体の二元論の意味での肉ではなく、肉体と霊魂を備えた人間そのものという意味だ。なにか別の訳語が欲しいところだが、ESV版聖書では flesh と訳されており、GoodNewsBibleでは a human being と訳されている。「肉となって」とは「イエスは本当の人間になった」という意味だ。「宿られた」も「契約の箱を納めた幕屋を張った」ということのようだが、ESVでは dwelt among us であり、GoodNewsBibleだと lived among us となっている。ドイツ語では、(das Wort) hat unter uns gewohnt だ。dwell とか live とか「宿られた」という表現で、「神の臨在」とか、「神殿」が含意しうるかどうか、私にはわからない。

賛歌3を見てみよう。1:16~18はイエスの地上での生涯を賛美し、1:17はモーゼとイエスを比較する。イエスは第二のモーゼであるという命題だ。1:18はモーゼですら神を直視しなかったのだから、神を見た人はいないという。イエスが神であることを宣言しているわけだ。ここは明示的ではないが三位一体の秘儀を含意しており、やがて確立される三位一体論がこのヨハネ福音書に大きく依存していることを示しているという。
ロゴスの賛歌、これがヨハネ福音書の思想的基盤であり、この基盤の上にキリスト論が展開される。これがこの福音書の特徴だという。
 紹介者S氏も熱の入った説明で、聖書を皆で一緒に読んで味わうという喜びを共有できた。小難しい神学や聖書の話も結局は我我の信仰を深めるものでなければ、何の役にも立たない。良き学びあいの会の一日であった。

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神学講座 「三位一体の神」J・ラッツインガー『イエス・キリストの神』(その2)

2016-10-03 17:34:58 | 神学
 神学講座は2016年10月3日はベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察』(2011)の第一章「神」第2節「三位一体の神」に入りました。曇り空とはいえまれに見る盛況で24名の方が参加しておられました。といっても殆どがご婦人方でした。当然H神父様の口は滑らかでした。
 本節はタイトルが三位一体という難物なので神父様がどう説明されるか興味がありましたが、神父様は冒頭、聖書には、文学的で日本語として美しい言葉・表現が少ないので毎月の聖句(教会入り口の掲示板に載せるもの)の取り出しには苦労する、という話から始められました。聖書の表現がまだ日本語になりきっていない、または、聖書(の訳文)は日本語を変えるほどはインパクトを持ち得ていない、のが実情だから、神父様のご苦労ももっともなものだと妙に納得させられました。この関連で、神父様は池田昌樹氏の詩集『手から、手へ』を紹介されました。そしてある長文の詩を朗読されました。最初と最後だけ引用すると


やさしいちちと
やさしいははとのあいだにうまれた
おまえたちは
やさしい子だから
おまえたちは
不幸な生をあゆむだろう



このちちよりも
このははよりもとおくから
射し込んでくる
一条の
ひかりから眼をそむけずにいよ

 池田氏はクリスチャンではないようだが、この殆ど全文ひらがなの詩は、キリスト教のおしえを唱っているとも読め、しかも日本語として美しい。発音すると響きが美しい。コーランはアラビア語で唱和すると美しいという。ラテン語の聖書もおそらく唱えれば美しいのだろう。日本語の聖書はまだそこまでいっていない。神父様はよほどこの詩集を気に入られたようだ。神父様は絵を描かれるが、詩も書かれているのかもしれない。
 さて、本論である。ラッティンガーは「三位一体論論争は概念の墓場である」と言うくらいだから、ヒュポスタス、ペルソナ、ホモウーシオスなどのキー概念論には入らない。三位一体論論争はもともとはおもに東方教会でなされ、アウグスチヌスによって完成・定式化されたというのが定説のようだが、ラッティンガーはこういう概念論や歴史論には入っていかない。これは一つの賢い選択だと思った。
 かれは、三位一体を説明するために、前節で取り上げた「神はある」という命題から始める。そして5つの側面から説明を加えていく。強引にカテゴリー的に整理してしまえば、「神はある」とは、①「神神」は「神」ではない、地位・名誉・権力などの偶像を崇拝してはならない ②地上的には無価値でも、真理と正義に価値を認めること ③われわれは神の被造物である ④「ある」とは現実のことで、現在であり、過去のことではない ⑤神は三位一体の神としてある。
 ここから、ラッティンガーは「神の似姿」論を始める。「人間は、父として、母として、子として、神の似姿なのです」。具体的には「父性」論を始める。「父」を論じることは「子」を論じることと同じなので「キリスト論」もでてくるが、力点は「父」に置かれる。そして「聖霊」論は改めて別のところで論ずる、として本節では取り上げられない。これはこれでおゃっと思わせる配列だが、ラッティンガーの持論なのであろう。
 ラッティンガーは現代の危機の一つを「父性論」の欠如に見ているようだ。「父性の危機は、わたしたちにとって脅威的な人間性の危機の核心をなしています」という。父性とは、結局、他者に対する責任のことだという。他者を支配するのではなく、他者を自己実現へと促す責任のことをいうと述べる。ジェンダー論が支配的な現代にこういう父性論がどう位置づけられるのかはまた別の考察を必要とするだろうが、三位一体論のなかでこういう父性論はラッチンガーの昔からの持論らしく、説得力がある。とはいえ、これが母性論にまで展開されないのが残念であった。
 「神」を「父」と呼ぶとき、現代では 神は、父は、ギリシャの神ゼウスのように、権威的で、強権的で、恣意的で、独裁的なものとして受け取られる。まるで人間の父の写し絵のようだ、という。そして父親像の拒否の代わりに「兄弟愛」が熱狂的に受け入れられる。しかしラッティンガーはそれはおかしいという。兄弟愛へののめり込みはカインとアベル、ロムルスとレムスのようなものだという。父性を回復すること、または正しい父性の理解を手に入れること、これが必要だとラッティンガーは言いたいようだ。
 父性は信頼できる、とは何を根拠にして言えるのか。本当に子は父を信頼できるのか。イエスは、といっても良いし、わたしたちは、と言っても良いだろう。ラッチンガーは、父はキリストを与えることでその信頼の「実例」を示したという。そもそも「子」がいなければ「父」はいない。いる必要がない。父は子であるイエスを通して知ることができる、と述べる。ここから、「子イエス」論が展開される。具体的には、イエスと父とのコミュニケーションは「祈り」という形でなされる。われわれは、このイエスの祈りに参加することによって、イエスの生き方に入っていくことによって、「神の子となる、神となる」という。「神になる」とは随分大胆な表現だとは思うが、イエスを通してしか父には近づけないということなのであろう。
 講話の最後は洗礼が取り上げられる。幼児洗礼は「人間の自由の侵害であり、、、、押しつけ」なのか、と問う。信仰は恵みではなく、重荷なのか。ラッチンガーは「わたしたちが生まれたとき、、、、言葉、時代、考え方、価値基準、その他多くのものが前もって与えられたのでした」という。こういう前提条件なしの人生はあり得ない。そして(幼児)洗礼もそういう前提条件のひとつだという。人生に前提条件をつけることは許されるのか。ラッティンガーはいう。「それが許されるのは、人生自身が良しと是認され得る場合、地上的なあらゆる恐怖、不安を超える希望によって人生自身が担われている場合のみなのです」。こういう説明はちょっとヨーロッパ的過ぎるし、神父様もいろいろ言いたいことがあるようであった。社会学には生得的属性・獲得的属性という地位属性論があるが、幼児洗礼を生得的属性と言われるとエッと言いたくなる。とはいえ、ラッティンガーの論点は、洗礼は重荷ではなく恵みであると言うことを理解せよ、ということなのであろう。 本節は神学論ではないし、話もあちこち飛びすぎている感があるが、お説教としては、講話としては、聞いていて面白いと思う。ラッティンガーの思考の流れがわかるような気がした。ちなみに、ラッティンガーが教皇ベネディクト16世の時におこなった連続講話はその多くがペテロ文庫で日本語に訳されている。『使徒』『教父』『中世の神学者』『イエスの祈り』など。どれも講話なので読みやすいし、文庫本なのがうれしい。
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