カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

喜びの日か鎮魂の日か ー 被昇天の祝日に想う

2024-08-15 17:40:00 | 教会


 今日八月十五日はカトリック信者にとっては複雑な日だ。聖母の被昇天の祝日であり、終戦記念日であり、お盆の日でもある。

 今日のごミサでは神父様は白の祭服を着る。聖櫃も祭壇も説教台も白色で覆われる。白は喜びの色だ。お祝いなのである。挨拶をするとするなら「おめでとうございます」なのだ。
 今日のごミサは多くの方が参列された。普段の日曜日のミサと変わりないくらいの出席者の数だった。この異常な酷暑の中、高齢者がこれだけ集まるのだから、被昇天の祝日の重要性がわかる。聖母の被昇天の祝日は、教会ではイースター、クリスマスについて3番目に重要な日なのである。

 今日の福音書朗読はルカ1:39~56だった。マリアがエリザベトを訪ねるシーンだ。マリア崇敬の中核部分で、よく知られている箇所だ。神父様はお説教でマリアとエリザベトを対比させながら、「なぜマリアが最初に挨拶したのか」と問われた。普通に考えれば、まずエリザベトが最初に挨拶しても良さそうなのに、ということだ。神父様はマリアの従順ということをおっしゃりたかったのだろうが、話があちこちに飛んでしまったのは残念だった。神父様もマリア様についていろいろと話したいことがおありだったようだ。今日がお盆の日であり、同じ時間帯に戦没者追悼式が催されていることに触れられることはなかった。

 同じような感想を数年前のブログで投稿したことがある(1)。この時はコロナ禍の最中だったので、ブログのトーンに明るさはない。現在はコロナ禍をなんとか乗り切ったという安心感が勝っている。今日のミサは力強いものであり、神父様のお説教も励ましの言葉であった。鎮魂の日が同時に喜びの日でもあることの意味をかみしめたい。

【祭壇の白】

 


1 「被昇天祭と終戦記念日 ー 「主よ、どうかお助けください」 (2020-08-16)

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香部屋 ー 入ったことありますか

2024-07-29 10:31:33 | 教会


 私どもの教会の月報(第402号)に典礼係から貴重な投稿があった。タイトルは「典礼奉仕について」となっており、主に香部屋と祭壇の準備についての説明であった。祭壇はいつも見慣れてはいても細部はよくわからないことが多い。また、香部屋は侍者をしたことがなければほとんどの方は入ったことがないのではないか。祭壇はどこの教会でも同じだが、香部屋の内装は教会の個性が出てくるところだ。少しこの投稿を紹介してみたい。

 まず香部屋だが、聖具室とか祭具室とか呼ぶこともあるそうだが、わたしは香部屋以外聞いたことがない。祭壇に接して設けられている教会が多いようだが、祭壇から離れたところにある場合もあるようだ。大きさも様々らしい(1)。

 香部屋はさまざまな収納や保存機能をもつが、基本は神父様の祭服の用意をする場所だ。典礼係はその日の典礼色に合わせて、神父様が重ねて着用される祭服を、着る順番に準備台にたたんで置いておくという。
 ここでは典礼色のチェックが大事だ。聖櫃のカバーの色、朗読台の十字架の布の色、祭服の色、はいつも同じものにする。典礼係が一番気を遣うところだろう。

 では、典礼色には何種類あるのだろうか。基本は5種類だそうです(2)。

白色 :神の栄光・勝利・復活・喜び・清らかさの象徴
 待降節、復活節、主な祝祭日、洗礼・堅信・初聖体・結婚の儀式で用いられる
赤色 :火と血の象徴 火は聖霊で、聖霊降臨の主日に用いられる 血は命まで捧げ尽くす愛の象徴、主の受難の主日・聖金曜日・殉教者の祝祭日に用いられる
緑色 :成長する新芽の色で、天国への旅路を導く希望を意味する  通常の「年間」の主日に用いられる
紫色 :回心・節制・悲しみを表す色で、待降節・四旬節・ゆるしの秘跡・葬儀・死者のためのミサで用いられる
ばら色 :控えめな喜び・待つ喜びを表す 待降節第3主日・四旬節第四主日に用いることができる

 「年間」の緑色が一番なじみがある色だろう。司祭がほかの色の祭服を着てお聖堂に入ってくると、「そうか」ということで典礼暦年や祝祭日を思い起こすことになる。

 つぎは、祭服の話だ。司祭はミサの時、何枚の祭服を重ねて着ているのだろうか。

 普段はカラーもつけない司祭が増えているのでわかりずらいが、なんと4枚も重ね着をしているという。

アミクトス まず首の周りに着ける 肩衣と訳すこともあるらしい
アルバ 白い祭服を着る
ストラ 当日の典礼色に合わせた色のストラを着る
カズラ 幄衣(あくい)ともいうらしいが聞いたことはない 合羽みたいなもの 色はストラと同じ

 どれもラテン語そのままで覚えづらいが、教会内では日常的に使われる用語だ。祭服を4枚も着ると結構重いし、夏は暑いことだろう。仏教のお坊さんの衣(外側の袈裟 内側の法衣)の方が涼しそうだ。

 続いて、祭壇の説明があった。大事なのは、聖櫃の鍵、チボリウム、ホスチア だろうが、説明は、祭壇をカバーする布、ローソク、祭器具について詳しくなされた。一部を簡単に要約してみたい。

①祭壇布 祭壇をカバーする布 高価なものらしい
②ローソク ローソクは現在は左右二本づつ計4本置かれている(司教ミサでは計7本)(3)
③祭壇 祭壇中央には十字架が置かれ、書見台のうえにミサ典礼書が置かれる(4)
④祭壇右脇の祭器具 これらは侍者をやらないとミサに与っている信徒からはよく見えないので知っておく必要がある

 カリス ぶどう酒を入れる杯 カリス拭き(プリフィカトリウム)が上に載っている
 パテナ 司祭が用いる大きめのホスチアを載せる受け皿 パラ という四角い固めの板状のものが上に載っている異物が入らないようにするための蓋のようなもの
 コルポラーレ 白い大きな麻布 パテナからこぼれたパンやカリスからこぼれた御血(ぶどう酒)を保護する(5) 聖櫃の鍵もここに置かれる

 つまり、上から順番でいえば、パラ・パテナ・プリフィカトリウム・カリス・コルポラーレ となる。

 手洗い容器の水と手拭き(手ぬぐいのようなもの)の用意も典礼係の仕事のようだ。侍者が一人の場合は同時に用意するので侍者は慎重になるようだ。侍者がいない場合は司祭はさらに慎重になるようだ。

 これらもラテン語で覚えづらいが、カリス・チボリウム・ホスチアは信者ならだれでも聞いたことがあるだろう。

 信徒にとって一番大事なのは、ホスチア(御聖体 パン)とチボリウム(信徒用の小さいホスチアを入れる蓋付きの器)だ。チボリウムは普段は聖櫃に安置されているが、ホスチアの準備や用意は大変なようだ(6)。

 ぶどう酒入れ水入れも典礼係の仕事のようだ。水は信徒であり、ぶどう酒はキリストなので、ミサではぶどう酒の中にごく少量の水を注ぐことになっている(7)。

 聖水盤の水の管理も典礼係の仕事のようだ。コロナが終わって聖水盤の使用が復活し始めているようだ(8)。


 このように、今回の典礼係の投稿はいろいろ学ぶことが多かった。典礼といっても、クリスマス、聖週間、洗礼式、葬儀などではまた別の準備が必要なようだ。ミサは、香部屋係だけではなく、聖歌隊、オルガニスト、朗読者、先唄(さきよみ)など多くの方の協力で挙げられていることがよくわかった。典礼係には心から感謝したい。



1 私は侍者の経験は多くはないが、上智大学のクルトゥルハイムの香部屋は大きくて立派だった記憶がある。

【香部屋の例】(クルトゥルハイムではない)

 

 

2 祭服の種類や色は「ローマ・ミサ典礼書 総則」(346条)に規定されているという。正教会やプロテスタント教会では異なるようだ。また黒色のように時代とともに使われなくなる色もあるようだ。

【典礼色】(八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』)

 

 

 

3 ローソクに点灯するタイミングも難しいし、一週ごとに点灯するローソクを増やすこともあるようだ。気を遣うところだ。ローソクの購入や管理も大変複雑らしい ローソク立てローソク消しなど細かい祭具もあるようだ
4 以前は「ミサ典書」と呼ばれていたが、現在は典礼書と言うらしい。ミサーレのこと。
5 口で聖体拝領をしていた時代には、侍者はひしゃくのようなものを信徒の顎の下に置いて御聖体がこぼれ落ちるのを防いでいた 
6 ホスチアは司祭用と信徒用ではサイズが違う。信徒用はミサごとに数が異なるので必要数を用意するのは大変だろう。典礼係は聖体拝領のあと、チボリウムの中のホスチアの残量をいつもチェックしているという。これはわたしは知らなかった。
7 ぶどう酒は赤・白どちらでもよいらしい。水は硬水・軟水を問わないようだ。水で薄めずにぶどう酒をそのままがぶりと飲む司祭はさすがにいないようだ(冗談)。
8 聖水盤の聖水は右手の指先につけて十字を切るという習慣を忘れてしまっている人もいるという。手を合わせて祈るとき、右手の親指を上に載せるという慣習も崩れてきていると聞く。コロナ禍の悪影響ははかりしれないようだ。

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映画「大いなる不在」 ー これで認知症か

2024-07-24 10:35:43 | 映画


 映画 Great Absence を観てきた。タイトルに惹かれ、いろいろな賞をもたった映画ということで選んだにすぎない。特に監督や出演者に興味があったわけではない。

 観た後の印象では、この映画はなんとも要領の得ない映画だった。宗教映画、哲学映画ではない。少しスリラー性が入った娯楽映画とでも言えるか。認知症者が増えた高齢社会への警鐘の意味が込められているのかも知れない。

 ストーリーは、例えば以下のように紹介されている。

あらすじ・ストーリー ある日、卓は幼い頃に家族を捨てた父親の陽二が、警察に逮捕されたという報せを受ける。しかし、久しぶりに再会した父は認知症を患い、別人のように変わり果てていた。再婚した女性の行方も分からなくなっており、卓は父親と再婚相手のに生活を調べ始めることに。
解説・第67回サンフランシスコ国際映画祭で最高賞に輝いた他、各国の映画祭で高く評価された近浦啓監督によるヒューマンサスペンス。近浦監督の実体験に着想を得て、父の逮捕の報せを受けた男性が、認知症を患う父と再会する。主演は森山未來。共演は第71回サン・セバスティアン国際映画祭で最優秀俳優賞に輝いた藤竜也、真木よう子、原日出子ら。

 要は、認知症になった親と子の親子間夫婦間の「」の話なのだが、認知症と言ってもせいぜい中核症状が出始めた程度の頃の話だ。施設の描写も出てくるがわずかだ。認知症ってこんなもの、という印象を残すとしたら残念だ。一部は監督の自伝でもあるというが、主人公(父親)が物理学者だったとか、アマチュア無線に凝っているとか描かれているが、本当だったかはわからない。

 役者の演技力についてはよくわからない。みなさん、演技と言うよりはおそらく地のままでは、という印象を受けた。それはそれでよかった。

 でも 不在、Absence とは何のことだったのだろう。親子の関係が25年間切れていたということなのか。認知症が25年間の夫婦間の愛情を切り裂いた、という意味なのだろうか。この映画は、認知症を描いているというよりは、家族内の愛情の形、あり方(豊かさと残酷さ)を描いているように思えた。それにしてもなんとも要領を得ない映画だった。
【大いなる不在】

 

 

 

 

 

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発達障害は認知症を招くか ー 「横浜オリーブの会」講演会に出て

2024-06-16 13:57:56 | 教会

 6月15日(土)の猛暑のなか雪の下教会で「横浜オリーブの会」(1)主催の講演会がもたれた。演題は「発達障害を知る ~様々な特性と対応について~」で、講師は浦野真理さん(東京女子医科大学病院ゲノム診療科)だった。梅雨入り前の暑さにもかかわらず二階の会議室がいっぱいになるほどの参加者がおられた。ZOOMでのオンライン参加もあった。1時間あまりの講演と、1時間近い質疑応答があった。難しいテーマだったが、多くのことを学ぶことができた。

【オリーブの会講演会】

 講演の内容としては、①発達障害の分類 ②それぞれの特徴と対応 ③支援について、に分かれていた。浦野氏は、発達障害は脳の機能の障害で、本人の怠けや親の養育態度が原因ではない、と繰り返し強調しておられた。つまり、脳の問題だ、というのが論点だった。発達障害は現在は「神経発達障害」と呼称が変わったようだ。

 「発達障害」は、2018年施行の発達障害者支援法では、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」と定義されている。しかし、実際には成人にも発達障害は見られるようになってきているという(2)。

 浦野氏が今回の講演で主に説明されたのは以下の5項目だった。

①知的能力障害
②自閉症スペクトラム障害(ASD Autism Spectrum Disorder アスペルガー症候群など)
③学習障害(LDまたはSLD Specific Learning Disabilities )
④ADHD(注意欠陥・多動性障害(Attention Deficit/Hyperactivity Disorder)

 どれも聞いたことはあるがそれぞれがどう違うのか私は知らなかった。氏の説明は具体的で例示が多く、興味深かった。とはいえ、浦野氏がスライドを使った説明ではほとんど英語の略語(例えばLD,ASD,ADHDなど)をそのまま使われるので私のような素人には話しについて行くのが大変だった。参加者の皆さんはほとんどオリーブの会の関係者の方らしくそういう苦労はなさそうだった。

 わたしは個人的にはSLD(限定性学習障害 )の説明が面白かった。例えば、「図」と「地」の区別が大事だという指摘は、まるで認知症の話しを聞いているようだった(4)。

 講演の後、質疑応答があった。多くの方が質問された。オンラインで質問される方もおられた。質問といっても、もっぱら個別的なケースを浦野氏にぶつけて意見を求める、というもので、あまり一般性のある質問はなかった印象がある。

 私が今日の講演を聴いて一番驚いたのは、浦野氏の発達障害の説明はまるで高齢者の認知症の説明を聞いているような気がするほど類似性があったことだ。症状が似ている印象があった。発達障害と認知症が医学の世界でどのように関連付けられているのかは知らない。ただ、浦野氏が言うように、発達障害が「脳の機能の障害」というなら、もうすこし両者の関連性について触れてほしかったと思う。

 今日の講演では発達障害の二次障害については殆ど触れられなかったが、社会的には引きこもりなどの二次障害が問題視されることがある(5)。二次障害として精神疾患広汎性発達障害(昔は自閉症と呼ばれていた)が言及され、薬物治療、行動療法(「合理的配慮」の提供など)、SST(Social Skill Training たとえばロールプレイイング)などが支援策として提案されていた(6)。認知症は発達障害の二次障害なのか、発達障害は認知症の引き金になるのか、素朴な疑問を抱いた(6)。



1 オリーブの会とは精神障害者をサポートするクリスチャンの会だと聞いているが、詳しいことは知らない。横浜オリーブの会は横浜教区内で活発な活動を展開してきているようだ。
2 だから、逆に、子供に問題行動があると、何でも「発達障害」というラベルを貼って片付けてしまう傾向もあるともいえる。発達障害などという言葉(病名?)がなかった時代の子供のいたずらや粗野な行動を思い起こすと、この言葉がラベリングになる危険性も忘れたくない。
3 関係者にとってはつらいことだが、今でははやり言葉にすらなっているという人もいるようだ。反対に、興味深い話もあった。たとえば、昨今知られるようになったASDのピアニストの話しとか、研究者や医師にはAD/HDが多いとか、聞いて面白い話もあった。モーツアルトやアインシュタインは自閉症の典型例だという話しはよく知られている。
4 たとえば、ディスレクシア読字障害)の問題は、ひらがなとアルファベットの違いもあって複雑な障害らしい(たとえば、文字を逐次読みしてしまう)。ところで、次の絵で、どちらが最初に眼に入ってくるだろうか。人間の横顔か、壺 か。よく使われる絵でご存知の方も多いだろうが、「図」と「地」の識別は必ずしも無意識ではないらしい。

【図か地か】

5 二次障害の例として妥当かどうかわからないが、いわゆる「宗教2世」問題の文脈で、「信仰」や「宗教」を発達障害の一つと見なすような極論が散見されるという。つまり宗教2世は発達障害の症状を見せるという議論のようだ。こういう言説が流されるほど日本社会の世俗化が進んでいることに驚きを禁じ得ない。キリスト教から見れば、宗教2世問題とは実は「カルト2世」問題で、親が子供に信仰を伝達していくこと自体が問題なのではない。親は、自分の政党支持態度を子供に伝達していく(子供の政治的社会化)。同じように、親は子供に幼児洗礼を授け、宗教教育を施す(子供の宗教的社会化)。カルトと宗教の識別が不十分だから宗教2世についてのこういう極論が出てくるのであろう。
6 質問で多く出た個別ケースの問題は、医学的対応だけではなく、社会的な対応を必要としているもののように聞こえた。発達障害への「支援」は、認知症での「介護」と共通する課題を持っているようだ。

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聖変化は実体変化ですよ ー 「キリストの聖体」の祝日に想う

2024-06-02 17:52:29 | 神学


 このところ祝祭日が続く。今日は「キリストの聖体」の祝日(B年)だ。基本的にカトリックでの祝日だ(1)。といっても特定の歴史的出来事を祝うというものでもなさそうで、あえて言えば、最後の晩餐、つまり食事に結びつけられる祝日ということらしい(2)。

 神父様はお説教で、主に福音朗読(マルコ14:12~16、22~26)(3)を説明された。今日は初聖体の女の子が一人いてお祝いがあったので(4)、「食事」と「聖体」の説明をされた。だが難しい話だった。

 聖体とはパンと葡萄酒のことだ。聖体拝領でパンをいただくということは、「パンの形で来られるキリストをいただく」ということだ。パン(ホスチア)は文字通りキリストの体で、それを食するということだ。

 これは難しい話だ。ごミサは構造を持っているとはいえ、複雑な構成をもつ典礼だ。なかでも奉献文がミサの中心であり、さらにいえば聖変化の部分が頂点をなす(5)。聖変化とはパンと葡萄酒がキリストの体に変化するということだ。「変化」するとは「実体」が変化するということだ。パンはイエスの体のシンボルだとか、葡萄酒はイエスの血の象徴だ、ということではない。「実体変化」だというのが教義だ(6)。聖変化とは実体変化です、と神父様はおっしゃっておられたようだ(7)。初聖体の子に意味が通じたのだろうか。

 

【菊池大司教のガーナ時代の聖体行列と聖体顕示台】(週刊大司教第169回)

 


1 日本では考えられないが、国の祝日になっている国・地域も多いようだ。「食事」が中心という意味では、仏教国の日本では「お盆」みたいなものかもしれない。聖体はカトリックでの七つの秘跡の一つだが、プロテスタントでは秘跡の意味が異なるので、聖体は入ってこないようだ。
2 定着したのは13世紀以降らしい。それ以前はミサではいろいろな形の典礼があった、たとえば奉献文は定型化されていなかったが、会衆の関心が典礼から聖体そのものへ移っていったということらしい。
3 ここで13~21節はあえて読まれない。ユダの裏切りの予言の話だからだ。
4 初聖体だから、幼児洗礼だとすれば、おそらく小学校2~3年生くらいか。
5 当教会のM神父様は第3奉献文を使われることが多い。奉献文でいえば、聖別の「エピクレーシス」で「聖霊」を呼び求める(「あなたに捧げるこの供え物を 聖霊によって尊いものにしてください」)。そして聖別の祈りが唱えられる(皆、これを取って食べなさい・・・・・皆、これを受けて飲みなさい・・・」)。
6 「実体」とは神学的には人性(体・血・霊魂)と神性のすべてで、通常はトリエント公会議での定式化が用いられるようだ。アリストテレス風のトマス的理解のようだ。キリストはパンと葡萄酒の形をしてそこに「現存」しておられるという説明だ。哲学的には実体とは多様な概念のようだが、カトリックでは存在そのものというよりは、あくまで概念だとされる。パンや葡萄酒の物資としての性質(化学組成など)は変わらなくとも実体は変化すると考える。実体とは概念で、目で見たり触ったりできるものではないからだという説明だ。こういう神学的・哲学的説明より、聖体拝領でいただくご聖体は(パンは)キリストの体そのものだと信じることがキリストの聖体が秘跡だという意味なのであろう。
7 神父様が強く警告しておられたのは、聖体拝領でいただいたパンをそのまま家に持ち帰ってしまう人がいるようだが、それはしてはいけない。その場ですぐに食べなければならない、ということだった。かって口で聖体拝領をしていた頃、侍者はおしゃもじのような聖体皿を顎の下に差し出して、パンがこぼれ落ちるのを防いでいた。両形態で、葡萄酒をこぼしたりすると大変なことになったりしたことを思い出した。パンはパンだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり家に持ち帰るものではないだろう。

 

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