カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

乞食をしながら宣教する清貧運動ー岩島師教会論16(学びあいの会)

2020-10-29 09:29:54 | 教会


Ⅲ 清貧運動と托鉢修道会

 中世の教会はイノケンチウス3世(1198-1216)のとき絶頂期を迎える。教会はヴォルムス条約(1122)によって叙任権闘争に勝利する。

 教皇ウルバヌス2世(在位1198-1216)はグレゴリウス改革を継承し、教皇権を強化する。十字軍が宣言される。そのあとに続くイノケンチウス3世のとき教会は絶頂期に達する。ドイツの国王選任問題でオットー4世を破門、離婚問題でフランスのフィリップ2世を破門、大司教選任問題でイギリス国王ジョンを破門する。こうして11世紀末から13世紀初頭にかけて教皇権は絶頂に達する。12世紀は教皇の世紀ともいえる。

 と同時に、堕落する教会に対しては各地で異端運動が起きる。また、教会を改革するための清貧運動が起き、その延長線上に托鉢修道会が誕生してくる。13世紀末には教皇権は揺らぎ始め、14世紀には「教皇のバビロン捕囚」(1309-77)があり、「シスマ Schisma」(教会大分裂 1378-1417)が起こる。やがて教会の世俗化のなかで15世紀にフス戦争(1419-36)が起こり、16世紀の宗教改革の口火が切られていく。

1 カタリ派 cahares

 12世紀に発生した異端運動で、中世に発生したものの中では最大のものと言われる。バルカン半島に定着し、やがて西ヨーロッパ各地に広まったようだ。特に南フランスのツゥールーズ、アルビの両地方に広まり、地方の貴族の支持も得た。アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれる。カタリとは「猫」のことらしい。
 教義面ではマニ教(ゾロアスター教)の影響が強く、強固な善悪2元論、霊肉2元論(霊=善、肉=悪)をとる。断食(富の蔑視)や純潔(結婚の蔑視)など極端な禁欲主義・清貧主義をとる。救われるためには教会や社会を捨て、カタリ派に入って厳しい戒律に従って生活せよとした。神論・キリスト論・救済論においてキリスト教の教義とは異なる。


 組織としては独自の儀式と位階制を持っていたようだ。イノケンチウス3世はアルビジョワ十字軍を派遣し(1209-29)、続いてドミニコ会が異端審問を徹底し、やがて15世紀初頭には絶滅したとされる。

2 清貧運動 Armutsbewegung

 教会内にも清貧運動がおこる。直訳すれば、貧困運動、乞食の運動だ。財産をすべて放棄し、乞食をしながら福音の宣教をする運動だ。教会のあらゆる形式(秘跡や位階など)を否定し、聖書原理主義をとり、教会制度を批判した。

ワルド派 Vaudois

 代表例がワルド派だ。清貧運動の中心的存在。フランス・リヨンの商人ワルド(?ー1205)の教えに従う運動体。清貧を完徳の理想とした。ワルドは「リヨンの貧者」とも呼ばれたという。説教が反社会的・反教会的であったため1184年には異端とされたが、イノケンチウス3世の時、教会の信仰告白・位階制・秘跡を認めたので、運動が認可されたという(1)。


3 托鉢修道会 mendicant orders の発生と発展 

 この清貧運動の延長線上に托鉢修道会が生まれてくる。托鉢修道会は13世紀に生まれた新たな修道会だ。「新」というのは、それまでのベネディクト会のような大修道院制(山奥に定住し自給自足する観想修道会)とは異なるという意味だ。托鉢をしながら、つまり乞食をしながら、使途的生活を生きようとする(2)。具体的には、フランシスコ会とドミニコ会が生まれてくる。

1)フランシスコ会 Franciscan Order

 アシジの聖フランシスコ(1181-1226)により創設される。非定住で、今でいえば「ホームレス」の集まりだ。托鉢の貧しさの中で福音宣教に従事した。

写真(アシジの聖フランシスコ)

 
1209 イノケンチウス3世によって口頭で会則が認可される
1223 ホノリウス3世により文書による会則が認可される
1225 第二の会則が認可される(福音の順守・個人も会も所有権を放棄・金銭受納の禁止・
 托鉢による生活)

 フランシスコは自分自身を「小さき者 minor」と呼んだため、修道会の正式名称は「小さき兄弟会 Ordo Fratrum Minorum」という。組織としては第1会(男子)、第2会(女子)、第3会(在世信徒)がある。会員数は13世紀末には6万人を超えていたという(3)。

2)ドミニコ会 Dominican Order

 聖ドミニコ(ドミニクス 1170-1221)が始めた修道会で、もともとは異端のアルビジョワ派(アルビ派)に対抗する説教に熱心だったようだ。そのため、正式名称は「説教者兄弟会 Ordo Frantrum Praedicatorum」だ。

写真(聖ドミニクス)

 

1216 『アウグスティヌスの規則』のもとにホノリウス3世によって認可される
1220 ボローニャの第1回総会で自らを托鉢修道会と規定した。清貧と説教と学問をを重視した 異端審問を委託される

 組織としては、「観想と活動」の両側面を持つ。学問的にはトマス主義を中心に神学研究の主流となる。当時勃興しつつあった大学、特にパリ大学神学部の中心的存在だった。16世紀以降はアジア、中南米への海外宣教に力を注ぐ。

 このように、托鉢修道会は、世俗との区別がつかなくなっていた教会構造の修正を目指すものであった、というのが岩島師の評価である。

4 托鉢修道会の特徴

1)「キリストに倣う」 純粋な信仰の実践
2)兄弟的交わりの重視 庶民の目線での愛の教会像
3)奉仕の生活を通して、教会のこの世の証しをおこなう
4)フランシスコ会・ドミニコ会は従来の修道会とは異なる新しい存在

 つまり、托鉢修道会は既存の教会制度へのアンチテーゼであったと言える。


Ⅳ トマス・アクィナスの教会観

1 トマスの教会観

 トマスの関心は、人間が神の恩恵に与るにあたって、教会がどのような働きをするか、にある。トマスに独自の教会論はなく、恩恵論・秘跡論との関連で教会が論じられているにすぎない。教会は恩恵の手段であるという考え方だ。次のような文章が引用され、解説されている。

「教会は天使と人間によって構成され、その頭はキリスト。キリストの神秘体 courpus Christi mysticum。 教会の本質は、恩恵、即ち、神の生命への参与にある」

2 仲介者としてのキリスト

 人間が神の恩恵に与るのは、キリストの仲介による。この仲介者としてのキリストの人格的行為を、歴史を通じて継承するのが秘跡である。秘跡において働くのはキリスト自身。秘跡の執行者は単なるキリストの道具にすぎない(ー>事効性論の根拠)。教会の頭であるキリストが、秘跡において働き、神の命を与え続けている。

 岩島師によると、トマスの教会論はキリストの恩恵、秘跡が中心となっている。その他の要素(聖書・典礼・掟・組織・説教など)は二次的なものとなっている。

 教会の職制については、司教・司祭は聖餐への奉仕職とみている。司祭と司教の区別は教会の秩序の源で、教皇は最高の司教で、権威的存在だという。だが、教皇の権威を無制限に認めているわけではなく、全教会の信仰など神学者の内省も考慮されるべきであるとしている(4)。


1 運動や修道院の試みが、異端とされるか認められるかは紙一重の差だったようだ。つまり教会側の政治的判断もあったようだ。たとえばアシジの聖フランシスコの初期の活動は境界線上にあったようだ。フランシスコ会の認可は1209年だが、後年これほど発展するとは認可したローマは思いもよらなかったらしい。
2 托鉢 mendicancy  とは、鉢をもって歩いて食物などの喜捨を求める行為のこと。要は乞食だ。「貧しさ」はイエスの福音の一つだ。3誓願(清貧・貞潔・従順)の一つである清貧の構成要素だ。清貧は精神的・物質的貧しさを意味するが、托鉢は物質的貧しさを指す。托鉢は清貧の表現の一つだ。
 それまでの大修道院制は定住と労働を原則としていたが、托鉢修道会は、全くの無所有で神のみに頼って生きる生き方だ。これは十字架上に死んだイエスの生き方に倣うことなのだという。これが当時の豊かな財産と権力を持った教会へのアンチテーゼであったことは明らかだ。
3 組織の急激な拡大は当然内部対立を生む。いくつかの分派の分裂、統合の歴史をたどる。意思決定が独裁的、一方通行的だからだ。他方ドミニコ会は合議制をとったので組織の分裂は起きていない。
 フランシスコ会は教育と宣教に力を注ぐ。教育では、トマス学派が主体の知的なドミニコ会とは異なり、キリスト中心主義的だ。宣教では世界規模で活躍する。日本には1593年にペドロ・バウティスタを皮切りに多くの司祭を送りこみ、殉教している。長崎で活動し、アウシュビッツで殉教したコルベ神父はよく知られている。1982年に列聖されている。
4 あまりよくわからない説明だ。岩島師は基本的に、トマス・アクィナスは教会論を持っていないと言っているようだ。最近のトマス・アクィナス ブームを考えると、本書が著された時代的制約を思わざるを得ない。

 

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教権は俗権にまさるー岩島師教会論15(学びあいの会)

2020-10-28 10:12:40 | 神学

3 グレゴリウスの改革

 グレゴリウス7世(1073-85)はクリユーニー出身と言われる。前回紹介の「背景」で述べた3つの弊害の除去に力を尽くした。教会法を整備し、制度の強化に努め、、修道院を教皇直轄にする、聖職者を教皇の指揮下に入れる、などの改革をした。教皇使節が教会会議や司教会議を主催した。教皇中心の中央集権的教会を確立した。シモニアとニコライ主義を禁止した(1)。

「27ヶ条の覚え書き」(ディクトゥス・パパ 1075)(2)を発表する。その主張は次のように画期的なものだった。

 1 教皇の首位権
 2 教皇の裁治の首位権
 3 教会の領域を超える首位権(教権は俗権にまさる)

 こういう教皇中心の教会論は当然教会の内外から強い批判を受ける。特に司教たちからの反抗は強かったようだ。また、東方教会も次のように主張してこれを受け入れなかった。

 1 すべての使徒は同等の権限を有する
 2 教会全体の指導権は6総大司教にある(ローマ・コンスタンチノープル・アンテイオキ   ア・エルサレム・アレクサンドリア・?)
 3 ローマが頭との主張は認められない

 グレゴリウス改革の目的は、教会の刷新と倫理的粛正だったが、司教や修道院長の叙任権を巡ってドイツ皇帝(神聖ローマ手国皇帝)ハインリッヒ4世と対立した。叙任権闘争と呼ばれる(3)。

 1076年 教会会議でハインリッヒ4世を破門(4)
 1077年 「カノッサの屈辱」事件で教皇が勝利する(5)

 その後、皇帝の反撃でグレゴリウスは南イタリアに追放されてしまうが、結局は教会の力が確立される。決着は「ヴォルムスの政教条約」の締結だ(1122年)(6)。簡単に言えば、司教は聖職者が選出し、皇帝の叙任権は廃止された。つまり、叙階は教会が行うことになった。

(グレゴリウス7世)

 

4 グレゴリウス改革の意義

 グレゴリウス改革は意義ある改革であった。岩島師はその意義を以下の3点に要約している。

 ①教会が世俗化し、危機にあったとき、教会の自主性を回復した
 ②ローマ司教が名実ともに教会の指導者となる(ローマ司教が教皇となる)
 ③教会法が、封建社会の世俗法に勝利する

 このほか、職制、秘跡、典礼の法的明確化がなされる。「制度としての教会論」の出発点となったというのが岩島師の説明だ。

5 「二つの剣」の思想 (聖ベルナルド クレルヴォーの聖ベルナール 1090-1153)

 中世のその後の教会の法制的展開はグレゴリウス7世のラインを継承していった。二つの剣の思想とは、社会における霊的権威(教会)と俗権(皇帝や王)を明確に区別し、俗権は教権に奉仕すべき存在とみなす思想のことだ(7)。歴史を動かす思想になっていく。

 清貧運動は次回に回したい。

 


1 以下はグレゴリウス改革についてのWikipediaの説明である。堀米庸三の名著『正統と異端』の視点のようだ。岩島師とは強調点が異なることがわかる。正統とは客観的秘跡論で事効論、異端とは主観的秘跡論で人効論との指摘や、領主から教会への寄進は戦略だったことの指摘など従来からの中世暗黒論を打破した堀米説は岩島師ほど護教的ではない。

青年時代より教皇領で働き、教会法と教会の歴史に精通していた教皇グレゴリウス7世は、当時のカトリック教会の問題点は以下の2点に絞られると考えていた。世俗の権威によって任命される司教や大修道院長たちの問題、それにともなって起こる聖職者の不正や堕落、すなわち聖職者の妻帯や聖職売買(シモニア)である。
 この現状を変えるには教会自身が変革しなければならない。教皇は改革への熱意にあふれてその職務を開始した。グレゴリウス7世は1075年に「教皇令27ヶ条」を提示して、教皇権の世俗の権威への優位を主張した。さらにローマに教会会議を招集して聖職者の妻帯と聖職売買(聖職者の地位と特権を金銭で取引すること)の禁止を徹底するよう求めた。さらに各国においてこれが確実に実行されるため、教皇使節を派遣することで万全を期した。フランスやドイツにおいてこれらの通達は抵抗を受けたが、グレゴリウス7世はあきらめずにこの問題に取り組んだ。
 特に、教皇が世俗の権力による叙任(司教や大修道院長の任命)を禁止する通達を出したことが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との終生の確執を生むことになる。グレゴリウス7世自身は亡命先のサレルノで失意のうちに死去するが、叙任権闘争において最終的に教会に叙任権が取り戻され(ヴォルムス協約)、司祭の妻帯および聖職売買の禁止は以降徹底されていったことで、グレゴリウス改革は達成されることになった。
2 これは公文書ではない。つまり、回勅でも勧告でも教令でもない。そのため日本では上記のように「教皇令」と訳されることが多いようだ。
3 叙任 ordination とは教会の奉仕職に任命すること。司教や修道院長に任命することだ。叙階(これもordination)を含む用法もあるが、この時代には叙階とは区別されていたようだ。
4 破門 excommunication とは教会法上の制裁で、信者(信徒も聖職者も含む)を教会の共同体から排除すること。大破門と小破門がある。贖罪が終わるまで秘跡に与れない。教会の職務にも就けない。教会の墓地に埋葬もされない。君主が破門されると家臣は封建制度上の臣従義務を解かれるので政治的・社会的意味も大きい。なお、これはカトリックの教会法上の概念で、教会法を持たない他の宗教にはそのままは当てはまらない。
5 あまりにも有名なカノッサの屈辱事件。聞いたことがないという人はいないだろう。カノッサは北イタリアにある。教皇と皇帝の争いはこの後半世紀あまり続く。
6 ヴォルムス条約 Wormer Konkordat 。協約とも訳される。叙任権闘争を終結させたカリクストゥス教皇と神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世との間で1122年に結ばれた条約。簡単に言えば、教皇は司教の叙任権を持ち、皇帝は諸侯として司教の選出に立ち会い、俗権を持つと定めた。
 現在の中国の地下教会の司教任命権を巡るヴァチカンと北京との間の非公開の妥協的交渉が脳裏をかすめる。教皇フランシスコは習近平に膝を屈するのだろうか。思えば、カト研のジョンストン師はかって天安門事件の直後中国を訪れ、地下教会と公認教会の司祭の両方と会っている。だが、ミサはホテルの自分の部屋で一人であげていたという。師の関心は「アジア的霊性の探求」にあり、政治的なものではなかったが、大きな影響を受けたようだ。師はやがて遠藤周作と出会い、共にアジア的霊性を求めて親交を深めていく(W.Johnston,Mystical Journey , Ch.28, 2006)。
7 「二つの剣」という言葉はいろいろな文脈で用いられるようだ。十字軍の話やPCゲームの世界でも使われているようだ。意味の変遷の経緯はよくわからない。

 

 

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グレゴリウス改革は中世で最重要の出来事だー岩島師教会論14(学びあいの会)

2020-10-27 11:52:19 | 教会

 10月の学びあいの会はいつもの顔ぶれが集まった。コロナ疲れの頭を神学の勉強ですっきりさせるのも悪くない。

 岩島師の教会論は第16章に入る。「中世教会の自己展開」と題されている。自己展開とはあまり聞きなれない言葉だが、教会が発展したとか最盛期に入ったとかの意味よりも、事態や将来が予測できないような形で進んでいったという意味が込められているように思える。

 S氏はまず「中世」という言葉の意味から話をはじめられた。中世は何時から何時までを指すのか、なぜヨーロッパ史に「近世」はなく、中世の後すぐにルネッサンスだの宗教改革だのが来て近代が始まると考えるのかなど、興味深い話があった(1)。だがこれは岩島師の論旨ではない。岩島師は教会史ではなく、教会論(の展開)を講じておられるのだ。本章の主張は明快だ。グレゴリウス改革こそ西欧中世の教会論の骨格を作ったという。

Ⅰ 中世教会の特徴 - コルプス・クリスチアヌス(キリストの体)

 中世教会の特徴は、一口で言えば、ゲルマン民族との関係の取り方だ。そして岩島師はその代表は「グレゴリウス改革」につきるという。清貧運動やトマス神学の確立、十字軍なども重要だが、グレゴリウス改革こそ中世教会の姿を示すというのが岩島師の主張だ。

1 キリスト教世界の教会
 
 古代教会は不信仰な世界における救いの共同体であった。だが、中世の教会はキリスト教ヨーロッパ世界の支配的な教会に変化した。信仰は人々の誕生において与えられた。教会は宗教であるだけではなく、社会・文化の総合的現象であった。ポプルス・デイ populus dei (神の民)は、単に信仰共同体を意味するだけではなく、異教徒に対抗するキリスト教国という意味を持っていた。

2 「キリストの体」と「キリストの神秘体」の意味の変化

 現在我々はキリストの体はご聖体、キリストの神秘体は教会という意味で用いている。実はこの用法は中世に逆転したもので、現在はその用法を引き継いで用いているという。

 古代教会にはキリストの神秘体という言葉はなく、「キリストの体」が教会を意味していた。4世紀に「キリストの神秘体」(キリストの体 mystical body Ⅰコリント 12:27)という言葉が現れ、聖体を意味するようになった。ところが11世紀になると「聖体論争」(2)の結果、聖体をキリストの神秘体とするのは誤解を招くという理由で、「キリストの体」を使用することになった。

Ⅱ グレゴリウス改革

1 背景

 中世はゲルマン民族の移動に始まる。キリスト教はゲルマン民族のなかに広まろうとする。岩島師は、中世の主題はゲルマン民族国家と教会との関係であったと主張する(3)。

(中世の教会)

 フランク王国(カロリング朝)では、教会は国家の保護下にあり、国王が司教、修道院長を管轄していた。カール大帝(カール1世 シャルルマーニュ 位768-814)は「キリスト/神の代理人」(vicarius Chrisiti/Dei)と自称した。この主張を是正しうるのはローマ教皇だけだが、グレゴリオ教皇以前の教会は弱体化し、危機にあった。岩島師はグレゴリオ改革の背景として以下の3点を上げている。

①教皇権の弱体化
②聖職者の堕落(シモニア=聖職売買、ニコライ主義=妻帯・畜妾)(4)
③俗権の教会支配(領主による教会の私物化)(5)


2 クリユーニーの改革

 ベネディクト会の修道会は堕落していったので、クリゥニーの修道院(クリゥニー会 910年設立)は初代院長ベルノのもと、修道生活を改革し、立て直した(6)。12世紀にはこの運動は全ヨーロッパに広まり、修道院数は300以上を数えた。典礼・ミサ・歌唱・美術などが完成の域に達する。

 本題のグレゴリゥス改革の話は次稿に回したい。


1 ヨーロッパ中世を、一応、西ローマ帝国の滅亡、カール大帝の戴冠(西ローマ帝国の名目上の復活)を経て、宗教改革までと考えるなら、実に1000年余に及ぶことになる。この間の東ヨーロッパ世界、地中海世界(イスラーム世界)、アジア地域にも目配りしないと、すぐに「暗黒の中世」論の罠にはまってしまう。
 ちなみに、帝政末期のローマでキリスト教が公認されたのが313年、国教化は392年、本山のような中心的教会は、ローマ・コンスタンチノープル・アンテイオキア・エルサレム・アレクサンドリアの5カ所だった。ローマ司教は他教会に対して首位性を主張していた。
2 「聖餐論争」とも呼ばれるらしい。聖体におけるキリストの臨在のあり方に関する論争だ。それが「実在」か「象徴」かという問いだ。臨在とは現実にキリストがパンと葡萄酒にいるという理解、象徴とはパンと葡萄酒はキリストの単なるシンボルに過ぎないという理解だ。歴史的にはスコラ神学における化体説(かたいせつ、ケタイとは読まないらしい ミサにおいてパンと葡萄酒がそのまま実体的にキリストの聖体(体と血)に変化するという説明(実体変化)が生まれる。この説を経て第4ラテラノ公会議(1215)で、実在的な臨在の理解が教義とされ、現在まで続いている。なお、16世紀の宗教改革ではルターは実在説をとり、ツヴイングリが象徴説をとったため、プロテスタント教会は分裂していく。カトリック教会では実在説がトリエント公会議(1545-63)で確認されている。第二ヴァチカン公会議(1962-65)はこの化体説を過去の説としたが、聖体におけるキリストの現臨への信仰は現在も教義となっている。
 論争としては、トゥールのベレンガー(1005-88 ベレンガリウスとも)が聖体におけるキリストの現存は現実ではなく象徴だとした(シンボリズム)としたことに始まる。聖体におけるキリストの現存を主張するリアリズムがこれに反論し、その結果、「キリストの体」は教会と聖体の両方を意味するようになった。12世紀になるとこれは混乱を招くとして、教会を指すには「キリストの神秘体」を使うようになる。意味が逆転したことになる。
3 ビザンツ(東ローマ)帝国の変化も考慮に入れたいところだが、この辺は岩島師が歴史家ではなく神学者だからだろう。
4 シモニア simonia 聖職売買 とは、司教職や修道院長職などの聖職を財産として売買したり、相続したりすることを意味する。単に職務なのではなく、巨大な土地などの権益を意味する。シモニアとは魔術師シモンのことらしい(使徒言行録第8章)。
聖職者の妻帯をなぜニコライ主義と呼ぶのかはわからないが、司教・司祭の妻帯はこの時代まで普通だったようだ。現在は独身制になっている(妻帯も畜妾も許されない)。だが他宗教(仏教、イスラム教、ギリシャ正教など)の現状を考えるといろいろな思いが浮かんでくる。
5 領主は自分勝手に司教を任命し、修道院を作れば修道院長を任命していたのだろう。これは封建制、特にヨーロッパの「レーエン封建制」の特徴に関わるので、岩島師は深入りしていない。
6 このクリゥニーはフランス ブルゴーニュ地方。この修道会は、修道士による院長の選出、司教権からの独立、教皇への直属を創立文書によって確保した。初めての民主的な修道会と言われ、デモクラシーの出発点とも言われるようだ。だが12世紀に入るとまたもや規律が弛緩し、シトー会などから批判を受け、やがて衰退していく。


 

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中国の影 ー ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(3)

2020-10-19 15:36:27 | 教会

 今回の旅では何人かの地元のガイドさんにお世話になった。たまたまか、みな信者さん(カトリック)だった。詳しい説明の端々に垣間見えたのは、「中国の影」とでも呼びたいような中国へのおびえのようなものだった(1)。

1 交通手段

 さまざまな乗り物を使わないと五島列島の観光はできないようだ。飛行機、バス、タクシーは当然として、小さな海上タクシー、高速艇、フェリーが島々を、つまり教会と教会をつないでいる。たとえば、頭ヶ島天主堂は小さな専用バスに乗り換えないとたどり着けない。観光バスは入れない。

 どの島にも電車はない。完全な車社会だ。軽自動車の世界だ。ガイドさんは「スズキの世界」と言っていた。乗っている車で誰かがわかるのだという。大型の観光バスは狭い道を塞いでしまい、追い越しもできないために、島では嫌われ者だという。
 大きな橋がやっとひとつ架かったと言うが、同じ島の中でも各集落は孤立しているようだ。クルマがなければ交流は難しかったであろう。だからこそキリシタンは生き延びられたのかもしれない。

2 生業

 主要な産業は水産業のようだが、観光への依存度も高いようだ。今回のコロナの打撃は大きいという。漁業と言ってももはや鯨はとれない。鯨御殿は昔話のようだ。普通の漁業も壊滅状態だという。漁場に出かけても魚は獲られた後で水揚げにならないという。漁師になろうとする子どもが少ないようだ。五島は「鯨の街」だったが、今は観光客は誰も覚えていないのではないだろうか。私も知らなかった。

3 過疎化

 日本中どこでも進んでいる現象なので珍しいことではないが、この旅では特に強く印象がのこった。幼稚園、小学校、中学校が軒並み生徒数ゼロ。立派な建物だけが残っている。なにか別の用途に使われている様子もない。統廃合といえば聞こえが良いが、子どもの姿が見えない村や街は不気味だ。子どもが高校に入る年頃になると、長崎市など島外にでて寄宿舎に入ってしまう者が多いという。しかも「母親つき」でだ。いづれ父親が後を追うのも時間の問題だという。

 コンビニやスーパーはある。どれもローカルなお店だ。だがガイドさんの冗談によれば、「セブンはない。マックはない」という。長崎市へ用で出かけると、帰りのお土産は「マックのハンバーガー」だという。ハンバーガーは地元でも売っているのにだ。そういえば喫茶店も見なかった気がする。

4 文化

 われわれは五島列島というが、実はそういう実体はないという。観光案内書などによると五島列島の人口は7万人とか書いてあるがそれはあまり意味がないという。五島は「上五島」と「下五島」の二つの文化圏に分かれているようだ。経済的にも、行政的にも一緒になれない。文化が異なるのだという。方言や通婚圏の話も出たが、キリシタン時代にも違いがあったのであろうか。カトリックは上で3割、下で1割くらいだという。教会は約50もあるそうだ。とくに中通島(上)には25もの教会が集中しているという。地震はない島なので小さな教会でももつようだ。

 五島列島というとなにか大きな島が五つあるような印象を与えるが、実際には150以上の島があるのだという。数世帯しか住んでいない島も数多くあるようだ。だがガイドさんによれば、「無人島にはできない」という。だれかがどこか外国から入り込んできてしまう恐れがあるからだという。こういう地元の人の感じる心理的圧迫感はわたしは話を聞くまで想像すらしていなかった。

(若松港)

 


 五島は、世界遺産の観光の島、キリシタンの島、巡礼の島だけではなかった。国を護る島だった。今回の旅は、五島の静かな、安全な生活が続いていって欲しいと願う旅であった。



1 これは別に私が中国嫌いだとか、五島のカトリック・ガイドさんが偏見を持っているという意味ではない。誤解がないことを願う。

 

 

 

 

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仏壇を祭壇に ー ポスト・コロナの五島列島巡礼の旅(2)

2020-10-17 18:10:40 | 教会

 五島列島の教会巡りをして一番強い印象に残ったのは、仏教式の「仏壇」がそのままカトリックの「祭壇」に使われていることだった。現代だけではない。キリシタン時代からの慣習の継続なのだろうか。
 カトリックに戻った潜伏キリシタンの家では幼児洗礼だから、家には普通の家庭祭壇があるだろう。
 だが、現在の日本で成人洗礼を受けた人のなかでほとんどの人は仏教的環境の中で育っており、家にいわゆる「仏壇」がある人も多いことだろう。仏壇の前で朝夕お祈りする人は少ないとはいえ、中には先祖の位牌が納められているだろう。洗礼を受けた後、この「仏壇」を「祭壇」に切り替える人が多いという。
 切り替えると言っても、仏壇には位牌とともに大日如来やお釈迦様の仏像が納められているだろうからこれは取り除かねばならない(1)。しかし実際には仏壇の中には位牌しかおかれてなくて、仏像もお札もないケースが多いとも言う(2)。つまり、切り替えはそれほど大変なことではないと言うことになる。

 新しい祭壇、キリスト教では「家庭祭壇」と呼ばれることが多いが、ではどういう形になるのか。あらたに購入する家庭祭壇は、いわゆる「現代仏壇」と外観などそれほど変わらない。昔からの「仏式仏壇」をそのまま使う場合には、教文館やサンパウロの説明を見ると、決まりはないがそれでも一定のパターンはあるようだ(3)。
 中央に十字架を飾る。御像(キリスト像)を飾ることもあるらしい(4)。左右にマリア様と蝋燭。お花を飾る花瓶(花立)もあればよいようだ。

 いずれにせよ、伝統的な仏壇をほぼそのまま祭壇にして使うことが普通になってきているようだ(5)。

 ついでに、お墓に関しても今回の巡礼の旅で学ぶことが多かった。まず、仏式、キリスト教式の墓地が多い。しかも街中に突然現れてくる。仏式の墓の墓碑の墓銘に「金文字」が施されているのもあまり見慣れないので驚いた(6)。

(頭ヶ島カトリック墓地)

 

 墓碑銘は洗礼名と氏名だ。カトリックでは個人墓が中心だが今では土葬はない。最近は(戦後は)墓地不足のせいか仏式と同じように「家庭墓」が増えているという。いわゆる「~家の墓」という形式だ。キリシタン墓地にも見られたのには驚いた(7)。

 キリスト教は日本社会では結婚式の世界には入り込むことに成功したが、まだ葬儀の世界には入り込めていない。クリスチャンではないけれど、お葬式は教会で、という時代が来るのだろうか。


1 取り除くと言っても、どのように処分するかは難しいようだ。私の知り合いのお坊さん(真言宗)によれば、頼まれれば引き取ると言うが、結構複雑な手続きが必要になるようだ。
2 つまり、仏壇の前でチーンとお祈りするのは、仏様に祈っているのではなく、位牌に(先祖に)祈っていることになる。また、お盆や命日にお墓参りに来て、本堂に立ち寄らずに(お祈りせずに)、そのままお墓に直行し、お線香を上げ、そのまま立ち去る姿は珍しくはない。日本の大乗仏教はここまで変質してきている。これは批判や評価ではなく、宗教(特に仏教)の土着化が最後にたどり着く姿のように思える。
3 キリスト教では教会での祈りが中心だから、重要度で言えば家庭での祈りは教会での祈りより重視される程度は低い。といっても家庭で家族みんなでお祈りする時にはどうしても必要になってくる。そのうえ、位牌があればさらに必要度は高まってくるだろう。
4 磔刑像と復活のイエス像のどちらが好まれるのかはわたしにはわからない。我が家は十字架だ。なお、プロテスタントでは十字架は飾っても御像は飾らないようだ。御像を拝むのは偶像崇拝に近づくという説明が多いが、議論しだしたらそれこと神学論争になってしまうので、止めておきたい。
5 カトリック中央協議会はこういう問題に関しても、歴史的経緯を考えて見解を表明しているが、抽象的であまりはっきりしない。あえて教義的に縛るより、暫くは信徒の判断と行動に任せておいた方がよいのかもしれない。
6 ガイさんの説明によると、理由にはいくつかあるようだが、結局は中国との交流の影響ではないかと言っていた。カトリックでも金文字を入れる墓もあるようだ。この習慣は九州に広く見られるらしい。
7 五島のキリシタン墓地では土葬された遺骨を掘り起こしてもう一度火葬して納骨する作業が続いているらしい。家庭墓にするためだ。私が所属する教区のカトリック墓地でも家庭墓は普通になりつつあるという。だがこれは家族全員が信者であるという前提の上で初めて可能になる話なのだろう。。

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