カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

シノドスについて

2015-12-15 11:36:48 | 神学
 先般シノドスが開催されました。その内容についてZ教会の信徒であるS氏が貴重な論考を、教会月報(機関誌)『潮路』に寄稿されました。シノドスについてはさまざまな考えや意見があろうかと思いますが、カト研の諸兄姉のご考察の一助になることを期待して、ここに転載いたします。ご本人からは快く転載の許可をいただきました。感謝いたします。

--以下ーー

教皇フランシスコの挑戦

 シノドス(世界代表司教会議) 開催
SE
 本年一〇月五日から二五日まで三週間に亘りローマでシノドスが開催されました。 皆様ご承知のことと存じますが、シノドスとはギリシャ語の集会の意味で、カトリック教会では、世界代表司教会議を意味します。 公会議が世界の全ての司教を招集するのに対し、シノドスは各国の司教団の代表者で構成されるもので地域的に限定された、例えばァジアシノドスのような会議もあります。
今回のシノドスは第二バチカン公会議後の初めてのシノドスから数えて一 四回目で五〇 周年に当たります。 「家庭」をテーマにしており、教皇が最大の熱意をもって当たられる現在の全教会最重要課題ですが、日本の教会では、あまり関心を集めておりません。 カトリック新聞に若干報道されていますが、内容がお粗末でよく解らない。
一 一 月三日「栄光同窓カトリックの会」主催で南條俊二氏(元読売新聞論説副委員長で栄光卒業生の信徒) を講師にシノドスに関する講演会が開催されました。 私の理解した範囲でその概要を以下簡単に記します。
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( 一 )経緯としては、昨年1〇月準備のための臨時シノドス開催。一 二月、会議の成果を踏まえて全世界の教会に質問状発出。 回答期限本年の四月一 五日。 本年六月シノドス事務局が討議要項発表。一〇月シノドス開催。
(二)特徴としては、質問状に対する全世界からの回答をもとに討議資料を作成したことく全世界末端の意見吸い上げに努力> 及び信徒や専門家を数多く助言者として招いたこと。(枢機卿、司教、修道会総長など投票権を持った教父たち二七〇人。 専門家二四人。助言者五一 人。 他宗派他宗教代表一 四名)
(三)最終提案のポイント。 提言九四項目の各項目毎に採択(賛成三分の二以上) したもので、ここでは到底述べ切れなぃが、いくつかの項目をあげれば次の通り。(項目のみで順不同)
離婚再婚者の聖体拝領、同棲の男女、同性愛、難民、人身売買、配偶者を失った男女、障害者、高齢者、ジェンダーイデオロギー、出産率の低下、結婚準備の強化、性教育、親の責任意識、混宗婚、結婚無効裁判の効率化、等々きわめて多岐に亘る。基本的には秘跡による結婚の不解消性を改めて確認するとともに、傷ついた家庭を喜んで受入れる事を強調し、最後に提言は家庭の素晴らしさを強調している。
 (四)教皇の評価。 シノドス閉会時の講話で教皇は「家庭を脅かす問題すべてに十分な解決を見出したとは言えないが、問題を回避せず検討し、家庭と男女間の結婚の重要性の理解を促し、再評価することが出来た。 教会の教えの裏に隠された閉ざされた心を脱ぎ捨てる機会ともなった。教会は貧しい人々と罪人の教会である。 これから訪れる『慈しみの聖年』に備えることが出来た。」と述べられた。
(五)日本司教団の対応。 質問状への回答もなく質問状の公表も小教区への呼びかけもない。諸外国の熱心な取組みとは対照的な無関心さはまことに残念である。
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 以上が講演内容(の一 部)です。 確かにここで論じられた諸問題は現在の教会にとって、極めて重要、深刻、困難なテーマでありましょう。 現代人の意識がその急激な変化によって教会の伝統的倫理と大きく乖離しているように思われます。 あくまで原則を貫くか、それとも可能な限り現状に適応するか、保守派とリベラル派の意見が鋭く対立するであろつことは容易に想像されます。 教皇がシノドスの提言をもとにどのような指針(使途的勧告)を出されるのか注視し又期待したいと思います。
 それにしても南條氏の言う通りだとすれば日本の司教団の対応は残念なことです。 教皇は全世界の司教区、小教区、信徒団体等の意見を聞きたいと仰せなのだから、Z教会でも信徒同志の話し合いや場合によっては意見具申が行なわれて然るべきだったのではないでしょうか。 何故なら、本来「家庭」の問題は聖職者や修道者以上に信徒に直接かかわる問題なのですから。

ーーここまでーー


 上記のような文章を私もメンバーの一人であるメーリングリストで流した。S氏のこの投稿は貴重なものであり、MLメンバーにも知って欲しいと思った。だが、少し背景となる知識が無いと理解が難しいと思われるので、少し補足し、かつ私自身の個人的意見を述べてみたい。

 今回の第14回シノドス通常総会は終わったばかりなのでまだ全貌は見えない。カトリック中央協議会のホームページには2014年1月15日付で岡田大司教様の名前で日本の司教団による「臨時シノドス事務局への回答」が載っている。回答書末尾には批判的論調ともとれる表現で、これらの質問は家族全員が信者であるキリスト教国向けで、日本ではなじまない、日本では混宗婚・異宗婚が多く、それらをマイナス要因とみなす質問文は不適切だ、などと記されている。
 シノドスはギリシャ語で、英語ではSynodという。日本語ではそのままシノドスと言っているようだ。
 シノドスのための『提題解説』(リニアメンタ、Lineamenta)という「基本線」がローマからきて、それに伴うアンケートがあり、そのアンケートへの回答がなされる。2012年10月に開かれた第13回シノドスへの日本司教団の回答書では、「新求道期間の道」がローマの認可を盾に日本の教会を分裂させていると断罪して話題になったが、今回の回答書は中央協議会のホームページではまだみつからない。
 アジアシノドスは1998年に開かれたが、後が続かない。粕谷甲一師はこの時「日本カトリックの自己表現を求めて」という文章を発表し、シノドス、アジアシノドスにおけるローマと日本司教団の対立・葛藤を説明している。(『深き淵より新しき歌を』所収)。粕谷師によれば、岩下壮一師らに代表される「真理なるが故に」という「一本線論」(イスラエルー>旧約ー>新約ー>イエスー>教会)を「強調しすぎるアジアではうまくいかない」、仏教・ヒンズー教・イスラム教などたくさんの宗教のなかで「日本カトリック」は産みの苦しみを味わっている、と述べている。粕谷師は岩下師を批判しているわけではないが、ラーナー神学からみれば岩下師は新スコラ主義そのものなのであろう。では、「日本カトリック」とはどういうものを想定してるのか。粕谷師の意気込みから20年近くたった今でもその姿は明確ではなく、政治的発言を繰り返す何人かの司教が登場してきただけという印象を私は持っている。
 つまり、南條氏の報告を、「日本の司教団は出席しないどころか、回答書も出さないで何してんだ」と誤解することは避けねばならない。粕谷師によれば、日本での福音宣教の「方法」と「内容」に関して、日本司教団は、ローマとは異なる独自の立場をとっているようだ。とはいえ、正平協路線に振り回される岡田大司教様も大変だとは思うが、もう少し地区教会や一般信徒のレベルに下ろしてでも、「日本カトリック」とは何なのかの議論をして欲しいと思う。アジアのカトリックと一口でいうが、韓国、フィリッピンのカトリックは日本とは異なっている面があるのではないか。ローマを批判するだけではなく、韓国、フィリッピンから日本のカトリックが学ぶものは何なのか、考えていきたい。
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神学講座(その12) ハンス・キュンク Hans Kueng (1928- )

2015-12-07 22:21:01 | 神学
 神学講座は、今日12月7日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第9章「ハンス・キュンク」に入りました。快晴の月曜日ということで参加者は20名を超えていましたでしょうか。お話しの場所もお聖堂から会議室に移り、アットホームな雰囲気のなかでの講義でした。
 いよいよキュンクです。前回のバルタザールが教会の婚姻神秘主義を唱えていわば「反動的な」神学者というラベルを貼られることが多いのと対照的に、キュンクは「あまりにもラディカルな」神学者と呼ばれることが多いようだ。安楽死宣言で話題になったが、おそらくまだ存命なのだと思う。スイス人である。
 キュンクの(カトリック)教会批判は舌鋒鋭く、痛快なくらいはっきりとものをいう。私もかれの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからバルトまで』(片山訳・新教出版)を読んだことがあるが、よくここまで言うかと思う箇所がいくつもあった。当然だがバルトへの評価は高い。といって、ベネディクト16世から叱責を受け、神学の教授資格を剥奪されても、教会の外に出ることはなく、教会の中にとどまり批判的視点を貫いている。これが今でも教会の内外にキュンク支持者が多い理由かもしれない。しかし神学者としてはラッティンガー(ベネディクト16世)は学友だし、相互に相手を認め合っていたようだが、キュンクの教会批判は、結局はヴォイティワ(ヨハネ・パウロ二世)批判で頂点に達する。ラッティガーもヴァイティワも神学者としては抜群なのだろうが、キュンクはヨハネ・パウロ二世の権威主義的姿勢を徹底的に批判していく。一般的にはこの二人の教皇様を比べると、教皇としてはヨハネ・パウロ二世のほうが人気が高かったように思うが、キュンクの評価は逆のようだ。ヨハネ・パウロ二世はキュンクたちが作った第二バチカン公会議の成果を崩していった張本人だといわんばかりである。このベネディクト16世がキュンクを叱責するのだから、人の評価は難しい。著者カーによれば、キュンクとベネディクト16世は最後には和解したようだが(これもメディア向けのショウという人もいるようだ)、キュンクはかなり明るく、ねばり強い性格の人のようだ。
 キュンクは、新スコラ主義に基づく7年の神学教育の全課程を修了した希有な神学者だという。哲学4年・神学3年という神学教育(現在は6年制らしいが)を背景に持つが故に彼の主張は説得力があったのかもしれない。H神父様も神学生の時に受けた教会論の講義はほとんどキュンクの教会論だったという。当時の彼の神学の影響力はそれほど大きかったということなのだろう。今日の講義でも、言葉の端々で今でもキュンク ファンかなと思わせる話しっぷりだった。H神父様は、第二バチカン公会議の落とし子の世代の神父様なのかもしれない。
 さて、キュンクの神学は多岐にわたる。バルト義認論の検討とアポカタスタシス(万物復興と訳されることが多い、すべての者が救われるという選びの神学のひとつ)の対置、啓示論における聖書の重視、マリア論、などなどが本章で紹介されている。が、キュンク神学は結局は教皇論、特にその「不可謬性」批判が中心とみてよいだろう。この点に関してK・ラーナーとの相違点や類似点を本章は詳しく論じているが、詳細は省きたい。著者カーが指摘するポイントはいくつもあるが、問題点は訳語にもある。日本語では「不可謬」と訳されるが、Pastor Aeternus (パストール・エテルヌス、永遠の牧者)のことだ。ドイツ語で Unfehlbarkeit, 英語でInfallibility。
英語でも、faltlessness, sinlessness, errorlessness,などと間違って受け取られかねないのと同様に、日本語でも不可謬と訳すとなにか教皇は間違いを犯さない、罪を犯さない、という意味で受け取られかねない。公教要理の本などでは、「信仰に関してのみ」とかいいわけめいた説明がなされているが、キュンクは明快だ。第一バチカン公会議の教皇不可謬性の憲章は間違いだと断定している。どうしてもと言うなら、「不朽性」(Indefectibility)でよいという。
 と、いわれても小生などにはよくわからないが、教皇至上主義と公会議至上主義の対立は教会のアキレス腱だし、教皇至上主義にとっては不可謬性論はコーナーストーンだということはわかる。プロテスタントとの、東方教会との、エキュメニズムの運動が超えるべき神学的課題は大きい。また、公教要理もやっと新スコラ主義から脱したものの、これといった公教要理の定本をわれわれがまだ持てないのも、こういう神学的課題が残されているからなのだろう。
 本章の最後ではグローバリゼーションの倫理という最近のキュンクの関心が紹介されている。科学と信仰の対話、諸宗教との対話、というテーマだ。論点としては、司祭による性的虐待問題とか、ラテン語のミサに戻りたいとかいう声に代表される教会の堕落・沈滞・保守化が批判される。教会の「改革」はいまだ緒に就いたばかりだというのがキュンクの主張のようだ。キュンクから学ぶべき点はまだまだ残っているように思われた。
 最後にH神父様はこう言われた。「キュンクのいうことはよくわかる。でも、それってやっぱり、ヨーロッパの話じゃないの。」
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