カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

無粋な自分にあきれる ー 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た

2022-10-29 17:52:26 | 映画


 映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。3時間の長編だった。中休みがあったが、年寄りにはつらい。観客はほとんど高齢者、しかも女性。村上春樹原作だからだろうか。わたしは村上春樹はほとんど読んだことがないので予備知識ゼロだった。2021年のカンヌ国際映画祭の作品賞など賞をたくさんもらった映画らしいという程度の知識だった。

 映画が終わった直後の印象はこれは宗教映画なのではないか、というものであった。なにか宗教的なシーンが出てくるわけではないが、映像の余韻は宗教的だった。ストーリーとしては、妻に死なれた主人公の苦しみと立ち直りを描いているのだが、無神論者の宗教性みたいなものを描いているような印象を受けた。チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇だからかもしれない。この映画の評価は日本国内より海外で高いのはそのせいではないだろうか。登場人物3人とも殺人者(主人公・運転手・主役俳優)であり、3人とも苦しみから逃れようとしている。
 映画の冒頭からセックスシーンが出てきて年寄りだらけの会場は一瞬シーンとなり、さてこれからどうなることやらと思わせたが、全体は二重・三重の劇中劇みたいで、シリアスなものだった。芸術映画と呼んでよいだろう。
 ストーリーはよくはわからなかった。SNSにはいろいろあらすじの紹介があるようだが、原作を本で読んでから観る、という映画ではなさそうだった。短い発話と美しい映像を楽しむ、という映画のようだった。対話ではなく発話と言いたいくらい、言葉が断片的だ。発話と言えば、言語は日本語・英語・中国語、韓国語そして韓国式手話が入り乱れる。手話はきれいだった。説得力があった。だが、字幕だけではストーリーは追いきれない。
 車が主役みたいで、赤色のSAAB サーブ900、ターボ車だ。車好きは楽しめるのではないか。ターボエンジンの音は良かった。広島から北海道まで一気に走り抜けるのだ。ほとんど広島での撮影だというが映像はきれいだ。瀬戸内海のようだ。

 

【SAAB】

 

 よくわからない点もあった。映画の前半はだれもマスクをしていないが、終わり頃は登場人物はマスクをしている。撮影はコロナ禍にかかったのかもしれない。また、主人公をはじめ煙草を吸う人が多く登場し、違和感があった。今の時代にクルマの中でたばこを吸う人はいないだろう。煙草の煙がなければ絵にならないのだろうか。それに、ラストシーンは突然韓国のコンビニだ。主役の女性もなにか吹っ切れたように明るい。何を暗示させたいのかわからなかった。原作の短編集「女のいない男たち」を読んでくださいということなのだろうか。
 ということで、男女の感情の機微、その変化に私はついていけなかったようだ。無粋と言われればそれまでで、村上春樹がノーベル賞をもらう前に少しは読んでおかねばと思った。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本仏教は大乗仏教の形骸か完成か ー 仏教概論(4)

2022-10-28 14:51:05 | 神学


Ⅲ 修行生活と教団

 第3章は「修行生活と教団」と題されているが、教団論ではない。修行という出家の生活様式の話である。在家の話ではない。出家の話だ。サンガ(僧伽)は出家した修行者の集団、いわば共同体だ。

 修行についての考え方の変化が仏教の日本化を進め、現代日本の葬式仏教という特有の仏教の形態を生み出しのではないか、というのが私の仮説だ。インドでも中国でも仏教は衰退したと言われる。現代日本の仏教を葬式仏教と呼んでよいのなら、葬式仏教は形骸化した大乗仏教なのだろうか。それとも、大乗仏教は日本でこそ葬式仏教という形で一つの完成形に辿り着いたと言えるのだろうか(1)。

 修行(spiritual experience)とは何らかの宗教体験を通して自分の信仰を強めることだと考えるのなら、どの宗教にも修行のようなものは有るのだろう。だが、修行をどの程度重視するかは宗教によって異なるのではないか。

 救いや成仏は絶対者からの一方的に与えられる恩恵・恩寵であり、人間側の努力や修行は役に立たないという考え方もある。一部のプロテスタントや浄土真宗に見られる考え方だ。他方、救いや成仏には人間の側の努力や修行が必要だという考え方もある。ほとんどの宗教はそういう意味での修行の必要性は認めているだろう。

 修行には身体の修行が精神の修行につながるという考え方があるようだ。体を鍛えることが心を鍛えることになるという考え方だ。仏教ではこの考え方は「三学」と呼ばれるらしい。「戒定慧」説だ。修行とはこの三学を修めることを意味するようだ。戒定慧のには五つあって、その中でも、不淫・不飲酒は厳しい条件だ。要は、結婚するな(家族を持つな)、酒を飲むな、だ。日本仏教はこの不淫を破る(破戒)ことで定着してきたようだ。なぜ出家者(僧侶)は妻帯しても良いのか(2)。

 いろいろ議論があるようだが、結局は小乗仏教が言っていた「空」とか「識」とかいう抽象的な教義では出家した者の集まりであるサンガ(僧伽)を守れなくなったのではないか。空や識という抽象論を捨て、現実の存在をそのまま認め、受け入れてく。現実主義の立場に立つ。仏教では「諸法実相」と言うようだ。「本地垂迹説」の成立などその具体例だろう。こうして日本の大乗仏教は抽象論から現実論へ移行する。寺院はサンガの性格を失っていく。修行者(比丘/比丘尼)の形態も変わる。出家・在家の区別が曖昧になってくる(3)。仏教の日本化にはこう言う背景があるのではないか。

 これらは私の思いつきでしかないが、日本の仏教は、初期仏教の「覚り」論(真理論)を捨て、新たな出家論と修行論を作り始める。自分一人だけ救われればよい、成仏できればよい、ではなく、みんな一緒に救われましょう、浄土に行きましょう、と考えるようになる。いわば個人主義の放棄だ。日本の大乗仏教、特に密教にはこういう思想があるように思えるが、どうだろうか。

 テーマの教団については、今回の学び合いの会では、サンガ(僧伽)は建物か集団かという意味で、キリスト教の教会との比較が少し議論されただけだった。初期の出家はホームレスだった。食べ物は恵んでもらっていたのだろう。キリスト教の初期の修道者たちもホームレスだったのだろう。でも仏教のように農作業を禁じられてはいなかったようだ。また、サンガは出家修道者だけの集まりだが、教会は司祭と信徒の集まり(いわば出家と在家の集まり)だ。ではサンガはどのような歴史的展開を遂げたのだろうか。次回の議論になる。

【サンガ】

 


1 葬式仏教論では神仏混淆とか檀家制度とか廃仏毀釈とか議論されるがそれは別の議論となる。同時に今日の葬式仏教論では、都市化や高齢化の進展の中で葬式仏教すら成り立たない寺院の問題も議論されているという。コロナ禍の中で葬儀の形態は大きく変わろうとしているようだ。
2 この問いは逆になぜ出家者は、聖職者は、妻帯してはならないのか、という問いでもある。もちろん一部の浄土真宗のように妻帯を許さない宗派もあるようだ。キリスト教でもイスラム教でも事情は同じようだ。カトリックは妻帯を許さない。プロテスタントには許すところもあるという。
3 授戒の意味も曖昧になってくる。私度僧とか行者(あんじゃ)が登場し、受け入れられてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教義は輪廻と空 ー 仏教論(3)

2022-10-27 17:32:07 | 神学


 第2章は「仏教の教義」と題されている。仏教にはいわゆる共通の教義はないとよく言われる。これは褒め言葉で使われる場合と、蔑称だったり、また自ら卑下して使われる場合もある。教義を教理とは区別された概念とするなら(1)、仏教のすべての宗派に共通の教義はないと言えそうだ。
 教理として考えるなら、仏教の各宗派(原始・大乗・小乗・浄土・密教・禅など)ごとに議論せざるを得なくなる。我々が目にする仏教の解説書はほとんど各宗派の教理論であり、その比較であるといえそうだ。
 ここではあえて、宗派にとらわれずに、小乗の「輪廻」論、大乗の「空」論を教義に近いものとして考えてみる(2)。シーダルタ(シャカ)輪廻論(縁起論)からナーガールジュナへという展開の中で仏教の教義の変化・発展を無理矢理整理してみる。

1 輪廻説をシーダルタの教えの中核だと言うとき,具体的には「六道輪廻」のことを言っているらしい。命あるものは六道の世界のどこかに生まれ変わり(転生し)、これを繰り返すというわけだ。六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道なのだという。
 では輪廻しないところ(場所)、ものはなんなのか。どこにあるのか。それは、涅槃とか、解脱と呼ばれるようだ。だから覚るとは輪廻から脱出して(解脱して)涅槃に至るということのようだ。
 では誰が,何が解脱するのか。どうすれば解脱できるのか。仏教ではこういう風に、解脱する人・もの、つまり主体のような物を想定すること自体が覚りの境地に達していないとされるようだ。ここにキリスト教的な予定説を読み取る人もいるようだが、普通は曹洞宗的な瞑想(只管打坐)か臨済宗的な問答(公案)を通して覚りの境地に至ると説明されるようだ。これは禅宗的なアプローチなので仏教の専門家はもちろんそういう言い方はしないのだろうが、それにしてもシャカの数多くの教えの中で輪廻説がそれほど重要なのかどうかはよくわからない。輪廻という考え方は仏教誕生よりもずっと古い考え方のようだ。また、現代日本人は自分が死後輪廻するなんて本気で考えてはいないのではないか。日本仏教では輪廻説は教義としては弱い気がする。

2 空の思想はナーガールジュナ(龍樹)の『中論』での展開が重要らしい(3)。ナーガールジュナの思想はまず「八不中道」論、または単に「中道」論と呼ばれるようだ。「およそ縁起であるもの、それをわれわれは中道と呼ぶ」と『中論頌』に書かれているという(4)。空の思想の解釈は多種多様でわれわれが口を挟むことは出来ないが、空とは無自性のことであるとは言えそうだ。シャカの言う縁起は結局は因果関係のことだから、すべての現象はそれ自体で存在する実体ではない(4)、つまり「自性」ではない。つまり「無自性」である。一切は縁起であり、無自性であり、空である、というのはこういうことを言うらしい。つまり、この無自性のことを空と呼ぶようだ。中道論には「四諦」説や「八正道」説などがあるようだが、これについてはすでに2018年のブログで紹介している。結局、この空の思想の中心は「二諦説」と呼ばれ、釈迦の教えなどは世俗諦であるが、第一義諦こそ究極の真理であると考えるようだ(5)。

3 このように仏教の教義を輪廻説、空の思想と特徴付けたとしても、どちらも現在の視点からはなかなかピンと来ない。キリスト教の教義、使徒信条とか、三位一体説とかの持つ圧倒的な力強さと比べるとなにか説得力に欠ける。そこで結局は、仏教の教義は、密教の唯識論に集約されてくると考えてみよう。
 もちろん大乗仏教の世界での話だが、この世の現象はすべて空であり、輪廻するだけだというのなら、一体何が輪廻するのか。霊魂か、肉体か。仏教は霊魂も肉体もその存在を認めない。では何が輪廻するのか。どうもそれを「」と呼んでいるようだ。現代風に言えば潜在意識みたいなものらしい。詳しい説明は専門書に任せるとして、唯識論の特徴はこの識を、意識を、いくつかの「層」に分けて考えているようだ。まず上の層に「五識」があり、その下に「七識」があり「末那識」(マナ識)と呼ばれる。現代心理学で言えば潜在意識みたいなものらしい(5)。さらにその下に「八識」があるという。この八識が「阿頼耶識」(アラヤ識)とよばれ、最もわかりずらい。そして最も重要な識らしい。主観でも客観でもない最も根本的なものらしく、普通は「色即是空」と呼ばれているようだ(色(つまり存在)は空であり、実体はない)。

 わかったようでわからない議論だが、仏教の教義を唯識論に求めるのは無理かもしれない。なぜなら普通唯識論は法相宗が支える思想だとされているからだ。識とはという意味だ。7世紀に三蔵法師がインドから中国に持ち帰った経典は唯識論の経典だったという。法隆寺や薬師寺は法相宗だ。法相宗は現在でも奈良仏教の中心として残っているという(6)。S氏は唯識論は法相宗の教義だと限定的に説明しておられたが、致し方ないのかもしれない。他方、橋爪・大澤氏は「唯識論は現代的だ」と評価している(7)。唯識論はキリスト教の神秘主義と同じようにもっと注目を浴びてもよい議論かもしれない。

 

【唯識(八識説)】

 


1 教理は各宗教の始祖・開祖の言説を整理したもので、教義は各宗教の共通の会議で公に承認されたものと理解してみる。カトリックで言えば、使徒信条は教義であり、カテキズム(『カトリック教会のカテキズム』や『カトリック要理』など)は教理と呼べそうだ。教義をドグマと言い換えると、その宗教の教えの体系化されたものというニュアンスがでてくる。
2 輪廻説には歴史的背景として縁起説と煩悩論があるようだ。縁起説が煩悩論と結びつくことでシャカの輪廻思想が生まれたとも考えられるようだ。
3 ナーガールジュナ 150~250頃。中観派の祖。広く大乗仏教の祖とも言われる。キリスト教で言えばパウロのような位置づけの印象を受ける。
4 縁起説は、すべてはなにか固定的な実体ではなく、他との関係の中でのみ存在すると考える。現代哲学で言えば相関主義とでも呼べそうだ。真理は、実体ではなく関係なので、「般若」によってのみ獲得可能だという。つまり、般若心経を唱えて知恵(般若)をつければ真理を覚れます、と言っているのだろうか。
4 瓜生中『お経読本』 16頁 2014
5 第一義諦と世俗諦の違いの説明は他書に譲る。要は、真理を言語や概念で把握・表現できるのかどうかということらしい。中観派の中観とは存在と非存在の中間という意味らしく、キリスト教の否定神学との類似性がしばしば言及される。これはこれで興味深い論点だが別稿にゆずりたい。
 ちなみに、否定神学とは、神の存在証明を「神は~ではない」という否定的表現でしか語れないと主張する神学的立場のことだ。。神秘主義神学が代表例だ。正統派の肯定神学と並立している。ジョンストン師は否定神学を高く評価しながらも、肯定神学(カタファティック神学とも呼ばれる)を見過ごしてはならないと警告している(『愛と英知の道』46頁)。
6 五識とは眼耳鼻舌身でそれに意識を付け加える。
7 南都仏教・奈良仏教は檀家を持たず、葬儀も挙げない、法要もないので財政面はどうしているのだろう。自教団の僧侶の葬儀も他宗にあげてもらっているという。南都6宗は今は南都3宗になってしまっているようだ。
7 橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』 第5章 2013

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知ってそうで知らない仏教 ー 仏教概論(2)

2022-10-26 10:23:00 | 神学


 「はじめに」での問いは「なぜ仏教を学ぶのか」であった。報告では4点が指摘された。
①現代は「諸宗教の神学」の時代だから
②仏教はキリスト教、イスラームとならぶ世界三大宗教だから
③仏教が日本の精神文化に与えた影響が大きいから
④仏教研究を通してキリスト教信仰を再確認したいから

 どれももっともな理由だが、それ以上ではない。
現代日本の仏教は「葬式仏教」として我々の目の前にある。普遍宗教だというが、日本が乗り越えなければならない諸問題、たとえば財政破綻について、ウクライナについて、コロナについて、津波と原発事故について、なにかを語っているわけでもない。一人一人の人間の苦難と救いについて手がかりを与えてくれているわけでもない。キリスト教やイスラム教ではそれが出来ているというわけではないが、仏教はなぜか静かに佇んでいる。


 葬式仏教であることが悪いわけではない。ではなぜ黙っているのか。仏教が語らないからではなく、われわれが問いかけないからではないか。仏教よ、お前ならなんと答えるのか、と問うてみよう。そのためには、問うためには、こちらに仏教について少しは知識がなければならない。われわれクリスチャンは仏教について何を知っているというのか。よく聞く般若心経ですらサンスクリットだから、日本語ではないから、何を言っているのかわからない。少しは勉強してみましょうということであろう。

 第1章は「仏教とはなにか」と題されていた。大げさな問いかけだが、仏教の定義なしでは義論が進まない。
 勉強会では主に仏教の歴史的発展の経緯をみながらシャカの教えを整理した(1)。仏教といっても原始仏教・大乗教・小乗教・浄土教・密教・禅といろいろある。というより、仏教は大きく見てこの6種類に分類される。そして相互にあまり交流はなさそうだ。なので、そのなかで共通の定義を探すのは至難の業だが、キリスト教との比較で考えてみる。

 キリスト教の定義はー難しい議論は別としてー最低限、「イエス・キリストの復活を信じる」宗教といえる。この伝で言えば、仏教は「ゴーダマ・シッダルタが悟りを開いたことを信じる」宗教と言えるのではないか。ゴーダマ・シッダルタとはシャカのことであり、仏陀のことである。キリスト教の「復活」、仏教の「覚り」が定義上のキーワードと考えてみる(2)。

 といっても、覚りとはなにかは誰もわからない。ゴーダマ・シッダルタが沙羅双樹の下で悟りを開いたとき、一言も発しなかったという。悟りは言語化できないもののようだ。イエスは書き物を残さなかった。ムハンマドは文盲だったといわれる。シャカも文書を残していない。
 シャカの教え、言説は、結集(けつじゅう 経典の編集会議)を通して数百年にわたって文字として整理されてくる(3)。だから、覚りとはなにかは尽きることのない論点なのであろう。

 覚り論は結局は「空とはなにか」という問いへの答えをめぐってなされる。「」(くう)こそ初期仏教の定義論の中心となっているようだ(4)。空は英語ではnothingnessと訳されるらしい。empitiness ではないという。つまり、空とは「無」のことではなく、なにかが有るとか無いとかいう存在論の話ではないらしい。こういう議論は哲学好きには面白い話だが、実証系の人には絵空事に聞こえるだろう。わたしは現役時代の仕事は実証系だったが、この種の議論は嫌いなほうではない。次稿につなぎたい。



1 歴史的発展の話で使われた資料を載せておきたい。

【資料1】

 

2 「覚り」と「悟り」の区別は議論が尽きないらしい。ここでは「覚り」とは「真理」を獲得すること、「悟り」とは「煩悩」を克服すること、と理解しておきたい。それぞれ議論が尽きない概念なので次稿以降どこかで触れてみたい。

【シャカは何を悟ったか 資料2】

 


3 【ブッダの教え概略 資料3】

4 佐々木閑『集中講義 大乗仏教』 NHK出版 2017
  橋本大三郎・大沢真幸『ゆかいな仏教』 サンガ 2013

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧統一協会は3大異端のひとつ ー 仏教概論(1)

2022-10-25 13:26:25 | 神学


 2022年10月の「学び合いの会」は肌寒い10月末に開かれた。急に寒くなったので出席者も少なかった。テーマは「仏教概論」である。わかったようでわからない仏教について素人なりに学んでみましょうということのようだ。

 なぜこの時期に仏教概論をとりあげるのか。明示はされなかったけれど背景に旧統一協会問題があることはみなわかっていた(1)。旧統一協会はキリスト教では異端である(2)。だが、旧統一協会問題は宗教問題でもあると同時に政治問題でもあるのでカトリック教会内ではなかなか表だっては話題にしずらい。そこで補助線を引いてみる。仏教にはなぜ異端がないのか。仏教は拡大・拡散するだけでなぜ異端が生まれないのか。

 今回のテーマである仏教概論は実は2018年の学び合いの会ですでに取り上げられたものである。1月から数回にわたって学んだ。時代背景も変化し、学び合いの会の顔ぶれも変わったので同じテーマだが再度取り上げて見たいと言うことであった。その時のテーマは「仏教とキリスト教」と題されており、このブログでも8回にわたって要旨を報告している。用いられているレジュメは今回のものと同じものなので、興味のある方はその時のブログをお読みいただけると幸いである。2018年1月23日から8回にわけて投稿している。要約ではあるが、コロナ禍前であり、このテーマを取り上げた社会的背景が現在とは異なるのでそれなりに意味があると思われる。

 今回は従って議論の要旨をまとめると言うよりは、私が重要だと思った論点をいくつか取り上げて私論を述べてみたい。素人の感想、ぼやきの域を出ないが、要約の繰り返しよりはよいだろう。

 レジュメの目次は以下の通りである。括弧内は私が今回付記したものである。

0 なぜ仏教を学ぶのか
1 仏教とはなにか(シャカと結集 けつじゅう)
2 仏教の教義(輪廻と空)
3 修行生活と教団(悟りとサンガ)
4 仏教の歴史的展開(上座部仏教・大乗仏教)
5 さまざまな仏教(浄土教・禅宗・密教)
6 大乗経典(般若心経・法華経・浄土三部経)
7 日本仏教の各宗派(南都六宗(三宗)・平安仏教・鎌倉仏教)
8 仏教とキリスト教(禅と神秘主義)

 次回から中を見てみたい。


1 ここでは旧統一協会という名称を使う。日本のメディアでは「旧統一教会」と標記することが多いようだ。統一協会の正式の宗教法人名称は「世界基督教統一神霊協会」だ。現在は「世界平和統一家庭連合」と改名されている。英語表記は ” Family Federation for World Peace and Unification”、略称は FFWPUだという。現在はさらに名称変更しているという。「天の父母様教団(英語表記:Heavenly Parents Church)」らしい。ここでは教団、Church という言葉が使われている。韓国語でどう表記されているのかはわからないが、教団とかチャーチといわれるとまるでキリスト教系のように聞こえてしまう。通称だからどちらでも良いとも言えるが、協会というより教会という言葉の方がイメージしやすいからだろうがまぎらわしい。
 我々が学生時代は「原理研究会」(または単に原理)などと呼ばれていた気がする。キリスト教を使って(名乗って)世界を統一しようともくろむ宗教団体だが、政治団体としての性格が強いようだ。キリスト教では、「エホバの証人」(ものみの塔)、「モルモン教」とならんで「キリスト教三大異端」の一つとされている。キリスト教系の新興宗教・新宗教には様々なものがあるが、旧統一協会は「新新宗教」と類型化されることもある。この三つは「カルト教団」の性格が強く(カルトの定義は多様なので別に論じてみたい)、社会に混乱を招く社会団体ともいえる。こういう異端運動はキリスト教系の装いを持っているとされるが、実はキリスト教とは全く別物である。現代のキリスト教において異端か否かの判断基準は明確だ。「使徒継承の信仰告白」(三位一体を認めることなど)を承認するか否かにかかっている。旧統一協会はキリスト教の異端である

ーーーーーーーーーーー
使徒信条

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。

— 2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可

2 統一協会については新書やwikipediaなど様々なところで説明されているので付言することはないが、この団体の理念や教えの特徴は確認しておく必要がある。
旧統一協会の創始者は韓国人の文鮮明(1920-2012)。戦前に早稲田大学付属高等工学校に留学。日本は最大の活動拠点のようだ。「サン鮮・ミョン明・ムーン文」を英語読みして「サンsun太陽とムーンmoon月(聖霊)」を「鮮やかに」するキリストの再臨と自称したという。教義の中心は科学と宗教を統一した統一原理原論と呼ばれ、『原理原本』に書かれているという。聖書を陰陽道を使って解釈したものらしく、文鮮明は自らを「第三のアダム」と呼んでいるようだ。この団体は理想社会を築くためと称して当時のソ連の共産主義に対抗するため「勝共連合」を結成し、「世界平和教授アカデミー」や「世界指導者セミバー」などに知識人や政治家を集めた。また「合同結婚式」は世界平和は家庭の平和から始まるという考えからおこなわれる宗教儀式だという。
 1965年に東京都から宗教法人の認可を受け、2015年に文化庁がなぜか名称変更を決定している。日本を初め、英米独カナダに支部を持ち、政治権力に接近しているという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする