カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『カトリック神学への招き』(その11)ー 第13章「倫理神学(2)」

2015-07-28 08:45:43 | 神学
こんばんは。岩瀬です。「学び合いの会」は7月27日、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第5部「実践神学」の第13章「倫理神学」(竹内修一)その2(下)に入りました。猛暑日の中参加者は7名でした。
 倫理神学の第二部ということで、第10節から第12節までの「応用倫理神学」が紹介されました。前回の基礎倫理神学部分は、『カトリック教会のカテキズム』の第3編「キリストと一致して生きる」の第一部「人間の召命、霊における生活」の第1章「人格の尊厳」をそのままなぞったような論文だった。ここはT.アクイナスが完成した倫理神学の中核部分なので、あまり新しいことは言えないことはわかるが、この応用倫理神学の部分は著者の個性が期待される部分である。しかし、結論的には、著者は応用倫理(実践倫理)の取り扱うべき課題を列挙するが、その内容について立ち入ることは無い。教会の立場が明確には定まっていない論点が多々あるとはいえ、もう少し踏み込んだ議論が欲しいところだ。紹介者も本論文があまりにも一般論に終始しているためか、『カテキズム』の第3編第2部の「神の十戒」を対応させながら説明された。良いアイディアであった。
 カトリック神学での「倫理」とは「人間の行為の善悪の判断基準」という意味なので、(「岩波キリスト教辞典」)、「応用倫理神学」というと「基礎倫理神学」を具体的な社会問題に適用する部門かと思ったが、著者はそうでなないという。むしろ社会問題を個別に検討しながら新しい倫理基準を作るのが応用倫理神学なのだという。では具体的にはどういうことなのか。
 著者は応用倫理の課題として3つ取り上げる:生命倫理・性倫理・社会倫理。人工知能と倫理などというホットな話題が入っていないのは致し方ないとしても、環境倫理が独立して入って来ていないのが解せない。なにか特別な意味があるのかもしれない。
 生命倫理の課題は命の「誕生」に関する課題:人工授精・体外受精・出生前診断・人工中絶・クローン、生命の「終末」に関しての課題は:脳死・臓器移植・延命治療・尊厳死・安楽死・ホスピス・エイズ・他殺・自殺・死刑、が指摘される。どれも重い課題で、カトリック信者はどういう立場をとるべきか『カテキズム』を参照するわけだが、そこにすべての答えが用意されているわけでは無い。したがって、実際にはカトリック信者のなかでも多様な意見や実践、選択があると思われる。つまり、教会の教え通りに行動している信者ばかりでは無いだろうし、だからといっていつも告解の対象になっているわけでもあるまい。また、教会の教えが何かすら、わからない人も多いのでは無いか。そもそも教会はきちんとした教えを信者に積極的に伝えているのだろうか、というような根本的な問いが脳裏に浮かぶ。
 著者はこういう個別問題に関して具体的なことをのべているわけではない。それはそれとして一つの見識だと思うが、著者は一つ興味深い指摘をしている。
「命に対する理解・受容は、それぞれの風土や文化の影響を受けている。それゆえ、日本において命の倫理に取り組むにあたっては、日本という風土の中で育まれてきた生命観を再認識することも大切であろう。」
 つまり、応用倫理には文化や風土を反映させるべきだと言っているようだ。換言すれば、神学(教理)か文化か、という問いである。例えば、死刑制度に関して教会は原則認めていない。しかし日本人の圧倒的多数は死刑賛成論である。おそらくカトリック信者の中での意見の分布もそれほど変わらないであろう。ならば、自殺にかんして日本の最近のカトリック教会がいわば「ゆるやかな、包容的な」態度をとりつつあるのと同じように、日本の教会も死刑賛成に傾いていった方が良い、ということなのであろうか。このロジックは自殺や同性愛にも適用できるのだろうか。もうすこし掘り下げた議論が欲しいところである。
 性倫理に関しては、著者は一般論をのべるにとどまる。最近、同性婚を許容する国家や教会が生まれつつある中、もう少し日本社会に即した具体論が欲しいところである。
 社会倫理にかんしては、著者は共通善・正義・平和の3つの課題を指摘しているが、「社会正義は・・・・共通善の実現を目指す」と述べるのみである。現在、正義論で言えば、リベラリズム・リバタリアン・コミュニタリアン間の論争を外すわけにはいかないと思うが、どうして著者の視界に入ってこないのだろうか。話題になったM・サンデルを知らないわけでも無いだろうに、と思う。
 ということで、著者は問題点を指摘するだけで、自説を述べたり、教会のなかの意見の多様性を紹介しているわけでは無い。難しい課題ばかりであることは重々承知の上でいえば、われわれ平信徒の判断材料になる論点をもう少し展開して欲しかった。残念としか言い様がない。
 日本の司教団は、憲法改正・集団的自衛権・沖縄米軍基地移転・原発などの政治問題には明確な立場を表明している。それはそれで理解できるが、どうしてもう少しこういう応用倫理の課題に取り組んで、きちんと意見を表明し、日本社会に思想的影響力を行使しようとしないのであろうか。司教団の今のままの姿勢では信者の中でさえ「あぁそうですか」ですまされてしまうのではないか。戦前の岩下壮一・吉満義彦を思い起こしている。評価は分かれるが、戦後の田中耕太郎のネオトミスト的な自然法思想の訴えを思い起こす。独仏の司教団は、今回のギリシャ問題のような政治問題には発言していないという。発言は倫理問題に集中する。アメリカでは人工妊娠中絶問題は大統領選挙の結果を左右する。なぜ、日本の司教団は政治問題ばかりにかかわるのか。どうしてもっと倫理問題について発言しないのか。関東のある司教様に聞くと、「もっともな疑問だが、倫理問題に発言したくとも、知識や経験のある司祭がいないのでなんともならない」という。カトリックは日本ではマイノリティ集団である。数だけで言えば、カトリック教会の実働人数はいまや「エホバの証人」(ものみの塔)に抜かれたのでは無いか、と聞く。しかし思想的影響力は数だけでは決まらないだろう。言い換えれば、思想的裏付けを伴わない政治的主張のなかで信者が増えるはずが無い。それとも信者が増えなくとも、自分の「正しい」考えを主張すればよしとするのだろうか。戦前の教会への反省も大事だが、もう少し将来への展望を語って欲しいと思う。司祭の召し出しが少ないだけで無く、思想的にもわれわれは崖っぷちに立っているのではないだろうか。本論文は、内容としてはあまり学ぶところは無かったが、今の日本の教会でなにが不十分なのかを照らし出してくれたという意味で、学び甲斐がありました。
 質疑応答の時間では、おもに死刑制度について議論がなされました。少人数とはいえやはり賛成論・反対論に別れましたが、教理重視か、日本文化重視かは、楽しい議論でした。皆さん皆見識のある方々ですが、歳の功でしょうか、発言や主張は穏やかで、学ぶことの多い勉強会でした。
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神学講座(その9) バーナード・ロナガン(1904-1984)

2015-07-07 09:32:54 | 神学
 こんばんは。岩瀬です。 神学講座は今日7月6日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第7章「バーナード・ロナガン(1904-1984)に進みました。梅雨の大雨の中、しかもサッカー女子WC決勝戦の行われている時間帯そのものだったためか、参加者は20名弱でした。 ロナガンは、われわれカト研のメンバーにとっては、ジョンストン師を通してなじみのある神学者です。ジョンストン師は著書の中でも、講演の中でも、自分に影響を与えた神学者としてロナガン(とT・マートン、注1)に繰り返し言及し、引用している。思い起こされる方も多いのではないだろうか。
 しかし一般的にはロナガンの名前はそれほど知られているとは思えない。公会議の文書作成に携わったわけでもなさそうだし、優秀な弟子を輩出したわけでもなさそうだ。では、一体ジョンストン師は彼のどこにひかれたのであろうか。また、著者F.カーは、なぜ、ロナガンを「カロル・ヴィイティワ(ヨハネ・パウロ二世)に並ぶ二十世紀最大の哲学者」としてピックアップしているのか。
 まず、ジョンストン師側から見てみる。彼の著書『愛する』の原題は Being-in-love であることは皆さんご承知の通りです。Being-in-love は Loving(Love) とは異なること、を明らかにすることがこの本の主題でした。そしてこの言葉はロナガンの言葉なのです。『愛する』の訳者たちは、Being-in-love を 「恋する存在」と訳しており、F.カーの訳者たちは「愛のうちに存在する」と訳していて、適切な訳語の選択に苦労していることがわかる。また、ジョンストン師個人で見れば、ロナガンはイエズス会だし、その上アイリッシュ・カナダ人なので「英語」で考え、書いている(注2)。ジョンストン師は随分と身近に感じたようだ。しかも彼は名著『洞察』を書いた後、関心を霊性論に移してトマス主義神学研究から離れていくので、ジョンストン師の問題関心の変化と平行しているように思われる。 
 神学研究からみれば、ロナガンの『洞察』(Insight)(1957)は大きな思想的影響を与えたようだ。細井神父様は神学生時代にこの本を読まされたそうだ。まったくちんぷんかんぷんだったが、二つのことは覚えているという。ひとつは、神父様の言葉を借りると、「スコラ主義を180度ひっくり返した」哲学者(カーはロナガンを神学者というより哲学者と呼ぶべきと言っている)だと教わったという。バチカン第一公会議から二十世紀初頭まで支配していたトーマス理解(例えば、自然的秩序と超自然的秩序の機械的分離)を教会内部にとどまりながら批判し、正したという。第二は、長く続いた「恩恵論論争」(成聖の恩恵・助力の恩恵の区別をめぐるドミニコ会とイエズス会の間の論争)が実は不正確なトマス理解によるものであり、トマスの新しい解釈によれば意味の無い論争となるというロナガン説を教わったという。確かに第二バチカン公会議以降、われわれは成聖の恩恵とか助力の恩恵などという言葉を聴かなくなった。岩下壮一師の論文「成聖の神学」(1940)『信仰の遺産』(2015・岩波文庫)などを読むと、ロナガンはこういう議論を批判していたのだとわかる。)。
 『洞察』で言えば、門脇佳吉師は、ジョンストン師の『愛する』への「解説」のなかで、異様と思われるほどきつい言葉でこの『愛する』を「批判」している。それはジョンストン師は「ロナガン哲学・神学を使っている」からだ、という。門脇師はローマでロナガンの講義を聴いているので、ロナガンがトマス主義者だということはよくわかっている。そのうえで、ロナガンは「トマス主義者」だから駄目だと言う(注3)。この辺は、カトリックと「禅」の関係をどう捉えるかについて、ジョンストン師・門脇師・そして井上洋治師は三者三様なのでそのまま真に受けるわけにはいかないが、私としては、何もここまで強く言わなくとも、と思う。ジョンストン師は、「禅」が持つ「力動性」、ダイナミズムを結局理解できなかった、それはネオトミズムの限界だという批判(例えば若松栄輔『霊性の哲学』)は当てはまるとは思うが、だからといってなにもそこまで言わなくともと、やはり思う。が、このテーマはまた別の機会に考えてみたい。
 ロナガンは、前回取り上げたK・ラーナーと同じ年に生まれ、同じ年に亡くなっている。つまり同じ時代を生きたわけだが、「経験主義」の影響を強く受けている点では共通している。社会を「意味の世界・言語の世界」としてとらえていこうとする姿勢、共通の根源体験(referential point)を認めることで、宗教の多様性・多元性を認めようとする姿勢は、共通している。ヨハネ23世は、『洞察』を読んで、やはり公会議を開こう、と思い至ったという。この話が本当かどうかはわからないが、それほどロナガンのこの本はバチカン第二公会議を生み出す思想的背景として重要視されていたようだ。単に古いからと言ってトマス・アクイナス批判を繰り返すのではなく、トマスを読み直す、解釈し直すことによって、カトリック神学を豊かにしていくという姿勢はロナガンのレジェンドなのだろう。
 第二バチカン公会議以前の神学校では、解釈学や歴史研究は御法度だったという。勝手な議論を繰り広げると収拾がつかなくなるからだという。第二公会議以降聖書研究の成果を取り入れるのは当然のこととなっている。著者カーは、「今や、聖書批評や教理史などをふくまない組織神学なるものはあり得ない」と断定している。普通に言えば、自然神学は組織神学の中に組み込まれるということだ。そういう意味では、ロナガンは第二バチカン公会議を思想的に準備した人と言えるかもしれない。カーは、それを「カトリック思想の刷新という広大なプロセス」と呼んでいる。事実ロナガン自身、「神学者たちはフランス革命まで支配的であった思想を...大転換させ、現代の後継者たちの思想・・・へと適合させていった」と述べている。
 ジョンストン師からみれば、ロナガンの影響は『洞察』からのものもあっただろうけど、おもに引用されるのは『神学の方法』などロナガン後期のもの、または「霊性」論である。人間の「存在」が being-in-love になるのは、「回心」のときに無条件の愛に心を向けるときだという(『愛する』196頁)。(教会で、「改心」ではなく「回心」という言葉を使うのは、心が神の方を向くという意味を込めるため)。こういう存在論や霊性論はどうも門脇師の好みではないようだが、この第17章「愛する」はジョンストン師へのロナガンの影響がはっきり読み取れる秀作で、私の好みの論文というか、黙想のもとになっている。
(注1)トーマス・マートン師は神秘主義研究者で、特に禅とキリスト教の関係についての文献は今でも読まれるらしい。鈴木大拙、井筒俊彦、若松栄輔などによる言及がある。ジョンストン師は「感電という不慮の事故のためタイのバンコクで亡くなった」と書いているが(108頁)、交通事故死という説もあるし、また、その過激な主張のため「赤狩り」の犠牲になったという説もあるようだ。
(注2)20世紀前半のカトリック神学では前世紀のJ・ニューマンなきあと英語を使った神学者は少ないようだ。ここ10年グローバリズムのなかで英語はもはや外国語ではなく、世界語になってしまい、まるでエスペラントにとってかわったようだが、ジョンストン師の時代に英語で神学を論じることはマイナーな試みだったようだ。英語を母語として受け入れざるを得なかったジョンストン師がロナガンの言語論にひかれたのは当然かもしれない。ジョンストン師はボストンでロナガンに会ったとき、「あなたが言っているのは神秘主義のことだ」と言ったら「そうだ、そうだ」を返事されたと誇らしげに自伝のなかで語っている。
(注3)門脇師はここでははおもに「存在」概念についてのトマス主義的理解を批判している。しながら、実は日本人は「理性」で「存在」を見ないから、トマス主義からは禅に近づけないと言っているようだ。ジョンストン師は自分はあくまで「トマス主義」だと言っていたから、禅に「近づく」ことはあっても、結局は門脇師や井上師のように禅や仏教に「のめり込む」ことが無かったのだと思う。といっても、元気に活躍されている門脇師に敬意を表することにやぶさかでは無い。
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