カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

傘寿の高校同窓会

2023-03-06 03:04:51 | 社会学


 傘寿を共に祝う高校の同窓会に出てきた。高齢社会になったとはいえ(1)、傘寿を名目に同窓会が開かれるとはどういうことかと思い、思い切って顔を出してきた。
 コロナ禍でどこでもここ数年同窓会は開かれなかったと聞いていたので、よくぞこの時期に集まれたものだ。なんとかコロナ禍も治まりつつあるようで、幹事の皆さんも胸をなで下ろしたことであろう。
 卒業生全8組400人中70名の出席があったという。約2割だ。この人数が多いのか少ないのかはわからないが、よく集まったというべきであろう。聞くところによれば、コロナ前には米寿を祝う同窓会も開かれたことがあるという。クラス会や仲良しグループでの集まりはあっても、学年全体の傘寿や米寿の同窓会は珍しいのではないか。
 これが小・中学の同窓会ではなく、高校の同窓会というのが面白い。日本の同窓会制度、特に高校の同窓会の国際比較の視点から見た特異性は社会学者たちがつとに指摘してきている(2)。同窓会は擬似的な学校空間で集合的な記憶が呼び起こされる場だ。あまり知らない人からでも苗字で呼び捨てにされる場だ。わたしは個人的には違和感を覚えなくもないが、それが文化として定着しているのならそれもありなのであろう。
 70歳代、80歳代の同窓会は現役や定年前の人たちの同窓会とは違うようだ。勝ち組負け組という表面的な格差が背景に退き、元気に第二の人生を謳歌している人たちが表舞台に登場する機会だと言われる。でも本当にそうなのだろうか(3)。
 今日来れなかった人たちをも思い浮かべながら、我々が今生きているこの高齢社会のなかで同窓会が果たしている社会的機能が変わりつつあることを感じた。 数少ない知り合いの顔を見てホッとする。かれの健康と幸せを喜び、自分も元気でいられることを感謝できる貴重な機会になっているようだ。若い時の同窓会のように賑やかではない。喜寿の時と比べても、静かな、落ち着いた雰囲気の集まりだった。米寿で会うことはないだろうが、気持ちの安らぐひとときであった。

【同窓会】


1 以前は高齢社会と高齢化社会という言葉を使い分けていたが、いまは区別が意味を持たなくなったようだ。現在の日本では高齢者は3600万人以上で28%を超えている。超超高齢社会だ。2025年には3割を超えると推計されているようだ。
2 たとえば、黄順姫「日本のエリート高校」(1998)、「同窓会の社会学」(2007)など。フーコー流のポストモダニズム論の視点からの議論らしく、同窓会は記憶の共同体的再生装置とされている。
3 同窓会だから、年齢格差はない。ジェンダー格差もない(この高校は新制高校になって男女共学となったばかりで女性の入学者は全入学者の1割以下だったらしい)。

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倉沢進先生を悼む

2019-08-04 22:24:36 | 社会学


 2019年7月28日に倉沢先生が亡くなられた。長く病いを患われておられたので、ここしばらくはお顔を拝見していなかった。葬儀の際に最後のお別れをしたが、普段ふくよかだった先生が少しやせた顔をしておられた。忘れないうちに少し思い出を記しておきたい。

 先生に初めてお会いしたのは、先生が岡本先生の後任として東京都立大学の社会学研究室に赴任された時だった。おそらく1970年頃だったと思う。先生は9年生まれ(1934)なので、当時は30代半ばで、都市社会学者として颯爽と赴任してこられたのを覚えている。

 当時の都立の研究室は、小山隆、磯村英一の創設期の時代が終わり、岩井弘融教授、大塩俊介教授、河村望助教授、岡本英昭助教授、助手の私という体制だった。私の前の助手は石川晃弘さんだったが、河村さんが小山隆先生の退官のあと助教授に昇進すると、石川さんは中央に移っていった。私のあとの助手は松井清(明治学院)さんだったが、河村さんのあと都立では助手から講師、助教授への昇進は高橋さんまでなかったようだ。

 岡本先生(産業社会学)は磯村英一先生のあとに赴任され、学生の面倒見のよい先生だった。当時、出稼ぎ問題が大きな社会問題となっていて、新潟県松之山町の調査は研究室あげての大仕事だった。この岡本先生が突然退職され、亡くなり、後任として学芸大から赴任されたのが倉沢先生だった。この人事には磯村先生や岩井先生が尽力されたと聞いていた。この岩井先生もやがて大学紛争の中で事件を起こし、追われるように東洋大学に移っていかれた。学生の執拗な追求に手を上げ、その手がビール瓶を握っていたのはなんとも不運だった。岩井先生の後には古屋野正伍先生が来られる。考えてみれば研究室の草創期で、人事も安定していなかったのだろう。また、安保、大学紛争、70年安保と学生運動の時代で、代々木系と反代々木系の対立は、学生のみならず職員や教員の間でも根深いものがあった。

 社会学研究室は当時は人類学と同居であった。社会学と人類学がどうして同じ研究室に同居することになったのかはいろいろな人が書かれているようだが、人類学研究室もやがて人類学会を先導するような有力な学科に成長していくのだから、両者の関係はいつも緊張をはらんでいた。といって仲が悪かったわけではなく、会議は一緒だったし、同じ図書室で助手も院生も切磋琢磨していた。事務助手の井上さんが名助手で潤滑油だった。

 倉沢先生が赴任された頃の人類学は、馬淵東一教授、鈴木二郎教授、村武精一助教授、竹村卓二助手の時代だった。鈴木、村武両氏は昇進直後で張り切っていた時代だ。会議が長引くと、河村・村武・竹村・私の4人で渋谷に繰り出し、飲んだり、麻雀をしたりしていた。院生が一緒だったこともある。麻雀は河村、村武は強く、竹村さんと私は助手にもかかわらず散々搾り取られたのを思い出す。竹村さんが大阪にできた国立民族学博物館に転出すると小川正恭さんが後任の助手になるが、小川さんも倉沢さんも麻雀はからきしだった。この頃、大学紛争に疲れ切った私と小川さんは偶然にも一緒にフルブライト奨学金でピッツバーグ大学に留学した。ピッツバーグではお互い助け合った。

 私は助手だったから倉沢さんにも河村さんにも等距離で接した。河村さんは昭和6年組(1931)だから倉沢さんとは三学年違いか。東大の社会学研究室では生年月日より学年が序列の基本だから、倉沢さんは河村さんには一定の敬意を表していたと思う。年が近いとはいえ、お二人は研究領域も異なれば、方法論も全く異なる。だが外の人が言うほど対立した関係にはなかったと思う。基本的に先輩後輩なのだ。だが院生たちは異なる。指導教官ごとに院生たちが二つのグループに分かれていくのはどうしようもなかった。わたしもいくつかの大学を渡り歩いてきたので研究室の個性の違いが大きいことは十分承知しているが、都立大のこの二つのグループの切磋琢磨は驚異的であった。両方のゼミに出ていた人も何人かいたようである。こうしてお二人のゼミはともに学会を支える優秀な人材を輩出していった。

 お二人ともアルコールはやらない。だが、どちらかといえば、河村さんの方が性格というか、個性が強かった。学内でも学会でも、味方も多いが敵も多いタイプだったと思う。とはいえ、お二人とも学者の家系のご出身だから、研究室で一緒に、お昼を、弁当を食べるときは、話題が豊富で、学ぶことが多かった。わたしはお二人の大学院のゼミに出たことはないのでお二人から社会学を学んだとはいえないが、研究者のあり得べき姿を学んだと思っている。
 お二人は助手に対しても扱いは普通だった。岩井先生は、助手は研究室の主任教授は車で送り迎えすべきだと言われ、私は急遽自動車の免許を取る羽目になった。池袋の先生のお宅にお迎えに通ったものである。河村さんは自分も助手の経験があるのでそういうことはなかった。

 さて、倉沢さんの思い出である。いろいろ思い浮かんでくるが、『東京の社会地図』調査や、住民運動調査(静清バイパスの調査は長かった)など、都市社会学関連の業績は他に詳しい方がたくさんおられるので、記念論集でも出ればお弟子さんのどなたが書かれるだろう。また、日本都市社会学会や社会学会での活動も他に譲ろう。ここでは個人的な思い出を一つ二つ書いておきたい。

 一番強い印象は、倉沢さんがコンピューターに関心を持ち、プログラミンを覚え、やがてクラスター分析のプログラムを自分でFortranで組んで、社会地図の分析に使い始めたことだ。わたしも「IBM360」が東大に初めて入った頃、安田三郎先生に連れられて、これからはカードソーターの時代ではなく、コンピューターの時代だと大型計算機室に「拝みに」いった頃から興味を持っていたので、倉沢さんとは話はあった。都立大の計算機室で富士通の機械を相手にパンチカードを持って一緒に徹夜していたことを思い出す。シカゴ学派の話よりコンピューターの話の方が面白かった。

 お通夜の時の長男の学君の挨拶によると、このコンピューターへの関心は、囲碁への関心と重なっていたという。先生は囲碁は都立大ではアマチュア4段で通っていて本当に強かったようだが、囲碁とコンピューターがつながっていたという話には驚いた。私には今でもどうつながっていたのかわからない。コンピューターも大型計算機の時代からマイコン、パソコンの時代になってくると、つまり、MS-DOS, Windows の時代になってくると、先生の関心はまた囲碁とお能に戻っていったようだ。学君は将棋に才能があったらしく、かれが子供の頃先生のご自宅で何度か負かされた(教えられた)こをと覚えている。学君はやがて東大将棋部で活躍されたのではないだろうか。
 先生のお能の横笛(能管)は素人の域を超えていたようだ。蓼科の別荘ではよく吹いておられた。能管は単なる横笛ではなく独特の構造をしているようで、われわれが力一杯吹いてもスーの音も出ない。不思議な楽器だった。先生がご自分の体調の異変に気づかれたのも(パーキンソン)、能管を練習している時だったという。

 蓼科の別荘には何度も合宿で集まった。この別荘は先生が結婚記念に奥様に贈られたものとのことで、よく通われたようだ。先生は車はやらないのでもっぱら奥様が送り迎えをされていたのであろう。われわれが研究会で合宿するときは、茅野のショッピングセンターで買い物をし、食事係はもっぱら川本さん(駒澤大学)で、私は皿洗い係。夜は村の共同風呂に通った。お風呂は川本さんは烏の行水だが、倉沢さんは長湯で能弁だった。いつしか「河童風呂」と呼ぶようになり、我々の研究会も「カッパ研究会」と呼ぶようになった。倉沢さんは多くのお弟子さんを育てたが、学芸大・ICU・初期都立大時代のお弟子さんは第一世代のお弟子さんで、「オールドメンバー」と呼んでおられた。わたしもその末席に入っていたのかもしれない。この蓼科の東急の別荘には先生の友人知人が何人か別荘を持っておられ、よく一緒に碁を打っておられたという。

 蓼科に別荘を求められたのはおそらく先生の祖先が佐久のご出身だからだろう。臼田で代々郵便局長の家系だったというが、故郷を思う気持ちが強かったのだろう。学校は幼稚園から中学までお茶の水の付属だったと聞いているが、昭和10年代に幼稚園に通っていたというのだから、先生はエリートコースをまっすぐ歩んでこられたと言えそうだ。

 先生に最後にお会いしたのは、先生が「瑞宝中綬章」をいただいたお祝いの席だった。オールドメンバーが一堂にそろったのだから、先生はことのほか喜んでおられた。わたしたちはこの賞がどういうものかはよくわからなかったが、昔の「勲三等瑞宝章」のことだと誇らしげに話しておられたのが印象的であった。今思うと、病気はこの頃すでに始まっていたのかもしれない。

 科研の調査、研究会、本の出版、先生のご自宅の書斎、都立の研究室など思い出すことは多々あるが、今は先生の冥福を静かに祈りたい。よき人に出会えて私は幸せであった。葬儀は禅宗だったと思う。

 

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『社会学史』(大沢真幸)を読んで

2019-06-05 12:14:33 | 社会学


 2019年刊行の『社会学史』(講談社現代新書)を読む。力作である。
学説史を書いているうちはその学問はまだ自立していないと言われる。だが、われわれはまだ定番の社会学史の教科書を持っていないのだから、これは価値ある試みである。氏は、現在、学説史を書く理由を、学問には「直進する学問」と「反復する学問」があり、物理学は前者、社会学は後者とする。言わずもがなの弁解で、これはすぐに批判の対象とされたようだ。

 大沢氏は社会学を「近代社会の自己意識」と定義する。その通りである。これだと社会学を政治学や法学と区別する理屈が必要だが、どうも「全体分析」(全体は部分の総和以上)に特徴を求めているようだ。分析の対象や方法に特徴を求めているわけではなさそうだ。

 社会学の基本的問いを、「社会秩序はいかにして可能か」に求め、具体的には「個人と個人」の関係の分析と、「個人と社会」の関係の分析という2つの部分問題に分かれるという。行為論と構造論ということのようだ。答えは「偶有性」(contingency)だという。偶有的とは、必然ではないが、不可能ではないこと、「他でもあり得たこと」という意味だ。社会秩序は偶有的だという。その通りだが、ではなぜ今こうなっているのか、他ではないのか、の説明としては弱いように思える。どうも氏は思想としてポストモダンや社会構成主義への批判・克服の拠点を探しているようだ。

 社会学を学ぶとは、「通常のものの不確実性の感覚」を持つことだという。この辺は氏が実際に社会学を教室やゼミで教えていて身につまされたのであろう。またはもっと個人的な出来事から学んだ感覚なのかもしれない。

 社会学史には3つの山があるという。1つは19世紀の誕生前後。フランス革命の前後の社会契約論(ホッブスとルソー)、および、サン・シモン、コント、スペンサーだ。二つ目は19世紀から20世紀への世紀の転換期。マルクス・フロイト・デュルケーム・ジンメル・ヴェーバーの時代。第三の山は1960年代から現代まで。パーソンスの構造機能分析、意味の社会学(ミード、シュッツ、ゴフマン)、意味構成的システム論(ルーマンとフーコー)、だという。現代社会学では、ベックのリスク社会論、バウマンのリキッド・モダニティー論、ネグリ・ハートの帝国論に言及している。時代の区分は普通だが、社会学の誕生をアリストテレスから説き起こすのには驚いた。ルーマンとフーコーの評価が高いのが印象的だ。

 本書は、マルクス・フロイト・デュルケーム・ジンメル・ヴェーバー(ウエーバーとはいわない)までの説明は力が入っていて読み応えがある。整理の仕方が明解だ。パーソンス(パーソンズと呼んでいる)からは疲れが出たのか、話につながりがなくなり、簡単になる。頁数としてみるとこの第三部以降の方が量が多い。

 最後は、ご自分の主張が展開される。今後の社会学理論発展への提案ということであろう。相関主義から実在論の復活へ、つまり、構成主義から存在論へという主張がなされる。偶有性論は社会学にとっては、「神の存在の存在論的証明」になるという。偶有性だけが相関主義からの脱却の途だという。興味深い主張で、現在の理論社会学者の多くが社会学を「規範論」として作り替えようとしているのとは別の途を考えているようである。現在の社会学界は「理論派と実証派」の分裂・対立が深まっているように思えるが、どちらも新しい発展の方向を模索している段階なのであろう。ヴェーバーやパーソンのような大きなブレイクスルーが起きることを期待したい。

 本書の特徴はやはりマルクスとフロイトを社会学者として扱っていることだろう。特にフロイトを取り上げるのはパーソンスの『社会的行為の構造』に倣っているようだ。私は一番興味深く読んだが、やはり社会学とどうつながるのかははっきりしなかった。「社会の無意識」とはデュルケームの「社会的事実」のことなのだろうか。

 社会契約論の説明は明解だが、自然法思想をとると社会学的な問い(秩序はいかにして可能か)は生まれ得ないと唐突に断定するところから話を始める。氏の別の著作で論じられているとはいえ、社会学誕生の背景としては、やはり啓蒙思想の展開について論じて欲しかった。

 大沢氏はゲーム理論の専門家で、キリスト教神学にも造詣が深く、いわゆる「秀才肌」の社会学者のようだ。1958年生まれと言うからまだ若い。これからどういう方向に進むのか興味深い。
 本書は社会学史と銘打っているが、著者独自の視点が明解なので、社会学理論の教科書としても使えるだろう。社会学の専門課程で広く用いられるだろう。
 氏の説明に学ぶことは多かったが、疑問に思う点も少なからずある。改めて読み直して検討し、整理してみたい。

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富永健一先生の学問と人を語る会に出て

2019-06-02 11:31:32 | 社会学


 この2月23日に亡くなられた富永先生の偲ぶ会の代わりに追悼講演会が5月26日にひらかれた。発起人は今田高俊氏および10人ほどの元ゼミ生だった。場所は東大本郷キャンパス法文2号館1番大教室。当日は日曜日で天気はよく、安田講堂の前は観光客で大賑わいであった。

 第一部は、「富永先生の社会学を語る」で、盛山和夫・間々田孝夫・友枝敏雄の三氏が話された。第二部は、「富永先生の人を語る」で、東大の元同僚、学会の友人、新宿高校の同級生、元郵政省のチーム、財団の関係者、慶応大学の元学生さんなどが思い出を語られた。
 会は2時間の予定が大幅に伸びて終わったのは5時頃だったろうか。
印象が消えないうちにに少しメモを残しておきたい。

 今田氏の挨拶は簡単だが丁寧なものだった。富永社会学のピークは1970年頃だったこと、理論と実証を強調されていたこと、テーマは近代化と社会変動論だったこと、構造機能分析は1980年代には力を失っていたこと、などを簡単に紹介された。小室直樹氏の話を紹介されていたの印象的だった。

 盛山氏は、富永さんのテーマは、変動論・原理論・階層論・近代化論だったと整理され、かなり詳しくご自分の理解を紹介された。
 変動論では、「社会システムのパーフォーマンス水準」の測定という意味で社会指標研究に入っていったという。
 原理論では機能要件分析を中心にパーソンスを超えようとしていたという。
 階層論ではSSM調査にも関わったが、産業化テーゼに強くこだわっていたといいう。
 近代化論は変動論の完成版という意味で取り組んでいて、ポストモダン批判は一貫していたという。盛山氏はまとめとして富永さんの方法論としての「個人主義的観点の維持」を強調しておられた。
 間々田氏は経済社会学者としての富永氏を紹介された。貯蓄行動の調査はよく知られていたが、経済社会学を比較社会学の1つとして位置づけていたという。社会指標論のことのようであった。『経済と社会』というタイトルの本を完成させるのが夢だったという。ウエーバーとパーソンスが頭にあったのであろう。

 友枝氏は主に学説史研究の視点から富永社会学の特徴をまとめておられた。特に、晩年はルーマン研究に熱意を注いでおられたという。友枝氏の話はおもに「池辺三山」(元東京朝日新聞主筆 富永氏の母方の祖父か)についてであった。池辺三山のジャーナリズム思想はは「欧化主義とナショナリズム」の統合にあったという。

 第二部では何人かの方が個人的な思い出を語られた。富永さんは人柄がよかったので多くの人に慕われたようだ。富永さんが学会に登場したころー1960年代後半から1970年代ーは機能主義社会学とマルクス主義社会学が真正面から対立していた時代だった。だが今日の集まりにはパーソニアンだけではなく、、マルクス主義社会学者、ウエーバリアン、シュッツ流の現象学的社会学者たちの顔も見られ興味深かった。
 それにしても参加者は50名ほどだったろうか。大教室に空席が目立ったのは少し寂しかった。

 

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思想・職業・葬儀

2016-09-24 11:55:46 | 社会学

 お彼岸ということもあり、最近亡くなったお二人のことを思い出す。知人と言うべきか、友人と言うにはおこがましい。先生と呼ぶべきか。普通に言えば先輩と後輩ということになる。共に社会学者だが、お一人は80過ぎてすぐに、、もう一人は70直前で亡くなった。K氏はプロテスタントの父親を持ちながらマルクス主義者として生き、M氏はプロテスタント系の大学で長く教鞭を執り、比較社会学者、特にスコットランド・北アイルランドのプレシビタリアン(長老派)の研究者として知られていた。考えさせられたのはお二人の葬儀であった。
 K氏は晩年は万葉集や古事記の研究に没頭されていたのでマルクス主義社会学者であり続けたと言って良いかどうかわからないが、思想としてはマルクス主義者であり続けたといえよう。六全協の時代に青春時代を送り、ある歳までは代々木を信じていたと思われる。かれの社会学批判は鋭かった。M氏は大学紛争の時代に社会学に目覚めた。洗礼こそ受けなかったが聖書を常に手元におきながら社会学者としての矜持を守り続けた。
 お二人の葬儀は対照的であった。K氏の葬儀は仏式であった。おそらく日蓮宗だったと思う。葬儀そのものは伝統的な式だった。M氏の葬儀は無宗教式(自由葬)であった。
 人の思想と職業と葬儀がどのようにつながっているのか、このところ考えることが多い。葬儀は遺族の判断によるとはいえ、故人の意向を無視してなされるとも思えない。なぜマルクス主義者の葬儀が仏式で、事実上のクリスチャンの葬儀が無宗教だったのか。これは本人や遺族の意向もさることながら、日本社会がまだ思想(信仰)・職業・葬儀の関連づけに関してパターンないしは規範を作ることに成功していないからではないか、と思った。マルキストの葬儀が仏式だったら違和感を与えないのだろうか。クリスチャンの葬儀が親戚の意向で仏式でなされることもあるというが、これは社会的には違和感を与えるのだろうか。
 思想(信仰)と職業の関係も、特に社会科学者の場合は、いろいろなケースがあって一般化は難しい。普通は、社会科学は「事実」を究明する学問だし、M.ウエーバー風に言えば「価値判断排除」を原則とする。たとえば、かれの『職業としての学問』は次のように言う。

「ある究極の世界観から見て根本的な立場からーその立場は一種類かもしれないし、何種類もあるかもしれませんが、しかし全く別の立場ではない、そういう立場から、ある実践的な態度が、つまり「誠実さ」が導き出されるのだ」(これは三浦展訳85頁で、尾高訳や中山訳とは大いに異なる。私は良い訳だと思う)

原文は
die und die praktishce Stellungnahme laesst sich mit innerer Konsequenz und also:Ehrlichikeit ihrem Sinn nach ableiten aus der und der letzten weltanshauungsmaessigen Grundposition-es kann sein. aus nur einer, oder es koennen vielleicht vershiedene sein-,aber aus den und den anderen nicht.(引用文の綴りは不正確)

 ウエーバーの主張、学問は「明晰さ」と「誠実さ」の獲得をめざすという主張から見れば、お二人の社会学者の人生は同じように誠実なものだった。研究対象も方法論的立場も異なっていたが、お二人とも「誠実な」人生を送られたのだと、私はこのところ一人で納得している。今頃は「お前、今頃何言ってんだ」と二人で天国で笑い合っているのかもしれない。まあ、そう遠くない日にまた一緒に麻雀で一卓囲める日が来ると思って、二人の笑顔を思い出している。

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