カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

贖罪論的救済論からの脱出 ー 救済論(3)(学び合いの会)

2023-03-31 09:45:54 | 神学


Ⅴ 中世以降

1 アンセルムスの充足説

 中世の贖罪論的救済論は、カンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の充足説によって明確な形をとることになった(1)。アンセルムスは、『神はなにゆえに人と成り給うたか』(Cur Deus homo ?)という著作において次のように述べる。前稿でも紹介したが、繰り返せば、絶対者に対する罪の償いは人間は有限で小さい存在であるゆえに人間には不可能である。神は愛であるから、人間の罪を赦したいと思うが、同時に神は正義であるから、人間の償いを受け入れられない。この矛盾を解決する唯一の方法は、神ご自身が人となって神に償うことである。そのため、キリストが人と成り、十字架上の死を通して人類の罪を贖ったのである。

 こういう罪中心の救済論はアウグスチヌスの原罪論のライン上にあり、キリストの受難と十字架上の死のみが救いをもたらしたと主張するものである。換言すれば、イエスの公生活や教えは意味を持たないことになる。
 こういう贖罪論的な救済論は今日に至るまでカトリック教会に強い影響を与えている。ただし、現代の神学ではこのような贖罪論的救済論には批判的な見解も強まっているという。

2 トマス・アクィナスの仲介者説

 トマス・アクィナス(1225-74)は、聖書をベースに、イエス・キリストを神と人間との間の唯一の仲介者と捉えた。こういう把握の仕方は救済者像としては総合的救済者像ともいえるものである(2)。そして、救済の業の基本は神への愛と人間への愛だと主張した(3)。

3 前回はこのあと、M・ルターの十字架の神学による救済論、19世紀の自由主義神学の救済論が検討されたが、今回は議論の対象になっていない。

Ⅵ 現代神学

 前回はここでも、K・ラーナー(1904-1984)の無名のキリスト者論、、モルトマン(1926- )の希望の神学論、ラテン・アメリカの解放の神学などが論じられたが、今回は言及はなかった。

1 第二バチカン公会議

  現代のカトリック教会の救済論として、『カトリック教会のカテキズム』(2002)にある議論が紹介された。これは、第二バチカン公会議の思想を要約するものとして閉会30周年を記念して編纂されたものである。
 同書の第1編第2部第2章第4項第2節「イエスは十字架につけられて死ぬ」の第2項「神の救いの計画におけるキリストのあがないの死」の部分が紹介された(180~182頁)。太字の部分だけを引用する。

①イエスは神のお定めになった計画によって引き渡された
②聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれた
③神は罪と関わりの無いかたを、わたしたちのために罪となさいました
④神はご自分のほうから、普遍的なあがないの愛を示された

 続く第3項は「キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた」と題され、五頁にわたって詳しい説明がある。長文なので紹介は省くが、基本は「神の子羊」論・「いけにえ」論である。

 以上の部分が現代のカトリック教会の救済論の中心であり、教会の伝統にそった救済論だという。

2 現代の様々な救済論

 第二バチカン公会議以降、様々な救済論が現れた。伝統的な救済論の一面性、狭隘性を克服し、より包括的な救済論を探究する試みがなされた。これら現代の救済論に共通する特色は以下にようにまとめることが出来る。

①東方教会の救済論を取り入れて、受肉による神の人間性の取得が人間を神との密接な関わりの中におくという、受肉による人間の「神化」という考え方。(神化論
②十字架上の死だけではなく、イエスの全生涯に救済的な意味があることを強調する。イエスの全生涯を踏まえ、「過越の神秘」がイエスによる救済の出来事の頂点であるとする考え方。(過越論
③救いは個人的・霊的次元だけではなく、共同体的・身体的次元をも包括するものである。来世における完成を目指しつつも、すでに現世において始まる神の生命への参与を目指す。神の国の実現を目指すキリスト者はこのような全体的・包括的救いの実現を志向する。(包括的救済論
④救済は究極的には神の働きによるものではあるが、同時に人間の努力がはたす準備的・協同的役割も不可欠である。信仰者の側の個人的・社会的次元での積極的努力も必要である。現世における人類の努力による諸悪からの解放が救いの意味である。(人間の関与)
⑤アンセルムスの充足説は厳格な神の像を前提としているが、これは愛の神の像と一致しない。このため現代人の感覚に合わないので支持を失いつつある。かれの説は当時のゲルマンの封建社会の法概念に強く影響されており、現代性を失っているという考え方。(贖罪説批判
⑥罪や救済の概念の再検討を通して、より広い総合的・包括的な救済論の把握が目指される。救済論は最終的には人間を束縛するあらゆる罪からの解放であり、神が本来的に意図している真の自由を人間にもたらすことである。(自由の実現)(4)

【過越の聖なる三日間】


1 古代教会におけるキリスト論はすでに触れたように第1回ニケア公会議から続く6回の公会議でほぼ確立した。これら公会議は、初期教会のキリスト論(パウロの霊肉キリスト論:ロマ書1~3や、ヨハネのロゴス・キリスト論:ヨハネ1~18)や異端説(キリスト養子説・仮現説・容態説など)への反駁、さらには多くの教父たちの教えを整理したものである。中心的なテーマはキリストにおける神性と人性の結合の問題であり、贖罪論ではなかったといえよう。
2 Ⅰテモテ2:5 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです」。このテモテへの2通の書簡とテトスへの書簡は伝統的に「司牧書簡」と呼ばれてきた。手紙は、仲介者論というよりは、まだ確立されていない教会組織の在り方についてのパウロの考えが中心のようだ。著者がパウロかどうかは議論があるようだが古くから正典として認められていたようだ。
3 「キリストの十字架は、功徳・償い・犠牲・贖いである。キリストは自由と愛をもって十字架を引き受けられ、神はこれを嘉せられた。キリストは人類の愛のために死んで、神はよみがえらせた」(『神学大全』第3部第48問)。
 なお、山田晶『神学大全Ⅰ・Ⅱ』(2014)によると、神学大全は、第1部「神」、第2部「人間の神への運動」、第3部「神に向かうための道なるキリスト」にわかれる。第3部は、①御言葉の受肉②キリストの誕生・生涯・受難・復活・昇天③秘跡④補遺:終末、という構成だという。第3部第48問は②に含まれているようだ。
4 この6項目の整理は、わたしには、贖罪論的救済論から過越論的救済論へと変化が起きていると言っているように聞こえた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

贖罪は救済か ー 救済論(2)(学び合いの会)

2023-03-30 10:02:14 | 神学


Ⅱ 旧約聖書 ー 救済とは約束の成就のこと

 救済の歴史は旧約から始まる。出エジプトのシナイ山の「契約」がイスラエルの救済史の基本的出来事である。ここに、「約束を成就する」という意味での救済の構造がみられる。つまり、救済とは約束を実現する、という意味がこめられる。この構造は聖書の救済史的考え方の根本になる。神の業は現在も続いており、終末論的に完成すると考えられている。

Ⅲ 新約聖書 ー 受肉から贖罪へ

 新約聖書はナザレのイエスをキリストだと信じる初代教会の信徒たちの信仰告白である。全文書がイエスの救済の業(わざ)をテーマとする。受肉・公生活・受難と死・復活・再臨が救済の業として提示される。特に人類に罪の赦しをもたらす十字架上の死を中心におく。そして十字架上の死は贖いだと考える(1)。

 こういう贖罪論を示す聖書の該当箇所は枚挙にいとまが無い。

①マタイ26・28「多くの人のために流される私の血」(新共同訳・以下同じ)
②マルコ14・12「過越の食事」
③ルカ22・7~13「過越の食事」
④ヨハネ13・21~30「裏切りの予告」
⑤ロマ4・25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」
⑥ガラティア3・13「キリストは、私たちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくだいさいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」

 とはいえ、こういう説明には少し説明が必要だ(2)。
 この贖罪論、「死の神学」を新約聖書の救済観の中心テーマだという理解は古代から中世にかけて一貫して流れている。アウグスチヌスの原罪論をベースに、中世にはアンセルムスの贖罪論、具体的には「充足説」が主流となる。近代神学や現代神学はこの贖罪説が持つ「仲介者」の位置づけをめぐって様々な角度から批判的検討がなされ、現在は広い意味で「過越説」とも呼べる新しい救済観が登場してきているようだ。つまり、受肉から一足飛びに十字架上の死につなげて議論する贖罪説から、イエスの公生活の期間を含めて旧約と新約の世界全体を救済史としてみる過越説への変化がみられる(3)。

 S氏は救済=贖罪説の立場に立って以下のように述べる。
新約聖書は救済史的考えを旧約聖書から預言書、黙示文学の形態において継承している。イエスは自分の使命を、旧約聖書からの救済史の完成とし、預言者を通じた神の約束の完成と見なす。「神の国」という中心概念は極めて救済史的である。それは歴史において実現する究極的救いを意味する。
 パウロの救済史的発想は、イエスの死における「人を救う神の義」が「神の怒り」(ロマ1・18)に取って代わるとする。旧約は神の怒りの時代であり、新約は神の義の時代だとも言える。

 新約聖書の救済論の構造は以下のようにまとめられる。
①約束(契約)とその成就の構造
②旧約と新約のつながり
③旧約聖書の予型論的見方(4)
④全救済史のキリスト論的構造
⑤全救済史の終末論的方向付け(5)

 こういう整理はもっと説明が必要なのだろうが、これは新約聖書の救済論の特徴というだけではなく、キリスト教の救済論の特徴そのものと理解しても良いのかもしれない。

Ⅳ 古代

 古代教会はキリストのペルソナの探究に議論を集中した。古代教会の6つの公会議のメインテーマを見れば明らかである(6)。
 救済論に関する全教会規模の宣言はない。しかし各時代、各地方で、救済論に関する神学的営みはあった。救いは悪に対する善の勝利、悪魔に対するキリストの勝利、勝利者キリストによる全人類の奴隷状態からの解放、救いはキリストが言葉と行いによって神の道を示したことにある、などの考え方が生まれた。
 東方教会では「神化」論が発展する(7)。受肉が人間性の神化を実現したと考えた。エイレナイオス(2世紀後半の現リヨンの司教)は人間が神の子となるために、神のみ言葉が人となったと述べた。
 西方教会では、イエスの死が人間の罪の赦しをもたらす贖いであると主張した(十字架上の死の神学と呼ばれる)。アウグスチヌスは、キリストの受肉を人間の原罪の贖いのためであるとして、原罪を「幸いなる罪」と呼んだ(8)。原罪論が入ってくる。
 極論すれば、救済に関しては東方教会では「神化」論、西方教会では「贖罪」論が展開されていった。カトリック教会でいえば、このようなキリストの贖罪による救い、と言う考え方は今日まで続いている。

【贖いと償い:カトリック生活2021年6月号】

 

 



1 贖い  redemption(英) Erloesung(独) 英訳も独訳もともに「救済」という日本語訳があてられることもある。救済には贖いという意味がこめられているようだ。だが日本語の贖罪や贖いという言葉からこういうコノテーションを読み取ることは出来ない。贖いの意味はどこでも調べることが出来るので改めて説明する必要はないだろう。日本語では「身代金」とでも訳しておけばわかりやすい。
 贖いとは日本語ではなかなかピンと来ない言葉であり、実際日常語として使われることは希だろう。使われたとしても、贖いと償いはしばしば混同されるようだ。だが区別が必要だ。贖いと償いは別物なのだ。贖いは原義は買い戻すことであり、償いは他人に与えた損失を補うことである。いわば、贖いは「上から目線」であり、償いは「下から目線」のことばだ。
 キリスト教ではこのユダヤ教的な贖いの思想を用いて、イエス・キリストを神の贖いの業の仲介者(神の僕、屠られた羊)と理解した。仲介者は弁護者、扶助者、援助者と訳されることもある。なお、仲介者とはイエス・キリストのことだが、聖母マリアも「すべての恵みの仲介者」と呼ばれる。聖母マリアがなぜ仲介者と呼ばれるかは議論があり、現在のところ教義にはなっていないようだ(光延一郎『主の母マリア』2021)。聖母マリアの場合、取り次ぎ手、媒介者、代願者と呼ばれる(訳される)ことが多いようだ。
2 ここは私の個人的見解である。なお、聖書学的には、これら共観福音書のイエスのことばは本当にイエス自身が語った言葉なのか、予型論ではないか、事後予言ではないかなど議論があるようだ。またパウロには贖罪論的な議論は多くは無いともいわれているようだ。この辺は専門家の議論の世界だろう。ただ、救済を原罪や贖罪に引きつけて説明する仕方は強調しすぎると説得力を欠くように思える。
3 中世の贖罪論はアンセルムスの充足説をベースとしている。アンセルムスはスコラ神学の父とも呼ばれ、「理解するために信ずる」と述べるほどの理性的探究を重視した神学者だ。かれによれば、原罪は神に対する人間の侮辱であり、人間が贖ったり、償ったりすることは不可能だ。神は人間を赦したいが、正統な償いなしに赦すことは神の義と人間の尊厳に反する。これを解決する唯一の方法は神自身が人となって人間の立場で神に償うことだと主張した。充足とは罪の償いを十分になすことを意味する。
 過越とは原義は出エジプトで災いが「過ぎ越す」 passover という意味だが、現在は十字架の死と復活を指すことが多い。だが、過越の意味は拡大され、救済は全人類的・包括的な救済を意味するようになってきているという。
4 予型論 typology  とは、簡単に言えば、新約聖書におけるイエスの行為や摂理はみな旧約聖書のなかであらかじめ象徴されていたり、予告されていたとする考え方。たとえば、出エジプトでイスラエル民族が紅海を渡ったことを洗礼の予型と見なしたりする(Ⅰコリ10:1-6)。キリスト教にとっては都合の良い説明の仕方だが、予型論的説明を好まない神学者や司祭は多いようだ。なお、予型論という用語は聖書学ではアレゴリー(寓喩)と呼ばれる聖書解釈の手法の対概念のようだ。タイポロジー対アレゴリーと言われるが、寓喩は比喩(たとえ)と同じではない。
5 終末論 eschatology(英) とは、歴史の終末から歴史全体を一つの有意味な統一体として理解しようとする歴史的自覚のことをいう。いわば歴史を直線的に理解する。現在を終末の視点から見るという歴史観は捕囚期に確立したようだ。仏教などにみられる循環的・宿命的な時間感覚・歴史意識(輪廻転生など)とは異なる。現在はシュバイツァーの徹底的終末論や、ブルトマンの実存的終末論が主流のようだが、終末を遠い未来に見るのではなく、現在に実現されていると見ようとする点では共通しているようだ。
6 ペルソナとは原義は演劇用の仮面を意味したのだろうが、現在は人格とか神の位格とか法人とかさまざまな訳語があてられる。キリスト教では教父時代に三位一体の位格をあらわすものとされた(父・子・聖霊)。この三位が相互にどういう関係にあるのか議論された。
 古代教会の諸公会議におけるキリスト論の展開を整理してみる。
①第一回ニケア公会議(325):キリストを被造物とするアレイオスの説を退け、キリストは父なる神と同一本質ホモウーシオス)と宣言した。キリストの神性が確認された。キリスト教では救済論は教義では無いとは言え、ニケア信条が事実上、キリスト教の救済論の信仰箇条である。ちなみにニケア信条は事実上も歴史上も東方教会の信仰箇条に近いという。
②第一回コンスタンチノープル公会議(381):聖霊の神性が確認された。三位一体の教義が確立された。
③エフェゾ公会議(431):ネストリウスの説を退け、マリアの神の母の称号(テオトコス)を承認した。
④カルケドン公会議(451):キリストは真の神であり、真の人であり、その本性は一つのペルソナによって一致しているとおいう神人両性説が確立した。
⑤第二回コンスタンチノープル公会議(553):従来の説の確認
⑥第三回コンスタンチノープル公会議(680):キリストは神の意志と人間の意志の両方を有するというキリスト両意説が承認された。
 以上の6回の公会議で古代教会のキリスト論は完成し、その後今日に至るまでキリスト論についての新たな教義は制定されていない。
7 神化論 deification(英)とは、「人間の神化」を意味する。人間が神になる、というよりは、人間は神のであり、神の養子だから神の恵みによって神になろうとする、神に近づく、という意味のようだ。西方教会(ローマ・カトリック)は、行い、善行を重視するので、神化という考え方はとらなかったという。

8 原罪論である。アダムとイヴが罪を犯したからイエスが来られたという逆説的な主張につながる。アウグスチヌスの原罪論の影響力はあまりにも大きすぎたとしか言えない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救済は教義にあらず ー 救済論(1)(学び合いの会)

2023-03-28 11:34:45 | 神学


 2023年3月の学び合いの会は桜が満開の27日に開かれた。学び合いの会は今回で一応ピリオドが打たれるということで参加者は13名を数えた。

 テーマは「救済論」である。このテーマの報告は実はこの学び合いの会では2019年6月になされた「キリスト論の展開 ーその3」と同じものである。この2019年のテーマ「キリスト論の展開」については同年4月から6月にかけて7回ほどこのブログに書いている。ご参照いただけると嬉しいが、実は報告の視点は前回と今回とではかなり変化している。コロナ禍のせいか、ロシアのウクライナ侵略のせいかはわからない。フランシスコ教皇の日本訪問以降の日本のカトリック教会の姿勢の変化のせいかもしれない。いずれにせよ救済を論じる視点は変化してきているので、ここで改めて報告し直しておきたい(1)。

 今回の目次は以下の通りである。2019年の「キリスト論の展開」の縮小版のような目次の配列である。

1 概念
2 旧約聖書
3 新約聖書
4 古代
5 中世以降
6 現代神学

Ⅰ 概念

 救済とは英語でsoteriology。ラテン語では Soteriologia で、soter(救い主)、soteria (救い)に由来するという。キリストによる全人類の救済を論じる神学のことを指すようだ。

1 救済は教義にあらず

 救いとはなにか、はキリスト教的な問いであり、すべての宗教が救いを信仰の中心においているわけではなさそうだ(2)。キリスト教は救済宗教と呼ばれている。だが、キリスト教でも、人間の救済は教義としては確認されていない。受肉説や三位一体論は教義として確立しているが、救済論は教義にはなっていない。これはあまり言及されることのない論点だが、とても大事な論点だ。救済はなぜ教義ではないのか。あまりにも当然だからとも言えるが、その理由は歴史的経緯を見ないとわからないようだ。

2 救済論はキリスト論と恩恵論からなる

 救済論は、教義神学の中では、神論・創造論・原罪論・恩恵論をふくむ「神学的人間論」の一つとして位置づけられており、史的イエス論と信仰のキリスト論からなる「キリスト論」とは区別されて論じられることが多い。実践神学(典礼や霊性・司牧・宣教など)からみれば、キリスト論は三位一体論を含むし、神学的人間論は終末論を含む。聖書学や教会史は別として、こういう神学の体系は神学校での神学教育では重要らしい。こういう体系論は煩雑といえば煩雑だが、自分は一体何を議論しているのかという疑問を整理するのには役立つ。

 岩島忠彦師は救済論を、キリストによる救いの業を論じる救済論と、救済への人間の参与を論じる救済論とに大別している(3)。前者はキリスト論であり、後者は恩恵論(義認論)・秘跡論からなるという(4)。岩島師は救済論は今日では単なる神学の1教科ではなく,「キリスト教的観点からの全現実理解の鍵である」と述べ、その重要性を力説している。

 結論を先取りしていえば、前者のキリスト論はまず、受肉論として定式化され、やがて贖罪論に取って代わられ、現在は過越論として発展しているようだ。受肉論→贖罪論→過越論 とでも言えようか。それは救いという概念の理解が、罪・悪からの解放(from sin・evil)から自由への解放(to freedom)へと、定義の力点が変わってきているからだという。救いという概念・観念がキリスト教に限定されるものではなくなってきているという意味なのであろう。

3 キリスト論から見た救済論

 さて、今回はこのテーマの救済論はキリスト論として論じられている。神学的人間論の一つとして論じられているのではない。とは言ってもそう明確に区別できるわけではないだろうが、救済論をキリスト論として論じる意味はどこにあるのか。それは、キリスト教の特徴は、イエス・キリストの受肉によって、神が人となり、神が人間の歴史に介入してきた、と信ずることにあるからだという。つまり接点は受肉説にあるようだ。

4 キリスト論の2方向

 いくつかの書籍や辞書を見ると、キリスト論は狭義・広義の二つに大別されて論じられていることがわかる。または二つの方向から論じることが定説のようだ。

 狭義のキリスト論とは、「イエス・キリストとは誰か」と問うものだ。イエスは神なのか、人間なのか。つまり、イエスの神性と人性を論じる。カルケドン公会議(451年)で、イエス・キリストは神であり人であるという神人両性説が確立し、これ以降様々な議論が続くも、新たな教義は出されていない。神人両性説は教義ではないが確定した信仰箇条として現在まで続いている。

 広義のキリスト論は、イエス・キリストの救いの働きについての考察も含むという。岩島師は、「成就した救いへの人間の参与」を含むと表現している。岩島師によれば、救いとは全人類にかかわる普遍的次元のものである。他方、個人の救いの問題は恩恵論で取り扱われる。全人類の救済(終末論)個々人の救済(恩恵論)を区別している指摘が興味深い。

【立石公園】

 

 


1 S氏は救済に関する最近の日本の神学者たちの二つの大きな視点の違いになにか考えるところがあるらしく、今回の報告はどこかとまどいを感じながらの報告という印象を与えるものであった。一方は、氏が「社会派」と呼ぶ救済論で、貧しい人々・苦しむ人々に眼を向ける救済論で、聖書学者に多いという。他方、氏が「伝統派」とよぶ人々の救済論があり、伝統的な受肉論、終末論にもどづく救済論だ。氏によると教義神学者に多いという。この違いは氏にとっては大きいものらしく、何人かの日本の司祭の名前を挙げて比較しておられた。私には教会が正平協をめぐる司教団内部における葛藤・軋轢を整理し切れていないことへの不安の反映のように聞こえた。
2 仏教、神道、道教に救いの観念があるのかどうかはわからない。あえて極論すれば上座部仏教では「覚り」が修行と人生の目標であり、「極楽往生」は生まれることであって、救われることではない。大乗仏教にも、浄土真宗は別として、キリスト教的な救いの観念はないように思える。浄土真宗は救いという言葉を頻繁につかうようだ。
3 「岩波キリスト教辞典」 270頁
4 歴史的にいえば、恩恵論は現行的恩恵と成聖的恩恵に区別されて論じられてきたが、唯名論からの批判を受けてプロテスタント的な義認論と比較的に論じられるようになったという。なお、秘跡論がいう秘跡(サクラメント)とは、神秘(目には見えない神の恵み)を目に見える形で示すしるし・儀式のことで、カトリック教会では7秘跡(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚)が第2リヨン公会議(1274)で宣言されて以来今日まで守られている(なお、ゆるしとは告解のこと。病者の塗油 Unctio infirmorum とはかっては終油の秘跡と呼ばれていたが、現在は闘病と治癒のためということで名称(訳語)が変わった)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ解禁後初の四旬節ミサ

2023-03-19 21:48:58 | 教会


 今日のミサはコロナが事実上3月13日に解禁されたあと初めてのミサであった。四旬節第4主日で、10時のミサは人数制限が大幅に緩和された。私どものこの教会は地区別に9組に別れているが、組は今回新たに大きく2つに分類された。今日は5〜9組の出席が許された。ミサに出席が許されるというのも変な話だが、ミサに預かっても良いというのはありがたいことだ。
 教会の座席もすべて開放され、誰がどこに座っても良いことになった。参加者は100人くらいはいたのではないだろうか。人数も多かったので整体奉仕者もおられた。
 マスクは全員がしていた。神父様もフェイスマスクをしてお説教をなさっていた。コロナの全面解除というわけではなさそうだった。それでも久しぶりに他の組の人と一緒にミサに預かれるわけだから、ミサ後のおしゃべりはあちこちで花が咲いていたようだ。復活祭後には主任司祭も替わると教区から発表されており、2日の枝の主日の準備もあって、教会委員会や聖歌隊は忙しいようだ。やっと教会に日常が戻りつつある印象を受けた。
 「ミサの式次第」の中のお祈りの文言もかなり変更があり、とても覚えきれていない。「式次第」が手元にないとついつい以前のお祈りが口にでてしまう。やはり、「またあなたとともに」はなじめないし、キリエで「主よ、いつくしみをわたしたちに」もなにか落ち着かない(1)。グロリアでも困った。やっと覚えた長い賛歌なのにこれだけ変更されると手も足も出ない。賛歌は4つとも歌詞も決まったようだが、聖歌隊は覚えるのにさぞかし大変なことであろう。使徒信条も同じだ。「主は聖霊によってやどり・・・」で「深く礼をする」ようだがタイミングがあわない(2)。などなど戸惑うことも多いがいずれ慣れることであろう。
 わざわざ記事にして投稿するほどのことではないが、コロナが収束に向かいつつあり、ミサが元に戻りつつあることを記録に残しておくことも意味があるかもしれない。にぎやかなご復活祭が来るのが楽しみだ。

【四旬節第四主日】

 


1 以前の「憐れみ」は上から目線の印象を与えるから「いつくしみ」に変えたと聞かされたが、あまり説得力がない印象を受ける。いっそのこと「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」の方が言葉につまらないで済むのではないか。サンクトゥス(感謝の賛歌)やアニュス・デイ(平和の賛歌)も変わったようだ。
2 所作でいえば、「礼をする」と「頭を下げる」の区別がよくわからない。また、回心閉祭で「手を合わせて頭を下げる」所作があるがどこが違うのだろう。典礼委員会がどこかできちんと説明してくれているのであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「大河への道」を観た

2023-03-07 09:12:59 | 映画

 知人に誘われて近くの映画館で映画「大河への道」を観てきた。2022年度の作品らしい。2時間ほどの映画だった。原作は立川志の輔の創作落語だという。200年程前の1821年に完成された日本初の全国地図「日本沿海輿地全」の制作秘話というところか。伊能忠敬は地図完成前に実は死亡していたが、周囲が頑張って完成させたという話だった。
 佐原の伊能忠敬の話なのでわたしは懐かしさもあって興味を持ってみた。ストーリーは江戸と令和の二つの時代を舞台に展開されていく。歴史ものではない。伊藤忠敬をNHKの大河ドラマに取り上げてもらいたい地元香取市の努力の話しということで、特にどうということはなかった。一緒に行った知人はコミカルで面白かったと気に入っていたようだ。監督がどういう方かは知らないが、出演者たちはどこかで見たことのある顔だった。わざわざ時間を潰して見るほどの映画ではないような印象だった。

【日本沿海輿地全】

 


 大河ドラマを地域開発に利用するようになったのはいつごろからだろうか。大河ドラマといっても奈良時代以前は描きにくいようだし、大正昭和もまだ歴史になりきれていない。どうしても戦国時代か幕末の話しになってしまう。中国や韓国のテレビドラマにもこういう時代的限定があるのだろうか。そんなことを考えながら観ていたら眠気が襲ってきた。時間つぶしにちょうどよい気楽に見れる映画ということで、これはこれで近年珍しい映画なのかもしれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする