カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

クリスマスのホミリア

2020-12-25 12:46:21 | 教会


 クリスマス(主の降誕)の「日中のミサ」にでてきた。「夜半のミサ」「深夜ミサ」はつらいのでここ数年でていない。

 今日のミサは自分の「組」は出席の順番には当たっていないのだが、クリスマスだから良いだろうとルールを無視してでてみた。出席者は30人ほどで、クリスマスだから参加者が多いというわけではなさそうで、通常と同じであった。昨晩の夜半ミサも同じようだったようだ。

 それでも蝋燭は4本灯り、乳飲み子は飼い葉桶に寝ていた。ごミサでは久しぶりのオルガンが奏でられた。「来たれ友よ」を弾いている方もうれしそうだった。神父様のホミリア(1)の時間もいつもよりも長かった。

 日中の主の降誕は「ヨハネ福音書」1:1~18が読まれる。誰でも知っている、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(新共同訳)で始まるところだ。神学的に議論しだしたらキリのない話になる箇所だ。だが神父様は第12節を取り上げて話しをされた。

 「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」

 われわれは、よくはわからないが、信じている。この「信じる力」がどこから来るのかもよくはわからないが、「神秘」ですね、というお話であった。「省エネと神秘」のいつものS節だが、コロナ禍の先を見通した励ましのお話であった。

(聖書と典礼)

 

 それにしても、こういう閑散としたクリスマス・ミサは経験したことがない。来年はなんとか普通のお祝いをしたいものだ。「聖書と典礼」で吉池好高師は、「イエスをくるんでいた布は、コロナ禍の中にある今のわたしたちの日々の象徴のように想えないでしょうか・・・わたしたちと共にいてくださる救い主への希望を新たにしましょう」と言う。師が言われるように、クリスマスは希望をもたらす。


1 「ホミリア」とはいろいろな定義や訳語があるようだが、要は「お説教」のことだ。

 

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近代の教会は教会の本質の具現に失敗した ー 岩島師教会論22(学びあいの会)

2020-12-24 09:14:34 | 教会

 岩島師は教皇不可謬権をどうみていたのか。岩島師の評価は以下のように厳しいものであった。
そしてかれのは理解は当時の日本の教会の理解といってよいほど重みをもっていたようだ。


Ⅲ 教皇の不可謬権をどう理解すべきか

 当時の熱心なピウス9世崇拝者たちは、教皇を神聖化した。だが、教義内容はそのような極端なものではない。今日でも誤解している信徒が見られる。

1 信仰の真実性

 不可謬権の問題は、教会が根源的に神とキリストにつながっているという思想が根底にある。これは聖霊の導きだ。信仰が本物である限り教会は正しい。正しい信仰がなくなったとすれば、それはもはや教会ではない。「信仰感覚」(sensus fidei)が重要だ。

2 教皇の不可謬権

 教皇の通常的教導権(magisterium ordinarium)の行使は必ずしも不可謬ではない。たとえば、回勅、勧告、シノドス、司教会議は誤りうる。これに対し、教皇が教会の信仰を規定する意向で、全司教団とともに、信仰箇条に関する事柄について下した決定は不可謬である。たとえば、信仰宣言がそうである。

3 不可謬の意味

 不可謬という言葉には制約がある。言葉(言語)が真理を表現しうるという条件、限界の中で初めて成立する。言葉による表現が最良のものであるという保証はない。これは言語というものが持つ限界である(1)。

4 第二バチカン公会議における不可謬権の扱い

①第一バチカン公会議の決定(教皇の不可謬権)は維持する
②全世界の司教団の普遍的教導職も不可謬である(個々の司教は不可謬ではない)
③信仰者全体すなわち全教会も誤りえない

5 まとめ

5・1 近代以降の教会論の流れ

 教会論は、教会の本質をめぐる時代との相克のなかで形成されてきた

①宗教改革:個としての人間の自覚を重視した。教会の本質は信仰者の集まりであり、制度的仲介構造を否定した
②反宗教改革:宗教改革が否定したものを逆に強調した。教導職や聖職者位階制度を重視し、制度としての教会論を目指した
③「完全な社会としての教会・論」:教会の自己完結性が主張された
④第一バチカン公会議:新しい時代に対応しようとした(2)
 ディ・フィリウスー人間理性や科学の自律性を前提として、信仰との関係を理解した
 パストール・エテルヌスー国家社会の自立を前提とした教皇権の規定

5・2 以上からの結論

①近代教会の自己理解は、近代精神の展開の中で、自己のアイデンティティを模索した試みだ
②この試みは、自己を「制度」と見なす方向へ向かわせた
③自己を、社会・政治・文化から隔離する方向へ向かった
④近代教会は、近代という時代に根ざした教会になることにも、本来の教会の本質を具現することにも成功しなかった
⑤教会の勝利主義(triumphalismus)は、自己を過大評価し、独善主義の傾向をもたらした
⑥しかし、19世紀以降、カトリック共同体、政治結社、もろもろのアクションなど、下からの動きが高まる

 このように岩島師の「結論」は手厳しかった。では教会はどのようにすれば自己を改革し、アイデンティティを確立できるのか。岩島師教会論は最後の章に向かう。



1 これはこれで一つの説明だが、こういう説明の仕方は普通「言語論的転回」(linguistic turn)の問題とされ、哲学上の問題とされる。意味、意識、言語の関係を問う。わたしの個人的理解では、岩島師の説明は神学的説明ではなく、議論の土俵が異なるのではないかという印象を持つ。
2 S氏はここで、「ローマ問題」と「ラテラノ条約」を詳しく説明された。第一バチカン公会議の意義を強調するための説明のように聞こえた。

「ローマ問題」(Questiione Romana)

 ローマ問題とは、イタリア王国が1861年に樹立され、第一バチカン公会議が中断され、以後ローマ教皇庁は政治的立場を喪失し、ピオ9世から5代にわたって教皇はヴァチカン宮殿に閉じこもり、60年間近くイタリア政府と対立し、ようやく1929年にピオ11世の治世下で両者が和解し、ラテラノ条約が締結されるまでの対立をさす。

「ラテラノ条約」(ラテラン条約 Lateran)

 バチカンは1926年から密かにイタリア政府と交渉した。その結果1929年2月11日にラテラノ宮殿においてピオ11世の国務長官ガスパリ枢機卿(在任1922-30)とイタリア王国首相ベニト・ムッソリーニのあいだで政教条約が調印された。これは世界史の教科書ではバチカン市国の創設とイタリア国家の承認が協定されたと説明されるが、詳しくは以下のように二つの部分委からなっているという。

①「ラテラノ協約」:イタリア王国とバチカン市国との間の国際条約。イタリア政府がバチカン市国に認めた権利は、
・バチカンの完全な国土領有権(面積0.44平方キロ、約13・3万坪、東大本郷キャンパスくらいの広さ)
・排他的かつ絶対的な権力
・至高の司法権
・外交使節の派遣および接受
・イタリア王国内にあるいくつかの教会堂や不動産の領有権
 これは「条約」であり、政府や憲法よりも上位にたつ。いわば完全な治外法権が認められわけで、教皇庁はこれによりあらゆる世俗的権力からの独立を保つことができた。

②「ラテラノ協定」:イタリアにおけるカトリック教会の自由な活動を保証した。公立学校におけるカトリック教育の義務化が認められ、教会のおける婚姻は国家法上(世俗法の上でも)も有効であることなどである。なお、1984年のこの協定の改定により、信教の自由が認められ、公立学校におけるカトリック教育は義務ではなく生徒の自由選択となったという。つまり、カトリックはイタリアの国家宗教の地位を失う。

(ピオ11世)

 


*第一バチカン公会議以降の教皇名と在位期間

ピオ9世       1846-78
レオ13世      1878-1903
ピオ10世      1903-14
ベネディクト15世  1914-22
ピオ11世      1922-39
ピオ12世      1939-58
ヨハネ23世     1958-63
パウロ6世      1963-78
ヨハネ・パウロ1世  1978年9月3日ー9月28日
ヨハネ・パウロ2世  1978-2005
ベネディクト16世  2005-12
フランシスコ     2012-

 このように並べてみると、どの教皇様も近代社会を立派に生き抜いてきておられる。一人一人の立場や思想は異なる。だが、中世の堕落した教皇たちと比べるとその偉大さに驚かされる。カトリック信徒は、教皇様の名前で「時代」を記憶する。ピオ11世といえば、あぁあのナチと戦った変わった教皇様か、ヨハネ23世といえば、あああの公会議のおじいちゃんか、となる。ヨハネ・パウロ2世といえば、あああの空飛ぶ教皇様か、となる。われわれが元号で時代を記憶するのと同じだが、もっと細かいともいえようか。

 

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教皇は裁治首位権を持つ ー 岩島師教会論21(学びあいの会)

2020-12-23 09:08:33 | 教会


Ⅱ 教義憲章 Pastor Aeternus 

 これは、グレゴリウス7世(在位1073-85)(1)以来の教皇の「裁治首位権」についての初めての正確な規定をしたものである。教皇不可謬説もこの憲章が根拠とされることが多い。

1 この憲章の内容

①プロローグ
教会の目的はキリストの救いのわざの継続であり、そのためには信徒の一致が必要だ。この一致は使徒とその継承者によってのみ保たれる。司教団・司祭・信徒の一致は「ペテロの座」の上に基礎づけられる。つまり教皇だ。これは教会を職制の面からみた規定である。

②第1章 ペテロにおける使徒座の首位権の制定
ペテロの裁治権の根拠は聖書に求められる:ヨハネ1・42(最初の弟子たち),マタイ16:16-19(ペテロの信仰表明),ヨハネ21:15-19(イエスとペテロ)

「キリストはペテロにだけ託された」点が強調され、ガリカニスムへの対抗が明確に提示される。われわれも聖書のこれらの箇所を読み合わせて味わった。

③第2章 ペテロの首位権は教皇において継承される
④第3章 首位権の内容と本質
教皇の裁治権の克明な規定が提示される。裁治権の性格が説明され、教会の構造を「ヒエラルヒー」(階等性)として提示する。教会がヒエラルヒーを持つのは西方教会の特徴であり、分権や平等が重視される東方教会ではヒエラルヒーは「未発達」とされる。

この思想がもたらした帰結は重大であった。

a) 教皇は、世俗や国家権力によって規制されることはない
b) 教皇は教会のあらゆる事柄についての最終的な判断者である(公会議で修正されない)

明確な規定と言えば明確だが、その主張は激しく、厳しい。
この章のより詳しい説明は下記の注5に回してある

⑤第4章 教皇の不可謬教導権

2 経緯

①当初、ドイツとオーストリアの司教の大多数はこの憲章の採択に反対だった
第1回投票(7月13日) 賛成451 反対98 条件付き6
第2回投票(7月18日) 賛成533 反対1  条件付き1

 このあと、重大事件が起こる。66名がローマを退出し、後に、ドイツとオーストリアの「古カトリック主義」(Altkathelizimusu)を形成する(2)。

3 反対派の意見

①反対の神学的理由:聖書に根拠がない
②反対の歴史的理由:引用された過去の公会議文書の内容は教皇不可謬権を示してはいない
③反対の政治的理由:不可謬権が正しいか否かは別として、現時点でこの宣言は教会の利益にならない

4 伝承からの証明と不可謬教導権の詳細な説明(3)

①伝承からの証明
 これは、第4コンスタンチノープル公会議(569-70)、第2リヨン公会議(1274)、フィレンツェ公会議(1439-45) に求められる(4)。

②教皇不可謬権の証明

a) 信仰の宣布と保持は教皇のものであった
b) 信仰の危機に際して、司教たちは教皇に依存した
c) 教皇が教えを決定してきた。教皇のカリスマは、教皇個人のペルソナではなく、教皇職という職務に基づいている

③「不可謬の主体であるローマ教皇が、信仰と道徳に関する事柄について、公的な人物としてその最高の牧者の立場から(ec cathedra)最終的決定を下すとき、不可謬であり、その宣言は全教会を拘束する」

 教皇不可謬権に関するあまりにも有名な文言である。「信仰と道徳に関する事柄」は時には説明よりも弁解のように使われることもある。より詳しい説明を川中師がしているので、注で紹介しておきたい(5)。

5 Pastor Aerternus についての神学的反省

①法的な観点
 反宗教改革的な制度的教会理解に基づいている。教会を形式的な法的側面から規定し、裁治権の問題に集中している。この点は第二バチカン公会議の観点とは対照的である。司教の使命は支配よりも奉仕と信仰の証にあるのであって、法的側面は霊的本質から出る二次的なものにすぎない。ただし、制度は教会維持のためには必要不可欠である。
②ヒエラルヒーの意義と限界
 ヒエラルヒーは必要ではあるが、使徒(司教)との相互補完的な制度と考えるべきである。
③一面性
 会議が中断されたため、教会全体を取り扱うことが出来ていない。教皇の裁治権と不可謬権という特殊な局部的問題に終始した一面性を持っている。

 岩島師の「神学的反省」は手厳しい。岩島師は次いで、教皇の不可謬教導権をどう理解すべきかという難問に対して自説を展開する。長くなるので次回に回したい。


* 前東京大司教、ペトロ岡田武夫名誉大司教様の訃報を知る。12月18日(金)午後1時22分、頸部食道がんに伴う出血性ショックのため東京医科歯科大学付属病院にて帰天。享年79歳。ジョンストン神父様から「洗礼」を受けられたのは1963年のクリスマスで22歳の学生の時だった。今は無き上智会館のお御堂での受洗だった。すでにプロテスタントとしてクリスチャンであった岡田師は洗礼ではなく改宗だった(少し正確に言うと堅信を受けて堅信名をもらう)。師は当時東大カト研(駒場 本郷はエルリンハーゲン師)の指導司祭であったジョンストン師から学んでおられた。当時のカトリック教会は寛容だったので、あらたな水による洗礼を求めなかったようだ(現在はケースにより判断されるようだ)。岡田師は上智カト研にとっても大事な方であった。ご兄弟の方もカト研に所属しておられると聞いている。
 大司教としてみれば、師は第二バチカン公会議以降の現在の日本の教会の基本路線を敷いた方と言ってよいであろう。ローマとの関係の取り方、日本の他宗教との関係の取り方、日本の習俗や文化との関係の取り方など、師の姿勢が反映していたように見える。その路線が教勢拡大という意味で適合的であったかどうかの判断は後の歴史にまかすほかはない。東大卒のエリート大司教というイメージとは異なって人間的にも思想的にも穏やかな方だった。同じ時代を生きた者の一人として安らかな平安と永遠の安息を祈りたい。われわれも同じジョンストン師の指導を受けたカト研の仲間として祈りたい。

写真(岡田大司教)

 

1 グレゴリウス7世は、教皇は至高の裁治権(立法権・裁判権)を持つと主張して、聖職者の妻帯や聖職売買を禁止した。これは後に「グレゴリウス改革」と呼ばれる。
2 復古カトリック教会 Old Catholic Church ともいう。かれらは教皇の首位権や不可謬権を認めない「ユトレヒト・ユニオン」を作り、カトリック教会を離れた。なお、第二バチカン公会議以降の教皇を認めない「教皇聖座空位論(sedevacantism)」とは異なるようだ。ブログをみると日本にも古カトリック教会信徒や教皇座空位論者がいるようだ。
3 カトリック教会は「伝承」と「聖書」を同程度に重視する。何を伝承と見なすかは議論のあるところだが、伝承を認めないプロテスタント教会との大きな違いだ。
4 大シスマ時代(3人の教皇が並立する大分裂時代)(1378-1417)以後、公会議が教皇の上に立つと言う公会議至上主義(condiliarismus)が登場して、教皇至上主義(papalismus)と対立するようになる。フィレンツェ公会議では最終的に後者が勝利する。
5 これは川中師が2014年の日本カテキスタ会信仰養成講座で行った講義の一部である。タイトルは、第二バチカン公会議の「教会憲章」第3章「教会の位階的構成、とくに司教職について」の「背景」となっている。かなり専門的な内容で、不可謬論をより広い視野の中で捉える視点を与えてくれている。

5・1 第一バチカン公会議(1869/12/08~1870/10/20)
①第一バチカン公会議の教義憲章 Constituitio dogmatica)
a)デイ・フィリウス(1870/04/24):カトリックの信仰に関する憲章
b)パストール・テルヌス(1870/07/18):キリストの教会に関する憲章
②パストール・テルヌス(DH3050-3074)の構造

教会の設立と基礎
第1章 聖ペテロにおける使徒座のの首位権の制定
第2章 聖ペテロの首位権はローマ教皇において継続される
第3章 教皇の首位権の本質と権能
第4章 教皇の不可謬教導職について

③不可謬性 infallibilitas (DH3065-3074)
ここでは、第4章(DH3074)の訳文が紹介される。
「すなわち、教皇が教皇座から宣言する時、言い換えれば全キリスト者の牧者として教師として、その最高の使徒伝承の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を決定するときに望んだ聖ペテロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである」

・不可謬性とは教皇の指導職の不可謬性のことであり、教皇個人の不可謬性のことではない
・不可謬性条項の前段と後段に矛盾があるのではないか

①前段では、「教皇座から宣言するとき」:これは教会全体における教皇の決定
②後段では、「教会の同意によってではなく、それ自体で」とある

この ex cahedra(教皇座から) と ex sese (それ自体で) は内容的に矛盾した表現だという。


5・2 第二バチカン公会議の審議(1962-64)

①第二バチカン公会議における少数派と多数派の対立
・保守派 the conservatives は少数派で、オッタビアーニ枢機卿(1890-1979)に代表される
・進歩派 the progressives は多数派で、ブリュッセルの大司教スーネンス枢機卿(1904-96)に代表される
②第三会期における教会草案の審議(1964/・9/14~11/21)
a) 「予備解説的注釈」(1964/11/16)が出される
「さらに、教会憲章要綱の第3章に関する修正意見について、上位の権威筋から予備解説的な覚え書きが諸教父に交付された。同第3章に述べられている教えは、この覚え書きの精神と見解に従って説明され、理解されるべきである」
 パウロ6世はこの注釈に沿って「全会一致」の意向を示されたという
b) 教会草案の最終採決(1964/11/21)
賛成2151票 反対5票
ここに「教会憲章」が成立した。
教会憲章第3章の審議の焦点は、ローマ教皇の「首位性」(primatus)と 司教団の「団体制」(collegialitas)にあった。

 第二バチカン公会議の教会憲章の第3章をただ読むと何のことを問題にしているかがよくわからないが、川中師の背景説明のおかげでより深く理解できる。

 

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教皇は不可謬 だ/か ? ー 岩島師教会論20(学びあいの会)

2020-12-22 13:34:08 | 神学


 晴天の冬至の日に開かれた岩島師教会論は終盤に入った。コロナのせいで出席者は少ない。とはいえ教会に集まれるだけでも良しとしなければならない。

 今回は第19章「第一バチカン公会議」で、制度としての教会論が完成したという話だ。論点は教皇の不可謬権と教皇首位権。では、教皇は不可謬だとは何のことなのか。
 だが、教皇不可謬論を中心とするこの制度的教会論は、続く第二バチカン公会議で修正発展を余儀なくされる。岩島師はこの難しい問題にはっきりとご自分の評価を下す。少し丁寧に見ていきたい。

第19章 第一バチカン公会議 ー 制度としての教会論の完成

 カトリック教会が「制度として」完成するとは独特の意味を持つ。東方教会やプロテスタント教会には見られない独特の制度ができあがったという意味になる。

①教皇不可謬権
②教皇首位権
③中央集権的体制

 これらはカトリック教会の組織としての特徴と言ってもよいのかもしれない。


Ⅰ 背景

1 宗教改革から第一バチカン公会議までの約350年間の推移

①ヨーロッパの政治的変遷
 ここでは、絶対主義→フランス革命→ナポレオン→市民革命→国民国家の成立 という流れの中で、人間の自由が主張され、人間社会が神から切り離されてきたという変化が描写される。
②ヨーロッパの学問世界
 ここでは、科学の自立性の確立とともに、人間理性が神から切り離されたと説明される。

2 ガリカニスムの精神 Gallicanisme

 ガリカニスムとはフランスの国家教会主義(国民教会体制)のことをさす。国民国家が主権を持ち、各国の司教団がローマから自立していく(1)。

フランス教会の「ガリカニスム4箇条宣言」は以下のように整理される。

①王と政府の教会からの独立
②公会議至上主義
③教皇の首位権はフランス国王とフランス教令によって制約される
④教皇の信仰問題についての決定も教令により修正可能

 フランスが国家としてローマから独立していく過程がはっきりとわかる(2)。
 ドイツ、オーストリアも同様の傾向をとる。1870年にはイタリア統一運動により教皇領は崩壊する(3)。

3 ウルトラモンタニスム Ultramontansme

 教会にも自由主義的姿勢もあったが、ローマ中心主義つまり教皇庁の至上権を主張するウルトラモンタニスムの思想が生まれる(4)。ガリカニスムとは正反対の思想だ。ラムネ(フランス)、ウオード(英国)などが教皇の絶対的権威と不可謬性を主張したという(5)。1864年に「シラブス syllabus (近代主義者の誤謬表)」が発表され、80項目の近代思想の命題が排斥された(6)。
 ガリカニスムに対抗するためにウルトラモンタニスムの路線で第一バチカン公会議が招集される。トリエント公会議(1545-63)以来実に300年ぶりに開催された第一バチカン公会議はガリカニスム思想に対抗するためであった(7)。
 トリエント公会議は宗教改革に対抗するために開かれた。第一バチカン公会議は教会がガリカニスムに対抗するために開かれたことを忘れてはならないようだ。

4 第一バチカン公会議(1869)

 1869年にピウス9世により招集されたこの会議(第20回公会議)は、独仏戦争、イタリア統一戦争などのためわずか1年足らずで中止となる。再開されるのは約100年後である(1962年第二バチカン公会議)。したがってわずか2つの憲章が採択されただけで終わる。だが大きな歴史的意味を持つ憲章の採択があった。

①ディ・フィリウス(Dei Filius)
 文字通りには神の子だが、信仰憲章と訳されるらしい。理性の自律が信仰の危機をもたらしたことへの対処という性格を持っていたようだ。
②パストウール・エレルヌス(Pastor Aeternus)
 ローマ教皇の全教会に対する権限の宣言で、教義憲章と呼ばれるようだ。いわゆる教皇不可謬説(無謬説)を宣言した歴史的な憲章である。
 この憲章は1870年の7月18日に採択されるが、翌日には独仏戦争が勃発する。9月20日にはイタリア統一戦争でローマが占領される。ヴァチカンは公会議どころではないので、公会議は10月20日に中止される。

 

(第一バチカン公会議)

 

 教義憲章は教皇不可謬論の骨格なので次回に詳しく見てみたい。



1 ガリアとはフランスの古名。ガリカニスムは司教主義(episcopalismusu)とも呼ばれる。
2 こういう説明は、これは「ガリカニスム」精神が「ライシテ」原理とどう異なるのかという問題を想起させる。ガリカニスムには国家による宗教の管理という側面があるのでライシテ精神とは異なるように思えるが、フランスが共和国であることを認めるという点では親和性もありそうだ。思想史の中でどう説明されているのか興味深い。
3 イタリアは、日本やドイツと同じように、近代国家として成立するのが遅かった。北イタリアは長くオーストリアの支配下にあった。イタリア統一運動(戦争)とは「リソルジメント運動」Risorgiment から始まり、1861年のイタリア王国成立までを指すようだ。日本史でいえば明治維新前後、大浦天主堂での信徒発見(隠れキリシタン)は1865年だ。この年、アメリカでは4年続いた南北戦争が北部の勝利で終わった。
4 ウルトラモンタニスムとは「山の向こう」というラテン語に由来する古い言葉のようだ。ローマから見てアルプスの北側にも教皇の権威が及ぶという考え方だ(フランスから見て山の向こうにローマがあるという意味ではないようだ)。
5 14世紀以来の「公会議至上主義」は「公会議の不可謬性」を主張していたが、教皇不可謬論は19世紀にピウス9世により開催された第一バチカン公会議に帰されることが多い。
6 例えば、汎神論・自然主義・合理主義などの思想だけではなく、政教分離説や出版の自由など世俗的事柄も含まれており、近代社会の科学や文化をごちゃ混ぜに糾弾しているようだ。さすが教会外部からは強い非難を浴びたようだ。にもかかわらず、教皇ピオ10世は1910年に自発教令「反近代主義者の誓約」をさらに出し、20世紀前半の教会を強く拘束した。この誓約は当時の神学者や神学生を苦しめたようだ。この誓約も「シラブス」の一部とみなされているらしい。今から見ればこの反動的な誓約は第二バチカン公会議後の1967年になってやっと廃止された。
7 わたしはいつも不思議に思うのだが、16世紀から19世紀まで300年もの長い間なぜ公会議は一度も開かれなかったのであろうか。近代社会の成立の中で教会は公会議を「開かなかった」のか「開けなかった」のか。公会議は、教義の制定や異端説の排除のために開くものであり、頻繁に開くものではないとはいえ、300年間も開催されなかったのは不思議と言えば不思議である。

 

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小笠原優師『信仰の神秘』刊行される

2020-12-13 15:12:38 | 神学

 今日の日曜日は、私どもの組に分散ミサの順番が回ってきた。朝10時の御ミサだったが出席者は30名くらいで、これが「密」かと思うほどだった。今日は待降節第3主日(B年)だが、神父様はピンク色の祭服を着ておられた。普通はこの時期は「紫」のはずだが、第3主日はクリスマスがすぐそこまで来ていると言うことで「喜びの主日」と言われるようで、ピンク色の祭服もありなのだという。きれいな色だったので目立った。

 とはいえ、教会委員会からは高齢者はクリスマスのミサには出てはならぬとの仰せなので今日がクリスマス前の最後のごミサとなる。告解どころではない。教会からのクリスマス・プレゼントだと全員にご絵入りのクッキーが配られた。なんともやりきれない待降節である。

 小笠原優師の『信仰の神秘』が先週やっと刊行された(1)。本書の企画者の一人である岡野さんのご厚意でさっそく入手できた。

 本書は師が2年半ほど前に入門講座(最近は信仰学習会と呼ぶようだ)用のテキストとして編まれた『キリスト教のエッセンスを学ぶ』に続くテキストという位置づけのようだが、かなり独立したテキストとして書かれているようだ。つまり続けて連続して読む必要はななく、別々に学んでもよいということらしい。

 実は私は本書はゲラの段階で読ませていただいてある。そのときの印象はこのブログでも紹介したことがある(2)。今日はざっと見ただけだが、印象を思いつき程度に簡単に触れてみたい。内容についてはきちんと読んでから整理してみたい。

 本書の目次は以下の通りである。

第1部 キリスト教の人間観

第1章 人間であることーその特徴
第2章 人格的存在である人間
第3章 聖書の人間観

第2部 キリスト教信仰を生きる

第1章 信仰の恵みに答える生き方
第2章 自己の成長ー過ぎ越しの神秘を生きる
第3章 教会と共なる歩み
第4章 み言葉と秘跡
第5章 カトリック信者のライフスタイル
第6章 世の塩・世の光であれ
第7章 カトリック的「終活」


 ゲラの段階からの変更に気づかされる。第2部第4章と第7章は新しく書き下ろされたようだ。コロナ禍に苦しむ教会にとりこの追加は意味深い。
 岡野氏によると、聖書からの引用や、「コラム」「注」も少し短くなっているという。また、第3部 付録:カトリック信者の心得 は削除されているようだ。全体が422ページの大著なので致し方ないことであろう。

 本書を開いて最初に受ける驚きは本書の構成の仕方だ。第1部が「キリスト教の人間観」、第2部が「キリスト教信仰を生きる」となっている。

 本書の特徴は何なのだろう。本書は公教要理の「入門書」ではない。といってカトリックの「教理書」でもない。多くの司祭が物される「随筆」風の本でもない。この本に推薦の辞を寄せられた梅村昌弘横浜教区長は本書を「生きていくための手引き書であり指南書です」と述べている。では本書は「人生論」なのだろうか。
 著者は「はじめに」で、本書は「キリスト教のエッセンスを生きていくための手引き書、あるいは、参考書のようなもの」と述べ、「信仰実践」を目指していると言っている。といっても実際に読んでみると内容はハウツーもの風の典礼の解説書ではなく、神学書の印象が強い。わたしは小笠原師のお説教は何度も聞いたことがあるが、いわば「小笠原節」が本書には鳴り響いている。

 本書が「キリスト教の人間観」から始まっていることはとても興味深い。信仰への導きに、いわば「人間論」から入っていくのだ。教義神学の中心はキリスト論と教会論で、第3の人間論は難物だ。その内容には創造論・罪論・恩恵論など論争の絶えないテーマに満ちあふれているからだ。こういう人間論から切り込んでいくという小笠原師の思いがどこにあるのかおたずねしてみたいものである。
 ちなみに、『カトリック教会のカテキズム・要約』は、第1編「信仰宣言」、第2編「キリスト教の神秘を祝う」、第3編「キリストと一致して生きる」、第4編「キリスト教の祈り」、となっている。これは、わかりやすく言うと、キリスト論・教会論・倫理論・律法論と称されることが多い。人間ではなく、イエスの話から入っていくのだ。

 岩下壮一師の『カトリックの信仰』はもっとストレートで、入り方としてはオーソドックスだ。「緒言」は「宗教とは何か」ではじまり、続いて「天主」、「三位一体」、「創造と主宰」と来る。神とは何か、イエスとは誰か、という順番で話しが続き、「人間」論は第5章に置かれている。

 本書が人間論から始まる点に小笠原師の意気込みが感じ取れる。これからしばらくゆっくり読んで味わってみたい。


本書の表紙(受胎告知 フラ・アンジェリコ 伊 1400~1455)

 

 


1 小笠原優『信仰の神秘』イー・ピックス 2020
  小笠原優『キリスト教信仰のエッセンス』イー・ピックス 2018
2 「洗礼後のあゆみー下巻『信仰の神秘』2020/06/13

 

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