カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

96歳の誕生会 ー 信者の鑑からロールモデルへ

2023-06-29 14:08:54 | 教会


 教会の先輩の誕生会に招かれた。96歳の女性の誕生会である。ホテルの一室にお祝いに駆け付けたのは(招待されたのは)4組のご夫婦の方々を含む9名ほどだが、全員戦前生まれだ。つまり80歳代の人々の会食ということになる。楽しい集まりであった。

 先輩のSさんによれば、誕生会の名を借りてコミュニケーションの場を持ちたいと思ったからだという。彼女は自らパソコンを操り、スマホを操作し、招待状を作られたという。感心するどころか、ただただ驚くばかりだった。
 これは高齢化が進む今日のカトリック教会の一つの姿であり、印象を少し書き残しておきたい。どこの教会でも見られる姿ではないだろうが、かといって例外的な出来事とも言えないだろう。

 Sさんは、教会では入門講座を担当しており、また、いくつかのグループをつくって教会のリーダー的役割を果たしておられる。Sさんは当教会では80年に及ぶ教会歴をお持ちなので、周りからは「教会の生き字引」と呼ばれているという(1)。教会歴というよりは彼女の人徳が人をひきつけ、尊敬を集めているのだろう(2)。

 これは教会に限ったことではないが、高齢化社会の問題点の一つは高齢者のロールモデルが出来あがっていないことのように思える。自分の身近の周りを見わまして、自分もあういう高齢者になりたいあの人のように年を取りたい、と思わせてくれる人が減ってきているのではないか。高齢者といえば、すぐに介護だ、看護だという話になる。健康のために歩きなさいとか寂しさを紛らわすためにペットを飼いなさいとかいう話になる。だが、健康だけではなく、広い人間関係を持ち、精神的自立を保ち、周囲に誇りと自尊心を与え続けることができる高齢者の話をあまり聞かない。Sさんはそういう意味では、信者の鑑でも、教会の生き字引でもなく、高齢者の新しいロールモデルを提示しているように思えた。


 このロールモデルは当然単一のものではないだろう。地域や性別や年齢ごとに異なったモデルがあるだろう。また、どのように年を取るか、は、どのように生きてきたか、の反映でもあるので、このモデルを一律に議論するのは難しいだろう。とはいえ、高齢になることにはこのような喜びと楽しみと感謝があるのだと示せるロールモデルが欲しいものだ(3)。

 

【1952年ごろの聖堂】

 



1 私は個人的には心ひそかにSさんを「信者の鑑」を呼んでいるが、ご本人はこの表現を好まれない。ところが「教会の生き字引」という呼称には抵抗感がないようだ。わたしにはSさんのこの語感の違いに興味を感じるが、Sさんと私の世代の違いの反映なのだろうか。
 Sさんに80年の教会歴があるということは、彼女は戦後日本のカトリック教会の歴史をほぼすべてずっと見てこられたということであろう。時々周囲の方に感想をおもらしになるということなので、一度ゆっくりとお話を聞いてみたいものである。
2 こういう表現をするとすぐに「だから教会には老害がはびこっている」みたいな批判をする人がいる。少し視点を変えるとこういう批判が如何に近視眼的かがわかる。
3 高齢者向けの議論ではしばしば、「残りの人生は短いのだから、自分の好きなように生きなさい」という言説がまかり通っている。この種の言説は一見もっともらしく聞こえるが、ひとつ大きな欠点がある。それは「自分個人の人生」のことしか念頭に置いていないことだ。ところが、なんでも好き勝手にできる自分個人の人生なんてものはなく、それはいつも集合的・共同体的ははずだ。Sさんが一つのロールモデルに見えるというのは、彼女の人生が教会という一つの共同体の中で営まれてきたからだ、と言うと言い過ぎだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫の初聖体を喜ぶ

2023-06-11 21:41:03 | 教会


 今日の「キリストの聖体」の祝日に孫二人が初聖体のお恵みを受けることができた。コロナ禍で延び延びになっていたが、やっとたどり着けたということでホッとしている。
 孫たちは所属教会が別なので、朝早く雨の中を勇んで出かけた。6名の子供たちが初聖体だった。男女3人ずつだったようだ。初聖体は一応現在は7歳前後ということになっているようだが(1)、今日は小学2年生から5年生までの子供たちだった。コロナ禍はこんなところまで影響を及ぼしているのだろう(2)。
 ご聖体をいただく前に最初の告解がある。今は罪の赦しというらしい。子供たちはご聖体は待ち遠しかったようだが、告解はなんのことかよくわからなかったようだ。初聖体は秘跡だが、その前に赦しの秘跡を受けなければならない。そのための準備と勉強は子供にとっては大変なようだ。驚いたことに今は勉強はオンラインでもなされているようだ。面倒を見るシスターもさぞかし大変なことだろうと思った。
 ごミサの後お祝いのパーティが開かれ多くの方が出ておられた。神父様やシスターをはじめ教会の関係者に心から感謝したい。

【初聖体】

 

 



1 初告解・初聖体が7歳前後からと定まったのはつい最近のことらしい。1910年の教皇ピオ10世の秘跡聖省令が根拠ということらしいが、西欧中世では15歳前後だったらしい。といっても地域や時代によっては7歳前後のこともあったらしく、きちんと定まったのは最近のことのようだ。
 日本では、初聖体は通過儀礼ではなくて、七五三より大事ですよということになっているが、カトリックをあまり知らない人に対しては通過儀礼と言った方が説明はしやすいのかもしれない。この後に来る堅信にまでたどり着けるかどうかはまさにお恵みがなければ難しいからだ。難しいと言えば、初聖体にこぎ着けるのも親御さんにとっては大変なことだろう。親御さんの喜びは想像にあまりある。
2 なぜ7歳前後なのか。歴史的経緯は別として、普通の説明は、7歳になれば「理性」が備わってイエスが誰か理解できるようになるからだという。また、初めての告解が必要なのは「」の意味がわかるようになるからだという。これは神学的には興味深い説明だ。つまり、理性と贖罪が初聖体の基礎になっているようだ。
 わいわいと賑やかに騒ぎたい今時の子供たちに罪の説明は容易ではないだろう。シスターたちも苦労するところだろう。ところが最近は初聖体の勉強ではこの「罪」観念を教えることが重視されているという。贖罪よりは救済の方を強調してほしいところだが、ここにも最近の日本の教会の姿勢やバチカンの意向の変化を垣間見ることができそうだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする