今日のごミサのあと、知人と増田師の神学について話し合った。増田師とはわれわれは面識はない。だが、師の神学から学ぶことが多かったので、ここで少しふれて弔意を表したい。
増田師はイエズス会司祭。上智大学神学部教授。この3月9日に逝去。1963年生まれだから享年55歳。なんとも惜しまれる。
専門は教義学、特に教会論という。『カトリック教会論への招き』(2015)は現在でも良く読まれているという。
ここでは、師が編集された『カトリック神学への招き』(2009)のなかで展開された師の神学の特徴をみてみたい。第6部「現代の神学」のなかの第16章「現代神学の課題」である。
この章で、師は、「神学の究極の課題は「救い」についてである」と述べる。神学とは救済論だと断定する。
だがこの救済論は多様性を持たざるを得ない。それは、「教会はどのような意味で救いの普遍的秘跡になりうるのかは、人々や教会が置かれている時代や文化の環境によって異なる」からだという。
言われてみれば当たり前の言明だが、イエズス会司祭がここまで言うのには勇気のいることであっただろう。こういう複眼的視点は師の神学の特徴のようだ。
師は、現代神学の課題を4点あげる。どれも10年前の議論とは思えないほど、先見の明のある整理の仕方である。
第一の課題 諸宗教の神学
諸宗教の神学とは、キリスト教と他宗教の関係を議論する神学だ。基本は「キリスト教の相対化」をどう評価するかである。キリスト教は排他的なのか、それとも他宗教との共存を目指すのか。師は宗教的多元主義はとらないようだが、諸宗教との対話の重要性を強調してやまない。「エキュメニズム」という言葉は最近はあまり聞かれなくなった。増田師もこの言葉を使っていない。プロテスタント、正教会、ユダヤ教、イスラム教、仏教などとの対話、中国との関係など、問題山積みで解決の方向性がまだ見えないことの表れなのだろうか。
第二の課題 解放の神学
ラテンアメリカで発展した解放の神学は一時期教会内では批判されることも多かった。しかし師は解放の神学の重要性を指摘する。「救い=解放と理解した神学者は、キリスト教が教える救い(=解放)は人間の霊的な次元だけではなく、社会・政治・経済も含む全体的次元で理解されるべきであり」(301頁)と述べる。かなり踏み込んだ主張だ。
これは我々の私見だが、第二バチカン公会議以降の教皇(ヨハネ23世・パウロ6世・ヨハネパウロ1世)の時代の「教会の現代化」のなかで、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世と続く保守化の傾向は現在のフランシスコ教皇によってストップがかけられ、第二バチカン公会議の原点への回帰の方向に舵が切られているように見える。増田師は肯定的視点を持っていたようだ。
第三の課題 フェミニズムの神学
増田師は、「男尊女卑思想が聖書の記述にも影響を与えており」と述べ、マグダラのマリアの弟子としての評価の復権の重要性などを指摘する。司祭の独身制とならんで「女性叙階」の問題をフェミニズム神学の課題としている。ただ師の立場は慎重なようだ。「女性を叙階しないことがスキャンダルになる文化もあれば、女性を叙階することがスキャンダルになる文化もある」と述べ、「差別論だけでは問題の全体像は見えてこない」(303頁)という。
第四の課題 倫理神学
家族の在り方が大きく変化してきているので、「人工避妊、同性愛、離婚と再婚、婚姻関係以外の性愛関係」などを「大罪」と断罪するだけでは、「聞く耳を持つ人は少ないであろう」という。神学は、ただ人を裁くだけではなく、「福音的生き方へ招き鼓舞する使命を持つ」という。だが、この福音的生き方の鼓舞が、逆に、人々から「罪意識」を失わせているという指摘もあるという。
倫理的問題に関するフランシスコ教皇の積極的・改革的姿勢が注目されるなか、司祭による性的虐待問題は倫理神学の問題を超えて、カトリック教会にとっては「第二の宗教改革」の引き金になりかねない。増田師はどのように考えていたのだろうか。
このように、増田師は現代のカトリック神学の課題を4点に整理しておられた。キリスト論、教会論も大事だが、我々信徒にとっては、こういう現実的課題の方が、切実だ。師の早世はあまりにも悲しい。冥福を祈りたい。