カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「幸い」の説教 ー 新約聖書とイエス(その11)

2018-11-27 17:43:27 | 神学


 真福八端はイエスの幸いの説教の中核をなしている。これは、通常、マタイ5・3-12の「山上の説教」として知られているが、他方、ルカ 6:20-23 の「平地の説教」もある。幸いの説教は「山の上」でなされたのか、「平地の野」でなされたのか。実は、問題は、どこでなされたか、山か平地かではなく、イエスは何と言っていたのか、を知ることだ。聖書学は「幸い」の説教の原型を復元しようとしてきた。
 「幸い」の説教の原型はどのようなものだったのか。結論的には、それは、ルカがいうように、極めてシンプルなものだったようだ。が、マタイはそれを自分なりに内面化してなにか倫理的な教えに編集し直したようだ(1)。

1)原型の復元

a)
 マタイ5・3-12の山上の説教の最初に真福八端がくる。イエスは幸いを得る基本として8項目を挙げられた。幸福とは、金持ちになること、権力を持つこと、豊かで楽な生活をすること、などとわれわれは思いがちだが、イエスはとんでもないことを言い始める。

心の貧しい人々は、幸いである、  天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、  その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、  その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、  その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、  その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、  その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、  その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、  天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(新共同訳)

 驚くべきメッセージである。荒井献氏はこの真福八端には二つの特徴があるという。

①精神的限定
 マタイはイエスの説教を内面化・倫理化して表現する。これはマタイの表現なのだ。例えば、「心の貧しい人々」とはなんのことか。誰のことか。日本語としてはピントこないので繰り返し議論されてきた。日本語の訳語の問題もあろうが、「霊(プネウマ)において貧しい者たち」のことだ。でもこれでも分かりづらい。だから、さまざまな解釈や議論が行われてきた。「貧しさ」とは何なのか。単なる物質的貧しさから謙遜・へりくだりまで解釈は多様だ。中川師は「全人的解釈」が必要だという。

②「天の国」という言葉
 マタイはここで、「神の国」とは言わない。「天の国」と言っている。これはあきらかにユダヤ教的改変なのだという。「神の国」と「天の国」の違いはすでに論じたのでここでは触れられていない。

b)
 ルカの平地の説教は6・20-23である。

20 さて、イエスは目を上げて弟子たちをみて言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」

 重要なのは、「幸い」という句らしい。ルカは二人称を使っているのに、マタイは三人称複数形を使っているのだという。これがどういう違いを意味するのかわたしにはわからないが、ルカがイエスによる「語りかけ」を強調しているのは確かなようだ。

ルカ11・28 「しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」
ルカ14・15 「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに言った。「何と幸いなことでしょう、神の国で食事する人は」

 中川師はさらに、ルカが伝えるイエスの言葉、使信の迫真性を強調する。

ルカ 6・21をもう一度見てみよう。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」

 ここでは、「今」と言っている。集まっている人々に向かって「いま、この瞬間、おなかを減らしている人々よ」と言っているように聞こえる。「あなたがた」と言っている。二人称だ。中川師が言う「迫真的」とはそういう意味なのであろう。

c) Q資料(語録資料)

 だが、マタイの伝えるイエスの幸いの教えと、ルカの伝えるイエスの教えには違いがありすぎる。なぜこれほどちがうのか。しかもマタイ、ルカにはあって、マルコにはない話がたくさんある。それはQ資料が介在するからだ(2)。つまり、

①伝承の原型(ルカ6・20aなど)があった
②「幸い」の理由句(ルカ6・20bなど)では終末論的応報願望がQ資料段階で付加されている
③イエスの言葉(ルカ6・22-23)がQ資料段階で「ロゴス」化されて使信として提示される
(ロゴス化とは、伝承の担い手や編集者などによってイエスの使信が総括的に提示されること)

 すなわち、荒井氏によると、伝承の原型は「三福」である。

   幸いだ、貧しい者たち。
   幸いだ、飢えている者たち。
   幸いだ、泣いている者たち。

 イエスの幸いの教えはこういう簡潔なものだったのかもしれない。それにしても逆説的な教えだ(3)。中川師は、まとめとして、「幸い」の説教の中心的使信は、「神の国」が「貧しい者」に開示されるということ、神の前の貧しさが要請されていること、と整理された。神の前での貧しさ。難しい課題である。


注1 荒井献『イエス・キリスト』(上下)講談社 2001
注2 「Q資料とは、前述のように、、ドイツ語のLogienquelleという語のQeulleの頭文字に由来し、邦語では、イエスの語録集という。これは定義上は、マルコにはほとんど存在しないが、マタイとルカが共有するイエスの言葉を収録したものである。たとえば、マタイ5章の山上の説教とルカ6・20以下の山麓の説教は、マルコにはないが、マタイとルカに共通した伝承である。」(三好迪『ルカによる福音書ー旅空に歩むイエス』講談社 1984 47頁)
注3 これを裕福な者への敵視ととると、そのままユダヤ人には伝えられないから、マタイのような編集が入って来るのだという。真福八端にいろいろな解釈があるのも宜なるかなである。

 

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イエスと貧しい者たち ー 新約聖書とイエス(その10)

2018-11-26 21:27:09 | 教会


 川中師の神学講座の続きである。11月の学びあいの会は出席者が少なかった。
今年もいよいよ最後の週に入った。神父様のお説教によれば、年の「終わり」が近づいたというよりは、「完成」が近づいたと考えるべき週だという(1)。


3・4 「貧しい者」とは誰か

 今回は、イエスが貧しい者の側にたっていたことが強調される。では「貧しい者」とは誰のことかという話になる。

 だがその前に、イエスその人は貧しかったのだろうか。貧しい家庭の出身だったのだろうか。福音書にはイエスの経済的階層や身分についての言及はないようだ。だが、かれは、生活のために働いている姿は描かれていない。畑で働いたり、ガリラヤ湖で漁をしたりはしていなかった。イエスは、文字や聖書を学び、考え、祈ったりする自由な時間を持っていたはずだ。もしかれが、マルコ6・3が言うように「大工」だったとすると、イエスは当時のユダヤ人社会では最下層ではなかったし、貧農(peasant)ではなかった。強いて言えば、小市民層とでも呼べる階層に属していたようだ。
 イエスの家族、ヨゼフもマリアも貧しい者としては描かれていない。12人の弟子も貧農ではなかった。むしろ裕福な人がいた。マタイ、ペトロ、ユダ、ゼベダイの子らは裕福だったようだ。イエスを貧しい家庭の出身とすることはできない(2)。だがこれは、今回の講義の中心テーマではない。


1 貧しい者/罪人

1) 貧しい者 ptochoi  プトコイ は、イザヤ61・1や、ルカ4・18にみられるように、ユダヤ社会における社会的弱者(被抑圧者・被差別者)をさす。寡婦・孤児・寄留者などだ。

2) 貧しい者とは罪人 hamartoloi  をも指す。罪とは律法に違反する行為という意味にされていたから、罪人とは広義には律法違反者のことであった。だが、やがて卑賤な職業従事者を指すようになる。具体的には徴税人(ルカ18・9)や娼婦(ルカ7・36)などだ。

 わたしの印象では、問題は、この「罪」の思想が、旧約の「汚れの思想」(浄/不浄)の延長線上に生まれてきていることだ。旧約では、浄/不浄思想はかなり強く、レビ記11-15章では、蹄のない動物など一定の種類の動物、出産・皮膚病・出血・月経・精の漏出・死体との接触などが汚れ(不浄)とされた。最大の不浄は他の神を奉ることだった。預言者はこれを罪と見做し、「清め」(浄め)として「贖い」を求めた(3)。ファリサイ派や律法学者はこういう不浄規定を偏重し、形式的に適用し始めた。イエスはこういう姿勢を批判することから教えを始められた。汚れの思想と罪の思想を連続線上で捉えないと「貧しい者」の姿が浮かんでこない。

2 「貧しい者」の側にたつイエス

 イエスは貧しい者の側にたった。それはどういう意味なのか。

1)イエスの社会階層

  イエスはどういう階層に属していたのか(4)。
マルコ6・3「この人は、大工ではないか」。
マタイ13・55「この人は大工の息子ではないか」。
 イエスの職業に関しては「大工 テクトン」説が有力だが、この説はイエスの社会階層を「小市民階層」と位置づける。他方、「石工」(石材加工業者)説を唱える聖書学者や司祭も多い。石工は階層的には下層であり、イエスは社会的な下層出身であり、だから貧しい者の立場に立つのだ。だから教会は現代でも下層の者に寄り添わねばならないと主張する人々だ(5)。さらには「建設職人」と訳す学者もいるようだ。つまり何の技能も持ち合わせない最下層に属すると考える人々だ。
 中川師の立場は明確ではないが、小市民層所属と考えておられるようだ。

2) イエスの罪人との会食

 イエスが罪人と会食したことは律法学者たちを怒らせた。イエスを死に至らせた最大の理由と言っても良いかもしれない。

a) 「罪人の招き」はマルコ2・17だ。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 これには、律法の食物規定が背景にある。食物規定は、マルコ7・1~23とか、ルカ11・37~41にあるが、食事の前に手を洗えとか、身を清めよとか、杯や寝台を洗えなどだ。寝台を洗うとは驚きだが、要はファリサイ派や律法学者がイエスに言いがかりをつけているわけだ。イエスは形式的儀礼だけでは「神の言葉を無にしている」として、罪人を食卓に招くのだ。

b) 「悔い改め」 ルカは5・32で、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という。つまり、「回心」による全人間的変革を強調する。

c)だが、マタイは違う。マタイは、ルカのように律法を否定しようとしない。少なくとも、イエスを律法を否定する者としては描かない。むしろ、律法を「完成させる者」として描いていく。マタイ5・17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。
 マタイのこういう編集作業を律法原理の回復と評する聖書学者もいるようだが、マタイはユダヤ人に向かって語っているのだから、ユダヤ人を怒らすような言い方をしないのは当然と言えば当然だ。他方、ルカは異邦人に向かって語っている。「悔い改めよ、回心せよ」が主要なメッセージになるのはよく分かる話である。

3) 貧しい者と連帯するイエス

 イエスは貧しい者の側にたつ。
 ルカ7・34 「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。
 また、マタイ21・31では、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」
 中川師は、イエスのこの貧しい者との連帯は当時の社会秩序への挑戦であり、イエスを十字架の刑による死に至らしめたという。
 では、貧しい者との連帯とはなんのことなのか。師は、「解放の神学」論争に言及されたようだ。解放の神学論に影響を与えたと言われる「従属理論」は社会科学の世界では現在ではほぼ決着のついた論争だが、解放の神学論争はカトリック教会ではまだ続いているのかもしれない(6)。

 次は「幸いの説教」(真福八端)の話だが、長くなるので次稿にまわしたい。

注1 こういう暦の話は教会の中では当たり前でも、教会外では話が通じにくい。とはいえ、最近は教会でも七五三がお祝いできるようになったように、変わっていくことであろう。
注2 イエスは貧しい者の味方だったからイエスも貧しい家庭の出身だと主張する聖書学者も多いようだ。イエスの職業は「大工」ではなく、「石工」だという学者や司祭に多い考え方だ。
 また、神学者クロッサンの『史的イエス』(1991)の影響のもとイエスは「貧農」出身だという聖書学者も多いようだ。だが現在はこの説は否定されているようだ。貧農(peasant)とは職業分類と言うよりは、本来は「田舎で働く者」という意味であり、「貧しくさせられた者」という含意を含むという(チャールズワース『史的イエス』270頁)。
注3 穢れと清めの思想は我々にもなじみ深い。汚れの思想は仏教系らしいが、神道にも入り込んでいるようだ。とはいえ、汚れの中でも「死」は神道では汚れだが、仏教では汚れとは見做されないようだ。葬式は寺で行われるが、神社で葬式は行われない。この汚れや清めの思想からキリスト教に近づく人もいるのかもしれない。だが仏教や神道にはキリスト教の贖いの思想はないように思える。
注4 「社会階層」とは中川師の表現。中川師がどういう意味で社会階層という言葉を選んだのかははっきりしないが、どうも「職業階層」という意味らしい。しかし「最下層」という言葉もよく使っておられるので、ユダヤ人社会を「上・中・下」と分けて考えておられるようだ。
注5 S氏は、今日、日本の教会で著名なK師やF師の名前を挙げて簡単に紹介されていた。評価の分かれる司祭たちである。
注6 ラッチンガー(前教皇ベネディクト16世)は教理省長官時代に、解放の神学は福音のメッセージを歪めるとして批判的姿勢を明確にしたが、現教皇フランシスコはもっと理解のある姿勢を示しているようだ。だがこれは、現教皇はリベラルすぎるとして現教皇を批判する保守主義者に格好の論点を与えてしまっているのかもしれない。いずれにせよ、聞くところによれば、フランシスコ教皇さまが来年日本を訪れる可能性は強まっているようだ。これほど楽しみなことはない。

 

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み顔を探す霊性 ー カルメル会中川博道師講話(3)

2018-11-05 17:38:33 | 神学


Ⅲ 現代教会のイエス・キリストを探す

[1] 『ラウダート・シ』に見る現代教会の人間理解

 ここでは、『ラウダート・シ』の人間理解に基づくイエス・キリスト観が説明される。
「創世記のなかの創造物語は・・・神との関わり、隣人との関わり、大地との関わりによって、人間の生がなりたっていることを示唆しています」(L.S.66)。
 中川師はこれを次のような図にまとめておられる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
聖書的観点から見るイエスの生き方の三次元
 A 神とのかかわり :従順 :天の父との交わりを生きるイエス: 「アッパ! (父よ!)」
 B 隣人とのかかわり:貞潔 :隣人への愛を生きるイエス:    他者のために生きるイエス
 C 大地とのかかわり:清貧 :この世界に対して神の愛の創造的な働きかけで関わるイエス
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 従順・貞潔・清貧は言うまでもなく奉献生活者・修道者の「三誓願」だ。師はこの三誓願からイエスの姿を描いていく(注1)。つまり、現代のカトリック教会のイエス理解を説明していく。説明はA,B,C の順番でなされた。

 この説明に入る前に、師は興味深い問いかけをおこなった。「この人がいなければ今の自分はなかった。こういう今の自分を作ってくれた人の名前を5人挙げてください」。黙想会でよく出される問いかけだ。熱心にメモに書き付けていた方もおられたし、呆然としておられる方もおられた(注2)。

A 神とのかかわり

 イエスの日常生活を通しての父との交わりは「祈り」を通してであった。だから我々も祈りを通してイエスとかかわる。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1-18)。これ見よがしの祈りはダメですよ、ということらしい。師は続いて祈りについてのイエスの教えを説明された(マタイ6:5-15、ルカ11:1-13)。「主の祈り」(主祷文、Pater Noster,Lord's Prayer)である。師の説明は丁寧なものだった。

B 隣人とのかかわり

 イエスは、家族の中で生き、弟子たちの間で生き、そして公生活のなかで生きた。公生活では、社会から疎外された人々、社会の中に居場所を持たない人々の隣人となられた、つまり、売国奴(収税人、兵士)、不道徳な者(姦通の女性、娼婦たち)、疎外された者(ハンセン病患者、目の不自由な人、中風の人、病人)、異端者(サマリア人、異教徒、カナンの女、外国人)、社会的弱者(女性、こども、空腹の人)、などの隣人となられた。こういうイエスの態度が当時のユダヤの体制からは危険視された。

C 大地とのかかわり

 ①差別や争いをはっきりした態度で告発するイエス

 職種、民族、宗教の違いによる差別は、聖書の誤った解釈によって正当化されていたので、イエスはそこを告発した。隣人とそうでない者との差別、ユダヤ人と異教徒の間の差別、聖なる務めと俗なる務めの差別、清浄と不常の差別、時の聖俗の差別(安息日は人のためにある)、場の聖俗の差別。イエスはこういう差別を間違いだと告発した。

 ②社会の柱を揺るがすイエス

 こういうイエスの行動は、当時のユダヤ体制の支柱を揺るがした。支柱とは、安息日の遵守・神殿・断食・祈り・施しのような聖なる務め、清めの儀式の掟、ファリサイ派の正義の実践、モーゼの律法そのもの、などのことで、イエスはこれらを相対化した。
 イエスは自分の努力で、自分の功績で、神に到達しようとする企てを告発し、「私たちは役に立たない僕です」(ルカ17・10)と言わせる。こうして、イエスは、律法の圧政から、律法解釈者の圧政から、知識の名において無学な人々に重荷を負わせる圧政から、人々を解放する(マタイ23・4)。

 ③すべての人が兄弟として生きる世界を示すイエス

 この解放は政治的・軍事的解放ではない。中川師は結論的に次のように言われる。「イエスは、互いに兄弟として生きるように呼びかけ、新しい秩序を提示する。イエスは、神への愛と隣人への愛を一つに合わせ、権力が奉仕として行使されるよう求めます。イエスは、御父のみ旨を成就することにどこまでも忠実で、死に至るまで、祈りのうちに、率直な信頼を御父に表明します」。(注3)


[2] 『喜びに喜べ』の示すイエス・キリストの生き方

 1)真福八端のイエス・キリスト 
「真福八端はキリスト者の身分証のようなものです・・・必要なのは、各人がおのおのの仕方で、イエスが山上の説教でなされたことを行動に移すということです」(63)。

 2)実践への招き
マタイ25:31-46(「お前たちは・・・訪ねてくれたからだ」)は、愛への単なる招きではない。「貧しい人、苦しむ人のなかにおられるキリストに気づきなさいという呼びかけのなかに・・・キリストのみ心が・・・現れている」(96)。

 師はこの『喜びに喜べ』を読むように強く勧めておられた(注4)。『ラウダート・シ』よりは読みやすいのかもしれない。

[3] 「これをわたしの記念として行いなさい」

 ここで師はミサの意味を説明された。「イエスは、2000年の歴史の中で、ミサを通して一人一人に自らを与え、食べさせ、出合おうと」してきたという。神は自らを食べられるものとなられた(注5)。師の結論はこうだ。「わたしたちは、聖体を拝領するたびに、ご自分を引き裂き、食べられる物となって自らを引き裂き、傷みながらも、出合う人々に自らを与えながら生きていくことへと派遣されているのです」。

 以上の講話の後、30分にわたって質疑応答があった。興味深い質問がいくつかあったが、わたしの記憶に残っているのは二つだ。

 第一は、「神父様はハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』に言及されたが、AIが支配する時代に宗教は生き残れるのか」。大上段に構えた質問だが、師は教皇フランシスコの言葉を引用してこう言われた。「問題は、何になりたいか、ではなく、何を望んでいるか、です。AIやロボットにそれができるでしょうか」。よい答えだと納得した。

 第二は、「『ラウダート・シ』によれば、地球はもうお終いみたいだ。これでは、何をしても手遅れではないか」というもの。これも答えようがない大質問だが、神父様は静かに答えられた。「教育と霊性です」。カルメル会の神父様らしい答えだとこれも納得した。

 中川師は宇治から直接来られたという。期待に違わず、文化の日にふさわしいよき講話だった。

注1 召命が減って司祭のなり手が少なくなっているとよく言われる。神父様によると、司祭一人あたりの信徒数で言えば日本は多い方だという。信者数はざっと44万人、司祭数はざっと1500人。修道士・修道女は5500人。司祭一人あたりの信徒数は約300人。細かい話は別として、司祭が足らないというより、信徒数が少なすぎる、と言うべきかもしれない。
注2 5人あげるのは多いか、少ないか。両親、先生、友人、神父様 ? そこにイエスさまは入ってくるのだろうか。わたしには5人では少なすぎてイエスさまの名前の席はない。が、どなたにも不義理でなんの恩返しもできなかったことをいつも悔いている。イエスさまの名前はそこに出てくる。
注3 こういうイエスの描き方、解放者としてのイエスの強調は、中川師の特徴のように思える。
注4 『喜びに喜べー現代世界における聖性』 教皇フランシスコの使徒的勧告 この10月にやっと日本語訳がでたという。Kindle版もあるらしい。全5章だが、第3章は「師なるかたに照らされて(時流に抗う優れた基準)」となっている。
注5 こういう言説がキリスト教の理解を難しくさせているのだろう。日本文化がこの言説を自分のものにするにはもう少し時間が必要かもしれない。

 

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 み顔を探す霊性 ー カルメル会中川博道師講話(2)

2018-11-04 18:37:45 | 神学


Ⅱ 人類史の新しい時代の中にイエスのみ顔を探す教会

 ここでは、イエスのみ顔を探すためには、「目覚めていなければならない」、「注意深くなければならない」、ということの意味が説明される。

[1] 現代への教会の認識

 教会は現代社会をどう認識しているのか。『現代世界憲章』がその答えだ。特に項目4が引用される。ここは、6項目ある「前置き 現代世界における人間の状況」の一部で、項目4は「希望と不安」と題されている。「人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変化が次第に全世界に広まりつつある・・・霊的成長はそれに追いつかない」(7頁)。実はこれは50年も前のバチカン第二公会議のときになされた時代認識だ。認識が変わっていないことに驚くよりも、半世紀前にすでに今日を見通していたことに驚く。

[2] この時代にイエスを探す教会

1)観想すべきみ顔

  こういう時代だから、われわれは、キリストについて「語ってほしい」のではなく、キリストに「会いたい」と願っている。 キリストに顔を合わせて会いたいのなら、キリストのみ顔を観想せよ。これは聖ヨハネ・パウロ二世の言葉だという。

2)現代の「時の徴」としての霊性

 つまり、世俗化が進んでいるにもかかわらず、同時に霊性を求める声が強まっている。「霊性神学」という新しい学問が誕生し、21世紀の「時のしるし」になっている。ここで中川師は、霊性神学を支える3人の教会博士(十字架の聖ヨハネ・アビラの聖テレジア・幼きイエスの聖テレジア)がカルメル会であることを強調された(注1)。

3)真実の霊性を求めて

 古い霊性観は、内向きで個人主義的だった。それは神を排斥したり、偽りの自立として表現される「霊性消費主義」になってしまった(注2)。現代の「聖性」は真実の霊性でなければならない。では真実の霊性とは何か。それは、「目覚めて生きること」、「注意深くあること」、だという。

[3] 「目覚めて生きること」「注意深くあること」を提唱する教会

1) 注意深さの大切さ

 ここで中川師は、突然、大江健三郎とシモーヌ・ヴエイユを紹介し始める。「ピンチの時は注意深く」と述べた大江健三郎、『重力と恩寵』のなかで祈りは注意によって成り立つと述べたシモーヌ・ヴエイユ。この二人への中川師の思い入れの背景はよく分からないが(注3)、教会は2000年間注意深くあろうとしてきた。メタノイアへの招きとしての四旬節がその現れだという(注4)。

2) 典礼に見える「目覚めていること」

 目覚めていることの大切さは典礼の中で繰り返し出てくる。

(1)待降節第Ⅰ主日 A年はマタイ24:37-44,B年はマルコ13:32-37,C年はルカ21:25-28,34-36。ご自分で聖書にあたってほしい。

(2)年間最終週(第34週土曜日の福音) ルカ21:34-38 

     しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、
     人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。

 この箇所は典礼歴の結びの呼びかけだという。

(3)復活徹夜祭はなぜ「徹夜」なのか ルカ12:35-37 ⇒ 「目を覚ましていなさい」
   「こうして、主の帰られる時、目を覚ましているのを見いだされ、主とともに食卓に着くように招かれるのです」。典礼書の解説にはこう書かれているという。

[4] マインドフルネス Mindfulness

 次に師は、驚くべきことに、マインドフルネスを現代の新瞑想法として提唱する。マインドフルネスは、薬物依存などの治療法として精神医学や臨床心理学で使われているが、師はここで現代の新瞑想法として取り上げる(注5)。

1)マインドフルネスとは

 師によると、マインドフルネスには二つの大きな特徴があるという。
ひとつは、それが、「<今>を意識し、<今>に注意を向ける」点だ。われわれは自分で思っている以上に「過去」や「未来」にとらわれている。だから、後悔したり、不安になったりする。「今」を生きていることを実感すれば、世の中との関わり方やものの感じ方が根本から変わるという。

 第二の特徴はその「脱宗教性」だという。最初の唱道者ティク・ナット・ハンはインドの仏教者だったが、マインドフルネスは精神医学の影響下で宗教性を無くしていったという。
 師によれば、「今」を意識することは、「注意深くあること」の現れだという。「今」に注意を向ける。「過去」や「未来」にとらわれないことが大事だという(注6)。
 そして、マインドフルネスの試みとして師は皆と一緒に「沈黙」をおこなった。「ちゃんと背筋を伸ばして」と指導もあった。数分間と長かったが、はじめてのことなのでみなさん結構楽しんでいた様子だった。だがいろいろ考えさせる試みではあった(注7)。

2)マインドワンダリングとは

 ストレスをため込む仕組みが分かりつつある。目の前の現実ではなく、過去や未来について考えを巡らせてしまう状態は マインドワンダリング(心の瞑想) Mindwondering と呼ばれるという。問題は、最近の研究によるとマインドワンダリングは一日の生活時間の中で半分近くを占めているというじじつだ。つまり、「心ここにあらず」で「ストレス」反応がずっと続いているのだという(注8)。現代人の病の話である。

[5] 「今、ここに生きる」

 日常生活において「イエスに注意深くある」ことの意味が説かれた。

1)『ラウダート・シ』の勧め

 注意深くあることについて、回勅はなんと言っているか(注9)。「話しているのは、心の在り方です。それは、落ち着いた注意深さを持って生活しようとする姿勢・・・です」(L.S.226)
 「こうした姿勢の表れの一つは、食前食後に手を止めて神に感謝を捧げることです」(L.S.227)。
 「リジューの聖テレジアは、愛の小さき道を実践すること、また、優しい言葉をかけ、ほほえみ、平和と友情を示すささやかな行いのあらゆる機会を逃さないようにと、わたしたちを招いています」(L.S.230)(注10)。

2) 十字架の聖ヨハネ・アヴィラの聖テレジアからの勧め(注11)

 ①十字架の聖ヨハネにならって、「イエス! あなたならどうなさるのですか」と問いかけながら生きることが注意深く生きることです。『愛の生ける炎』を読みなさいと言われた。

 ②念祷をもって生きる
 「念祷とは、わたしの考えでは、私たちを愛していると私たちが知っているお方と、ひとりきりで交わりながら、しばしば一緒にいながら、友情の交わりをすることに他なりません」(アビラの聖テレジア『自叙伝』8・6)。これはよく使われる念祷の定義である(注12)。念祷が注意深く生きることとどうつながるのかは詳しくは説明されなかったが、師は、日常生活ではなく、霊的生活においては、念祷こそ注意深く生きることのあかしだと言われているのかもしれない。

 さて、次は現在の教会が、イエスをどのように、どこに探しているのか、というカトリックの人間論に入る。長くなったので次稿にゆずりたい。


注1 教会博士は全部で35名いるようだが、一つの修道会から3人の教会博士を出しているのは珍しいという。
注2 『福音の喜び』項目89,90(85頁)。共同体を持たない「快適の霊性」とか、兄弟姉妹に対する責任を負わない「繁栄の神学」など、激しい言葉が並ぶ。
注3 『存在の根を探して』のエピローグ「人とは何ものかーメタノイアの道」でも少し触れられているが(228頁)、よくわからない。
注4 師は、「信仰に一生懸命励んで、毎日頑張って信じていても、もしそれが間違いだとわかったらったらどうするの。もっと力を抜いて、注意深く考え、行動なさい」と(関西弁で)言われた。あまり司祭らしくない表現に聞こえるが、こういう言い方の方がわかりやすい。
注5 一昔前なら、霊性神学は「禅」を導入した瞑想法を強調していた。いまやマインドフルネスが禅に取って代わったようである。カト研の指導司祭W・ジョンストン師はその実践者にひとりだった。ジョンストン師もマインドフルネスを知っていた。それが「観想」に「類似」していると述べている(『愛と英知の道』第18章 492頁)。だが、「マインドフルネスは結局仏教であり、キリスト教の観想とは同じではなく、自分としては混同したくない」と述べている(Mystical Journey、2006,p.156、拙訳)。
注6 なんとなく分かる気もするが、でもこういう「今」重視が、今現在楽しければいいや、という刹那主義や、死んだらお終いという現世主義と、どこで切り分けるのだろう。セラピーの手法としての議論と、瞑想法としての議論は異なるように思える。
注7 これは、公共の場でよくおこなわれる「黙祷」ではなかった。いわゆる黙祷では、目をつぶっているときに人は何を考えているのだろう。というか、何を考えることを求められているのだろう。たとえば、全国戦没者追悼式では1分間の「黙祷」が式次第の中に入っている。全国民が一斉に黙祷するように「勧奨」されている。だがなにかを祈るのだろうか。1分間でなにが祈れるのだろうか。それとも、弔意を表すだけでよいのか。宗教性を抜いた「黙祷」の意味を考えている。
注8 そうかもしれないが、「注意深くある」こととどうつながるのだろう。講演後の質疑応答の時間に、「注意深くあろうとしたら、寝る暇も無い。自分はすぐ眠くなってしまう。どうしたらよいのか」という、冗談かホンネか分からない質問があった。神父様も、「よく眠らないと注意もなにもありませんよ」と答えて皆さんを和ませていたが、わたしには考えさせる質問であった。
注9 『ラウダート・シ』とは、聖フランシスコの『太陽の賛歌』からとられた一節で、「わたしの主よ、あなたは称えられるように」という意味らしい。J・M・ベルゴリオ大司教が教皇に選出されたとき、フランシスコの教皇名を選んだ時皆驚いた。フランシスコを名乗る初めての教皇だったからだ。今にして思えば、フランシスコは環境などの守護聖人だし、教皇さまの今の活動や主張とぴったりの名前だ。ちなみに教皇さまが言われる Integral ecology は、教会は「全人的エコロジー」と訳しているが、なにか座り心地が悪い。
(注10) 師はここで、人間が一人一人変われば世界は変わる、と繰り返された。これはなにか小学生に言い聞かす道徳みたいで、大人は、社会は体制や制度や組織が変わらなければ変化しないと思っているものだと言われてきた。師はこの講演でも、社会の構造や文化に殆ど言及しなかった。でも『ラウダート・シ』にしたがえば、結局人間が変わらなければ世界は変わりません、というのが中川師のお考えのようだ。そしてそれはよく納得できるお話しだった。
(注11) 師はカルメル会だから、十字架の聖ヨハネとアビラの聖テレジアを取り上げるのは自然だ。注意深く生きることの模範をこの二人にみているのかもしれない。なお、師は、十字架の聖ヨハネを紹介しても、神秘主義神学には言及しなかった。霊性神学と神秘主義神学を区別しておられるのかもしれない。
(注12) 念祷とはなにか、観想とどう違うのか、などは神秘主義神学の課題だ。女子のカルメル会は観想修道会。

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み顔を探す霊性 ー カルメル会中川博道師講話(1)

2018-11-03 21:50:51 | 神学

 中川神父様の講演会に行ってきた。印象が消えないうちに簡単にまとめておきたい。横浜教区カテキスタ会主催(注1)の講演会で、演題は「今の時代をイエスとともに生きる教会 ー み顔を探す霊性」で、場所はカトリック雪の下教会。秋晴れの文化の日で、八幡さまは混んでいたが、段葛の桜は塩害でやられ無残であった。
 講演会は出席者が多く、椅子が足らないほどであった。ざっと100人以上はおられたのではないだろうか。殆ど女性。テロだの暗殺だのと物騒な話ばかり多い昨今、「霊性」についてのお話しで、しかもカルメル会の神父様のお話となれば、たくさんの人が集まるのは当然といえば当然だろう。わたしも中川師のお名前は存じ上げてはいたが、講話を聞くのは初めてであった。
 講話は午前、午後の二回にわかれて長時間だった。聴衆は高齢の女性ばかりだから、神父様も笑いをとるのに苦労しておられたようだ。話題も多岐にわたっていた。講話は、師の著作『存在の根を探してーイエスとともに』(2015)と同じかと思ったが、そうではなく、最近師が考えていることをそのまままとめられたようで、師の個性、主張が強くでていた印象を受けた。

 

 


 講話は、フランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ ー ともに暮らす家を大切に』(2015)が中心だった。講話の趣旨は、今の変革期の世界の中でイエスの「み顔」をさがすことが現代的霊性のあり方だ、と聞こえた。少しレジュメに沿って要約してみよう。
 
 師はまず、「霊性」の「霊」という言葉の説明から入られた。霊という言葉は日本語としてはまだ落ち着いていないため、spirit という単語を主に説明された。結局、「霊」とは「神とのつながり」のことで、それは「イエスのみ顔」探しのことだという。何のことなんだろう。師は何を言いたいのか。

 師は言う。現代は人類史上まれにみる新しい時代で、科学技術の発達はすさまじいが、人間の霊的成長はそれに追いついていない。かっての内向きの、個人主義的霊性の誘惑を避け、「真実の霊性」を求めねばならない。真実の霊性は、「目覚めて生きること(注意深くあること)」を通して獲得できる。「目覚めている」(マルコ13・32-37)こと、「注意深くある」(L.S.226)(注2)こと。目覚めている、注意深い、が現代的霊性のキーワードのようだ。では、目覚めているとは、注意深いとは、どういうことなのか。

 この説明に入る前に、中川師は、松井氏の議論(注3)に依拠しながら、地球の既存のシステムが崩壊し、世界の枠組みが激変したことを説く。続いて、この地球規模の大変革に教会がどのように対応したらよいのかを、『ラウダート・シ』のなかに読み解いていく。

Ⅰ 「ともに暮らす家」で今起こっていること

1 今、地球上で起こっていること

 師はここで、「科学技術」の急速な進歩と「人口爆発」を、いま地球上で起こっていることの二大特徴として指摘する。特に人口爆発については国連のデータを使いながらその規模のすさまじさを歴史的に詳しく説明していく。また科学技術の発達に関してはAIによる「第四次産業革命」にまでふれる(注4)。この二つの巨大な変化が「人間の再定義」を要求し始めたという。つまり、AIや、ロボットや遺伝子操作を前にして「人間にしかできないこと」が問い始められた、という。「人間にしかできないこと」、教会のメッセージはここに向けられる。

2.既存の地球システムの崩壊と世界の枠組みの激変

ここは松井氏の議論を中心に、このままのエネルギー消費と生産の拡大は限界に来ていることが説明される。

3 教会の全人類への呼びかけ

 ここでフランシスコ教皇の回勅『ラウダート・シ』のポイントが紹介される。この回勅は、読みようによっては、地球の生態的危機をこれでもかこれでもかと訴えているように読める。だが、実は教会は、 Integral Ecology (生態的統合 とでも訳せるか)の実現を目指しているという。インテグラル・エコロジーとは、人間は「あらゆる存在と兄弟姉妹性」を持っている、宇宙・地球・生物・人類はみな兄弟姉妹なのだ、という意味だ。これは、ビッグバン・ミロコンドリア イヴ・ヒトゲノム解読など現代科学の裏付けを持った視点だ、という。「宇宙・地球・生物・人類はみな兄弟姉妹なのだ」、というのがこの回勅のメッセージだ(注5)。

4 教会の自覚

1)先送りにはできない教会の刷新

 「教会の刷新はすべて宣教を目的とすべきです。教会の内向性というものに陥らないために」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』27項 37頁)。教会の刷新こそ現在の教会に求められている。そのためには外に眼を向けねばならない。師はバチカン第二公会議の初心に戻るべきだと繰り返された(注6)。
2)「不毛な悲観主義」への警戒を促す教会

 地球は危機に陥っている。だけどそれを破壊や災難としかみないのは間違いだ。確かな「希望」に支えられて生きるためには、変化における様々なプラスの側面の認識が必要だ。ここで中川師は、S・ピンカー『暴力の人類史』(2015)、Y・ハラリ『サピエンス全史』などを使い、世界の動向についてマイナスイメージを持ちやすいわれわれの認識システムを意識化する必要性を強調する。要は、もっとポジティブな面にも眼を向けよと言っているようだ。思い込みからの解放こそ回心への糸口だという。師は、現状肯定論でも、保守派でも、なさそうだ。むしろ反対かもしれない。だが、こういう複眼的視点をお持ちのようで、聞いていて安心感があった。

 では、イエスのみ顔を探すためには、具体的にはどうしたらよいのか。
長くなりそうなので次稿にまわしたい。


注1 カテキスタとは公教要理(カトリック要理)を教える人。シスターや修道士とは限らないようだ。具体的には各教会でキリスト教入門講座を担当されている方々をさすようだ。
注2 L.S.とは『ラウダート・シ』のこと。数字は項目の番号。
注3 松井孝典『我関わるゆえに我あり』 集英社新書 2012
注4 師はこういう実証的な議論がお好きなような印象を受けた。配付資料には詳しい図や表が載っていたが、ここで詳説する紙幅はない。
注5 こう表現されるとなにか汎神論的響きがしないでもないが、われわれ日本人にはストンとくる視点だ。
注6 フランシスコ教皇のこういう姿勢を批判する人々がいることはよく知られている。だが実はこれは、訳本の注釈によれば、教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉らしい。わたしにはむしろ中川師の教皇さまへの温かい視点が印象的であった。とはいえ、司祭による幼児虐待問題など、教会の刷新は外だけではなく、中でも必要だろう。16世紀の宗教改革が贖宥状を発端とした改革であったのなら、この問題は、第二の宗教改革、21世紀の宗教改革をもたらしかねないほどの大問題のように思える。

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