カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

カリフ制復活は現実的か ー イスラーム概論4(学びあいの会)

2021-04-29 15:57:15 | 神学

Ⅲ メディナのムハンマド

1 メディナの調停役

 150名の小集団はメディナで共同体(ウンマ)を形成し、安心して信仰生活を送れるようになった。 当時のメディナには、3つのユダヤ教徒の部族と、2つのアラブ人の部族があった。これらの部族間で争いが絶えず、ムハンマドはこの争いの調停者として才能を発揮していく。

2 メディナ憲章

 メディナに移住した後、ムハンマドはムスリムたちと盟約を結ぶ。

「信仰者たちは、一つのウンマを形成し、、相互に助け合い、外部からの攻撃に対しては共同して防御すること。ユダヤ教徒に対してはムスリムの権威に従う限り宗教の自由を認める」

 この憲章はウンマ共同体の原理を定めたもので、イスラムでは最初の憲法とされる。ウンマの理想を示しているという。

3 メッカとの対立

 メディナに移ったムスリムたちは着の身着のままであった。そのため生活の糧を求め、メッカの隊商を攻撃した。やがてメッカとの全面対決となる。ここに、ムスリムを迫害するものへの戦いは聖戦(ジハード)だという大義名分が生まれる。

624年 バドルの戦い メディナの300人でメッカの1000人に勝利する
625年 ウブドの戦い 敗北
627年 ハンダクの戦い メディナを包囲したメッカ軍を撃退する
628年 和平条約を締結 10年間平和が保証される
 その後ムハンマドはアラブ民族を制圧し、絶対的権威を確立していく
630年 メッカの無血征服 カーバ神殿(1)を浄化
630年暮れ アラビア半島北部に大軍を率いて遠征し、アラビア半島を征服する

4 ムハンマドの死

 632年に高熱病により死去。死後、後継者として長年ムハンマドを補佐した同志アブー・バクルが選ばれる。かれが初代カリフ(2)である。
 2代目カリフはウマルで、告別の辞では「ムハンマドは死んだのではない 40日目に現れる」と述べたが、初代カリフのアブー・バクルは「ムハンマドは死んだ 神は生きている ムハンマドは使徒にすぎない」と述べていたため、ムハンマドが神格化されることはなかったという。
 このカリフがイスラームの歴史を切り裂いていく(3)。

(シーア派諸派)

 

4 結び

 ムハンマドは神の使徒として神の教えを伝えただけではなく、新興宗教の創設に完全に成功した。そして、ウンマ共同体という政教一致の共同体を作り上げた。
 ハディース(伝承)によって、徐々に理想化され、超人化され、理想的な人格者、奇跡の実行者とされたにもかかわらず、ムハンマドは結局は神格化されることはなかった。
 ムハンマドはあくまで神の言葉を伝える者、預言者であり、メシア(救い主、贖い主)ではない。イスラームには原罪思想がないので贖罪思想(贖いという観念)がない(4)。三位一体の思想もない。



1 カーバとはメッカのモスクの中心にある神殿。もともとはアブラハムによって建設されたという伝説があり、ムハンマドの時代には多神教の神殿だった。ムハンマドはメッカを征服したとき神殿のすべての偶像を破壊させた。
2 カリフ(Caliph)とはムハンマドの「後継者」のこと。ムハンマド亡き後イスラーム共同体を率いる指導者のこと。代理者、代行者、代表者などと訳される。

 スンニ派ではカリフの資格は以下の通りだという。

男性であること 自由人であること 成年者であること 心身両面で健全であること
公正であること 法的知識を持つこと 賢明であること イスラームの領土の防衛に勇敢かつ精力的であること クライシュ族の男系の子孫であること

 要は、血統ではないので、周りから認められれば誰でもなれるということのようだ。

(スンニ派とシーア派)

 

 こういう色分けも注意しないといけない。国によっては、支配層がシーア派で民衆はスンニ派、または

その逆というケースがよくあるからだ。いわばねじれだ。

3 歴史の中でカリフの権威は失墜し、イスラームに分派を生み出していく。4代目のアリーまでは正統性が認められているが、その後は混乱する。基本的にはスンニ派(多数派)はカリフの権威を認め、シーア派(アリーの血統のみがイマームとなりうるとする12イマーム派が主流)はカリフの権威を否定していく。なお、スンニ派、シーア派はいくつかの表記方法があるようだが、ここではこういう表現を採用しておく。
 1924年にオスマン帝国が滅亡するとともに、オスマン家のスルタン・カリフがいなくなり、カリフ制は廃止されたとされるが(『山川世界史』など)、13世紀にアッバース朝がモンゴルに滅ぼされたときに消滅したというのが定説らしい(『角川世界史辞典』など)。
 現在カリフはいるのか? いるなら誰なのか? そもそもカリフ制は存続しているのか。この問いへの答え方の多様性(混乱)が現代のイスラム問題の中核にあるらしい。タリバン、アルカイダ、アイシス(ISIS)らはどれもスンニ派とはいえ違いがあり相互に対立しているようだ。
 「イスラム国」(アイシスまたはアイシル ISIL Islamic State in Iraq and the Levant 現在イラクとシリアにまたがる地域を一部占拠しているイスラーム過激派組織)のカリフを名乗ったアブー・バクル・アル=バグダーディーは2019年10月に米軍により殺害された。アルカイーダのウサーム・ビン・ラディンは2011年5月に同じく米軍により殺害された。タリバンは現在も1970年代以降のアフガニスタン内戦の渦中にある。
 カリフ制とはカリフを首長とするウンマの統治体制のことだ。結局はイスラーム絶対体制、政教一致体制のことだから、近代法による支配を否定する。コーランの神の法による支配のみがあるとする。近代法は所詮人間が作ったものに過ぎないという考え方のようだ。キリスト教世界における政教分離を巡る長い歴史、三権分立思想の成立の歴史をみるとき、カリフ制の復活は難しく思える。
4 贖罪とは、受肉した神であるイエスが、アダムとエヴァ以来の全人類の罪を十字架によって贖ったことを意味する。といっても、普通は原罪とか贖罪とかいう言葉はなかなかピンとこない。現代の日本社会では、贖うなんて、なんのことを言っているのかわからないということになる。キリスト教神学者の中でも原罪論を過度に強調することへの警戒感を持つ人は多い。

 

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ムハンマドは最後の預言者か ー イスラーム概論3(学びあいの会)

2021-04-28 20:36:08 | 神学


Ⅱ 預言者

1 社会的背景

①時代状況

 6世紀中頃にはローマとササン朝ペルシャとの間で戦闘が続いていた(1)。戦闘は「肥沃な三日月地帯」で行われ、東西交易は困難だった。そのため、インドーイエメンーメッカーシリアという南回りのルートが繁栄していた(2)。

521年 エチオピア(キリスト教)がローマの支援でイエメンを占領 ペルシャはイエメンを支
570年 イエメンを占領したエチオピアが象の大軍で商業の街でカーバ神殿があるメッカを占領
575年 ペルシャがイエメンに進出

②アラブの部族社会

 ムハンマドの出身部族(3)はクライシュ族(4)で、かれらは遊牧生活を捨ててメッカに定住し、商業に従事していた。ムハンマドは商人の子で、孤児だったという。クライシュ族には、氏族の代表者による部族会議(マラ mala)があり、隊商の派遣やメッカの行政などを決定していた。氏族が安全を保証していた。

③メッカの病弊

 クライシュ族は遊牧を捨てて商業に転じた結果、部族的連帯や倫理より資本の蓄積を優先した。部族的集団主義から物質的個人主義に転化した。連帯意識の希薄化、富の集中、貧富の差の拡大がみられた。この状況に反発し、社会改革のために新しい宗教を提唱する輩が多数登場した。預言者が多数生まれたと言っても良いらしい。ムハンマドはこういう状況の中に生まれる。

2 メッカのムハンマド

①生い立ち

 570年にクライシュ族のハーシム家に生まれる。父アブドラはムハンマドの生誕時にはすでに故人であった。母アーミナはムハンマドが6歳の時に死亡する。そのため、祖父アブドウル・ムッタリと叔父アブー・タリフに育てられた。孤児だったと言っても良いかもしれない。ハーシム家は元々は有力な家だったが、当時は没落していた。ムハンマドは感じやすい内向的な性格に育った(5)。
 やがて叔父に連れられて隊商の一員としてシリアに行く。ここでムハンマドは25歳の時に15歳年上の未亡人ハディージャと結婚する。ハディージャは裕福だったので生活に余裕が生まれる。やがて郊外のヒラー山の洞窟にこもり、祈るようになった。

②召命

 瞑想の生活が15年続いたある日、ムハンマドが洞窟で睡眠中に天使ガブリエルが巻物を持って出現し、「詠め」と命じた。ムハンマドは恐怖に駆られて悩んだ。

③初期の啓示

 啓示は長期間続く。内容は具体的状況に応じて変化し、強調点は変わったという。

 初期の啓示の内容

1)神の恩恵と力(神は一切の創造主で、恵みを与える方)
2)復活と最後の審判(善行によって死に備えよ)
3)神に対する感謝と礼拝
4)施善、喜捨の勧め(財を貧しい人に分け与えよ)
5)ムハンマドの預言者としての使命

 以上の教えの特徴は以下のように整理できる
・部族的集団主義に対して徹底した個人主義を強調し、来世に究極的価値をおき、現世的なものと相対する
・財は絶対的価値を持たず、人間の価値は財を貧者、孤児などの弱者に与えることにあるとする
・経済活動を否定しないが、無節操な利潤追求は戒めている
・ムハンマドは社会改革を目指したのではなく、あくまで啓示の伝達を行った

④伝道と迫害

 ムハンマドが啓示を宣べ伝え始めると大方のメッカの市民から嘲笑と反発を受け、やがてそれは迫害に変わった。メッカはユダヤ教と多神教の世界であったし、ムハンマドの教えが部族的伝統を破壊するものと受け取られたからだ。
 コーランの個人主義は部族的集団主義と対立し、その来世主義はアラブの現実主義と対立した。ハーシム一族はクライシュ族からボイコットされた。
 619年に叔父アブー・タリフが死去、やがて妻ハリージャも死去。もはやメッカにとどまることが困難となり、メッカの東方60kmのターイフに活路を求めた。だがこれは失敗する。

⑤ヒジュラ

 622年に、メッカの北方180kmのヤスリブ(のちのメディナ)へ避難する。これはヒジュラと呼ばれ、ユダヤ教の出エジプトに匹敵する重要事件とされる。この年がイスラーム暦元年とされる(6)。
 メッカではムハンマドの暗殺計画があったが、ムハンマドの同行者70余名、ヤスリブのムスリム約70名、計150名くらいの小集団からヒジュラ暦が始まっていく。

 メディナのムハンマドについては次回に回したい。
 



1 ここでは、サザンではなく、ササンと表記している。この時期、西ローマ帝国はすでに滅亡しており(476)、フランク王国(481~)が生まれている。教会ではベネディクト会が生まれ(529)、やがてグレゴリウス1世(590-604)が登場し、教皇制が強化されてくる。
2 「肥沃な三日月地帯(Fertile Crescent)」とは、古代オリエント史で使われる地理的な概念。 その範囲はペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへ至る半円形の地域をさす。イエメンまわりとはまるでスエズ運河中心の現代のタンカー海路を見ているようだ。

(肥沃な三日月地帯)

 

 

3 部族 Tribe とは曖昧な概念だ。民族(エスニック・グループ)と同じく人種・言語・文化を共有する集団をさすが、未開社会の集団を指す場合に使われるようだ(だから差別用語というひともいる)。この報告では、民族の下位概念、氏族の下位概念、家族の上位概念として使っている。サウジアラビアなどアラブの国家を部族社会として描く議論は多い。なお、氏族(うじぞく しぞく)とはクラン(clan)のことで、共通の祖先を持つ(と観念されている)血縁集団をさす。アラブでは氏族は マジュリス(合議体)を持ち、マジュリスの司会者はサイード(Sayyid)またはシャイク(Shaikh)と呼ばれる族長がなる。族長は長老の間から選ばれるが独裁権はないという。氏族は日本の同族団とは異なる。
4 クライシュ族はコーランによれば名門の部族のひとつだという。

(カリフの系譜)

 


5 このムハンマドの性格は重要な特徴らしく、イスラームの教えにも影響を与えているという。イエスの性格の特徴はあまりはっきりしないが、ムハンマドとは明らかに異なる印象を与える。
6 西暦(キリスト歴)は、イエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする。日本の皇紀は神武天皇が即位した年(西暦で紀元前660年)を元年とする。ちなみに今年2021年は皇紀2681年だという。世界の「歴」(こよみ)には様々な種類があり、現在も使われているもの、消滅したものなどたくさんあるという。

 

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ムハンマドは文盲だったか ー イスラーム概論2(学びあいの会)

2021-04-27 21:22:13 | 神学


Ⅰ イスラームとは何か

 イスラームとはアラブの預言者ムハンマド(570-632)が610年に創設した宗教のこと。イスラームとは「唯一絶対の神アッラーに絶対的に従うこと」という意味らしく、「神に向かう道」のことだという。
 ムハンマド教とは呼ばれないのはムハンマドが神格化されていないからだ(1)。世界宗教(2)として、中近東・アフリカ・南アジア(パキスタン・バングラデシュ)・東南アジア(マレーシア・インドネシア)を中心に、キリスト教に次ぐ信徒数を有する(3)。
 かっては、欧米ではマホメット教(マホメットはトルコ語)、モハメット教(これはアラビア語)とも呼ばれた(4)。中国では清真教と呼ばれ、日本では回教と呼ばれた(5)。
 イスラームの信者をムスリムと呼ぶ。ムスリムとは「絶対的に服従する者」という意味らしい。

発展の歴史はすさまじい。610年にムハンマドがイスラームを創設した頃は信徒は家族など数名、622年にメディナに移転した時は(ヒジュラと呼ばれるようだ)ついてきたのは70名。メディナの信徒70余名を加えても当初は150名程度の弱小新興教団だった。その後めざましい発展を遂げ、アラビア半島から中東からアフリカまで一気に広まった。

 ムハンマドは神の啓示を受け、自らを神の使徒と自覚した。自覚するまでの恐怖心は大変なものだったらしい。神の啓示はムハンマドの死(632年)まで続く。啓示は天上の書版に書かれ、天使ガブリエルによってムハンマドに伝えられたという。ムハンマドはおそらく文盲で文字の読み書きはできなかったようだ(6)。だからムハンマドは与えられた啓示をブツブツといつも唱えていたのであろう。
 死後ムハンマドの言を弟子たちがまとめたのがコーランだ。イスラームの正典はコーラン、旧約、新約とされるが、実際には旧約・新約聖書が読まれることはないという。コーランにもとづく法(シャリーア)に従って生きることがムスリムの道だという(7)。

 預言者はアダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨゼフ・モーセ・イエスそして最後の最大の預言者がムハンマドだという。
 アラブの祖はアブラハムだ。アブラハムはその子イシュマルとともにメッカにカーバ神殿を建設したという伝説がある(8)。ムハンマドはアブラハムの宗教を復活させたという。こういう形でユダヤ教やキリスト教に対する自己アイデンティティーを主張していったのであろう。
 イスラーム教(スンニ派)の信仰の根本はよく知られた「六信五行」だ。つまり6つの信仰箇条と5つの信仰行為からなる(9)。
 神学面でも後発の宗教だけあってよく整備されているようだが、キリスト教とは復活と最後の審判を信じる点では共通だが、三位一体説を採らない点で大きく異なる。教会というものを持たないので司祭はいない。ウンマ(政教一致の信仰共同体)は教会ではない(10)。



1 キリスト教はキリスト(イエス)の教え、仏教は仏陀の教えに基づくが、ムハンマドを神格化する思想や運動は繰り返し否定されてきたようだ。
2 普遍宗教のこと。キリスト教・仏教・イスラームといわれる。ヒンズー教・神道・道教は特定の民族に限定されるので民族宗教と言われるようだ。儒教を宗教と見なすかどうかは議論が分かれるが一応政治倫理思想とし、宗教ではないとしておこう。
3 信者数もいろいろな説があるようだが、ほとんどが国連かアメリカの調査機関のデータだ。基本的問題は信者数を個人単位で捉えるのか世帯単位で捉えるのかの違いが大きいようだ。イスラームでは世帯単位のカウントが中心のようだ。

(宗教人口の将来)

4 こういう訳語がどういう経緯で日本に定着し、やがて廃れていったのかは興味深い。
5 新疆ウイグル自治区のウイグル族はムスリムの漢(民)族のようだ。中国は多民族社会で人口比では漢族は5~6割くらいらしい。ウイグルは散在するのでトルコ系もいるようだが、中心は漢族らしい。しかし風俗習慣はムスリム的なので漢族には見えないが、言語は漢語らしい。同じムスリムのウイグルでも異民族間では相互交流は少ないらしい。ウイグルの独立運動は今日も続いているようだ。
6 おそらく旧約聖書も自ら読んではいないらしい。旧約をよく読み、引用するイエスとは異なる。とはいえ、イエスも自ら文書を書き残してはいない。弟子たちが口述筆記したり、聞き書きしたりしたものが残っているだけだ。ただ、ムハンマドは長生きした。イエスは30歳代になって突然世に現れ数年後、おそらく2年後くらいですぐに処刑されてしまった。
7 法源はコーランとムハンマドの言行と伝承(スンナ)。法源 Rechtsquelle とは聞き慣れない言葉だが、制定法・慣例法・判例法・条理の4つを指す法律用語のこと。なお、条理とは物事の道理のことで、その時代や社会の常識みたいなものを指すらしい。法源の解釈者を法学者(ウラマー)と呼ぶようだ。シーア派では法学者の最上位者を最高指導者と呼んでいるらしい。スンニ派のカリフではない(カリフは預言者の代理人で、宗教指導者というよりは政治指導者の側面が強いという)。
8 次男のイサクはやがてユダヤ教、キリスト教の祖となっていく
9 6信とは、神(アッラー) 天使(マラーイカ) 啓典(クトゥブ) 使徒(ルスル)
来世(アーヒラ) 定命(カダル)
5行とは、信仰告白(シャハーダ) 礼拝(サラー) 喜捨(ザカート) 断食(サウム)
巡礼(ハッジ)
 信心行はキリスト教と同じだが、イスラームでは教義より行(行為)が重視されるので、その徹底ぶりはキリスト教の比ではないようだ。
 コーランはアラビア語で書かれており、翻訳は許されないというか、翻訳は聖典とはみなされないようだ。カトリックがラテン語になじんだように、ムスリムはアラビア語になじんでいるのだろうか。全11章で、新約よりは長く、旧約よりは短いようだ。内容としては、信仰に関するもの(神の観念、死者の復活と審判、天国、地獄、預言者など)、実生活に関するもの(礼拝、タブー、道徳など)があるようだが、基本的には「神の命令」が中心らしい。新約が「福音」中心なのと対照的だ。
10 教会の定義はいろいろあるだろうが、キリスト教ではエクレシアという意味で「一・聖・普遍・使徒的」特徴を持つ信仰共同体のことをさす。ニケア・コンスタンチノーブル信条のことだ。簡単に言えば、使徒性と階等性を持つ組織と言えそうだ。

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イスラムはよそ事か ー イスラム概論1(学びあいの会)

2021-04-27 11:55:17 | 神学

 第3回目の緊急事態宣言が出た翌日の4月26日に学びあいの会が開かれた。今回は他教会からの参加者も含め10名以上が集まった。テーマがイスラムに変わり、報告者のS氏が日頃開陳しておられたイスラムに関する自説(1)をまとめて報告されることになったからであろう。今日は興味深い報告ではあったが、会の後に定例化していた質疑や会食には誰一人残らなかった。宣言で会食自粛が求められているのだから当然と言えば当然であった。集まれたこと自体奇跡だったのかもしれない。

 S氏の発表は「イスラム概論」と題されており、以下のような章立てで、6回にわたって話されるという。

1 イスラムとは何か
2 予言者ームハンマド
3 聖典ーコーラン
4 共同体ーウンマ
5 聖法ーシャリーア
6 宗派(正当と異端)ースンニ派とシーア派
7 神学ーカラーム
8 神秘主義ータッサウフ
9 政治
10 歴史
11 イスラムとキリスト教
12 補足ー現代の中東情勢

 これだけの内容を半年で話されるのだから急ぎ足になるだろうが、話がどのように展開するか楽しみである。

 さて、内容の紹介に入る前に、この緊急事態宣言の中でイスラムを論ずることの意味を考えてみたい。イスラム論は、論者の思想的立場を明確にしておかないと、すぐにイデオロギー論(存在拘束論)に陥るか、Wikipedia風の一見中立的な、しかし無味乾燥な辞書的描写になってしまいがちだからだ。
 氏はなぜイスラムを今取り上げるのか。氏から直接聞いたわけではないが、二つの視点から推測してみたい。第一は社会的視点からの意義で、第二はカトリック者としての宗教的視点からの意義だ。
 第一の社会的視点から見れば、現代の日本にとりイスラムは喫緊の重要課題ではないといえよう。確かに、外国人労働者の中にイスラム系の人が増えているようだがそれはあくまで外国人労働者問題の中に位置づけられており、イスラムそのものが日本の文化や社会を脅かしているとは捉えられてはいない。「イスラム国」(ISIS)による中村哲氏殺害事件、後藤健二氏殺害事件とか報道されるが、日本人(研究者)のイラン・トルコびいき、エジプト・サウジ嫌いの風潮の中でなにか遠いところの出来事としてしか報道されない。よそ事なのだ。いくらイスラムについての理解を深めたからと言って自分の日常生活に変化が起きるわけではない。

 第二の宗教的視点からの意義はあるのか。キリスト教から見てイスラムは世界三大宗教の一つで、啓示宗教として仲間であり、世界規模で見れば信者数はいづれキリスト教を超えるだろう、と言われても、イスラムはキリスト教の「敵」ではないのかという根本的な問いへの答えにはならない。S氏は「イスラムの影響力は増大しているからイスラムを理解することはキリスト教徒にとって大切」と述べているが、問題はその具体的な中身だ。

 S氏は、第二バチカン公会議で新たに打ち出された「諸宗教の対話」を理由に挙げている。カトリック教会はかっては他宗教に対して排他的だといわれてきたが、第二バチカン公会議では諸宗教を尊重し対話する重要性を指摘した(『教会憲章』第2章「神の民について」の第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題されている)。「教会はイスラム教を尊重する。彼らは唯一の神・・・天地の創造主、人々に話しかける神を礼拝している」と述べ、「救いの計画には・・・イスラム教徒が含まれる」とし(24頁)、イスラムとの対話の重要性を肯定した。

 この辺のイスラム研究の意義については、最近の新書本にいくつか目を通してみたが、あまり統一的な見解はないようだ。以下によく読まれる参考文献を挙げてみた。私も一応ざっと目を通したが、最大のポイントは、「中田・飯山論争」だろう。イスラム研究は、カリフ制を認め、イスラム国を認めなければできないのか、それとも価値中立的で実証的な学問なのか、という問いだ(2)。

井筒俊彦『コーランを読む』岩波
中村広次郞『イスラム教入門』岩波
佐藤次郞『キーワードで読むイスラーム』山川
小杉泰『イスラームとは何か』講談社
菊池章太『ユダヤ教・キリスト教・イスラーム』ちくま
ひろさちや『キリスト教とイスラム教』新潮
松山洋平『イスラーム思想を読み解く』ちくま
中田考『イスラーム入門』集英社
中田考『イスラーム学』作品社 2020
飯山陽『イスラム教の論理』新潮
飯山陽『イスラーム教再考』扶桑社 2021

 S氏がイスラームを取り上げるのは実は個人的事情もあるようだ。若い頃中東に長く駐在し、イスラームを頭だけではなく肌で理解してこられたようだ。そういう意味でも氏のイスラーム論は興味深い。
 本論に入る前に、用語の整理をしておきたい。まずはイスラームとイスラムの区別だ。長音記号の有無だが、現在はイスラームという訳語で落ち着いたようだ。また、イスラームとムスリムの区別も、いろいろ議論があるようだが、本稿ではイスラームは宗教、ムスリムはイスラームを信じている信者という意味で使いたい。だからイスラーム「教」とはあえて言わない。

(中東の地図)

 


1 教会の月報など時々発表されていたので氏がイスラムに関心を持っていることは知られていた。例えば私も教会での氏の発表をこのブログで紹介したことがある(2017年5月14日 イスラームの豆知識)。
2 中田考・飯山陽『イスラームの論理と心理』晶文社 2020

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ごミサのノマド ー 後ろを振り向いてごらん(復活節第4主日)

2021-04-24 20:43:30 | 教会

 近隣教会のごミサに与ってきた。土曜日のミサだから空いていると思ったら出席者は50名は軽く超えていたようだ。映画「ノマドランド」の伝で言えば、私はごミサを求めてさまよい歩く「ノマド」(nomad 流浪の民)そのものだ。

 わたしの所属教会は分散ミサが徹底しており、ミサの順番は一月に一回すら回ってこない。だから主日はYouTubeで関口やイグナチオのネットミサにでているが、霊的聖体拝領ではなにか実感がない。今日は友人に誘われて近隣教会のミサに出た。お祈りも声を出して出来るし、歌も歌える。なにか安心感に満たされた。
 普段は、ごミサに出ても、お祈りは声を出してはいけない、歌ってはいけない、聖体拝領のときアーメントと唱えてはいけない、などなど窮屈このうえないので、今日はごミサに出た気がした。
 とはいえ、教会の「お知らせ」には、「高齢者はミサの参加をご遠慮ください」とか「ミサを求めて他の小教区のミサに赴くことはお控えください」など禁止・注意事項がいくつも書かれている。コロナ禍を考えればどれももっともなことだが、私はノマドのごとく近隣教会のミサに出た。

(ノマドランド)

 

 この4月に小教区の司祭の定期の人事異動があり、この近隣教会に新しい神父様が来られた。この神父様は「いつでも、誰でも、ミサにおいでください」という方針をお持ちの方だ。ミサの後ご挨拶したが、「近所なのだからいいのではないですか」とおっしゃっていただいた。
 神父様のお説教もよかった。今日の福音朗読はヨハネ10/11~18の「良き羊飼い」の場面だ。「わたしは自分でそれ(命)を捨てる」とあるが、師いわく、わたしたちはだれもが殉教者のようなまねはできない。わたしたちが嫌いな人もいるだろう、わたしたちを嫌う人もいるだろう、そういうときその人たちを「愛せ」といわれてもなかなか愛せない。それが普通だ。だから、そういうときはそっと「後ろを振り向いてごらん」、そこにはイエス様がおられることに気づくだろう。そしてイエス様に背を押されて前を向いてみれば、向き直ってみれば、そこにいる私の嫌いな人も違った姿で見えてくるのではないか、父は私を愛してくださるとはそういうことなのだと思う、と言われた。がむしゃらに前だけ向いていればよいというわけではない。ときには後ろを振り向いてみよう。それは昔を懐かしんだり、懐古趣味に浸ることではない。普段気がつかないイエス様に気づく術なのだという。久しぶりのH師節であった。神父様に何があったのかは解らないが、コロナのコの字も使わずにコロナ禍に生きる術を諭されていた。よいお説教であった。

 コロナ禍のなかで、ミサの在り方は司祭によって様々であることがよくわかった。カト研の皆さんの教会では三度目の緊急事態宣言をどのように乗り越えようとされているのでしょうか。

 

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