カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

宗教的多元主義への教会からの警告 ー 諸宗教の神学(了)(学びあいの会)

2022-01-28 09:50:00 | 神学


Ⅵ 宗教的多元主義への教会からの警告 ー 教皇庁教理省宣言

 宗教的多元主義に対する教会の立場を明らかにした宣言がある。2000年9月5日付でバチカンの教理省が発表した36ページの文書だ。教理省長官ヨーゼフ・ランッチンガー枢機卿(現名誉教皇ベネディクト16世)と秘書タルシシオ・ベルトーネ大司教が署名したものである(1)。

 内容は、宗教的多元主義を論ずるカトリックの神学者たちへの警告である。この警告は宣言という形をとっている。宣言(Declaratio)は一般に教会の「姿勢」を表明するもので、憲章や教令よりも軽いと言われる。だが、この宣言は神学者むけで一般信徒向けではないので、かなり厳しい表現が使われている。

1 目次

教皇庁教理省 『宣言 主イエス  ー イエス・キリストと教会の救いの唯一性と救いの普遍性について』

導入
1章 イエス・キリストの啓示の十全性と決定性
2章 救いの業における受肉したみ言葉と聖霊
3章 イエス・キリストの救いの秘儀の唯一性と普遍性
4章 教会の唯一性と一致
5章 教会:神の国とキリストの統治
6章 救済の関わりにおける教会と他の宗教
結び


 Dominus Jesus 「宣言 主イエス」

 


2 要点
 内容を簡単に整理してみよう。

①カトリック神学者の中に、すべての宗教は同等であると論ずる相対主義者がいる。真理に対する相対主義的態度、理性のみに頼る主観主義、折衷主義、教会の伝統と教えから外れた聖書解釈をする傾向が見られる。教理省はこの宣言によって介入する。
②イエス・キリストによる救いは十全で絶対である。
③イエス・キリストによる救いは唯一性と普遍性を有している
④イエスは教会によってその業を継承している。教会の唯一性:イエス・キリストによって建てられた教会とカトリック教会との間には歴史的継続性がある。
⑤キリストだけが救いの仲介者である。キリストは教会の中に現存する。全人類がキリストにおいて救われる可能性を有する。

3 宣言の論点と性格

①この文書は、カトリック教会内、特に神学者のためのカテキズムである
②この文書は、他宗教の信徒を相手にしているわけではない
③この文書は、カトリック信仰の主張であり、教導権によって解釈された教会の伝統的信仰を表す
④諸宗教対話にかかわる人々の中には、諸宗教の共通点だけを強調し、異なる点に目をつぶる「誤った対話の概念」に支配されている人々がいる。真の対話とは、相手を尊重しながら、自分の信仰をはっきり相手に伝えることである

4 反応と課題

①この宣言は、カトリック以外の人々からは、エキュメニカル運動、諸宗教間対話の視点からは,
独断的主張とみられ、彼らに不快感を与える結果となった。キリストについての「唯一・普遍・絶対」という用語の強調、教会に関する「唯一・普遍」という用語の強調への反感が起こり、否定的反応が生じた。
②しかしこの文書はカトリック教会内の「内向きの」文書で、カトリック外のためのものではない
③内容は純粋な信仰を表明したもので、それ自体問題はないが、伝える方法が適切であったかどうか。語調に問題がある。もっと謙虚な表現を使うべきではなかったか。教皇庁キリスト教一致推進協議会のワルター・カスパー枢機卿は「宣言に含まれる諸原則には同意するが、必要な感性に欠けている」と語った。

Ⅶ 結び

 諸宗教の神学は21世紀における最大の神学のテーマと言われる。確かに大きな難しいテーマであり、明快な結論の出しにくい問題であろう。

1 カトリック信仰の基本的立場

①創造主である神の愛はすべての被造物に及ぶ。すなわち神の救いは普遍的であり、全人類がその救いの対象である。
②神の全人類に対する救いは、御子イエス・キリストを通して行われる。すなわちイエス・キリストは神と人類との唯一の仲介者である。イエス・キリストの歴史的一回性・絶対性・普遍性。
③キリストの救いは自ら創設された教会を通してなされる。キリストの教会はカトリック教会の中に存在する(2)。

 このような信仰箇条からはともすれば排他的な傾向が導かれがちである(3)。

2 現代世界の状況

 古代・中世はいざ知らず、グローバル化が進んだ現代にあって、世界には多くの民族・文化伝統と宗教の存在が認識されている。いくつかの高等宗教も存在する。
 キリスト教は時間的・空間的に全世界をカバーしているわけではない。現代世界のキリスト教徒の比率を考えても、一部のプロテスタントの主張するように、排他主義に固執することには無理がある。だからこそカトリック教会は第二バチカン公会議で他宗教における救いの可能性を認めたのである。
 しかしながら、他宗教を認めるといっても、宗教的無差別主義、相対主義をとることは妥当ではない。

3 カトリック教会の現在の立場

 カトリックの信仰箇条を保持しつつ他宗教を認めるには、結局、宗教的包括主義をとらざるを得ない。包括主義は自己中心的であるとか、形を変えた排他主義であるなどの批判があっても、カトリック教会が包括主義をとる所以である。

4 宣教の問題

 他宗教を認めるのであれば宣教は無意味だという意見がある。しかし、他宗教を尊重しつつ、対話の重要性が叫ばれている今日、自己の信仰内容を確信を持って対話の中で相手に表明することが重要である。決して妥協することなく、カトリックの信仰を告白することが宣教だと考えられる(4)。



1 逆に言えば、教皇(ヨハネ・パウロ2世)の署名はない。文書は、カトリック中央協議会の「諸文書:教理省」の中に納められている。https://www.cbcj.catholic.jp/category/document/docroma/doctrine/
翻訳は2006年に書籍として販売されている。
2 長い検討の後、「キリストの教会はカトリック教会である」とは断定せず、「の中にある」という表現に修正・変更されたようだ。エキュメニズムの影響であろう。
3 これは論者の主張であり、教会が言っているわけではない。
4 この辺の文言のトーンは、信徒の視点からなされているというよりは、司祭が信徒に与えるお説教の一部のように聞こえる。ちなみに小笠原優師は「教会が諸宗教という場合、原則的に伝統的宗教を指しているのです。長い歴史を持ち、それぞれの時代にあって人々に生きる勇気と希望を与え続け、深い霊性を磨き上げてきた宗教ということです」と述べている(『信仰の神秘』2020 358頁)。
 つまり日本でいえば、新興宗教は「他宗教」のカテゴリーには含まれないが、仏教や神道について学ぶことは大事だということを言っている。これは「教会の土着化」の問題につらなるもので、「日本文化との一致」をどこまで、どのように実現するかという問題になる。具体的にはトリエント典礼の改革の範囲と内容ということになる。たとえば、「洗礼を受けたら家の位牌はどうしよう」「仏教の法事に参加しても良いのか」「町内会による神社への寄付金を払っても良いのか」など個別的・具体的問いへの回答は一般論では済まない。司祭や教会のガイドブックなどに頼ることになる(『祖先と死者についてのカトリック信者の手引き』カトリック中央協議会)。諸宗教の神学の射程距離は長い。

 

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遠藤周作は共感しますか嫌いですか ー 諸宗教の神学(6)(学びあいの会)

2022-01-26 11:39:39 | 神学


Ⅴ 宗教的多元主義

5 代表的宗教多元主義者

③ レイモンド・パニカー (Raimon Panikkar 1918-2010 または Raimundo)

 インドのカトリック司祭で神学者。インド人のヒンズー教徒の父(生まれはスペイン)と、スペイン人のカトリック教徒の母(カタロニア生まれ)との間に1918年にバルセロナ(スペイン)で生まれる。聖書とヒンズー教の聖典を学ぶ。1942年叙階。インド・ヨーロッパ・北米で過ごし、20世紀で最も大胆で創造的な視野を持つ神学者の一人と評された。
 ヒンズー教と仏教をキリスト教に統合(merge)しようとしたという。宗教間対話の先導者。「エキュメニカルなエキュメニズム」を唱え、教会一致はキリスト教内だけではなく、全世界の宗教の一致運動だと提唱した。聖書にも教会教父にも、諸宗教に対するより包括的見解があると主張した。
 キリスト論としては普遍的リスト論の立場に立ち、キリストはすべての人類を照らす光であり、すべての人を神に導くとした。キリストはすべての宗教の存在論的合一で、すべての真の宗教の中にキリストはいるとした。歴史上のイエスをキリストであると告白することは正しいが、しかしイエスにおけるキリストが最終的で一回限りだと主張することはできない、キリスト教以外の宗教にとって別のキリストが別の道で与えられることもあるとした。つまり、イエスはキリストだが、キリストはイエスだけとは限らない、と主張した。これはキリスト教とヒンズー教の創造的共生を求める主張であったという。
 多作であり、著書は50冊以上、論文は数百を超えたという。インド神学の泰斗だが、1987年に故郷スペインに戻り、2010年に亡くなった。
 パニカー批判としてS氏は、パニカーは宗教混合主義で、宗教間の相違を過小評価しているという批判を紹介した。

④ S・サマルター (Stanley Samartha 1920-2001)

 インドの神学者。1970-1981までWCC(世界教会協議会)(1)の「生ける信仰・イデオロギーの人々との対話」部門の初代ディレクターとして活躍した。すべての宗教は本質的に相対的だと考える。イエスキリストの普遍性は認めつつ、その人性・神性の位格的結合は否定し、イエスは偉大な教育者だとした。イエスキリストの普遍性はキリスト者にとってのみ妥当するとした。宗教間対話の重要性を強調し、特にプロテスタント教会間の対話の推進に貢献した。また、インドにおけるキリスト者のアイデンティティーを探り、土着化の過程を究明した。
 サマルターへの批判はWCCへの批判になりかねないのであまりはっきりしないが、S氏は、サマルターは、救いはイエスキリストによってのみ実現するという福音の根本思想を無視しているというサマルター批判を紹介している。

6 その他の多元主義神学者たち(2)

①W・C・スミス  (Wilfred Cantwell Smith)(カナダのイスラム研究者 長老派牧師)
②D・キュピット (Don Cupitt)(英哲学者 聖公会牧師 急進的神学者と呼ばれる)
③J・マックリー (John Macquarrie)(スコットランドの神学者 聖公会牧師)
④T・ホール (Thor Hall)(ノールウエイ生まれの米神学者 長老派) 
⑤A・レイス (Alan Race)(英神学者 J・ヒックの弟子 2007年叙階)

7 遠藤周作の問題提起:『深い河』の挑戦

 ここでS氏は、遠藤周作論を突如紹介された。提示された資料は日本の多元主義神学の一例という位置づけのようだった。この遠藤周作論はどちらかといえば好意的な遠藤論であるが、遠藤周作を多元主義的だが汎神論的だとは見なしていないようだ。出典が明らかでないので細かい紹介はできないが見てみよう(3)。以下は配付資料の要約である。

遠藤周作の問題提起:『深い河』の挑戦
(1)『深い河』は遠藤周作のキリスト者作家としての集大成であった

①この小説『深い河』は、彼の最後の小説であり、生涯のテーマが各人物に託されている ー 彼の生涯のテーマは「日本人にあうキリスト教」の問いであった
②この小説を書き終えた直後の1992年1月19日、彼は次のようにインタビューに答えている
1)宗教とは「無意識」そのものである
2)したがって神は存在ではなく、「無意識の働き」である
3)宗教は環境によって左右される ー イスラム教とかキリスト教とかに本質的な差はない
4)宗教多元主義を認める
 ー 彼は1991年にヒックの『宗教多元主義』に出会って勇気づけられ、この小説を書き終えた
 ー 「各宗教にはそれぞれ文化的背景がある。ヨーロッパのキリスト教と東洋のキリスト教とは信じ方が違ってくるとさえ私は思っている。またそのため私は悪戦苦闘してきたわけですが・・・・。だから、今、ヨーロッパの学者たちもだんだんこの問題に気づき始めて、『神は多くの顔を持つ』とか『宗教多元論』とかいった本を著す神学者もいて、私はそれに非常に共鳴している」
5)復活とは「自分を生かしている大きな命、生命の中に戻ること」である
 ー 従って「転生」や「再生」も同じ意味で当作品中に使われている
 ー 「深い河」とは、ヒンズー教徒たちがこの大きな流れによって清められ、よりよき再生に繋がると信じて生きている河で、それは「転生」の河である
 ー イエスキリストは昔亡くなったが、彼は他の人間の中に転生した
  ・2000年近い歳月の後に、今の修道女の中に転生し、大津の中に転生した
③彼の汎神論的宗教論は、いわゆる「汎神論」ではない
 ー なぜなら一本の深い河に統一されており、各人物が「母なるもの」によって統一されているからである
 ー 河は又遠藤にとって「母なる河」となったのである

 以上が配付資料の要約である。内容が断片的なので全体像が浮かんでこないが、『深い河』は遠藤周作の「問題提起」であり「挑戦」であると位置づけ、『沈黙』以上により高い評価を与えているようだ。遠藤周作は多元主義的ではあるが、汎神論ではないので評価できるという立場のようだ。

 出典元となった『福音と世界』はプロテスタント系の月刊誌のようだが、上記の文章をカトリック司祭も引用するほどだから遠藤周作への共感は日本の教会の中で、カトリック・プロテスタントを問わず、広く見られると言って良いであろう。ましてや非クリスチャンの日本の文学愛好家のあいだでは遠藤作品はひろく読まれ、幅広い支持を得ているように思われる。「沈黙」や「深い河」は映画やビデオでもよく知られている。

 だが、遠藤周作の世界観に共感できないカトリック信者も多くいるようだ。キリスト教を知らない人には想像できないだろうが、むしろ拒絶的反応を示す信者もいる。信徒だけではなく司祭にもおられるようだ。一例として谷口幸紀師を挙げておこう(4)。谷口師は、遠藤周作の多元主義や汎神論を批判するというより、むしろ「愛の無力さ」の強調でキリスト教を特徴づけようとする姿勢を批判しているようだ。批判の背景にはキリスト教の日本での宣教(土着化)をどう実現していくかという問題があるので、軽々な判断はできない。残念だがここにも日本の司教団の分裂が見えてくる。

 

『深い河』

 

8 宗教的多元主義批判

 以上の議論の上で、教会の宗教的多元主義批判が以下のように整理されて紹介された。個々の説明が十分になされたわけではないが、批判の論点がどこにあるかは明らかである(5)。

①宗教的多元主義者は相対主義を避けようとするが、相対主義はどこまでもつきまとう。相対主義そのものが彼らの主義に内在するからだ。
②宗教的多元主義では宗教的真理基準を明らかにすることが不可能である。かれらは実用的基準を援用する。ヒックの救済論的効力論、ニッターの救済論ははたして妥当なのだろうか。
③相対論は対話の可能性を難しいものにする。対話にふさわしい神学を提供していない。
④相対主義は最悪の場合「信仰無差別論」という破滅をもたらす。宗教の偏狭さ、陰の部分を容認してしまう。
⑤キリスト教と他宗教の類似性、共通性のみを強調する結果、各宗教の独自性を侵食し、深遠な相違を見過ごす。
⑥多元論はキリスト教神学へ挑戦的問いかけを提起している
⑦多元論者に共通なのは、教義面より経験面、概念より現実そのものに関心を向けることである

 このように、宗教的多元主義批判の中心はその相対主義的思想への批判にあるようだ。⑦のように言わずもがなの論点もあるが、多元主義批判は結局相対主義批判が中核である。ここから先は神学というよりは哲学の領域に議論の場は移っていくのであろう(6)。



1 WCCとは World Council of Churches のこと。世界的なエキュメニカル組織で、世界中のプロテスタント、正教会、東方教会、聖公会、ルター派、改革派など主要な宗教・宗派が加盟している。カトリック教会はメンバーではないが密接な関係を保っているという。日本キリスト教協議会(NCC)はメンバーのようだ。
2 ここは名前がメンションされただけで説明は無かった。英語版やドイツ語版のWikipediaで調べることはできる。どういう趣旨でこういう人たちの名前が挙げられているのかはわからない。
3 記事には、斉藤末弘「遠藤周作 深い河 について」 『福音と宣教』1999年7月号所収を参照、と注記されている。
4 谷口幸紀師のブログ「続 ウサギの日記」。遠藤批判は、
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/a1299d674579bef4627a14bc942bafc7
 これは、NHKの「心の時代~宗教・人生~」というテレビ番組の「遠藤周作没後25年 ー 遺作「深い河」をたどる(前編・後編)」を批評するという形で遠藤批判を展開しているものだ。流れは田川健三の遠藤周作批判を批判的に引き継ぐというものになっている。主な主旨はこうだ。「どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。」
私は谷口師の新求道共同体の道での活動には敬意を表するものだが、師のこういう遠藤批判が何を意図しているのかがよくわからない。ちなみに谷口師はわれわれカト研の先輩と聞いている(名簿にはお名前は記載されていない)。
5 文章が翻訳調で少しわかりづらいが、そのまま転記している
6 相対主義 relativisim とは、辞書風に言えば、万人に共通の普遍的な真理(価値)は存在しないという考え方。哲学では認識論的相対主義と倫理的相対主義を区別するようだが、真理や価値が人間の側の視点に依存するという立場も相対主義の一つとみなされるようだ。相対主義の対極を普遍主義とよぶなら、包括主義は普遍主義への志向を持っていると言えそうだ。日本の哲学入門みたいな概説書、例えば、『哲学用語図鑑』(プレジデント社)は、「相対主義は、現代では、一般的な考え方です」(032)と解説している。日本の哲学界ではこういう言説が一般的なのだろうか。

 

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宗教的多元主義は望ましいですか ー 諸宗教の神学(5)(学び合いの会)

2022-01-24 22:08:11 | 神学


 2022年度1月の学びあいの会は諸宗教の神学の続きである。オミクロン株の蔓延のせいだろうか出席者は数名だった。
 令和4年のお正月明けの私どもの教会は再び厳しい分散ミサに戻る。どの地区(組・班)でも土日のミサのうち月1回ミサの順番が回ってくるかどうかというくらい厳しい。しかも高齢者はミサに出ることはならんという神父様のきついお達しだ。オミクロン株が蔓延しつつあるからだろう。ごミサで聖体拝領ができないとは、教会は危機にあるとしか言いようがない(1)。

 今回は宗教的多元主義の主張が詳しく紹介された。だが教会は包括主義の立場に立たざるを得ず、諸宗教の神学は「明快な結論の出しにくい問題」だというのがS氏の結びの言葉だった(2)。

 まず宗教的多元主義の主張を見てみよう。宗教的多元主義については辞書的な知識はあってもその詳しい内容はなかなかきれいには整理できない。S氏は以下のようなー比較的好意的なー要約を行い、問題点を提起している。

Ⅴ 宗教的多元主義

1 その成立要因

 宗教的多元主義の成立の背景・要因として以下の5点が指摘された。

①啓蒙主義の影響
 啓蒙主義梁成村長の合理主義であるから、啓示を合理的に理解する。キリストの唯一の啓示を否定する。ニュートンの理神論(3)、カントの認識論など(4)。

②自由主義神学の台頭

 シュトラウス(福音書批判)、B・バウアー(マルコ福音書は想像の産物だとし、イエスの実在を否定)、リッチェル(啓示を強調するもキリスト教の絶対性は否定した)、1980年代の宗教史学派は、教会の伝統的教義を否定し、「自由に神学」した(5)。

③グローバル化による他宗教との接触

 他宗教との接触は、各宗教の主張をそれぞれ妥当なものとする傾向を生み出す。

④キリスト教会の変化

 第2バチカン公会議にみられる教会の他宗教への態度の変化

⑤現代世界の世俗化傾向

 キリスト教にとって、今や脅威は、他宗教ではなく、世俗主義・物質主義・無神論・マルクス主義である。諸宗教が手を携えて対抗する必要がある。

2 宗教的多元主義の出発点

 宗教的多元主義の出発点は、排他主義と包括主義への批判である。多元主義によれば、排他主義にせよ、包括主義にせよ、どれもキリスト教中心主義であり、他宗教はその周辺にあるという発想が見られる。包括主義も形を変えた排他主義である。包括主義は、キリストの業(わざ)が他宗教にも密かに働くと言うが、キリスト教以前のバラモン教・仏教がキリストの影響下にあるというのは可能なのか。

3 宗教的多元主義の基本的主張

 教会から見れば、宗教的多元主義の主張は次のように整理できる

①宗教の多様性をラディカルに主張している 宗教の文化相対主義をとっている
②各宗教は同等の救いをもたらすと考える あらゆる宗教は究極的存在、すなわち、神あるいは神秘が存在すると考えている
③イエス・キリストの救い主として地位が変化したと考える
④キリスト教そのものの相対化されたと主張する

4 宗教的多元主義の問題点

 宗教的多元主義は一般にはなにか良い思想のように思われているが、次のような批判的観点もあることも忘れてならない。多元主義一般の批判が難しいように、宗教的多元主義批判も容易ではない。教会からの批判的指摘で重要なのは以下の2点だ

①宗教的無差別主義の疑問
 どんな宗教も同等と見なすことは妥当なのか。宗教の判断基準はないのか(6)。
②キリスト論の問題
 イエスの救い主としての地位を相対化する、非規範的キリスト論は妥当なのか。

5 代表的宗教的多元主義者

 ここでは主に4人の宗教的多元主義者が紹介される。宗教的多元論者はプロテスタント神学者に多いようだが、カトリックにもいないわけではない。特に、禅の影響を受けたカトリック司祭や神学者には多元論や汎神論へ傾斜が見られると警戒する教会指導者も多いが、禅がカトリックに与えた影響の評価は現時点ではまだ定まっていないようだ(7)。

①J.ヒック(John Hick 1922-    )

 イギリスの宗教哲学者。宗教多元主義という宗教哲学を唱えた。排他主義を排し、宗教多様性をラディカルに提案した。人類全体に訴えるものを持っているのはキリスト教だけではない。諸宗教は究極的・超越的実在のそれぞれの表現である。父なる神と、ブラフマン、アラー、ダルマカーヤ(8)は同一のものと見なして良い。宗教多元説は今日の宗教間対話に最も有効である。排他主義も包括主義もいずれもキリスト教中心主義であり、そこから神中心の多元主義への転換が必要であるとし、キリストの相対化を主張した。彼の主著『神は多くの名前を持つ』(1980)は遠藤周作に大きな影響を与え、『深い河』の創作日記にも引用されているという。

②P・ニッター(Paul Knittir 1939-    )

 アメリカの神学者。第二バチカン公会議後に叙階され、1975年に教会を離れる。元カトリック司祭。K・ラーナーのもとで学んだ。主著『No other name ?』(1985)の出版後、宗教的多元論の担い手となる。特に仏教に強い関心を抱いている。上記のヒックはニッターの友人であり同僚でもあるが、ともにラッチンガー枢機卿(名誉教皇ベネディクト16世)に「相対主義」者として批判される。
 ニッターによれば、他宗教と関係を持つことは単なる宗教間対話のためではなく、キリスト教のアイデンティティーを探ることを意味する。キリストの唯一性、教会の絶対性を主張することは、イエスキリストと教会の本来の使信を失うことになる。イエスだけではなく、他の「受肉」の可能性を論じる。
 キリスト中心ではなく、神中心の宗教観を持つ。救済中心的な多元論で、出発点は解放の神学だという。「抑圧された人々の解放を求める戦い」を諸宗教神学の基礎とする。すべての宗教の目的は人類の一致で、世界の荒廃を止めることにある。神の国は、現世的・博愛的・人道主義的なもので、教会はこれに参加する一機関に過ぎないという。実践に役立たぬキリスト教は不要である。キリストの唯一性は否定し、新約聖書はかならずしもイエスの絶対性を主張していないとした。
 ニッターへの批判も多いらしく、特に彼が言う「宗教の重複所属」説(religious double belonging)は現在も論争の的になっているようだ。

 少し長くなったので、他の二人の紹介と多元主義批判は次回に回したい。

 



1 教会は文字通り危機下にあると思う。コロナだから、ではすまされない危機下にあると思う。若松英輔・山本芳久両氏は近刊『危機の神学ー無関心というパンデミックを超えて』(2021)のなかで、「コロナも危機も消えてなくなるものではないのだから、教会はもっと外に出よ」と訴えている。コロナより無関心というパンデミックが危機の源であると述べ、危機は「画期」であり、「無関心からの解放」を切に訴えている。両者の主張はどれももっともであり、胸を打つ。ただ少しきれい事に終始し、なかにはポリコレ(political correctness)の響きがする場面もある。この新書はお二人の対話という形をとっているが、実際にはお二人が勝手に自説を展開しており、両者の対立や論争は浮かんでこない。とはいえ、内容はカトリック神学の古典のみならず、プロテスタント神学から西洋哲学・西田哲学・仏教儒教思想までカバーしており、日本のカトリック神学の進歩の一端を垣間見たようで嬉しい限りである。
 両人は「外に出よ」というが、反対に「ミサには出るな」と主張する論者も少なからずおられるようだ。私が敬愛するブロガーの一人は「ミサには出ないで、自分で自分を守れ」と繰り返し主張している(http://shelline-oblate.cocolog-nifty.com/blog/2022/01/post-19a7d9.html)。
 神父様や典礼係のご苦労を考えれば私のような何か具体的なことが出来るわけではない老人があれこれ言える立場にはないのは十分承知の上だが、今、教会は危機と混乱の最中にいるようだ。危機は教会の歴史上何度もあったといわれればそれまでだが、今回の危機は全地球規模だ。だが教会はいつも祈りに中で危機に向かい合ってきた。今回もみな祈りの中で向き合っている。

 

『危機の神学』

2 S氏を含めて仏教的環境に囲まれている日本の信徒が、宗教的多元主義に親近感を持つのは致し方ないだろう。遠藤周作の『沈黙』や『深い河』に見られる汎神論一歩手前の宗教的多元主義の影響力は廣く深い。司祭や信徒の中には遠藤周作の世界観に共感できない人は多いが、だからといって包括主義に安住はできない。イスラム教は、個々の信者は別として、教義としては世界がイスラム化するまで戦いは終わらないと説いている。排他主義でなければこの相対主義の世界を生き残れないと考えているようだ。教会が包括主義に固執するだけの時代は終わろうとしているように思える。
3 理神論 deism とは、神は創造行為以外はこの世界にかかわらず、神の摂理は物質的な秩序に限定されるという考え。啓示や預言、奇跡は否定される。
4 カントの認識論という表現で何を意味しているのかは不明だが、啓蒙思想をキリスト教批判の思想とのみ見なすのは一面的だろう。カントのようなドイツ啓蒙主義はむしろキリスト教を近代的に解釈し直すことによってキリスト教神学の発展に寄与したとも言えるのではないか。
5 自由主義神学とは一概に簡単な定義ができない幅広いプロテスタント神学のある立場を指すようだ。普通は、進化論を容認し、聖書学の成果を承認し、批評的な解釈をおこなう点で共通しているようだ。シュライエルマッハーやハルナックが代表者とされることが多いようだが、K・バルトをその中に入れる人もいるようだ。日本では基督教団内のリベラル派と呼ばれ、圧倒的影響力を持っているようだ。
6 日本の宗教統計では宗教の直接的定義はなく、宗教団体の定義がある。
「宗教団体とは. 宗教法人法第2条第1号または第2号に該当する団体で、教義をひろめ、儀式行事を行い,及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体をいう。」 宗教をある信仰を共有する思想体系・観念体系とみなせば、ある社会集団を宗教団体を見なすには基準が必要だ。「集団」ではなく「団体」の定義から始めねばならない。たとえば、オーム真理教(アレフ、光の輪)は宗教か、は難しい問いだ。「宗教の判断基準」といわれても、「制度」論をはずして議論はできないだろう。
7 カト研としてはW・ジョンストン師を思い起こす。師は禅の造詣・実践が深く、遠藤周作『沈黙』の英語版への訳者だったが、同時に『不可知の雲』の日本語への訳者でもあった。ジョンストン師来日50周年記念の時の遠藤周作氏のスピーチは親愛感あふれるものであった。ジョンストン師は、汎神論の傾向があるとイエズス会からは冷眼視されていたようだが、わたしの印象は違う。師は徹底した神秘主義者であり、多元論者でも汎神論者でもなかったと思う。師の祈りはいつもひとつだった。「聖霊、来たりたまえ Come, Holy Spirit」。静かに祈っている師の後ろ姿を何度か見たが、その思いは今も変わらない。
8 ダルマカーヤとは大乗仏教の3身論のなかの「法身」のこと。究極の存在、仏の本質のことを指すらしいが、普通は普賢様のことをいうようだ。

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