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カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

カリフと教皇の違い ー イスラム教概論17(学び合いの会)

2021-07-31 21:01:07 | 神学


 今回のカリフ制の議論の中で、カリフと教皇の違いが繰り返し言及された。そのなかでカトリックの「カテキズム」が紹介され、カトリックの神秘主義とイスラム教の神秘主義の違いが説明された。どれも大問題だが、イスラム教についてほとんど知識を持たないわれわれにとり、カトリックのカテキズムについての最低限の知識は必要だろう。

1 まず、カリフと教皇の違いは次のような説明であった。

教皇:教義の解釈、秘跡の授与などをおこなう宗教的権威を有する
カリフ:聖法の執行者であり、聖法や教義を解釈する宗教的権威は持たない

 教皇は宗教的権威者、カリフは政治的権威者といえそうだが、カリフの場合は政治権力はスルタンが握っているので区別が難しそうだ。問題は、教義の解釈権を誰が握っているのか、だ。カトリックでいえば、教皇と公会議の対立であり、イスラム教でいえば、カリフとイマームの対立、という図式になるらしい。現在はカトリックでは教皇優位の時代であり、イスラム教ではカリフは不在だ(1)。

2 伝統的なカテキズムの概要

 ここでは『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会 2002)が紹介される(2)。これは839頁におよぶ大著(翻訳)である。その構成は、

第1編「信仰宣言」
第2編「キリスト教の神秘を祝う」
第3編「キリストと一致して生きる」
第4編「キリスト教の祈り」

 となっている。カトリック神学の知識がないとなぜこういう構成になっているのかピンとこないかもしれない。つぎのように整理し直してみよう。

第1部 クレド(教義)
第2部 典礼 (秘跡)
第3部 十戒 (倫理)
第4部 祈り (霊性神学)

 これは『カトリック教会の教え』(2003)の区分で、「新要理書」の構成だ。日本のカトリック教会では、日本司教団公認の要理書は、昭和11年(1936)の『公教要理』がずっと用いられてきた。これは戦後1960年に『カトリック要理』と書名が変更されたが、内容が時代の変化にあわせて改訂されることはなかった。
 それがやっと新要理書として生まれ変わったのがこの『カトリック教会の教え』だった。これは執筆者が、第1部は岩島忠彦師、第2部が岡田武夫大司教、第3部が浜口吉隆師、第4部が池長潤大司教で、そうそうたるメンバーが書かれている。
 だが、533頁に及ぶ大著であり、だれでも手にできる使いやすいものではなかった。『カトリック教会のカテキズム』(1992)の要約(『カトリック教会のカテキズム要約 コンペンディウム』)が完成するのはなんと2010年であり、それまでのつなぎの役をはたしていたようだ(3)。

3 『カトリック教会のカテキズム・要約』第3編の内容

 第3編は「キリストと一致して生きる」と題されている。

第1部 「人間の召命 ー 霊における生活」(4)
 第1章 人格の尊厳
 第2章 人間共同体
 第3章 神の救い ー 法と恵み

第2部 神の十戒

 ここはカテキズムの中で最も大事な部分なので、少しわかりやすく整理し直してみよう。
・・・

わたしはあなたの主なる神である

【あなたの神を愛しなさい】

第1の掟 わたしのほかに神があってはならない
第2の掟 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
第3の掟 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ

【あなたの隣人を愛しなさい】

第4の掟  あなたの父母を敬え (家族倫理)
第5の掟  殺してはならない  (生命倫理)
第6の掟  姦淫してはならない (性倫理)
第7の掟  盗んではならない  (経済倫理)
第8の掟  隣人に関して偽証してはならない (コミュニケーション倫理)
第9の掟  隣人の妻を欲してはならない   (清貧)
第10の掟 隣人の財産を欲してはならない  (欲望制御)

・・・

 つまり、十戒とは「神」と「隣人」を「愛する」ための掟だと理解できそうだ。イスラム教の「六信五行」(5)もこの十戒の教えをベースにしているのだろうか。

 

(神の十戒)

 

4 カトリックにおける神秘主義

 S氏は神秘主義はキリスト教独自の用語であって、ヒンズー教・仏教など他の宗教の神秘体験と同一視すると意味が混乱すると述べている(6)。

トマス・アクイナスの定義:神の体験的認識のこと。すなわち、イエスにおいてわれわれに語られた三位一体の神を直感的に認識すること。それは正しい信仰による知的洞察が前提となる。

 つまり、信仰を伴わない神秘体験や心理学的解釈は避けねばならないという。つまり、信仰を伴わない主観的高揚感などは神秘体験とは呼ばないと言うことのようだ。

 カトリック教会には、神秘主義に関して伝統的に二つの見解があったという。

①ガリグー・ラグランジュ(7):神秘主義はキリスト教信仰生活の正常な継続と深化である
②ジョゼフ・ブーラン(8):神秘主義は神が少数者に与える特別な恵み
 当然ラグランジュの説が正統性を持っており、あらゆる信仰実践の中に「小さな神秘主義」が含まれているとする(9)。



1 カリフと教皇は選出方法は違う。教皇の選出は枢機卿団による投票である。1274年の第2リヨン公会議で規定されたようだ。カリフは選挙(法学者の談合)か血統かでわかれる。
 宗教的権威と政治的権威の点では、教皇はローマ司教・使徒の継承者だが同時に広大な教皇領を持つ世俗君主でもあったし、現在はバチカン市国の国家元首でもある。カリフはスルタンと争ったり、一体化したりその関係は複雑なようだ。
 制度としては、教皇制そのものを認めない議論もあるが、少なくともローマ教皇の権威だけは受け入れれているようだ。カリフ制は国民国家の成立の中で制度そのものが立ちゆかなくなっているようだ。
2 カテキズム catechism とは「キリスト教の教理の要約」のことで、むかしは「公教要理」と呼ばれたが、現在はこの表現は用いられない。。現在は入門講座で利用されることが多いが、その特徴はキリスト教の教義を「問答形式」でわかりやすく説明するところにある。
 問答形式は『神学大全』など伝統的な神学書で用いられる形式で現在はあまり見かけないが、カテキズムの大きな特徴となっている。たとえば、『カトリック教会のカテキズムの要約』(コンペンディウム)(カトリック中央協議会 2010)の出だし(第1編第1部)は、「1 人間に対する神の計画とはどのようなものですか。」で始まり、その答えが詳しく説明されている。このように、質問・答えの繰り返しをとる問答形式が特徴だ。問答形式をとらないカテキズムもあるらしく、例えば『カトリック教会のカテキズム』(2002)は問答形式をとっていない。なお、「カトリック教理」を伝える信仰教育は「カテケージス」(要理教育)と呼ばれる。
3 本書には付録として「日本の教会の歴史と制度」が含まれている。これは溝部脩司教により執筆されたもので、資料的価値の高いものである。カテキズムは広義の教理一般であり、日本の教会の歴史や特殊性にふれることはないので、大事な資料である。逆に言えば、いろいろな神父様が書かれるいわゆる入門講座用のカトリック教理本には日本の教会の特徴に触れるものが少ないといえる。日本のカトリック教会の特徴・個性を強調することが是か非かについてわれわれはまだ意見の一致を見ていない。たとえば遠藤周作の作品の評価について日本のカトリック教会が真っ二つに割れているのは、残念なことである。
4 召命とは神が弟子を作ることをいう。マルコ1:16~(漁師を弟子にする話)などにみられる。われわれは「めしだし」と読んでいたが、最近は「しょうめい」と発音する方が多いようだ。なにか違いがあるかどうかはわからない。『祈りの手帳』(ドン・ボスコ)には、「召命しょうめいを求める祈り」、「司祭の召し出しを求める祈り」の二つの表記がある。「しょうめい」は信徒の洗礼向け、「めしだし」は司祭の叙階向けの用語なのだろうか。vocation, calling, berufung の違いは何なのだろう。
5 イスラム教徒が信ずべき六つの信条と、実行すべき五つの義務。
六信とはアッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定
五行とは信仰告白・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)
イスラム教でもモーセは重要な預言者とされ、十戒も六信五行のベースになっているようだ。
6 神秘主義を絶対者と自己との神秘的一体化であり、自己の内面における体験と一般的に考えるなら、キリスト教に限定することは難しいだろう。イスラム教のスーフィズム、バラモン教のアートマン、仏教における密教なども神秘主義と呼ぶことが多いのも事実である。ただキリスト教において最も発展し、神学に影響を与えたという意味では、キリスト教独自の用語といってもよいのかもしれない。
7 ガリグー・ラグランジュ 1877-1964 フランスの神学者 ドミニコ会 新トマス主義者 岩下壮一師にも影響を与えている。 M・D・シェニュとならんで20世紀カトリック神学の生みの親とも言える。
8 ジョゼフ・ブーラン 1824-1893 元カトリック司祭  性による救済などを唱えた悪魔崇拝の呪術者
9 この意味では「禅」は神秘主義かという問いが生まれる。ジョンストン師をはじめ欧米のキリスト教神学者は禅を神秘主義の一種と見なす傾向が強いが、ジョンストン師によると禅の導師はそういう理解に否定的だったという(W・ジョンストン 『愛と英知の道』 サンパウロ 2017 原著は1995)。

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カリフ制とイスラム政治 ー イスラム教概論16(学び合いの会)

2021-07-30 21:46:28 | 神学


Ⅸ カリフ制

【Ⅰ】イスラムと政治

1 イスラムとスイヤーサー

 スイヤーサー siyasa とは「政治」のことらしいが、イスラム教は政教一致の宗教であり、政治は宗教と結びついている。ここでは「カリフ制」の特徴が論じられる。

2 カリフ制の意味

 カリフ制とは「カリフを首長とするイスラム共同体(ウンマ)の統治制度」と定義されている(「角川世界史事典」)。ウンマは、精神的側面のみならず実際的生活にも関わるため、法執行のための政治権力が必要となる。すなわち、政治とはシャリーアを現実に適用するための統治(政教一致)のことであり、具体的にはカリフ制のことを意味するようだ(1)。

 カリフ khalifa とは「後継者」という意味らしく、ムハンマドの死後、共同体の指導者の地位を引き継ぐ者のことで(2)、政治的最高指導者であり、知事・裁判官・軍司令官などを任命する権限を有する。カリフの命令に従うことは全ムスリムの義務だという。

3 カリフ制の成立

 カリフ制はムハンマドの死後成立した制度で、コーランには記述がない。共同体の主体的判断つまり「イジュウマー」による(3)。初期の指導者(イマーム)は多数の合意で選ばれた。カリフの選出には様々な駆け引き・策略があったが、少なくとも最初の4人のカリフは民主的に選出された(4)。これを「正統カリフ時代」(632~661)と呼ぶ。

4 ウマイヤ朝のカリフ制

 ウマイヤ朝(661-750)では、カリフ位がウマイヤ家に独占された。ウマイヤ家は反宗教的・世俗的政策をとり、私的利益の追求に走った。
 ウマイヤ家は、ムハンマドに最後まで抵抗したメッカの大商人で、ムハンマドの孫のフサインを殺害させた上に、非ムスリムを優遇するなど、その支配の正統性が問われた。

①ハーリジー派(アリー軍から離反した過激派)の批判:罪を犯したカリフは認められない
②シーア派の立場:指導者は、神とムハンマドと先代のイマームを通して選ぶべきで、不可謬の人間でなければならない イマームはアリーの子孫でなければならない ウマイヤ朝は認められない
③スンニ派の立場:4代の正統カリフとウマイヤ朝を認める カリフの資格はムハンマドの子孫の限らず、クライシュ族全体に拡大する

5 アッバース朝のカリフ制

 アッバース朝(750-1258)はムハンマドの叔父アッバースを祖とする王朝。ウマイヤ朝は「アラブ帝国」であったが、アッバース朝はアラブも非アラブも問わず全イスラムの平等が浸透した「イスラム帝国」と呼ばれる。北アフリカから中央アジアまで500年にわたって支配した。
 聖法の代弁者ウラマーと、政治権力者のカリフの間で協調関係が成立した。
ウマイヤ朝のカリフは反宗教的態度をとったが、アッバース朝は広大な地域で他民族を支配するために普遍的な法体系を必要とし、ウラマーはその要請に応えた。広大な他民族からなるイスラム共同体を一人のカリフが、一つの法によって統治するイスラムの古典的な政治体制が初めて成立した。そして現在まで二度と成立することはなかった。

 第5代目のカリフであるハールーン・アルラシード(786-809)は王朝の黄金期を支配した。『千夜一夜物語』(英語名アラビアン・ナイト)の説話が描く世界である。
 アッバース朝はこのあと奴隷軍団などの軍閥が地方政権を握り、カリフは政治権力を失い、宗教的権威が残されるのみとなった。やがて1258年にモンゴルによって滅ぼされることになる。

 次回はカリフ制の展開の話の前に、カリフと教皇の違いについて前置き的に触れてみたい。

 

(千夜一夜物語)

 



1 S氏はここで、カリフをローマ教皇と比較する議論を展開した。
教皇:教義の解釈、秘跡の授与などをおこなう宗教的権威を有する
カリフ:聖法の執行者であり、聖法や教義を解釈する宗教的権威は持たない すなわち、カリフ制は聖法を適用する政治的権力機構のことである
 歴史や現実をみたときこの比較は不十分だろうが、教皇が宗教的権威者で、カリフが政治的権威者である点は大事な区別であろう。教皇には政治の面では皇帝や国王と競合し、カリフは宗教面ではウンマと競合した。
2 ムハンマドは最後の預言者なのでカリフは使徒の資格は持たない。
3 イスラム教の4大法源は①コーラン②ハディース③イジュウマー④キャースである。このうち①と②がイスラム法の根源で「シャリーア」と呼ばれた。時代とともにコーランとハディースだけでは律しきれない問題が生まれ、経典を解釈する方法としてイジュウマーとキャースが生まれた。イジュウマーとは「代表的な法学者(ウラマー)の意見で一致したもの」のことであり、キャースとは「理性による類推」をさす。
4 ここで、イマームとカリフの違いが問題になってくる。いろいろな歴史的経緯があるようだが、現在は、スンニ派はカリフによる統治を認め、シーア派はそれを否定してイマームによる統治を認めているようだ。

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スーフィズムは修行論か哲学か ー イスラム教概論15(学び合いの会)

2021-07-28 18:19:20 | 神学

 タッサウフ(タサッウフ) Tasawwuf とはイスラム神秘主義のことで、欧米では一般に スーフィム Sufism  と呼ばれる。特定の教派というよりは一つの思想運動らしく、イスラム諸国には現在も様々なスーフィズム系「教団」が存在しているようだ。
 歴史的には、9世紀以降のイスラム教の世俗化に反発する改革運動として生まれ、修行によって神との神秘的一体化を目指す運動として発展したようだ。現在はその修行の方法(音楽や舞踏)が注目されているという。思想的に政治的権威を認めないためにイスラム各国の政府からは危険視されているというが、他方、イスラム国のようなイスラム原理主義をとらないためにイスラム教の反テロリズム思想として注目されてもいるようだ。スーフィズムは拡大発展しつつあるのかもしれない(1)。
 イスラム教の神秘主義思想はどのような特徴を持つのか(2)。イスラム教はユダヤ教やキリスト教と比べるとより「合理主義的」宗教だと言われる(3)。かってM.ウエーバーは宗教社会学のなかでイスラム教の「社会層」を「騎士団」と「スーフィー(神秘家)」とみなした(4)。イスラム教は「戦士宗教」であり、「救済宗教」ではないと説明している。イスラム教の神秘主義とはどういうものなのか(5)。S氏の説明をみてみよう。

1 タッサウフ 神秘主義

 タッサウフとはイスラム神秘主義のことで、欧米ではスーフィズムと呼ばれる。
 スーフィとはアラビア語で、「羊皮の衣」を纏い、清貧のうちに禁欲的に生きている者、すなわち神秘家のことをさす。修行僧と呼んだ方がわかりがよい。タッサウフもスーフィーを語源とする言葉だという。スーフィズムは修行の方法であり、当初は哲学とは関係なく発展した(6)。

【スーフィズムの修行】

①自己の行為を形式的・倫理的に神の命令に一致させること
②内面的に自己を神から隔てる一切のものを取り除くこと
 つまり、シャリーアとスンナを厳守するだけではなく、様々な禁欲的修行によって現世の執着を断ち切り、ひたすら神を求める。具体的には、不断のコーランの続唱、礼拝、祈り、瞑想。

【修行者の神秘的段階】

①回心 ②律法遵守 ③隠遁・独居 ④清貧・禁欲 ⑤心の戦い ⑥神への絶対的信頼
 修行者は、尊師の指導を受けながら段階を上げていく。神が心を完全に圧倒し尽くし、自己を全く意識しない忘我の境地に至る。神との神秘的合一体験と無上の喜びがくる。

2 スーフィズムの展開

 スーフィズムは歴史的にはキリスト教、ネオプラトニズム、インド思想などの影響を受けて発展してきたが、元来はイスラム教の内部問題への対応策として生まれてきた。
 内部問題とは、ムスリム全体の俗化、シャリーアの形式主義化、神学的見解による神の非人格化、ウラマーの形式主義化などのことであり、これらの問題への反動として生まれた。

 時として内面性を強調しすぎるために、シャリーア(イスラム法のこと、コーランやスンナなど)を無視する者も出てきてウラマー(イスラム法学者)の批判を招き、スーフィとウラマーの関係は緊張した(7)。スーフィーの理論家たちは自分たちが決してシャリーアの反する者ではないと弁護するも、批判を避けるためにもっぱら修行論の世界に専念していった。具体的には「詩」や「踊り」によって自分たちの境地を表現するようになった。他方、形而上学思弁により表現しようとする者も出てきて、スーフィズムはイスラム哲学に近づいていく。

 

(スーフィの旋回舞踏)

 

 


1 トルコでは建国当初は活動が禁止されたようだが、現在はますます活発化しているようだ
(真殿琴子「スーフィズムはなぜ人々を惹きつけるのか」 https://www.toibito.com/column/humanities/science-of-religion/1774)
2 キリスト教においても神秘主義思想は大きな影響力をもっているが、だからといってカトリック神学の中では不安視され、マイナーな位置づけしか得ていないと思われる。プロテスタント神学の中では居場所すらないのではないか。
3 ムハンマドはキリスト教の「三位一体」説は非合理的だと批判した。かれは代わりに「神の唯一性」(タウヒード)という教義を導入し、キリスト教に対抗しようとしたとも言われる(嶋田穣平『イスラム教史』1978)。
 だが、ウエ-バーはイスラム教には「ユダヤ教の合理主義を育てた決疑論的思考訓練が欠如している」とし、イスラム教における聖遺物崇拝の浸透・呪術の浸透がイスラム教徒を「本来的な生活方法論から」遠ざけてしまったと述べている。下記参照。
4 M.Weber 『宗教社会学』「経済と社会」 第2部第5章 武藤・園田・園田訳 創文社 1972 第12節第5項「イスラム教の現世順応性」 少し引用してみよう。
「イスラム教は、一方では神学的・法学的な決疑論の成立と、啓蒙的ないしは敬虔主義的な哲学的諸学派の成立によって、他方ではインドに由来するペルシャのスーフィズムの浸透と、今日なおインド人からの非常に強い影響を受けている托鉢修道団の形成によって、その波及範囲を大きく広げてきた・・・禁欲的な諸宗派は存在していた・・・それは軍事的騎士団の禁欲であって、決して修道士的禁欲でもなければ、いわんや市民的な禁欲的生活態度の体系化といったものでもない」(376頁)。ウエーバーには古代ユダヤ教論の後のイスラム教論を完成させる時間は残されていなかった。残念なことである。
 ウエーバーによれば、世界宗教はそれを支える基本的な「社会層」によって特徴付けられる(なお、社会層とはマルクスの社会階級とは異なる概念で、階級・身分・党派からなるとされる)。単純化していえば、儒教(受禄者身分)・古代ヒンズー教(世襲カースト)・仏教(托鉢僧)・ユダヤ教(民族の知識人層)・キリスト教(遍歴平職人と市民)・イスラム教(騎士団とスーフィー)。かれらが各宗教の規定的社会層をなしていたという。
5 神秘主義 mysticism もいろいろな類型があるのだからその定義も多様だろう。広辞苑は「神・絶対者・存在そのものなど究極の実在に何らかの仕方で帰一融合できるという哲学・宗教上の立場」と説明している。「キリスト教辞典」は「自己や世界の根拠(神・仏)との一致体験」のことだが、キリスト教神秘主義は「人間と神との人格的一致」のことで「神秘的一致」と同義であると説明している。
6 この修行法が哲学と出会うのは13世紀に入ってからであり、そこからイスラム神秘主義哲学が生まれてくる。井筒俊彦はこの修行法を仏教(真言密教)と類似していると述べている。たとえば、スーフィズムには「ズイクル dhikr」と呼ばれる修行法があるが、これは「思い出す」という意味らしく、アラーの名をひたすら繰り返し唱えることをさすようだ。仏教でも簡単な祈りをひたすら繰り返し唱える(井筒俊彦『イスラーム思想史』1982)。カトリックの「ロザリオの祈り」も同じようなものかもしれない。
7 ウラマーとカリフの関係も複雑なようだ。ウマイヤ朝が倒れてアッバース朝になると、政治的支配者のカリフと知識人であるウラマーは協力し始める。アッバース朝は支配の正当性を求めてウラマーに近づき、ウラマーは単に宗教的権威だけではなく政治権力を求めた(裁判官など)。やがてウラマーはイマームの選出方法を巡ってスンニ派とシーア派とに分かれてくるが、スンニ派はカリフは「大イマーム」として認め、シーア派では認めない。シーア派ではウラマーの独占が続く(ちなみに革命後のイランのホメイニ師はイマームである)。

 

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イスラム教における神学と哲学の対立 ー イスラム教概論14(学び合いの会)

2021-07-27 18:17:12 | 神学

7月も学び合いの会の参加者は多かった。15名はおられたようだ。コロナ禍のなか猛暑が続き、東京オリンピックも始まってテレビ漬けになりがちだが、コツコツと学ぶことを楽しむ同好の士が多いことは励みになる。

 今日のテーマは、イスラム教におけるカラーム論(神学)、タッサウフ論(神秘主義)、スイヤーサー論(政教一致) と多岐にわたったが、どれもカトリック神学との比較に力点が置かれていた。S氏のカトリック神学観を垣間見るようで興味深かった。

 極めて一般的に言えば、キリスト教では神学の位置づけは高い。キリスト教は神学とともに発展したともいえる。他方、イスラム教は実践的・倫理的性格が強く、神学の位置づけは低く、法学として発展したともいえそうだ。
 とはいえ、イスラム教でも、自らの信仰を基礎づける努力は、思弁神学として異端視されながらも、続けられる。その努力は、敢えて言えば、スンニ派では「神学的」基礎付けに向かい、シーア派では「哲学的」基礎付けに向かったようだ。神学と哲学を対立的に捉える視点は、キリスト教的には生産的ではないが、イスラム教を理解する上では有効な視点のように思えるがどうだろうか。哲学好きのカト研の諸兄の批判を仰ぎたい。


Ⅶ 神学 ー カラーム

1 カラームとはなにか

 カラームとはなじみのない言葉だが、イスラム教における「思弁神学」のことだという。イスラム教では多の宗教に比べて神学の重要性が低いことはつとに指摘されるが、どういうことなのだろうか。

 カラーム al-kalam とは、元来、ことば、議論、思弁、論証の意だという。カラームの訳語は「神学」、哲学は「ファルサファ」(フィロソフィアに由来)と呼ぶようだ。
 イスラム教では、神の本質をめぐる「神の唯一性」が主要テーマであったことから、イスラム教神学は「神の唯一性の学」(イルム・アルタウヒード‘Ilm al-Tawhd)ともよばれるという。つまり、カラームとは論証をこととする「思弁神学」のことを意味するようだ。
 元来、イスラム教は実践的性格を持ち、その教義の平明であるために、コーランやハディースの文字どおりの解釈を重視する保守的な学者や民衆は、神学的思弁や論証は不用であると考えていたようだ。たとえ正しい信仰をを弁護するための議論であっても、ビドア(異端)であるとして否定する傾向が根強かったという。

 S氏はここで、オーソドックスな「神学」論を紹介する。神学には以下の3分野があり(1)、イスラム教神学はこの中の第二番目の実践神学の範疇に入るという。

①教義学:信仰を知的に説明する分野
②実践神学:信仰の実践と倫理的生活に関する分野
③護教論 :信仰の正しさを攻撃から擁護し弁明する分野

 イスラム教はコーランとスンナに基づく信仰の実践を重視し、思弁を異端として否定的に扱う傾向があるという(2)。つまり②の実践神学が重要であるが、これはカラームではなく、イスラーム法学が扱う分野だという。カラームは①と③、つまり、教義学と護教学を扱うという。これは、神の言葉であるコーランを人間が限られた知性であれこれ勝手に解釈し、説明することへの不信感が強かったからだという。従ってカラームは異端に対する護教論の性格が強かったという(3)。

2 カラームの発生の要因

 本来の意味でのカラームの発生は8世紀頃のムゥタジラ派とともに始まるらしいが、それ以前の背景が重要なようだ。

①ハーリジー派への対策(4)
 ハーリジー派は、敬虔なムスリムなら誰でもカリフになれる資格があると主張し、自派以外の人間は罪を犯しているとして現体制を否定した。この主張に対しムルジア派は信仰と行為を区別し、現体制を容認した。ここにまずムルジア派のカラームが生まれる。

②自由意志節と予定説の対立
 コーランには予定説(5)と自由意思説の両方の思想が書かれており、どちらが正しいのか論争が起きた。初期イスラムではジャブル派のように顕著な予定説が受け入れられていたようだ。他方自由意志を強調したのはカダル派と呼ばれたらしい。

③聖典解釈の問題
 コーランやハーデスは一種の「詩」であり、神学書ではない。そこには相互に矛盾する箇所が見いだされる。文字通り解釈するのはハンヨーウィー派、表現は比喩だと見なしたのがジャクム派と呼ばれたようだ。

④異教徒との論争
 キリスト教徒やマニ教徒との論争がおこる。論争の中でギリシャ哲学がカラームの中に入り込んでくる。

3 ムータジラ派とカラームの成立

 このような難問を一貫した体系の元に解決するためにカラームが生まれてくる。伝統主義者は理性と啓示の矛盾について理性的判断を放棄し、啓示をそのまま受け入れようとした。これに対し8世紀前半のワーシル・イブン・アターとアムル・イブン・ウバイド、ムータジラ派は理性による説明を重視し、9世紀には真に思弁神学として、カラームとして、登場してくる。人間の自由意志を重視し、人間の不正や悪は神とは無関係だとした。アッバス朝カリフ・マームーはこの派を公認するが、やがて異端とみなしていく。
 10世紀の半ばになると、イスラム世界にはスンニ派とシーア派が異なったイデオロギーとして明確な形で定着してくる。スンニ派はコーランとハーデスを絶対的な「神意」とし、倫理と社会秩序の究極的根拠とみなした。これに対しシーア派はコーランとハーデスを「宇宙論」の根拠とみなし、そこから哲学的意味をくみ取ろうとした。神か、宇宙の絶対者か。スンニ派とシーア派はしばしば対立した。世界観の確立を欲する哲学者たちの多くは、シーア派神学のもつ宇宙論的傾向に親近感をもち、シーア派に接近する。このためにスンニー派の神学者たちは、哲学に対しいっそう激しく攻撃を加えるようになる。神学と哲学の対立である(6)。


(イスラム哲学に影響を与えたアリストテレス)

 

 


1 S氏のここの部分の説明は簡単だったが、簡単な話ではないので少し補足しておきたい。
 カトリック神学では、神学全体を教義学(キリスト論・教会論・人間論)と実践神学(典礼・倫理・霊性・教会法)に分け、歴史神学や聖書神学、宗教哲学(諸宗教論・啓示論など)はマイナーな位置づけのようだ(阿倍仲麻呂『カトリック神学の体系』)。S氏は、カトリック神学の概要を別に紹介している。次回にでも触れてみたい。
 プロテスタント神学では、神学は組織神学・実践神学・聖書神学・歴史神学に大別され、中心は組織神学となる(組織神学という用語はsystematic theologyの訳語のようだ。もともと歴史神学と対比される用語らしく、神学を歴史的に見るのではなく体系として見るという意味らしい。体系的な神学ということか)。組織神学はその中に教義学(dogmatics)・弁証学(護教学 apologetics)・倫理学(ethics)の3部門を持つという(北森嘉蔵『キリスト教組織神学事典』中の組織神学の項目)。
 日本語の日常用語では護教論とは否定的な意味で使われる場合が多いので、なにか別の訳語が欲しいところだ。護教論とは元来はキリスト教の真理を外に向かって弁証する学問を意味する。日本のプロテスタント神学では弁証法神学、さらにはバルト神学のことを指す場合が多いようだ。
 S氏はここで日本のカトリックの護教論の代表例として岩下壮一師の名前を挙げていた。確かに岩下神学はネオトミズムそのものだが、カトリック護教論の代表と見なして良いかどうかは議論が分かれるところだろう(『カトリックの信仰』『信仰の遺産』『岩下壮一全集』)。
2 S氏は、「そもそもイスラムの教義は比較的簡単、単純であり、多くの思索活動を要しない」と述べているがこれは少し言い過ぎであろう。教義が単純であるからこそ、日常生活上の倫理や実践との整合性が常に問われてきたともいえないだろうか。
3 配付資料には「教義の体系化による異端に対する護教論」とある。これは紛らわしい表現だ。教会やウンマ内部の異端を論破する学問は「論争学 Polemik」と呼ばれ、「護教学 Apologetik」とは区別される。弁証学(護教学)は批判の対象を外部に求める。
4 ハーリジー派(ハワーリジュ派)とは、イスラム教成立初期に生まれた党派。第4代正統カリフのアリーとマーウイアの争いの際にアリーの妥協的姿勢に反発して離脱した強硬な過激派。
5 予定説とは救われる者と救われない者があらかじめ決まっているという考え。スンニ派とシーア派では理解が異なるらしく、現在は、スンニ派では予定説を認め、シーア派は予定説を拒否するという。
6 敢えて言えば、イスラム神学はスンニ派、イスラム哲学はシーア派が好んで使う用語といえようか。イスラム哲学はギリシャ哲学を用いてイスラムを解釈した。アラビア経由でヨーロッパに伝えられたアリストテレス(前384-322)はやがてキリスト教神学を大きく変えていく。12世紀のスコラ哲学はここにギリシャ哲学の深い刻印を受ける。また、イスラム哲学はイスラム神秘主義(スーフィズム・タッサウフ)と結合して、シーア派の世界で独自の神秘哲学(ヒクマ)として発展していく。現在のイランはいまだその渦中にあるようだ。

 

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シーア派は異端か(その2) ー イスラム教概論13(学び合いの会)

2021-07-04 11:38:20 | 神学


Ⅵ 宗派(正統と異端) ー スンナ派とシーア派その他

2 シーア派 Shia

2-1 シーア派とは何か

 「シーア」とは「党派」を意味する。シーア派はもともと「シーア・アリー(アリーの党派)」と呼ばれた。「アリーを支持する党派」という意味のようだ。ムハンマドの後継者(カリフ)はムハンマドの従兄弟で、ムハンマドの義理の息子となったアリーおよびその子孫だけであると主張する一派である。現在は、カリフではなく、イマームを指導者とする(1)。
 シーア派は現在はイラン、アゼルバイジャン、バーレーン、イラクでマジョリティのようだが、イラン以外の国には当然スンニ派もいる(2)。

2-2 シーア派発生の経緯

 ムハンマドは、預言者(宗教指導者)であり、同時に軍事指導者(政治指導者)であった。ムハンマドの死とともに預言者の役割は終了した。ムハンマドは最後の預言者なので、かれの死後預言者は現れない。だが政治指導者の役割は誰かが引き継がねばならなかった。カリフ(代理者・代理人)の登場である。
 アリーはムハンマドの従兄弟で、娘婿で、最初からの信者で、ムハンマドに最も近く、初代カリフにアリーを推すグループがあった。だが、選挙でアブー・バクルが初代カリフに選ばれた。バクルはムハンマドの親戚以外では最初のイスラム教徒であった。

 カリフ Caliph(英)あるいは ハリーファとは、ムハンマド亡き後のイスラム共同体の指導者で、「預言者ムハンマドの代理人」のことである。実際には宗教指導者と政治指導者の両方の役割を持った。やがて10世紀にかけてシーア派はカリフの権威を否定していき、またファティマ朝などがカリフを称するようになると、カリフがスンナ全体を指導することは出来なくなり、力を失っていく。
 1258年にモンゴル帝国によってアッバース朝のカリフが処刑されると、カリフ制は事実上消滅する。オスマン帝国の時代にはスルタンがカリフであるとされたが、これもオスマン帝国の滅亡とともに1924年頃にはカリフ制は消滅する。少し年表にまとめてみよう。

 シーア派ではイスラム教の歴史的発展は三段階に分けて説明されることが多いという。

①第1期 ムハンマドの死(632)から「第12イマームの幽隠」(3)まで、およそ7-9世紀 シーア派はアリー以前のカリフを認めず ウマイヤ朝やアッバス朝と対立した
②第2期 イスマーイール派(7イマーム派)の発展と衰退 12イマーム派の整備 およそ10-15世紀
③第3期 「12イマーム派」の国教化(1501)から現代まで およそ16世紀-21世紀

 第1期を少し具体的に見てみよう(4)。

632年 ムハンマド死去 アブー・バクルが初代カリフに就任
634年 アブー・バクル死去 ウマルが第2代正統カリフに就任 大遠征で領土拡大
644年 ウマル死去 ウマイヤ家のウスマーンが第3代カリフ就任 ウマイヤ家はメッカの大商人で最後までムハンマドに反抗した ウスマーンは政権を私物化した
656年 エジプト兵500人がメッカに侵入し、ウスマーンを暗殺する やっとアリーが第4代カリフに就任する すでにムハンマド死後24年が経過していた
657年 ウマイヤ家のマーウイアがアリーをウスマン殺害の黒幕として非難し、スイツフィーの戦いとなる アリーは戦いは有利だったが停戦を受諾 停戦に不服の一部がアリー派を脱退し、ハワーリジュ派となる
659年 アリーとハワーリジュ派が対戦 ハワーリジュ派敗北
661年 アリーはハワーリジュ派により暗殺される ウマイア家のムアーウイアが第5代カリフ就任 ダマスクスにウマイア朝を創設する(661-750) アリー派はアリーの死後次男のフサインを代表とし、ウマイヤ朝と対立する 正統カリフは第4代までとなる
680年 カルバラ事件(フサインはカルバラ(現イラク)でウマイヤ朝軍に惨殺される) これはムハンマドの孫がイスラム共同体により殺害されるという考えられない重大事件であった
 これより、アリー・フサインのグループはシーア派としてウマイヤ朝に反抗する別の宗派となっていく。

 つまり、スンナ派とシーア派の対立は、教義をめぐる対立ではなく、ムハンマドの後継者をめぐる政治的権力闘争であった。
 今日でも、毎年、ムハッタム月(一年で最初の月 ヒジュラ暦の1月)の10日にはカルバラでのフサインの殉教を追悼して盛大な祭りがおこなわれるという(「アーシュラー」と呼ばれるようだ)。シーア派の宗教感情が最高潮に達する宗教行事だという。

 

アーシュラー(「泥まみれ」の祭り)

 

 

2-3 イマーム imam

 イマームとはイスラム共同体の指導者を意味する。スンナ派とシーア派ではその意味するところが異なるようだ。イマームには4つの意味があるという。

①集団礼拝の指導者(聖職者ではない)
②スンナ派ではカリフと同義語
③シーア派では最高指導者はアリーの子孫に限られる カリフとは異なり、教義決定権と立法権を有し、不可謬とされる
④スンナ派では学識が優れた学者の尊称

 イマーム論はイスラム神学の中心テーマらしいが、要は、シーア派ではイマームは全権を持つ最高指導者であり、スンニ派では数多くの指導者のなかの一人にすぎないとされるようだ。

2-4 シーア派の主要分派

①12イスマイール(イマーム)派(イラン) 最も有力な宗派
②ザイド派(イエメン スンナ派に近い)
③イスマイール派(インド パキスタンなど)
④ドウルーズ派(レバノン)
⑤アラウイー派(シリア) 現在のシリアのアサドが属する宗派 シリア人口の1割程度しか占めていないが政権の座にある 教義上はイスマイール派・マニ教・キリスト教の影響を受けているという 土着宗教の影響で女性の魂を認めず、輪廻転生思想を持つらしい 極めて異端的だという
⑥ハワーリジュ派 657年にアリー派から脱退したグループ この派は信仰と行為を不可分とし、背教者を殺害する 歴史的に散発的に反乱を起こし鎮圧されるが、今日でも、北アフリカ・オマーン・トリポリ・ザンジバルなどにイバート派として少数残存しているという この派は狂信的でゲリラ活動やテロ行為に傾くという(5)。 

 このように様々な分派があるが、アリーだけはこれらシーア派の諸分派が共通してイマームとして認めているという(6)。


イスラム教の主要な宗派 (7)

 


1 したがって、イマームの意味はスンニ派とシーア派では異なる。スンニ派からみればイマームは単に部族や集団の1指導者にすぎないが、シーア派では最高指導者と位置づけられる。
2 3割前後らしい。といっても、バーレーンやイラクのように人口上のマイノリティのスンナ派が権力を握ってシーア派を支配することもあり、一概には言えないようだ。また、スンナ派とシーア派のどちらが正統でどちらが異端かは視点による。単に信者の数だけでは判断できない。
3 いわゆるイマームの「お隠れ」だ いつかこのイマームが「再臨する」という期待がシーア派のエネルギーの源だという 現在のイランの国教である12イマーム派では、12人のイマームの存在を認め、12代目のイマームであるムンタザルは人間界から一時的に姿を隠し、シーア派が衰退したとき再び姿を現すとされている。現在のシリアのマジョリティーはイスマイール派といわれるが、これは「7イマーム」派のことのようだ(7代目を最後のイマームとする)。その他のイスマイール派は7代目以降のイマームも認めているという。
4 これはS氏による要約である
5 なお、アフガニスタン・パキスタン周辺のタリバン、対立するアルカイーダなど過激派組織は基本的にスンニ派系統だという イスラム原理主義というより民族・部族の違いが大きいようだ
6 「シーア派の三日月地帯」(レバノン・シリア・イラク・イエメンなど)と呼ばれるように、革命後のイランはシーア派勢力の拡大を図っている。レバノンのヒズボラ、イエメンのフーシ支援、シリアのアサド政権、イラクのシーア派はイランの影響が浸透していると言われる。
7 出典は『図解宗教史』成美堂 2015 なお各宗派の特徴の表現は監修者の塩尻和子氏らによる。  こういうウンマ(イスラーム共同体)の理解の仕方をめぐる分派の形成は、それではウンマは「教団」なのかという問いを促す。イスラム教にはキリスト教のような教会は存在しないとよく言われる。ではウンマや宗派は教団ではないのか。かってE・デュルケーム(社会学者)は「教団(教会組織)を持たない宗教はない」と言った。宗教を魔術や呪術から区別することは重要だが、教団の定義次第だろう。教団を体系化した教義や聖職者の階統制を持つ組織というならイスラム教には教団は存在しないと言えそうだし、教団を信仰者の集まりというならイスラム教の各宗派も教団と言えそうだ。

 

 

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