カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『使徒信条を詠む』(神学講座)

2017-08-02 10:11:09 | 神学

 ベネディクト16世著『イエス・キリストの神』を取り上げた神学講座は前回で一応終わりました。H神父様は、7月の神学講座はお休みで、9月からは新しいものを読み始めたいと言われた。いくつか候補がおありのようだが、特に推薦されたのが阿部仲麻呂『使徒信条を詠む ーキリスト教信仰の意味と展望ー』 2014 教友社)である。9月からの講義に備えてどんな本なのか夏休み中に少し覗いておきたい。

 著者の阿部仲麻呂師はサレジオ会の司祭(1968生まれ)で、教義神学の専門家であり、著名なカトリック神学者とのことである(注1)。わたしは師の著作をまだ読んだことがないので、良い機会が与えられたと喜んでいる。
 「この自分がキリスト者であるとは、いったいいかなることなのでしょうか」。こういう刺激的な「問いかけ」から本書は始まる。自分はキリスト者としてなにを信じているのか、なにをしているのか、という問いはクリスチャンすべてに共通するだろうから、この問いは重い。阿部師は、「キリスト教信仰の内容を知るには『使徒信条』が基本になります」と述べ(14頁)、使徒信条を信じることこそこそ我々の信仰の中枢であるという。
 カトリック教会のごミサでは最近「信仰宣言」では「使徒信条」のかわりに「ニケア・コンスタンチープル信条」を唱えることになったが、使徒信条は長い間唱えてきたためにいまでも唱えることができる。短いから暗唱しやすかったのであろうか。洗礼式の信仰宣言の方はもっと短いので覚えやすかった。ニケア・コンスタンチノープル信条は長いので暗記しきれずで、わたしなんぞはいまでもラミネートカバーのお祈りカードを使っている。使徒信条よりニケア・コンスタンチノープル信条のほうがイエスの「神性」を強調しているからこちらを使うことになった、という話は聞いているが、暗唱できるまではもう少し時間がかかりそうだ。本書でも使徒信条とニケア・コンスタンチノープル信条の比較検討が第5章でなされている。(私どもの教会では、「平和を願う祈り(アシジの聖フランチェスコ)」、「司祭の召命を願う祈り」も唱えるが、どちらも長いお祈りで、いまだ暗唱できない)。

 では、使徒信条とは何なのか。それは、基本的には西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント)で使われ、東方教会ではあまり使われないようだ。日本のプロテスタント教会でも使っていないところが結構あるらしい。その成立の歴史的経緯は本書で語られる。

 さて、本書の構成である。

はじめにー三位一体論にもとづく『使徒信条』の註解をめざして
第1章 前提・主題と方法論・背景ー「信仰年」に『使徒信条』を理解し直す
全7講
第2章『使徒信条』の解釈ー三位一体の神と出会う人間の救い(キリスト教信仰の意味)  第1節 三位一体の神ー人間からの信仰告白=感謝と賛美の祈り  全7講
第2節 人間の救いーあらゆる人間にとっての救いの諸要素への同意=教会共同体的 な愛のあかし  全5講
第3章 現代的可能性ー『使徒信条』を生きる(キリスト教信仰の展望)  全5講
第4章 番外編ーキリスト教信仰を理解し直す  補足4項 付録10項(全14留 つまり十字架の道行き)

 内容は講義だ。基本はカトリック鷺沼教会での信仰講座での講義(24回分)が中心で、若干の雑誌記事(14本)が書き直されて転載されているようです。466頁におよぶ大著であり、一気に読みと通すというわけにはいきません。師の専門は教父時代の三位一体論ということで内容も高度なようだ。

 さて、本書の中身に入る前に、「使徒信条」そのものを確認しておこう。使徒信条は12節からなっている。、これは12使徒がひとり一言ずつ言った言葉をまとめたものだという伝承があるからだという。

①まずペトロが「わたしは全能の父である天地の創造主である神を信じます」と言った
②つぎに、アンデレが「父のひとり子である唯一の主イエス・キリストを信じます」と言った
③つづいてヤコブは「主は、聖霊によって身ごもったおとめマリアから生まれました」と述べた
④ヨハネは、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架にかけられ、葬られました」と言った
⑤するとトマスは、「陰府に降り、三日目に復活し」と言った
⑥ついでヤコブが、「天に昇って全能の父である神の右の座に就き」と言った
⑦フィリポは、「生ける者と死せる者とを裁くために来られます」と述べた。
⑧バルトロマイは「私は聖霊を信じます」と言った
⑨マタイは、「聖なる普遍の教会、聖徒のまじわり」と述べ、
⑩シモンは「罪のゆるし」と言い、
⑪タダイは、「からだの復活」といい、
⑫最後にマッティアは「永遠のいのち」と言った。

 これはもちろん伝承なのだろうが、この伝承はすでに4世紀頃にはあったという。よく知られた話なのだろう。いろいろ考えさせられる伝承ではある。

 さてその使徒信条であるが、阿部師はつぎのような「私訳」から本書を始めている。

①私は信じます、天地の創造主であるぜんのうの御父である神を、
②そして私は信じます、御父に独り子である私たちの主イエス=キリストを
③主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、
④ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死に、葬られ、(よみに降り)
⑤三日目に復活し、
⑥天に昇り、全能の御父の右の座に就き、
⑦生ける者と死せる者とを裁くためにかしこより来られます。
⑧私は信じます、聖霊を
⑨聖なる普遍の教会を(、聖徒のまじわりを)
⑩罪のゆるしを
⑪からだの復活を
⑫永遠のいのちを。アーメン。

 師によると、「よみに降り」および「聖徒のまじわり」という表現は西方教会の写本のみに伝承されていて、東方教会の版には見られないという。東方教会は使徒信条を否定はしていないが日常的に唱えてはいない、ということなのであろうか。師が私訳を使われる理由もいずれ明らかにされるだろう。

この師の私訳を我々がふだんごミサで使っている使徒信条と比較してみよう。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン (2004年認可)

こちらは口語調で唱えやすいとも言えよう。

 私たちがむかし暗唱していた使徒信条は少し違う。

われは天地の創造主、全能の父なる主を信じ、
またそのおん独り子、われらの主イエズス・キリスト、
すなわち、聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、
ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、
十字架につけられ、死して葬られ、
古聖所にくだりて、三日目に死者のうちよりよみがえり、
天にのぼりて全能の父なる天主の右に坐し、
かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために
来たりたもう主を信じたてまつる。
われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功、つみのゆるし、肉身のよみがえり、
終わりなきいのちを信じたてまつる。(『祈りの手引き』1971)

 現在のものとは言葉というか単語(訳語)が異なるものがある。イエズス、天主、童貞、管下、古聖所、公教会、通功、肉身などだ。イエズスからイエスへの変化はよく知られているが、そのほかも結構変化していて自分でも驚く。第二バチカン公会議以前は、「聖なる公教会」は「聖公会」と唱えていた(岩下壮一『カトリックの信仰』1949 53頁)。いまは聖公会といったら アングリカン・チャーチ のことしか思い浮かばない。
ついでに英訳をみてみよう。英語では Apostles' Creed と呼ばれるようだ。

I believe in God, the Father almighty, Creator of heaven and earth.
And in Jesus Christ, His only Son, our Lord, Who was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary, suffered under Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried; He descended in hell; on the third day He rose again from the dead; He ascended into heaven and is seated at the right hand of God, the Father almighty; from there He will come to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.

すぐに気づくのは、catholic Church が「普遍の教会」と訳されていることだ。当然と言えば当然だが、プロテスタントで納得しない人も多いらしく、「公同の」という訳をとる教会・教派もあるようだ。

では、さっそく本文に入ってみよう。


とはいっても、著者は本書を、2012・10・11~2013・11・24に開催された「信仰年」を契機に上梓したと言っているので、この信仰年が何だったか少し思い起こしてみよう(第1講 キリスト者の心構えと生き方ー信仰年によせて)。この行事は当時の教皇ベネディクト16世が発布した自発教令『信仰の門』の呼びかけに基づいていた。同時に、2012年10月11日は、①第二バチカン公会議開催50周年で、かつ、②『カトリック教会のカテキズム』発布のの20周年、だったからだという(注2)。
 最初の信仰年はパウロ6世によって1967~68に開催されたという。第二バチカン公会議直後であり、しかも米ソ冷戦のさなかであり、混乱の中で終わってしまったようだ。ですから今回の信仰年の意義はとりわけ大きいというのが著者の考えのようだ。

 では「信仰」とはなにか。著者は、名誉教皇ベネディクト16世にならって信仰とは「神への信頼感」のことだ、と言う。著者はベネディクト16世を神学者としてもいたく尊敬しているらしく、本書もラッチンガー神学をみているようである。この「信仰とは神への信頼感のこと」という主張は本書に一貫して流れており、著者の深い思いのようだ。「人間は自力では信仰を獲得できません。むしろ、神からの恵みによって信仰が芽生えます」。信仰とは、「たいせつな相手といっしょに生きてゆくときの連帯感」だという(25頁)。
 こういう前提の上に著者は第一部で本書の方法論を展開していく。しかしここではこの方法論を飛ばして、第二部の、使徒信条各節の解釈そのものにすぐに入ってみたい。神父様の神学講座も同じように進むことを期待したい。方法論はあとから書かれたようだ。

注1
 教義神学とは「教義の形成の歴史的経緯を批判的に追いながら、そこに教会の生きた信仰の伝統による正統な聖書の解釈を確認し、それを現代社会の文脈の中でふさわしく提示すること」と定義されている(岩波キリスト教事典 執筆者は百瀬文晃師)。阿部師は、具体的には、神学部のカリキュラムとしては、教義神学は以下のものを含んでいると言っている。①秘跡論(エキュメニズムを含む) ②教会論(マリア論を含む) ③三位一体論(教父学・キリスト論を含む) ④終末論(神学的人間論を含む)。実践神学には、①典礼 ②倫理 ③教会法 ④霊性 ⑤宣教 があり、これら以外に、諸宗教神学・歴史神学・聖書学・哲学 があるという。司祭になるための哲学2年・神学4年の勉強は大変そうだ。

注2
この時の信仰年はベネディクト16世により制定されたものをさしている。信仰年開催の告示は、教皇の自発教令『信仰の門』においてなされた。その冒頭で、ベネディクト16世は次のように述べているという。

「信仰の門は常に私たちに開かれています。それは私たちを神との交わりの生活へ と 促し、神の教会へと導き入れてくれます。神のことばが宣べ伝えられ、私たちを 作り変える恵みによって心が形づくられるとき、私たちはこの門を通ることができま す。この門に入ることは、生涯にわたって続く旅に出発することです。この旅は洗礼 によって始まります。・・・そして旅は、死から永遠のいのちに過ぎ越すことによっ て終わります」。

 

 

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