カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

映画「沈黙」を観る

2017-01-27 21:08:59 | 神学

 M.スコセッシ監督の映画「沈黙」を観てきました。観る前に思っていたよりも印象深い映画でした。「良い映画」といえるかどうかは、エンターテイメント映画としてみるのか、小説の映画化として成功しているのかとか、俳優は適役だったかとか、いろいろな角度からの評価があるのだろうから、わたしにはなんともいえない。カト研のみなさまとも映画鑑賞後の感想を語り合ってみたいものである。
 映画を観る前は、遠藤周作の原作は改めてもう一度軽く読み直してあったので、あれこれと予想というか、視点をはっきりさせておこうと思ってメモ風のものを書いて持っていった。
1 スコセッシ監督はこの遠藤周作の「沈黙」をどう理解したのか
2 監督はこの映画を通して何を訴えたかったのか メッセージはなにか、または特定のメッセージを伝えない選択をしているのか
3 観客は誰を想定しているのか、日本人か欧米人か、クリスチャンかノンクリスチャンか、カトリックかプロテスタントか
4 宗教映画(救済論)なのか 日本文化論なのか
5 遠藤周作の神義論(神はなぜ黙っているのか)を監督はどのように説明しているのか6 遠藤は「沈黙」は「神が黙っている」という意味ではなく、「沈黙の声」を話しているといっているが、監督はそれをどう表現するのか
7 ジョンストン師の英訳をどう読んだか、脚本は成功しているか
8 ストーリーは小説そのものかそれとも大幅な変更がなれているのか
など、など、いくつか知りたいことを心に抱きながら観た。観客もそれなりに多かった。
 結果、観て良かった、と思った。答えや結論のある話ではないし、また、楽しい話でもない、でも、なぜ現代日本でカトリックが信仰集団としてこれほどマイナーな存在なのかを、遠藤ではなく、イタリア系アメリカ人スコセッシが考えているかを、知ることができた。映画の最後のキャプションに「日本の司祭と信徒のために」と出てきたときはほっとした。バックグランドで流れる、蝉の声、海の音、がスコセッシ監督が考える日本の「自然」なのかもしれない。
 「日本は泥沼の湿地だ」という遠藤の命題は、遠藤自身が歳を重ねるにしたがって変化してきていると思われるので固定的に捕らえるのは危険だ。しかもこの本が発表されたのは1966年だ。書かれたのは1960年代初頭だろう、60年安保直後の頃だ、そして描かれているのは1600年代初頭。関ヶ原から島原の乱に至る時だ。1960年代当時、フェレイラを、ジュゼッペ(ロドリゴ)を「転んだ棄教者」として見なす雰囲気があった。かといって、遠藤周作のように、訳者のジョンストン師のように、彼らに近づきすぎることも、「沈黙する神」の望むところではなかったであろう。
 遠藤は言う。

踏むがいい、お前の足は今、痛いだろう。
、、、、、、
わたしは沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだ

(昭和41年 新潮社 初版 247頁)

ジョンストン師はこう言っていた、
主は人類の歴史に介入しない。主は言う、あなたが苦しむとき、わたしも苦しん でいる。

 この意味で言えば、この映画では訳者や訳本(20数カ国語に訳されているという)に言及がない、映画館で購入した分厚いパンフレット(解説本)にもなんの言及もない、不思議と言えば不思議である。今は亡きジョンストン師の生涯を思い起こすとき、ロドリゴの世界は昔話ではない気がしてくる。
 キャストや監督の采配にあれこれ感想を述べる力はわたしにはない、主役のA.ガーフィールドなる者も、井上築後守役のイッセー尾形、モキチ役の塚本晋也監督も、力演だったのだろう。デジタル映像ばかりの近年の映画に比べれば、台湾のロケーション撮影は美しい。話は重いが絵は美しい。
 この美しい映像は、昨年(2016年4月)イタリア人宣教師シドッチ(~1714)の遺骨が文京区のキリシタン屋敷跡から偶然発見されたことを思い起こさせる。シドッチの場合は相手は新井白石であった。ロドリゴの相手は井上築後守だった。二人の間には半世紀の時間差しかない。潜伏キリシタンと隠れキリシタンの分岐はこの頃始まったのであろうか。
 スコセッシ監督はこの映画を撮る経験を通して、再びカトリックの信仰に戻ったのだろうか。遠藤周作は生前この映画について監督と語り合ったという。ジョンストン師がもしこの映画を観れたらどういう印象を持たれただろうか。
 と、まぁあれこれと思いが湧いてくる。この種の映画はやはり誰かと一緒に行って、コーヒーでも飲みながらあれこれと感想をしゃべりたくなる。そういう意味では「良き映画」と言えるだろう。
この映画を観て一人でも教会に足を運ぶ人が生まれれば、映画は成功と言えるだろう。
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ヨハネ福音書の主要な象徴:水・ぶどう・パン・牧者

2017-01-23 17:53:43 | 神学

 2017年1月の「学び合いの会」は厳寒の23日に開かれました。あまりの寒さの故か参加者は8名にとどまりました。過去数回ヨハネ福音書について学んできた流れで、今回は、ベネディクト16世著里野泰昭訳『ナザレのイエス』(2008・春秋社)をベースに、ヨハネ福音書における主要な象徴である水・ぶどう・パン・牧者の4つが一つ一つ取り上げられ、その象徴的意味が説明されました。
 ベネディクト16世『ナザレのイエス』は三部作で、第二部は「十字架と復活」、第三部は「イエスの幼年時代」と題された大著で、本書はその第一部ということになる。カト研の例会でもむかしMさんによってこの本の重要性が紹介されたことがあったように記憶している。
 本書は基本的には「史的イエス研究」の一つと見なしうるだろうが、既存の聖書学者によるイエス伝とは大きく異なる。ベネディクト16世は、「史的イエス」と「信仰のイエス」を切り離すことに強く抵抗し、全く新しいアプローチをとる。具体的には、ヨハネ福音書を史的に読み解くことによって、旧約と新約の読み比べ作業の中から、生きたイエスを描き出そうとする。教皇になった後でもかれがこういう研究を続けていたことに、今更ながら敬服の念を抱かざるを得ない。
 報告は4つの象徴が順番に取り上げられ、それが持つ意味が細かく紹介された。4つの象徴と言っても、水はいかなる宗教でも象徴的意味をもってあつかわれているが、ぶどう・パン・牧者〈羊飼い)は砂漠の宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)の象徴である。日本ならさしづめ稲・米・かかしならなじみがあるが、ぶどうだ、オリーブだ、羊だとなるとちょっとなじみがない(オリーブはヨハネ福音書にはでてこない)。また水も、日本ではあまりにも豊富に存在するが故に、その希少性が徹底的にあがめられる砂漠の宗教の感覚はなかなか肌身で感じ取ることが難しい。
 まず水は、泉という形では物事の清さ、純粋さの象徴となる。川という形では、ナイル河であれ、チグリス・ユー不ラティス河であれ、ガンジス河であれ、生命の与え主とされる。他方、海はなにか壮大で恐れられる存在で、場合によっては悪魔の印象を与えることもあるようだ。
 ヨハネ3-5~7はイエスとニコデモとの対話だが、水による生まれ変わりが洗礼なのだとされる。また、ヨハネ4-13~15はサマリアの女との対話だが、その水を飲むものは乾くことがないとして、救いのシンボルとされる。
ヨハネ19-31~34では、血と水が聖体と洗礼を表すとされる。ヨハネの手紙Ⅰ 5-6~8では、イエスの十字架上の死がとりあげられ、グノーシス主義・仮現説が批判される。生身のイエスを見よというのだ。グノーシス主義の知的魅力は現代でも強いが、ベネディクト16世の姿勢は一貫している。当然と言えば当然だが、名誉教皇からこういう言葉を聞くとなにか安心する。
 旧約でも、出エジプト記17-4~7,エゼキエル47-1~4,ゼカリア13-1~2、黙示録22-1~2などで、水が登場する。イエスは自らを生ける水、天からのパンとする。
 第二の象徴はぶどうの木と葡萄酒である。ヨハネ2-1~10はカナの婚宴の話だが、冒頭「三日目に、」とくる。何の三日目なのだろう?これは神の顕現の時、イエスの時、栄光の時、の先取りなのだという。葡萄酒は律法の完成を象徴しているのであろう。
ヨハネ15-1~8では、「イエスは真のぶどうの木」という。イエスと信者との一致を述べており、きわめて教会論的で、詩編80-15~17が下敷きのようだ。パウロのキリストの体を思いおこさせる。ヨハネのこういう論の運び方はとてもパウロ的だ。イェルサレムにとどまったペテロら主流派の使徒たちと激しく対立しながら、パウロはキリスト教をユダヤ教から切り離し、異邦人の世界へ広く開放していく。一応は主流派から断絶されないために旧約の関係箇所を引用したりするが、ヨハネが、パウロが、見据えていたキリスト教の世界はなにか別のところだったのであろう。
 第三の象徴はパンである。ヨハネ6-1~15は例のパンの増加の奇跡の話である。この奇跡話は福音書には6回も出てくるそうで、そのうちマタイとマルコには二回づつ出てくる。誰にもよく知られた有名な奇跡話だったのであろう。ヨハネ6-48~51ではイエスは命のパンとされる。モーゼと対比されながらマンナと聖体が比較される。モーゼは神を見ることができなかった。神から来た者のみが神を直視できる。ヨハネ12-24で一粒の種パンのなかに受難の神秘が隠されていると述べられているとはいえ、イエスは命のパンであるという考えがすでにはっきりと成立しているわけだ。
 第四の象徴は牧者である。牧者とは羊飼いのことだが、この時代のこの地域の人々にとっては牧者とは「王」の象徴である。王というと、日本語〈漢字)ではなにか支配者とか抑圧する者とかのイメージが付着しているが、聖書の世界では王とは弱者への心遣いを象徴している。現在の教会でも、牧職は王職とも呼ばれる。旧約で言えば、エゼキエル34-1~5はイスラエルの牧者を語り、ザカリア13-7~8は羊飼いを撃てと、マタイ26-31と対比的である。ヨハネ10-3~5は羊の囲いの譬えであり、牧者と羊は互いをよく知っている者として描かれる。ヨハネ10ー7~10ではイエスは良き羊飼いと呼ばれる。ヨハネ10-11~13では良き羊飼いは羊のために命を捨てるといわれ、十字架が暗喩される。ヨハネ10-16では羊の囲いに入っていない羊もイエスが牧するという。広くは教会一致のテーマにつながり、イエスを知らずに生まれ、死んだ者も、イエスはすべての人の牧者なのだから、みな一つにしてくださる、と結ばれる。
 というわけで、四つのシンボルが取り上げられたわけだが、水はすべての世界宗教のシンボルではあるが、ぶどう・パン・オリーブ・羊はどれも地中海海域に固有のシンボルである。あちらの世界の物事だから日本には関係ないと目を背けるのではなく、これらが指し示している普遍的メッセージを読み取っていく必要がある。これは、日本の文化が持つ豊かな伝統と象徴も、その個別性・特殊性を強調するだけではなく、むしろそれが持つ普遍性を明らかにし、世界に向けて伝えていくことが重要なのと同じことなのだ。ヨハネ福音書は読み応えのある福音書のようだ。

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