カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マリア神学は教皇至上主義の支柱か ー 聖母マリア(7)(学びあいの会)

2022-03-30 11:17:01 | 神学


2 マリア論の展開

 マリア論とは教義神学の一つで、マリアへの信仰や崇敬を対象として教義神学の中に位置づけようとする。歴史的経緯から実践神学としては教会論の中に位置づけられ(1)、また、教皇至上主義を擁護する議論として考えられてきたようだ(2)。
 マリア論 Mariologia という用語は、17世紀初めのニジド著『マリア論大全』(1602)で最初に使われ、19世紀には定着して用いられるようになったという。
 とはいえ、古代中世にもマリアを扱った著作は多い。たとえば、トマスなど中世のスコラ学者たちはマリアを受肉論のなかで扱い、中世の神学者スワレスも『キリストの生涯の秘跡』(1592)のなかでマリア論を展開していたという。おなじく、ペトロ・カニージオも『無比なる乙女マリア』(1577)のなかでマリアを論じているという。
 19世紀以降は、二つの教義宣言(1854年の無原罪の御宿り、19050年の聖母被昇天)に代表されるようにマリア信心が強調され、マリア論は頂点を迎えた。第二バチカン公会議(1962~65)以降今日に至るまでどちらかといえば抑制的アプローチが支配的である。
 第二バチカン公会議以降しばらくはマリア論に目立った進展はなかったが、1970年代以降、解放の神学とフェミニズム神学の登場により、マリア論は復活の兆しを見せ始めた。これらの議論は、従来のマリア論とは異なり、マリアの「人格的側面」に光を当てている。
 解放の神学は、長い間家父長制のもとで男性に従属していた女性の意識の目覚め・解放という観点からマリア論を展開している。マリアを、抑圧的家父長制社会に忍従した女性としてのみ描くのではなく、福音への希望に生きた人間として描いている。
 フェミニズム神学のマリア論は、神概念における男性イメージに対し、神の女性的特質を強調することでマリア論を展開している。ある意味で、伝統的キリスト教批判、聖書批判の傾向を持つようだ。この神学的立場では、マリアは抑圧された女性の代表でありながら、神の召し出しに答え、神によって解放された人間として描かれる。

3 マリア神学における諸教義

 この項は、すでに紹介した光延一郎師によるK・ラーナーのマリア論の理解にもとづいている(3)。ラーナーのマリア論の紹介といっても、光延師の解釈が色濃く反映されている印象を受ける

 光延師によれば、マリア神学の個々の教義(神の母・処女懐胎・終生処女・無原罪の御宿り・被昇天)をバラバラに見ていけば、現代人にはどれも荒唐無稽の話に聞こえよう。だが、これらの教義の成り立ちを追っていけば、全体を貫く統一的な意味が見えてくる。

3-1 神の母 (ラーナーの第5章)

 神の母マリアという思想は古くからある思想で、古代教会においてはキリストの受肉の意味をめぐる大論争に巻き込まれた(4)。「神の母」の意味はイエスの受肉がもたらす救いのの神秘にもとづく。すなわち、人間と神との間に立つ仲介者であるキリストは、神性と人性の両性を身につけることが要求され、そこにマリアの使命がある。マリアは受肉の秘儀にキリストの最も身近で最も深く関わった方である。それは神への絶対的従順の結果である。
 マリアの生涯は聖書には詳細には書かれていない。しかしルカはマリアの神への従順に着目して、すべての婦人の中で最も祝福された方と記している。マリアが神の母となられたことは、単なる肉体上の出来事ではなく、自由になされた人格的な出来事で、恵みに満ちた信仰上の行為として語られる。マリアは神と人類との対話の歴史である救済史上の役割を担っている。その意味ではわたしたちに関わるものである。
 「神の母マリア」はマリアに関するすべての教義の基本をなすものであり、そこから各教義が必然的に導き出されるのである。
 このような神の母マリアという教義は、キリスト論と救済論(5)との関わりを持ってくる。

3-2 乙女なるマリア (ラーナーの第6章)

 マリアの処女性はマリアが神の母であることの帰結である(6)。この考えは、旧約の「イスラエルの処女」「シオンの娘」の思想を引き継いだ古代の「使徒信条」のなかに見いだされる。最古の使徒信条では、マリアの神母性への信仰を「乙女なるマリアから生まれ ex Maria virgine )とはっきりと表明している。
 聖母は母であり処女である。なぜイエスは地上の父親を持たなかったのか。なぜみ言葉は人間の父親を持たずに生まれたのか。答えは、み言葉は神の子であるから。神の受肉は神の意志による。人間からの働きかけはあり得ない。それゆえ、人となった御子が人間の父親を持つことをお望みにならなかった。御子は神からのもので、この世からのものではない(7)。
 マリアはこの神の行為に自らを供された。主はこの世からの人ではなく、上からのものであるが故にマリアは処女である。マリアはその存在すべてを挙げて主の母であることを全うされた。ゆえに乙女であった。
 これは主の降誕以降も同様である。最古の信仰箇条に「三重の処女性」と呼ばれるものがある。

①出産前の処女性 Virginitas ante parpante
②出産時の処女性 Virginitas in partu
③出産後の処女性 Viriginitas post partam

 こうして、「永遠の処女性」 aei-partenos  の観念は、3世紀初めに東方で起こり、4世紀には西方教会にも広がり、5世紀には全教会の伝承となっていく(第二コンスタンティのポリス公会議 553年)
 この「永生の・永遠の処女性」という考え方は、受胎と誕生においてだけではなく、イエスの誕生後のマリアの生涯は常に「聖霊の働き」の下にあったと考えの基づいている。
 だが、批判や苦情は当初から会ったようだ。「イエスには兄弟がいた」(マルコ:31)事実と矛盾しているという批判だ。2世紀のヤコブの原福音書(外典)はこの点について、ヨハネは年長で前妻との間に子どもがいたがマリアと再婚したとの物語を作ることによって、イエスの兄弟問題を解決しようとした。また、ヒエロニムス(420年没)は、「イエスの兄弟姉妹」は文字通りに受け取るのではなく、聖書の言葉使いではいとこ同士のような親戚関係も兄弟姉妹と呼ばれたと説明して、この解釈は広く受け入れられたという。歴史的には、イエスに肉親上の兄弟姉妹がいたかどうかは不明とされている。
 この「永遠の処女性」が強調された意味は、実は「神の母マリア」の教義を拡大することにあった。永遠の処女性という教義は、歴史的に見れば、キリスト教では修道生活における童貞は結婚生活に勝ると考えられていたので、かれらからは婚姻の問題はそれほど関心を引かなかった。修道生活における「伴侶」とは神であったからだ。
 とはいえ、マリアの処女母性の思想は、ラーナーが強調しているように、結婚生活の価値を引き下げるものではない。旧約における「イスラエルの処女」「シオンの娘」は神との契約に忠実なイスラエルを表し、それは新約では「教会」に受け継がれているとされる。

 

乙女なるマリアのメダイ

 

 マリアの無原罪の御宿りと被昇天の教義に関するラーナー説は次回に回したい。

 


1 つまり、キリスト論の下位部門でも神学的人間論の下位部門でもない、という意味だ。もちろん実践神学だから教義的にはそれらと密接な関係にあるのはいうまでもない。というより、密接な関係にあることがマリア論の特徴でもあるようだ。だが、教義神学として一つの自立した部門を構成するほどではないようだ。
2 マリア信仰は、歴史的には、教皇の力が弱まった時(公会議の力が強まったとき)、より強く復活が叫ばれるようだ。公会議至上主義者はあまりマリア信仰を強調しないようだ。これはわたしの個人的印象で、S氏の主張ではない。
3 光延一郎編著 『主の母マリア ー カール・ラーナーに学ぶカトリック・マリア神学』(教友社 2021)
4 代表的なのは、キリスト論論争だろう。アタナシオスに代表される教会は、キリストは真の人間性を持たないという仮現説と対抗し、同時にアレイオスの異端説(仮現説とは逆にキリストは神性をもたない単なる被造物だという主張)とも対抗し、テオトコス論(神の母論)を整備していく。
5 救済論 soteriology とは、キリストによる全人類の救いの業を論じる神学の一部門。伝統的には、キリストによる救いの業と、成就した救いの業への人間の参与を区別して、前者を救済論、後者を秘跡論(恩恵論)と呼んできた。神学校の授業では、前者は神学的人間論の中で、後者は秘跡各論のなかで講じられているようだ。第二バチカン公会議以降、救済論の議論は活発化し、キリストの救いの業を受難と死にのみ限定する過去の視点が疑問視され、救いは、人間だけではなく、地球や宇宙を含む万物に及ぶという視点が強調されるようになったようだ。解放の神学やエコロジー神学の登場はその一例と言えよう。
6 あまりにも抽象的な命題で、すぐにはピンとこないだろう。どうして処女が母たり得るのか。「すべては神がなしていることだ」という信仰がないとこの教義は理解できない。理解できないことは何でも信仰の一言で無視してしまうと言う批判は誰にでもできる。それを承知でラーナーの声に耳を傾けてみたい。ラーナーは「信仰の眼差し」という言葉を使う。信仰の眼差しでみれば別の光景が見えるという。
7 ヨハネ5:30「わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」
 ヨハネ6-38 「わたしが天から下ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」

 

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マリアの「特権」とはなにか ー 聖母マリア(6)(学びあいの会)

2022-03-28 21:27:03 | 神学


 新型コロナウイルス対応で18都道府県に適用されていた蔓延防止等重点措置が3月22日に、全面解除された。当地では桜も満開を迎えた。だが当教会では4月も分散ミサが継続され、復活祭も皆でお祝いすることはできないようだ。ウクライナでの状況も予断を許さず、3月の学びあいの会も出席者の数は少なかった。

満開の桜

 

 

Ⅱ マリア神学とは何か

 大仰なタイトルだが、議論の視点を定めるためにも、一応最低限の了解事項を共有しておく必要があるということであろう。

1 マリア神学の基礎

 マリアは「神の母」であることがマリア神学の基礎となる。「母」であるとはどういうことなのか。
 神の救いの業とは、神が御子キリストの「受肉」(1)と「復活」および「聖霊」の派遣によって人間を神と和解させ、永遠の命を与えることである。キリストは神と人間との「唯一の仲介者」である。なかでもキリストの受肉において決定的な役割を果たしたのがマリアである。
 マリアの独特の役割とは、信仰と従順をもって、救い主の母となることを受け入れたことにある。だからマリアが神の母であるということがマリア神学の根本となる。これはやがてマリアの「特権」と呼ばれることになる。他の被造物が持ち得ない独特の役割とされる。
 受肉に関しては長く激しい論争が通じた(2)。これらの論争を通してわれわれが徐々に悟ったことは、マリアがなにか超人的な能力を有していたことではなく、常に神の呼びかけに答えた信仰によって、神の母に選ばれたことである。

 次のマリア論の展開は少し長くなるので次回に回したい。



1 受肉 incarnation とはわかったようであまりわかりづらい教義だ。かっては「託身」と呼んでいた。文字通り「身をかりる」との意味だ。ヨハネ1:14 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳。フランシスコ会訳だと 「み言葉は人間となり、われわれの間にすむようになった」)。受肉の明確な定義としてよく引用される。
2 特に、天から地上へ下降する啓示者ないしは救済者という考えを強調するグノーシス主義との戦いは、誤解を恐れずに言えば、現在でも決着がついていないともいえる。

 

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マリア信仰かフェミニズム神学か ー 聖母マリア(5)(学びあいの会)

2022-03-08 09:26:25 | 神学


Ⅴ 近・現代のマリア運動

 啓蒙思想の時代にはマリア信心は衰退したが、19世紀に入るとマリア信心は復活し始める。19世紀も近代と呼ぶなら(1)、この時代に多くのマリア大会が開催され、マリア関連の諸作が増え、マリア出現への関心が高まる。
 歴代の教皇に対して多くの国の司教からマリアを「恩恵の仲介者」と宣言するよう嘆願書が出される(2)。歴代の教皇たちはこの表現は誤解を招きやすく、エキュメニズムの思想に合わないとして永らく回避してきた。
 また、19世紀から20世紀前半にかけてマリア論者たちはマリアの「特権」を強調した。キリストについて当てはまることはマリアにも適用できるとして、マリアをキリストとの「共済者」として教義宣言するよう主張した。さすがこれは行きすぎたマリア信心だとして反省運動が起こり、第二バチカン公会議にまで議論は持ち越される。
 とはいえ現在でも、マリアは、「弁護者」・「扶助者」・「援助者」・「仲介者」など様々の称号で呼ばれている(3)。


19世紀以降歴代教皇のマリアについての発言(4)

 

Ⅵ 第二バチカン公会議 ー 20世紀のマリア

 1854年の「無原罪の御宿り」の教義宣言と、1950年の「被昇天」の教義宣言の間はマリア信心が最も高まった100年間だった。だが、特に被昇天の教義宣言には教会の内外から様々な批判が続いた。突然ヨハネ23世によって開かれた第二バチカン公会議ではマリア崇敬の扱いは紛糾し、以後マリア崇敬は極めて抑制的なものとなって現在まで続いている。光延師はマリア崇敬にとり第二バチカン公会議は「精神的な分水嶺を超えた歴史的出来事」(5)と呼んでいる。

 1965年から開かれた第二バチカン公会議では、600人を超える代表者がマリアをテーマとする護教的文書の作成を強く提案したという。これに対しフランスの司教を中心にこの文書案はあまりに近代主義的・合理主義的色彩が濃く、エキュメニズムへの配慮に欠けるとして反対した。独立した文書ではなく、教会に関する教令の中で述べるにとどめるべきだと新たな提案を出したという。長い議論の末決着はつかず、結局採決に持ち込まれた。評決の結果は、2193票中、賛成は1097票、反対は1074票、無効5票、という結果だった。わずか23票の僅差だった。こうしてマリアは『教会憲章』のなかで扱われることになった。この評決の結果を契機に、それ以前の過剰とも言えるマリア信心は穏やかなものに変わっていったと言われる。要はマリア信仰は衰退の道を歩み始めたのだ。

 こうしてマリアは第二バチカン公会議では、独立した教令や憲章としてではなく、『教会憲章』第8章で扱われることになった(6)。
 教会憲章は見ればすぐ解るように、最後の第8章がポツンと浮いて置かれている。全5節17条(項)からなるが、第8章の表題は「キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる乙女マリアについて」となっている。ごく当たり前の表現のように見えるが、よく考えると意味深長な表現だと気づく。従来のマリア論がキリスト型マリア論であったが、この第8章がここから教会型マリア論に変化していく契機となった。従来はキリストをモデルとしてマリアを考えてきた。この教会憲章はマリアを教会の中に位置づけることによって、より親しみやすいマリア信仰を目指したようだ。
 簡単に第8章をみてみよう。

序文(52~54条)
 マリアをキリストと教会との関係で論じる公会議の意図が述べられる。
52条 (キリストの神秘におけるマリア)
 キリストの救いの神秘との関連で、キリストの母として終生乙女なるマリアを敬わねばならない
53条 (聖なる乙女マリアと教会)
 「乙女マリアは、神である主の真の母として認められ、讃えられている・・・その信仰と愛において、教会の典型(象形 typus)、最も輝かしい範例(exemplar)である」
二 救いの歴史における聖なる乙女マリアについて (55~59条)
 聖書が聖母マリアについて語っていることを簡潔に要約している。マリア論の基礎となる聖書本文の解説である。
三 聖なる乙女マリアと教会
 前半(60~62条)はキリストの救いの営みにおけるマリアの役割を説明している。
 62条「マリアの取り成し」
  「マリアは仲介者だが、唯一の仲介者はキリストであり、マリアはキリストの尊厳と努力になにものも付加しない。」マリアの従属的立場が表明されている。
 後半(63~65条)は新しい教会論的マリア論が語られる。マリアは教会の「典型」であり「模範」であるとされる。
四 教会における聖なる乙女の崇敬
 (66~67条)
 マリア崇敬に関する教会の態度が要約されている。教会はマリアを模範とし、その取り次ぎを願うことを勧めているが、「崇敬」は、三位一体の神・御父・御子・聖霊・受肉した御ことばに捧げられる「礼拝」とは「本質的に異なる」としている。
五 旅する神の民にとって確かな希望と慰めのしるしであるマリア
 (68~69条)
 希望のしるしとしてのマリア、キリスト者の一致のためのマリア、が述べられる。

 全体として、神学者に対しては、マリアの役割に関して、偽りの誇張も、過小評価も避けるよう諭している。

Ⅶ 公会議後の動き

 公会議のあとマリア信心は冷却し、後退したと言われる。他方、多くのマリアの出現が見られ、マリア信心の復興を目指す動きもみられた。
 神学的にはマリアは「神学的人間論」のなかで論じられるようになる。K・ラーナーをその代表例とみてもおかしくはないだろう。
 文化的に見れば、マリア信心が各国で普及するにつれてその在り方に「アカルチュレーション」の影響が及んでくる(7)。
 また、教会憲章第8章マリア論にはロザリオについて言及がなく、信徒に激震が走ったようだ。マリア信仰は結局はロザリオの祈りに帰着する。ロザリオなしにマリア信心はありえない(8)。

 これらの信徒の動揺に対応するために、教皇パウロ六世は1974年に聖マリアの信心についての使徒的勧告『マリア ー リス・クリストス(聖母マリアへの信心)』を発表した。また、ヨハネ・パウロ二世は1987年に回勅『救い主の母』を発表した。特にヨハネ・パウロ二世は数多くの回勅、使徒的勧告、使徒的書簡を発表し、健全なマリア神学とマリア信心の在り方を示した。ヨハネ・パウロ二世以後マリア信仰には復活の流れが生まれたとも言われる。

Ⅷ フェミニズムとマリア論

 だが、マリア神学にとり最も大きな挑戦はフェミニズム神学の登場だろう(9)。マリアは、単に女性であるというより、信者の模範として、存在してきた。だが、そうはいっても、マリアはやはり女性として崇められている。男性の視点からのマリア像だ。イエスは男性だ。教会のヒエラルヒーは男性中心だ。教会のマリアのイメージは、女性の受動性・従順性の強調だ。
 フェミニズム神学によれば教会のこのような女性観は「エヴァ→マリア」図式が働いているからだという。イエスが男性で、マリアが女性であることを強調することにより、女性は男性の下にあり、受動的で、従属的だというイメージが作られてきたという。フェミニズム神学はこういうマリア像は、現実の社会の反映であり、教会における男女の位置の違いが解消されない限り改まらないだろうと主張しているようだ(10)。
 マリアの中に女性性のモデルを見るのか、それとも、「マリアの中に一人の自律した信仰者の姿」を見るのか(11)、マリア信仰は新たな出発点に立っているようだ。



1 マリア論から見れば、フランス革命(1789)によってそれ以前の体制が「アンシャン・レジーム」(旧体制)と呼ばれたことが近代の始まりとなる。世界史上最も重要な革命とされたフランス革命の理念を認めるのか、認めないのか、が問われた。
 近代と現代をどこで区別するのか、学界(学会)によって異なるのだろう。そもそも近代と現代を区別しないという考え方もあるだろうし、現代の時期区分は時代の変化とともに日々変わるという考え方もあるだろう。現代の開始時点をどこに置くかでその人の思想的・イデオロギー的立場も表明されてしまうという考え方もあるようだ。例えば、世界史で言えば、現代はロシア革命から始まると考えるか、第一世界大戦から始まると考えるかで世界の見方が変わってくるようだ。日本では、現代は第二次世界大戦の終了から始まるという理解があるかと思えば、1970年代以降を指す人も多いようだ。時代の区切り方は複雑なようだが、マリア論から見れば、現代は第二バチカン公会議以降ということになる。
2 「恩恵の仲介者」(medeatrix)とは何かについて明確な説明はよくわからない。基本的にはキリストから人間への恵みはマリアを通して与えられるという信仰だ。「全ての」恵みがそうなのか、信徒からマリアへの願いも含まれるのか、など神学的には議論があるらしい。
3 『教会憲章』第8章第62条。教会憲章第8章はマリア論である。以下に見るように妥協の産物とも言える。
4 光延一郎『主の母マリア』 275頁
5 同上 125頁。師は「恩恵の仲介者」説には、慎重な表現ながらも肯定的な姿勢を見せているように読める。
6 これが、公教要理においても、神学校の神学教育においても、マリア論が、キリスト論の一部としてではなく、教会論の一部として扱われている背景なのであろう。
7 アカルチュレーション acculturation  。社会科学では「文化変容」と訳されることが多いようだ。異なった文化の接触が接触した両方の集団に文化の変化をもたらすことをさすようだ。日本では「キリスト教の土着化」という文脈で議論されることが多いが、現在はあまり用いられないようだ。影響を受ける側の変化だけが強調されすぎるからだろう。アカルチュレーションの評価に関しては、教会でも肯定論・否定論があるようだ。典礼を日本の習俗・習慣に合わせていくのか、ローマ典礼を厳守する方がよいのか、われわれはまだ変化の途上にあるようだ。今年の待降節からミサの式次第がかなり変わるという。すでに練習が始まった教会もあるという。日本の司教団がわれわれをどこへ導いていってくれるのか、静かに見守りたい。
8 ロザリオの祈りとは、「玉」(たま 珠 仏教の数珠に似ている)を繰りながら(数えながら)、キリストの生涯をマリアとともに黙想する祈りのこと。普通、第1~第5の黙想まである(15玄義)。主の祈り1回、天使祝詞(アヴェ・マリア)を10回、栄唱1回で「1連」、5連で「1環」という。古くから続いてきた伝統的な祈りかたで、長くはないがそれなりに時間がかかる。だからお祈りの文言をチョコチョコ変えられるとお祈りをよどみなく唱えることが難しくなるので、今でも相変わらず「アヴェ・マリア」ではなく「めでたし」を唱えている信者が多いようだ。ロザリオを持っていない信者はまずいないだろう。

 

【ロザリオの祈り】

 

9 フェミニスト神学ともいう。様々な理解、説明があり、光延師のようにその淵源を解放の神学に求める立場もあるようだ。カトリックではH・バルタザール(1905~1988)とJ・ラッチンガー(1927~ 現名誉教皇ベネディクト16世)のフェミニズム神学批判が有名だ。特に、K・ラーナーと並び称されるH・バルタザールはかなり古くさい神学的立場に立ってフェミニズムに反対しているが、女性を「欠損のある男性」とみなす極端な見方は拒否している。「教会は女性的である」、つまり受容的で養育的だと主張したという。
 フェミニズム神学はフェミニズム論の影響を受けてきたとはいえ、そのままではない。フェミニズムの思想はマルクス主義から実存主義、自由主義など幅広い思想的影響の中で発展してきたと言われる。またその運動も多様なようだ。他方、フェミニズム神学は教会の男性中心主義の価値観に主に挑戦しているようだ。同一視して論じることはできない。
10 つきつめれば女性の司祭叙階問題にまで発展する。私には司祭の独身制問題よりもはやく方向性が出るように思われる。次の公会議がいつか開かれるとすれば主要なテーマの一つになってくると思われる。
11 光延一郎、同上、128頁

 

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マリアは恩恵の仲介者か ー 聖母マリア(4)(学びあいの会)

2022-03-06 11:42:47 | 神学


Ⅲ 中世

  西欧中世は停滞した暗黒の時代だったという、昔の日本の教科書によく見られた見方は現在ではほぼ消えたといえよう。中世は独自のダイナミズムを持つ豊かな時代だったという理解が支配的になってきているという。

 西欧中世をいつからいつまでと考えるかは諸説あるのだろうが、西ローマ帝国の滅亡(478)からアメリカ大陸の発見/到着(1492)までと考えてみる(1)。つまりざっと1000年間となる。中世をさらに初期(5~10世紀)・中期(11~15世紀)・後期と分けることも多いようだ。マリア崇敬で言えば東方教会では8世紀に頂点を迎え、西欧中世は13世紀を頂点とみてよいだろう。マリア論は修道院神学から大学神学へと中心が変化し、その姿も変貌していく。

1 修道院神学のマリア

 西方教会における神学は修道院でなされていた(2)。修道院神学は典礼の中で発展したという。マリアについての神学も聖母の祝日の説教から発展してきたのだという。ベネディクト会のアウトベルテゥス(784没)は西欧初のマリア論神学者と呼ばれるようだ。クレルボーのベルナルドゥス(1153没)は「マリアの博士」と呼ばれるらしく、教会をマリアの下に置くという考え方をとったという。修道院神学ではマリアの霊的母性が多く語られたという。

2 スコラ神学のマリア

 やがて神学は大学の神学部で営まれるようになる。スコラ神学は13世紀のトマス・アクイナスにおいて頂点に達するが、アクイナスのマリア論は母性論ではなく、受肉論の文脈らしい。受肉に関わるマリアの役割に中心が置かれているという。

3 中世後期神学のマリア

 シスマ(大分裂 1378~1417)のあと、教会は衰退し始める。理性と信仰の統合を説いたスコラ神学はオッカム(1347没)の唯名論によって解体されていく(3)。中世後期の神学はこうして新しい霊性主義、神秘主義を生み出し、現実世界から離れていく。『イミタチオ・クリスティ』(『キリストに倣いて』)の著者とされるトマス・ア・ケンピス(1471没)は誰でも知っている神秘主義者だ。マリア信仰はしばしば素朴で迷信的な信心になりかねなかった。

4 無原罪の御宿りと被昇天

 中世のこういう流れの中でマリア信心は盛んになり、多くの聖堂がマリアの捧げられ、マリア巡礼地が定められた。マリアの出現や奇跡も伝えられた。そして無原罪の御宿りや聖母被昇天を教義にするよう求める運動が強まってくる。

 無原罪の御宿りについては二つの考え方が出されていた。

①マリアは原罪を持ったまま母の胎内に宿ったが、生まれる前に、恩恵によって、原罪が取り除かれた、という説。アンセルムス、ボナベントーラ、トマス・アクイナスらが唱えた
②神は、キリストの功徳のゆえに、前もってマリアの原罪を免れさせた、という説。ドウトス・スコトウスらが唱えた。
 結局教会では②の考え方が認められるようになり、1854年にピウス9世によって教義として宣言された。

 被昇天(assumption、昇天ascensionではない)に関しては聖書には記述はない。古来以来様々な伝承があったようだ。6世紀以降マリアの被昇天の思想が広がり、8月15日に祝われるようになった。16世紀にはこの日を祝日とすることを全教会が一致して認めた。そして1950年にピウス12世によって教義宣言された(4)。

Ⅳ 近世

 世界史では近世(early modern period)という時代区分が定着してきているようだ(5)。アメリカ大陸到着(1492)からフランス革命開始(1789)までと一応考えておこう。中世でもないし、近代でもない独特の時代という理解なのであろう。
 マリア論の展開から見れば、16世紀の宗教改革、17世紀の対抗宗教改革、18世紀の啓蒙主義との闘いの時代と言うことになる。

①宗教改革者たちのマリア崇敬

 ルター(1546年没)はマリア崇敬を否定したように思われがちだが、それは真理の一部でしかないようだ。ルターの「十字架の神学」は伝統的なマリア崇敬を認めており、マリア信仰を否定しなかったようだ。ただ被昇天やマリアの図像などは行きすぎたマリア信心として批判し、拒否したという。また、マリアの取次ぎを願うことは、仲介者であるキリストへの信仰と相容れないとして排斥したようだ。ルターにとりマリアは仲介者ではない。
 ツヴィングリ(1531年没)とカリヴァン(1564年没)もルターにならってマリア崇敬には抑制的であったという。つまり、マリアの処女性や聖なる母であることは認めていたが、マリアの取り次ぎや図像は厳しく禁じていたという。

②対抗宗教改革期のマリア崇敬

 トリエント公会議(1545~1663)後の教会は新大陸へ、世界中へ拡がっていく。イエズス会はヨーロッパに数多くの学校を開設し、「マリア会」を組織し、マリア信仰の養成を図った(6)。大学の神学部では無原罪の教義の擁護が必須とされ、ポルトガル・オーストリア・ポーランドなどの国家がマリアに「捧げられた」。
 マリア論は体系化が始まり、マリア神学が歩み始める。イエズス会のフランシスコ・スアレス(1617)はその嚆矢だという。

③啓蒙主義時代のマリア崇敬

 18世紀を啓蒙主義の時代と呼ぶなら、この時代にマリア信仰は「理性という女神」に取って代わられる。マリア崇敬は衰退するのだが、同時に啓蒙主義への反動としてマリア信心の中に反合理主義的傾向が強まってくる。また、無原罪の御宿りや聖母被昇天を教義として宣言するよう求める運動が強まった。

 衰退し、退潮したマリア信仰は19世紀に入るとともに復活し始める。19世紀は「マリアの世紀」ともよばれる。1854年の無原罪の御宿りの教義宣言から1950年の聖母被昇天の教義宣言までの約100年間は信徒レベルのでマリア崇敬が最も高まった時期だと言われる。マリアの「特権」が語られ、マリアを「恩恵の仲介者」として教義宣言するよう主張する運動が盛んになり、マリアをキリストとの「共済者」とする主張も強まってくる。次回見てみたい。


アヴェ・マリアの祈り(日本語・英語)

 


1 『新もう一度読む山川世界史』 2017 第2部
2 修道院と言っても砂漠の修道院から都市の修道院まで幅があるようなのであまり断定的なことは言えないようだ。
3 唯名論 nominalism は議論しだしたらキリが無いが、要は普遍論争のなかの一方の立場で、普遍は事物の側ではなく言語の中にあるという主張。近代はこの論争から始まったとも言える。
4 この二つの教義は教皇による決定であり、公会議の決議によらないので、いろいろな批判があるようだ。特に被昇天は、マリアの魂が引き上げられたのか、肉体が引き上げられたのかなどいまだ議論があるようだ(教会は、マリアは死後すぐに心身ともに、つまり魂も肉体も、天に受け取られたと教えている。死後、最後の審判を待つ普通の人間(聖人も含む)とは異なり、これはマリアの「特権」と説明されている)。聖母被昇天の祭日は8月15日に固定されている。日本では8月15日は終戦記念日でもあり、なかなかお祭り気分にはなれない祭日だ。
5 こういう時代区分は比較的新しく、せいぜいここ30~40年のことらしい。15世紀後半・16世紀初頭から18世紀中期・19世紀初頭のほぼ3世紀を幅広くさすようだ。近代との区別のためらしい。指標としては、①15世紀後半の人文主義とルネッサンス ②15世紀末からの大航海時代 ③活版印刷術の発明 ④宗教改革の広がり、があげられるという。終わりはフランス革命と産業革命だという(『新もういちど読む山川世界史』「近世とは」130頁)。これではまるで中学生向けの世界史の話みたいだが、あまりにも時間幅が広いので世界史学界の共通理解なのかは解らない。
6 イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本で宣教を開始したのは1549年である。日本人ヤジロウを伴って鹿児島に上陸したのは8月15日とされている。聖母被昇天の祭日の日である。

 

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マリアはキリストの神性を産んだのか人性を産んだのか ー 聖母マリア(3)(学びあいの会

2022-03-04 09:54:50 | 神学


Ⅱ 古代教会

 初期教会の時代にはマリア論はおもに「神の母」論が中心だったようだ。やがて教父時代に入るとグノーシス派との対決のなかで「処女母性」論が浮かび上がってくる。100篇を超えるといわれる「外典」(僞典)の流布のなかでマリアの「永眠」(終わり)を語るものは30篇を超えるらしい。マリア信心が広まっていく。なかでも「ヤコブ原福音書」の与えた影響が大きい。

1 初期教会時代のマリア理解

①初期の信条
 「イエスが聖霊により乙女マリアから生まれた」との表現が見られる
②「ヤコブ原福音書」(2世紀中頃の外典)
 これはエジプトで書かれたものらしく、マリアの誕生、幼年時代、ヨセフとの結婚、処女性、「洞窟」でのイエスの誕生などを詳しく述べている(1)。後年のマリアのイメージはこの外典(2)から大きな影響を受けているという(3)。
③アンティオキアのイグナチオス(115年没)
 護教家であり、当時の仮現説を批判し(4)、マリアの処女懐胎を疑問視するユダヤ人に対してキリスト教信仰を擁護した。
④ユスチノス(165年没)
 マリアの処女性を強調したという。また、パウロの「アダム→キリスト」(第二のアダム)説にならい、「エヴァ→マリア」説をはじめて語ったという。以後マリアはエヴァになぞらえて語られるようになる(第二のエヴァ)。
⑤エイレナイオス(202年没)
 マリアの神母性と処女性を中心に、グノーシス主義との論争に加わる。「マリア→エヴァ」説を展開し、マリアをはじめて教会のシンボルとして位置づけた。「エヴァは不従順の罪を犯した・・・マリアの従順によってその罪は解かれた」はよく知られた言葉だという。
⑥テルトゥリアヌス(220年没)
 エイレナイオスよりもよりはっきりとマリアの処女性を語ったという。教会が「主の花嫁」であるという考えを述べ、マリアの処女性はイエスの誕生後も続いたと述べたという。
⑦オリゲネス(254年没)
 アレキサンドリア生まれのギリシャ教父。マリアの処女懐胎と処女性を強調した(5)。


2 「神の母」問題から「終生の処女」問題へ

①3・4世紀以来、マリアの「とりつぎ」(取次)(6)を願う祈りが盛んに行われる
②4世紀にはイエスの誕生を盛大に祝い、救いの営みにおけるマリアの役割を強調した
③「神の母」(テオトコス)の称号が普及した(7)
④ナジアンゾスのグレゴリオスは、従属説をめぐるをめぐる(8)アレイオスとの論争のなかで、「神の母」という称号がキリスト論的に重要であることを強調した
⑤やがて「終生の乙女」「永遠の乙女」という考え方が広まり、マリア崇敬が拡大した。神学的には、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、サラミスのエピファニオス、カイザリアのパシレイオス、ヒエロニムスなどが強調したという。

3 テオトコス(神の母)論争

 聖書には「神の母」という言葉はでてこない。光延師によればこの言葉がはじめて歴史的に確認できるのは3世紀の「あなたの憐れみのご保護のもとに」という祈りの中だという(9)。
 5世紀にコンスタンチノポリスの主教ネストリオスが唱えた説をめぐり論争が生まれた。アンティオキア学派のネストリオスは、マリアはキリストの「人間性」を産んだという理由で、「テオトコス」の代わりに「キリストトコス」(キリストの母)という称号を使うべきだと主張した。これがアンティオケア(シリア)とアレキサンドリア(エジプト)との間で激しい神学論争を引き起こした。結局、アンティオケイアのキュリロスの指導の下に開かれたエフェゾ公会議(428~431)はテオトコスの正統性を宣言し、ネストリオスを追放した(10)。
 こうしてキリストの神性と人性を分離するキリスト論は排斥された。マリアは最初から神性と位格的に結合した人間イエスを産んだことが確認された。ではそのマリア自身はどうなのか。


テオトコス修道院(シナイ山麓)のイコン(6世紀)


4 汚れなき神の母マリア

 4世に入るとマリアについての神学的著作が生まれてくる。アウグスティヌスは「マリアの罪を論じてはならない」と述べた。
 5世紀以降マリア信心がますます盛んになり、マリアの呼称に「処女」をつけることが通例になったという。マリアを褒め称える多くの説教、詩、絵画が生まれる。
 こういう聖像の普及は偶像禁止の教えと矛盾し、聖像破壊令が何度か出される。だが、結局はマリア信仰を抑えることは出来なかった。
 第2ニケア公会議(787)は「像の尊さは、その原像の尊さによる」とし、イコンの正しさを認め、「マリアは常に聖にして汚れなき神の母」と決議した。
 こうしてマリア崇敬が生まれ、発展していく。とりわけ典礼の発展とともに、典礼の中でマリアに祈ることが定着していったようだ。3世紀後半から、公現祭、降誕祭、アドベント(待降節)などの典礼が整備されてきて、マリアへの崇敬は教会共同体に深く浸透していったようだ。



1 原福音書の「原」とは「プロト」という意味で、オリジナルとか元々のという意味ではなく、「前の、先行する、以前の」という意味で、正典福音書が描く以前のマリアを描いているという意味のようだ。イエスは馬小屋でなく洞窟で産まれたとか、ヨセフは老人の男やもめで、イエスの「兄弟」(マタイ12:46など)とはヨセフの連れ子だったとか、マリアの聖霊による懐胎を母アンナの無原罪の懐妊にもとめるとかいう話があるようで、後世の絵などでよく描かれる題材になっている(ヤコブ原福音書は八木誠一・伊吹雄訳『聖書外典僞典』第6巻 教文館 1976など)。
2 外典とは「アポクリファ」で「隠されたもの」(秘義)を意味するという。「正典」(カノン)が編纂されていく過程でそこから除外された諸文書のことをさすようだ。旧約には「僞典」はあっても新約には僞典は存在しない。
 旧約外典とはギリシャ語訳(七十人訳)には含まれているが、ヘブライ語訳正典が確定したとき外された文書のこと。具体的には、トビト記・ユディト記・エステル記付加・知恵の書・シラ書・バルク書・エレミアの手紙・第1マカバイ記・第2マカバイ記・ダニエル書付加・第1エズラ記・マセナの祈り。
 旧約僞典とは七十人訳にもヘブライ語正典にも採用されていない文書群をさすようだ。
 新共同訳や協会共同訳にはこの外典が入った版と入らない版があり、入った版は旧約と新約の間に「旧約聖書続編」として挟まれている(間ではなく新約の後ろに入れるものもあるらしい)。カトリックはこの続編の入った版を用いている。
 新約では外典はほとんどグノーシス派のもので、教会はグノーシス派との激しい戦いに勝利した後、グノーシス派の文書を新約の正典文書を模倣・変形したものとして排除した。このため、アポクリファの意味が「異端的なゆえに隠された偽りのもの」を指すことになったようだ(荒井献・大貫隆『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』岩波 2022)。ちなみに、このナグ・ハマディ文書とは1945年にナイル川沿いのナグ・ハマディで発見されたコプト語のパピルス文書で、13冊あるという。大半はグノーシス派のものだという。これは、1947年に発見され、昨年2021年にさらなる断片が発見されたいわゆる「死海写本」とは異なる)。
3 S氏はヤコブ原福音書には「歴史的根拠はない」と断定している。そうかもしれないが後世のマリア像の形成に与えた影響の大きさは無視できないようだ。
4 仮現説とは、キリストの受肉を否定し、キリストの身体性・肉体性を否定する考え。イエスの誕生と死はそう見えただけと考える。グノーシス主義に近い考え方のようだ。
5 オリゲネスはその膨大な著作によって有名であるが、その魂の先在説とアポカタスタシス(万物復興)説は553年の第2コンスタンチノープル公会議で異端とされた。東方教会の神学的立場に近く、現在でも東西教会の神学上の争点の一つになっているという。
6 取次、取りなし、などいろいろな表現がある。intercession ともいう。神と人との間を取り次ぐ仲介者・媒介者としての働きを意味する。神に直接祈るのは恐れ多いのでマリア様のとりなしで、マリア様を通してキリストに祈る、というような使い方をするようだ。何故直接神に祈らないのだ、マリアに祈っているのはマリア崇拝ではないか、などすぐに難問が突きつけられる。教会の答えはたとえば「尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)」(https://peraichi.com/landing_pages/)などに詳しいが、要はマリアは「恩恵の仲介者」だというものだ。だがこれはこれで神学的、教義的に決着はついていないようだ。
7 テオトコス Theotokos は「テオトーコス」 とも表記される。「神の母」と訳されるが、直訳は「神を産んだ人」ということらしい。正教会では「生神女」(ショウシンジョと発音する)と訳すらしい。
8 従属説とはキリスト論の一つで、子なるキリストは父なる神に従属するという説。聖霊は神とキリストに従属するという説も含まれる。アレイオスのこの説は第1ニカイア公会議で「ホモウーシオス(同一本質)」説により否定された。
9 光延一郎 『主の母マリア』 2021 105頁。なお、師はテオトコス論争は「キリストの本性の交用」(communicatio ideomata)をめぐる論争だと説明されているが、「交用」とはなんのことかわたしにはわからなかった。
10 これは神学論争であるが、同時に権力闘争でもあったようだ。敗れたネストリオス派はやがてペルシャに逃れ、イスラムの影響を受けつつ東に拡大する。中国では唐と元の時代に普及して「景教」と呼ばれ、日本の空海も留学中に影響を受けたようだ。真言密教にネストリオス派のキリスト教の影響を見る人も多いようだ。なお、第3回エフェゾ公会議は教科書的には431年召集とされる。

 

 

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