カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

コロナ禍と葬儀の変容

2021-01-08 11:13:59 | 教会

 正月早々だが葬儀に出てきた。新型コロナの影響を思いがけない形で知ることになり、葬儀中少し考えたことを記してみたい。
 コロナ禍の中で「家族葬」が増えているという話は知ってはいたが、「一日葬」、「後日葬」、「直葬」などという聞いたこともない言葉が生まれ、実際に行われているという。わたしが今回出たのも一日葬で、お通夜・本葬・初七日の読経が一気に唱えられる(つまり、3回焼香する)というものであった。
 斎場(葬儀社)も参列者の人数制限、会食禁止が徹底しているという。火葬場も人数制限の厳しいところが多く、わたしの居住地(今回の場所ではない)の火葬場は10人以下だという。
 葬儀のあり方、特にお通夜のあり方は地域差が大きく、なにも一概には言えないが、コロナ禍の中で想像を絶する変化が起きているようだ。コロナに感染しているかどうかの検査もないままに死後すぐに火葬にふされるという例もあるという(火葬はたしか24時間過ぎないと駄目なはずだがどうなっているのだろう)。遺族は最後のお別れをする時間も無いことになる。
 仏教の宗派にも戸惑いが生まれていると聞く。今回わたしが出た葬儀の喪主家の宗旨は真言宗だったが、導師は浄土真宗のお坊さんだった。アルバイトのお坊さんに読経してもらうよりはよいとはいえ、いろいろ事情があったのであろう。

 冠婚葬祭は文化の根源だ。コロナ禍がここに与える影響は計り知れない。冠婚葬祭はビジネスでもある。生花不足とかお返し品過剰とかあるらしい。コロナ禍はどういう変化をもたらすのだろうか。94歳の天寿を全うされた故人を偲びながらあれこれ考えても、考えをまとめることはできなかった。 

 我々カトリックにとり、死と葬儀は悲しみの時であると共に、復活の希望への徴でもある。葬儀ミサでの結びの祈りを思い起こす。
「・・・別離の悲しみのうちにあるわたしたちも、主・キリストが約束された復活の希望に支えられ、あなたのもとに召された兄弟姉妹とともに、永遠の喜びを分かち合うことができますように」
 コロナ禍は、復活への希望と亡くなった人との連帯をむしろますます強化しているのかもしれないと思った。

(カトリック葬儀)

 

 

 

 

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公現祭はなぜ1月6日ではないのか

2021-01-03 10:01:20 | 教会


 今日3日は日曜日でご公現だ。「主の公現」の祝日だが、ご公現祭といったほうがわかりやすい。ご公現祭が日本では今年はなぜ3日で、日曜日なのか、考えてみた。

 1月2日の土曜日の昨日に、分散ミサの順番に当たっていたので4時からのごミサに出た。日曜の今日は出られない。
 昨日は快晴の寒い日で、出席者は20数人だった(1)。今年は1月3日が「ご公現の祭日」(「主の公現」)だ。信者の「守るべき祝日」だからだ(2)。

 ご公現の祝日について少し考えてみた。1月6日が公現祭のお休みではない日本のことを考えてみた。 日本では1月6日は休日という習慣はない。そういう感覚もない。日本の暮れから正月にかけての休日はだいたい12月29日から1月3日くらいまでというのが普通の感覚だろう。正月三が日が終わってすぐに6日が休みという感覚はない。日本ではご公現祭は主日(日曜日)に移されている。日本の文化、日本人の生活習慣に合わせた移動なのであろう(3)。
 ヨーロッパなどキリスト教国では、州による違いはあるにせよ、25日のクリスマス、1日の聖マリア、6日のご公現がお休みという習慣、感覚があるようだ(4)。

 ご公現とは何なのだろう。今日の福音書はマタイ2:1~12が読まれる。いわゆる東方の三博士がベツレヘムに生まれたばかりのイエスを訪ね、黄金・乳香・没薬の贈り物を届けるシーンだ。つまり、イエスが東方の(ユダヤ人ではない)異邦人に「現れる」ことだ(5)。
 でも、これは、ご降誕のことでもある。福音書により描き方は異なるとはいえ、シーンは同じだ。ではなぜ、別々の祝日になっているのだろう。これはこれで興味深いテーマのように思える(6)。

 昨日の神父様のお説教は力が入っていた。ベツレヘムは片田舎だ。かってダビデが出た村とはいえ、時代がことなり、寒村だ。そんなところに人類の救世主が生まれるなんて想像できない。でも旧約にはすでにそう書いてある。そして人々はずっとそう信じてきていた。そしてイエスがそこに生まれた。(イエスの活動はエルサレムが中心だ。イエスの審問・死・復活はエルサレムでの出来事だ。) いまわれわれはコロナに苦しんでいる。でも、いつ、どこからか、思いもかけない形で、「希望」が届けられるかもしれない。「主の公現」日では希望を持ちましょうという、よいお話であった。



1 お御堂はあまりにも寒かった。ドアも窓も全開。エアコンは入っているが何の役にも立たない。出席者はみな老人だ。これではコロナどころか風邪を引きかねない。「角を矯めて牛を殺す」ことにならなければよいが。
2 公現という言葉は一般的にはあまりなじみがない。意味がピンとこない人が多いのではないか。「広辞苑」はさすがで、「公現祭」で載っている。
 ご公現は教会では重要な祝日の一つだ。教会暦(典礼歴)がわからないと、その意味がはっきりしない。
 カトリック教会の典礼歴は複雑でわかりずらい。「典礼歴」には「季節」と「年間」がある。季節でいえば今は降誕節だ(教会暦的には新年でもクリスマスはご公現まで続いている。教会のクリスマス・ツリーの撤去は遅い)。年間はご公現と主の洗礼の後から始まり、四旬節まで続く(その後も繰り返される)。
 「主日と祝日は聖としてミサ聖祭にあづかること」と規定されている。主日とは日曜日のことで、キリストが復活したことを祝う。週日とは月曜日から土曜日までのことをさす。主日と週日には「周年」がある。今年はB年だ。
 「祭日」と「祝日」の区別はよくわからないが、祭日の方が大事なようだ。このほかに聖人などの「記念日」もある。
 「斎日」には「大」と「小」があり、大は「灰の水曜日」と「聖金曜日」、小は毎金曜日(祭日を除く)だ。
 難しいのは、祝祭日に「移動祝祭日」があることだ。日にちが固定されている祝日(固定祝日)と、年によって日にちが変化する「移動祝日」がある。例えば、クリスマスは固定だし、イースターは移動する。
 教会では「守るべき祝日」は10個ある。日本ではわずか2個のみが守るべき祝日だ。
 日本では、「国民の祝日」は16回ある。どれも休日だ。「元日・成人の日・建国記念の日・天皇誕生日・春分の日・昭和の日・憲法記念日・みどりの日・こどもの日・海の日・山の日・敬老の日・秋分の日・スポーツの日・文化の日・勤労感謝の日」の16個。移動祝日もある。特に今年はオリンピックが予定されており日程は変則的なようだ。この休日の回数の多さは世界屈指らしい。良い悪いは別として日本は祝日(休日)が多い。
3 日本はキリスト教国ではないので、典礼はいろいろな部分で日本の実情に合わせて修正されているようだ。繰り返しになるが、日本では「守るべき祝日」はたったの二つだ。12月25日(ご降誕・クリスマス)と1月1日(新年・聖マリアの祝日)だ。
 クリスマスは誰でもミサに出るが、さて1月1日の新年はどうだろう。出ない人、守らない人もいるのではないか。お屠蘇気分でごミサに出るわけにはいかない。
 私どもの教会では、今年は1日の聖マリアの祝日のミサは中止だった。コロナのせいでミサがなかった。これでは、1日は守るべき祝日でミサ出席は義務だ、と言われてもいかんともしがたい。

 なお、カトリック教会の「守るべき祝日」は多い。一応10回あるようだ。

 聖マリアの祝日(1月1日)
    主の御公現(1月6日)
    聖ヨゼフの祝日(3月19日)
    主の御昇天
    御聖体の祝日
    聖ペトロと聖パウロの祝日(6月29日)
    聖母の被昇天(8月15日)
    諸聖人の祝日(11月1日)
    聖母の無限罪のおん宿り(12月8日)
    主の御降誕(12月25日)

日本では守るべき祝日が簡略化されていることがわかる。また、固定祝日と移動祝日がある。
 なお、「教会暦」における「移動主日・祝日」表はこれとは異なる。「待降節第一主日」から「王たるキリスト」まで15回分くらい載っている。この表を見ると、たとえば、復活の主日は「守るべき祝日」ではないようだ。
 なんとも複雑で、教会の典礼係は理解と説明と準備が大変なことと思う。
参考:『イラストで知るカトリック教会生活』(サンパウロ編)
4 これも一概に言える話ではないようだ。キリスト教国でも、国の祝日のところもあれば、州によって違うところもあるらしい。ドイツ、スペインはすぐに思いつくが、フランスでは国の祝日ではないようだ。キリスト教国のアメリカ(U.S.A.)も国の休みではないらしい。ご公現祭とはいわなくとも(三博士の贈り物にならって)プレゼントを交換する休日という感覚が残っている国もあるらしい。

(ご公現)

 

 日本でも、私の曖昧な記憶によれば、第二バチカン公会議以前はご公現のミサは6日に固定されていたような気がする。平日だったら誰でもミサに出るというわけにはいかない。
5 主の公現、ご公現は英語では Epiphany というようだ。カトリックでは公現というが、東方教会やプロテスタントなどでは別の表現を用いているようだ。もともとはギリシャ語で「神々が現れる」という意味だったらしい。キリスト教の中で、イエスが自らを現すという意味に変化したのであろう。
6 ご降誕、ご公現、主の洗礼、は一緒ともいえるし、別ともいえる。30歳くらいまでのイエスの子供時代、青年時代ははっきりはわからないし、イエスの公生活は洗礼から始まると考えれば、この三つが別の典礼歴に分かれてきた理由や背景は興味深い。機会があれば神父様に教えを請いたいものだ。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする