カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観た

2020-07-21 10:06:51 | 映画

 映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観てきました。カト研の皆さんのなかにももうご覧になられた方もおられるかもしれません。どういう印象をもたれたでしょうか。

 私の印象は一言で言うと「後味の悪い映画」で、映画鑑賞後の解放感はない。だが、映画としては見ごたえのあるものだった。良い映画だという印象が強く残りました。

 この映画は(フランスの)現代教会の病巣を感情的にではなく静かに描いている。こういう教会のあり方に疑問の声を上げ始めた人々がいることを描いている。こういう映画が作られ、公開され、しかも観客もいるという事実に、単純に驚かされる。
 監督はフランソワ・オゾンという人で、映画通には知られている人らしい。この映画は2019年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しているという。

(グレース・オブ・ゴッド)

 


 映画の原題は GRACE A DIEU、 英訳は BY THE GRACE OF GOD、 日本語訳は「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」。
 映画の中では grace は「恩恵」と訳されていたが、私はフランス語は解さないのでよくわからないが、「猶予」という意味の法律用語として訳されていたのかもしれない。われわれとしては「恩寵」と言いたいところ。「神の恩寵」は直訳すぎるので、「主の恵み」くらいの意味か。実際の意味は、犯罪が時効になるという意味での「時効」のことらしい(1)。

 ストーリーとしては、小児性愛者であるプレナ神父(2)が子供たちへ性的虐待を行った事実と、プレナ神父を庇い、事件を隠蔽し続けたバルバラン枢機卿を、糾弾し、告発し、告訴する過程を描いている(3)。
 具体的には、被害者である成人した男性3人(または4人)のそれぞれの状況と生活が描かれている。みな重いトラウマを抱えて大人になってきたが、それぞれの現在の人生の姿は異なる。ある人は銀行員して豊かな生活を享受しており、別の人は工事現場の作業員として
その日暮らしをしている。そんな被害者たちが声をあげ、被害者の会を結成し告訴にいたるまでの過程が描写される。
 被害者たちの親子関係(自分と自分の親たち、自分と自分の子どもたちとの関係)、夫婦関係が描かれる。被害者たちを支え・励ます母親や妻、家庭を破壊されていく親や配偶者の姿が、対比的に描かれる。

 告訴自体は2016年に「時効」直前になされる。被害者の会の結成と告訴に至るまでの時間が描かれるが、驚くことに、2020年現在、裁判はまだ続いていて世俗法的な決着はついていないという。性的小児虐待にたいするフランシスコ教皇の厳しい姿勢は一貫しているが、この件に関する教会法上の処置は描かれていない。

 一見すると教会批判、カトリック批判の映画のように見えるが、監督は教会と信仰を注意深く区別しているようだ。運動の過程で教会から離れるケースも描かれる。教会の組織防衛の姿勢が批判される(4)。他方、映画の最後のシーンで、子どもたちが運動のリーダーの父親に問う。「お父さんはまだ神様を信じていますか」。父親は、子供二人の顔をじっと見つめながら、
イエスともノーとも答えない。ここで映画は終わる。これをどう理解してよいのかわたしにはわからない。わたしが「後味が悪い」と感じた理由はこういうことです(5)。


1 「時効」というのは日本の法律用語らしい。日本では時効は民法の規定で、「その開始時にさかのぼって権利の取得や消滅を認める制度」だという(『法律用語辞典』自由国民社)。日本の法律は大陸法の影響下にあるので、これは大陸法的な用語のようだ。英米法には時効という
概念はあっても用語はないようなので訳しづらいようだ。英語には statute of limitations という用語があるが、これは「提訴期限に関する法」という意味の法律用語で時効と同じではないらしい。いずれにせよ、時効を神の恩寵と呼ぶとは皮肉である。
2 「小児性愛」 は『広辞苑』には項目としてない。ペドフィリア pedophilia のこと。「小児性愛障害は、小児(通常13歳以下)を対象とする、反復的で性的興奮を引き起こす強い空想、衝動、行動」のことらしい(Wikipedia)。加害者は圧倒的に男性、被害者は女性小児が多いという。
 映画では9〜13歳の男の子が被害者。女の子の例が一回言及される。これが、倒錯した性的指向(精神疾患)を指すのか、性嗜好上の障害をさすのか、つまり、病気なのか障害なのかは、議論があるらしい。映画ではボーイスカートの9~13歳の男の子供への性的虐待のことを指している。性的虐待とは具体的にどのような行為をさせることなのかも描写されている。映画では被害者の数は80人前後としている。認めた人の数だから、実際はもっと多いのであろう。
 日本では近年小児性犯罪は認知されたものだけで900件を超えると言われるので、実際はもっと多いだろう。日本では犯罪になると強制わいせつ罪が適用されるが、この罰則が罪の重さに比べあまりに軽すぎる(せいぜい数ヶ月から数年)という批判があるが、法律改正は難しいらしい。性犯罪の厳罰化を求める世論は強いと思うが、小児性犯罪については現代日本はまだまだ甘いようだ。
この映画が、日本では、教会批判の映画としてではなく、小児性犯罪批判の映画としても、受け観られてほしいものだ。
3 これは「プレナ神父事件」として知られた実話に基づいているようだ。ただ、単なるノンフィクション映画というわけではなく、ストーリー性をもたせた話としてまとめられている。3人の人生や生活を順番に描き、かつ、時間の中でかれらが変わっていく(運動から抜ける、教会から離れるなど)姿も描かれる。だから映画は観ていて飽きない。監督の手腕なのであろう。
他方、プレナ神父、バルバラン枢機卿についてはほとんど描かれていない。
4 教会から離れるということの具体的意味はいろいろなようだ。ただミサに行かなくなるとかだけではなく、映画では「洗礼証明の取消」を認定してもらうという意味で使っている。誰がどういう権限でどういうふうにそれを行いうるのか、私には見当もつかない。
5 同じような、司祭による性的小児虐待を描いたアメリカ映画があるようだ。2016年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞したというトム・マッカーシー監督の「スポットライト 世紀のスクープ」。これはスクープのように独自に報道したボストン・グローブ紙の記者らの活躍に焦点を当てた作品のようだが、私はまだ観ていません。

 

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教会とWHO ー 分散式ミサに出る

2020-07-18 21:53:34 | 教会

 年間第16主日のミサは、分散式ミサの順番が私どもの組に回ってきたので、土曜日のミサにでた。
雨のせいか、コロナの感染が怖いからか、出席者は少なかった。20名ほどだったか。大きなお聖堂に1列(8名席)に2〜3名で、
しかも列をあけて座るのだから本当にパラパラだ。聖堂がこれだけガラんとしているとミサの臨場感がない。神父様もなにかプラスチック製
みたいなフェイス・マスクをつけ、祭壇や朗読台にはアクリル板がついていた。奉納なし、オルガンなし、聖歌なし、侍者なしの
ないないづくしで、感染予防は完璧なようだった。

 コロナといえば、菊地東京大司教は7月13日に教区の信徒あてにメッセージをだされ、3つの指針を示された(1)。
ミサでご一緒した知人によると、教会のこういうコロナ感染対策は、基本的にはWHO(世界保健機関)のディレクティブにそった
「日本宗教連盟」の方針に合ったものだという(2)。宗教団体の活動は「密」を避け得ないのだから、直面する課題は共通なものが
多いのであろう。

(WHO)


 「カトリック中央協議会」はこの連盟の5構成団体の一つである「日本キリスト教連合会」の構成団体の一つのようだ(3)。
高見大司教もカトリック司教協議会会長として4月に談話を発表されているが、具体的な細かいコロナ対策を述べておられるわけではない。
 
結局コロナ感染防止策は、各教区で、各小教区で個別に対応する他ないのであろう。どこの教会でも教会委員会や典礼委員会はコロナ対策に
苦労しておられることであろう。
 今日のようなごミサがこれからもかなり長い期間続くような気がする。久しぶりにご聖体拝領ができて嬉しかった。


1 ①:教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
 ②:感染しない、感染させない
 ③:秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す
第16主日のミサのお説教では、ここ数日の感染者数の増加を見て、ミサを含めた教会活動もふたたび中止か、または活動の継続か、
判断に苦しんでおられる様子であった。
2 「カトリック あい」(catholic-i.net)にはこのディレクティブの原文と和訳が掲載されている。
 「日本宗教連盟」とは公益財団法人で、5団体(教派神道連合会、全日本仏教会、日本キリスト教連合会、神社本庁、新日本宗教団体連合会)
からなるようだ。
 なお、同連盟が政府に要望していた「持続化給付金」は、公益団体なのに宗教法人には認められなかったようだ。
3 「日本キリスト教連合会」とは、カトリック、聖公会、プロテスタント諸派が集まっている団体で、日本のキリスト教界のおよそ90%が
加盟しているという。
 日本宗教連盟とか日本キリスト教連合会というものがどういう組織で具体的に何をしているのかはわからない。

 

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ブログは何のために書くのか ー 年間第15主日ミサに出て

2020-07-12 20:42:52 | 教会

 年間第15主日のミサは関口教会のミサに出た。習慣だから日曜の朝10時から与った。
ごミサが少し変わっていた印象を持った。朗読には侍者がついていて「神に感謝」と唱えてくれてホッとしたり、答唱詩篇ではシスターが答唱まで歌ったりしていた。奉献文も第2で私には久しぶりで新鮮だった。お祈りもコロナ禍のなかなので印象的だった。第1朗読はイザヤ55:1−〜11で「み言葉の力」のところ、,第2朗読はローマ8:18〜23の「将来の栄光」の話しだ。

 福音朗読はマタイ13:1−9で、「種を蒔く人」の譬えのところだ。種を蒔く人とはイエスのことだろうが、菊地大司教のお説教はこの部分をとりあげ、教会の現状と対比させながら素晴らしいお話をされた。教会活動の中でもボランティア活動や宣教活動の重要性を説かれていたように聞こえたが、私は深く感じ入ったところがあり、少し感慨を記しておきたい。

 菊池司教はこう言われた。「わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。」 言葉は、種が実を結ぶような世界を作るために使いなさい、ということのようだ。

(種を蒔く)

 

 私は、このブログも何のために書いているのだろうと反省した。このブログは、もともとはマイコンの時代にカト研のメーリングリストとして生まれた。やがてパソコンが普及すると「掲示板」が一斉を風靡する時代がきてメーリングリストとしての役割は減少していった。ここからいくつかのホームページやブログが独立していった。現在のSNSの時代になっても各ブログには個性があり、私は現在はgoo blog に落ち着いている。

 世の多くのブローガーたちはブログを何のために書いているのか。私のように単に愚痴を連ねるためか。結局は自慢話のブログも多いし、お説教中心のもある。なにか宣伝しているものもあれば、ただ徒然になんとなく一日のことを私小説のように書く人もいる。ブログを書くことが生きがいだとか自己実現だとかいう人もいるようだ。ブログでお金を儲ける技術とか、viewerの数を増やすための技術を論じるブログもあるようだ。

 動機は何でも良い。ブログは読んでくれる人がいれば単純にそれだけでうれしい。やりとりのなかで気があってグラウンドする人もでてくるかもしれない。それはそうだがブログは基本は日記なのだから読んでくれる人がいなくともよいような気もする。むしろわたしは現在の多くのブログの問題点は、ブログが「だれに向かって書かれているか」が不明確なことにあると思う。想定されている読者がはっきりしないケースが多いのだ。ブログ村やblog rankingでは細かくカテゴリーに分かれているとは言え、想定されている読者がわからないことがある。私のこのブログはカト研のメンバーを念頭に置いて書いている。実際には読んでくれているカト研の友人が少ないとしてもそのつもりで書いている。

 文章は何でもそうだろうが、「一般社会に向けて」とか、「だれにでも」とかいうものはないと思う。新聞やテレビのような1対多のメディアですらターゲットは絞られているのだから、1対1が中心のブログで、「不特定多数」を対象にしたブログというのは少ないような気がする。

 さて、菊地司教のことばだ。このカト研のメーリングリストは、私のこのブログは、「神の言葉の種を蒔く土壌」づくりの準備になるようなものになっているのだろうか。ただ愚痴を連ねているだけではだめですよ、と言われたようで反省しきりです。良いお説教でした。

 

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霊的聖体拝領の潜在的機能(1)

2020-07-08 21:45:51 | 教会


 潜在的機能というとなにか大げさだが、要は、このコロナ禍のなかで霊的聖体拝領が一般化することが、教会に対してどのような意図せざるまたは期待せざる効果をもたらすかを考えてみたいということだ。ほかにうまい表現が思い浮かばないのでこの用語を使うが、カト研の皆様にはおわかりいただけると思う。

 菊池大司教はご自身のブログ「司教の日記」の中で、2月27日に「ミサに関する文書への補足」という文書を載せられた。この文書の中で、「公開ミサ」という表現がもともとあったわけではなく、香港教区で使われている Public Mass ということばを翻訳したものであること、ミサは「中止」されておらず、中止されたのは公開ミサだけであって、「公開されていない」ミサは通常通り挙げられていることが指摘されている。そのうえで、霊的聖体拝領についての『教会憲章』やヨハネ・パウロ二世の回勅などを引用しながら、霊的聖体拝領の司牧的正当性を縷縷説明しておられる。

(ご聖体)

 

 この5ヶ月あまり、非公開ミサや限定公開ミサのネットによる配信(配信ミサ)に与ることが私どもには日常生活の一部になってきている。わたしに限っていえば、「聖書と典礼」をもらいがてら教会にご聖体訪問するとはいえ、ご聖体を直接頂いたのはただの一回きりである。そういうものだと言われればそれまでだが、このところその意味をずっと考えている。ネットで見聞きした範囲では、様々な意見があるとはいえ、霊的聖体拝領はやはりおかしいという否定的意見はあまりみかけない。とはいえ、わたしには、その妥当性を神学的・教会論的にいくら説明されてもしっくりとこないところがある。どうしてミサをあげる司祭(や侍者)だけはご聖体をいただけるのか、神父様の祝福は本当にネット越しに与えられているのか、献金もできないのに月定献金だけで教会はもつのか、洗礼や堅信や叙階などの秘跡はどうなっているのか、などなど子どみじみた疑問がつぎつぎと湧いてくる。教会の神父様や先輩方から教えを得たいと思っても会うことすらままならない。

 SNSでの意見やコメントを読んでいると、霊的聖体拝領に関して大きくみて二つの視点の違いがあることがわかってきた。対立と言うよりは強調点の違いといってもよいかもしれない。
 一つは、ミサは集い(集まり、集会)が中心なのであって、ご聖体とはいえパンをいただくことのみを望むのはおかしいという議論だ。これは、教会の本質は「共同体」であることにあるという視点だ。いくら聖変化(実体変化)すると信じているとはいえパンはパンだ。ミサをパンと同一視するのはおかしいという議論だ。

 第二の視点は言う。そうは言っても、イエスは「これをわたしの記念として行いなさい」と命じられたではないか。「からだ」と「血」が伴わないミサなんてありうるのか(1)。両形態の聖体拝領はかなわないとしてもせめてパンだけはいただきたい、という視点だ。秘跡論に立った視点とでも呼べようか。

 この二つの視点を「共同体論」と「秘跡論」と呼べるのなら、現在は共同体論の視点が強い印象がある。しかも位階制をもつ共同体論だ。「ミサに出ることを免除する」と言われると、なるほどミサに出ることは信徒の務め(義務)だからそうなるのかと思う。共同体論の視点からの霊的聖体拝領の正当化の説明はそのとおりだと思う。だが、集会祭儀すらない現状で、ミサに出ることを免除すると言われてもなにか腑に落ちない。ましてや、高齢者は分散ミサでも出ないほうが良いと言われると単純に「なんで?」と思わざるを得ない。説明の理屈はわかる。だが自分の信仰に訴えてこない。心に響かない。

 この二つの視点の違いは教会をどこに連れて行くのだろうか。教会が、ミサが、元に戻ることなないと言われる。つい半年前まで当たり前だったことがあたりまえでなくなるというわけだ。では、どこが、なにが、どう変わるのか。今は推測することすら難しい。

 だが、もし公開ミサが普通に以前と同じように行われる日が来た時、もともとミサに出ていた信徒がみな戻ってくるのだろうか。秘跡論の視点から見れば、ますます熱心にミサに出る人が増える気がする。パンだけであれ、ご聖体をいただけることが嬉しいのだ。
 他方、共同体論の視点にに立てば、ミサには行かなくたってお祈りはできるし、聖体拝領もできるという考え方が強まり、結局ミサに出る人が減少していくのではないか(2)。若年層にそういう傾向が強まる気がする。教会が老人クラブのような性格を変えないとこの傾向を止められないような気がする。
 ネットによる配信ミサの定着がどちらの傾向を強めるのか注目していきたい。

 もう一点、この二つの視点の違いは、カトリックの信仰をプロテスタントの信仰に近づけていくのではないかと思わなくもない。ミサは、聖餐は、パンではなく、み言葉が中心だという考え方が強まるということだ。エキュメニズム(教会一致)の動きが強まるかもしれない(3)。コロナ禍がこの傾向を強めるとすれば歴史の皮肉としか言いようがない。これは神学的に長い論争の歴史をもつ問題なので軽々には言えないが、霊的聖体拝領の日常化はこういう神学的問いを改めて突きつけているような気がする。今回の霊的聖体拝領の問題は、長い時間的スパンのなかに位置づけてみると、社会的出来事であるだけではなく、霊的・神学的出来事であるように思えてくる。

 私は単純に今まで通りミサに出てご聖体をいただきたいと思っている。だが、なかなかそうはいかない、生きづらい世の中になってきているようだ。

1 日本のプロテスタント教会がコロナ禍にどのように対応し、聖餐式をどのように変えてきているかも注目していきたい。プロテスタント教会といっても、聖餐式を毎週挙げていたところや、月一回のところもあっただろう。礼拝が大事だから、つまり「み言葉」が大事だから、パンやぶどう酒は時々で構わない、という考え方もあるとも聞く。コロナへの対応にカトリックとは違いがあるのかもしれない。
2 今回のコロナ禍以前から、テレビやネットを使った配信ミサが行われている外国ではこういうICT(情報通信技術)の利用はミサの出席率に大きな影響をあたえないという議論もあるようだ。一方的な議論は慎まねばならないようだ。
3 神学的には、カトリックと、聖公会やルター派との距離が近づきつつあるあるという話も聞く。とはいえ、エキュメニズムということばが現在の日本ではあまり聞かれなくなったのはなぜなのだろう。教会が、女性の叙階、司祭の独身制、性的児童虐待などもっと大きな、自分自身の問題に直面していることに気づいたからだろうか。

 

 

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日常化した配信ミサ

2020-07-05 14:05:19 | 教会

日常化した配信ミサ

 年間第14主日のミサは午前10時からの麹町教会からの配信ミサに出た。司式はボニー・ジェイムズ神父であった。昨年この教会に助任司祭として赴任されたインド出身の神父様のようだ。所作はお若い印象だが40歳代とお見受けした。働き盛りということであろう。
 今日の福音朗読はマタイ11:25−30で、聖書の小見出しは「私のもとに来なさい」。お説教は、「私の軛(くびき)を負いなさい」(11:29)の説明であった。結局それは「分かち合う」ことであり、具体的にはミサに出ること、ゆるしの秘跡に与ることの二点だと言われた。聖体拝領では、洗礼を受けていない人にも「祝福」があるとの案内があったので(1)、かなりの人数の人がミサに出ていたようだ。配信ミサに参加しているわれわれには霊的聖体拝領の祈りが表示されていた。

 

霊的聖体拝領の祈り(祈りの友)

主イエス・キリスト、
あなたがご聖体の秘跡のうちにまことにおいでになることを信じ、
すべてに超えてあなたを愛し、わたしの心に迎えたいと望みます。
今、秘跡によるご聖体を受けることができないわたしの心においでください。
          ・・・・・・
あなたが、今わたしの心にまことにおいでになったことを信じて
感謝いたします。
いつもあなたと一致したいと望むわたしが、
あなたから離れることのないようにしてください。

 

 

 イグナチオのミサに出た後、関口教会の第14主日ミサ(昨日土曜日)での菊池司教のお説教も聞いてみた。いつものように力強いお説教だった。ブログに原稿が掲載されていないので正確な引用はできないが、長く続く教会活動の部分的「停止」はまだ完全には元にには戻っていないが、活動が「組織的」なものから(2)、「個人的」ベースのものに力点が移ってきているという説明はよくわかった。CTICの例を挙げて(3)説明しておられた。私は不勉強でこういう活動の性格がコロナ禍のなかで変化しつつあることを十分には知らなかった。「教会は安らぎを与える存在になりたい」との菊池司教のことばが実感を持って伝わってきた。良いお説教であった。

 それにしても日曜日ごとの「配信ミサ」に与ることが日常化してきた。公開ミサに出られなくなって2月下旬以来だからもう5ヶ月に及ぶ。
私どもの教会では分散ミサは一月に一回自分の班に順番が回ってくるかどうかだ。鈴木勁介師は『福音せんりゅう』で今日の主日(年間第14主日)に詠う。「独りでは わからんものよ 主の救い」。軛は二人で負うもの、だという。
 それにしてもこういう配信ミサに与らなくて済む日が早く来ることを祈りたい。それとも、配信ミサの提供が制度化され、「新しい生活様式」の一部となり、ミサには、教会で参加しても、自宅で参加しても同じだ、という時代が来るのだろうか。


1 第二バチカン公会議以来、祝福(benedictio)と祝別(consecratio)の区別が明確化されたが、ことばがまだ紛らわしい。祝別とは昔の「聖別」のことで、難しい神学的定義は別として、具体的には聖変化・叙階・献堂のことだ。祝福は基本は「人」に向けられたもので、「建物」には向けられていない。慣例でメダイやロザリオなど信心用具を「祝福してもらう」ことはあるが、主眼は「人」だ。現在の日本では「クルマを祝福してもらう」ということもあるらしいが、これは神道の慣習が流れ込んでいるからかもしれない。祝福は「儀礼的行為」を必ず伴う。例えば、十字を切る、按手、散水、塗油など、神の恩恵を願い求める動作が伴う。聖体拝領の時、未受洗の人が神父様から祝福を受けるのを見るとなにか嬉しくなる。
2 例えば、ボランティア活動に従事してきた東北各地のカリタス「ベース」はどこも動けない状態が続いていると言う。
3 CTIC とは「カトリック東京国際センター」 Catholic Tokyo International Centre のことで、日本在住の外国人をサポートするための組織で、1990年設立という。外国人といっても具体的には移民・難民(migrants,refugees)への援助活動のようで、「日本カトリック難民移住移動者委員会」の活動のひとつのようだ。

 

 

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