映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観てきました。カト研の皆さんのなかにももうご覧になられた方もおられるかもしれません。どういう印象をもたれたでしょうか。
私の印象は一言で言うと「後味の悪い映画」で、映画鑑賞後の解放感はない。だが、映画としては見ごたえのあるものだった。良い映画だという印象が強く残りました。
この映画は(フランスの)現代教会の病巣を感情的にではなく静かに描いている。こういう教会のあり方に疑問の声を上げ始めた人々がいることを描いている。こういう映画が作られ、公開され、しかも観客もいるという事実に、単純に驚かされる。
監督はフランソワ・オゾンという人で、映画通には知られている人らしい。この映画は2019年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しているという。
(グレース・オブ・ゴッド)
映画の原題は GRACE A DIEU、 英訳は BY THE GRACE OF GOD、 日本語訳は「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」。
映画の中では grace は「恩恵」と訳されていたが、私はフランス語は解さないのでよくわからないが、「猶予」という意味の法律用語として訳されていたのかもしれない。われわれとしては「恩寵」と言いたいところ。「神の恩寵」は直訳すぎるので、「主の恵み」くらいの意味か。実際の意味は、犯罪が時効になるという意味での「時効」のことらしい(1)。
ストーリーとしては、小児性愛者であるプレナ神父(2)が子供たちへ性的虐待を行った事実と、プレナ神父を庇い、事件を隠蔽し続けたバルバラン枢機卿を、糾弾し、告発し、告訴する過程を描いている(3)。
具体的には、被害者である成人した男性3人(または4人)のそれぞれの状況と生活が描かれている。みな重いトラウマを抱えて大人になってきたが、それぞれの現在の人生の姿は異なる。ある人は銀行員して豊かな生活を享受しており、別の人は工事現場の作業員として
その日暮らしをしている。そんな被害者たちが声をあげ、被害者の会を結成し告訴にいたるまでの過程が描写される。
被害者たちの親子関係(自分と自分の親たち、自分と自分の子どもたちとの関係)、夫婦関係が描かれる。被害者たちを支え・励ます母親や妻、家庭を破壊されていく親や配偶者の姿が、対比的に描かれる。
告訴自体は2016年に「時効」直前になされる。被害者の会の結成と告訴に至るまでの時間が描かれるが、驚くことに、2020年現在、裁判はまだ続いていて世俗法的な決着はついていないという。性的小児虐待にたいするフランシスコ教皇の厳しい姿勢は一貫しているが、この件に関する教会法上の処置は描かれていない。
一見すると教会批判、カトリック批判の映画のように見えるが、監督は教会と信仰を注意深く区別しているようだ。運動の過程で教会から離れるケースも描かれる。教会の組織防衛の姿勢が批判される(4)。他方、映画の最後のシーンで、子どもたちが運動のリーダーの父親に問う。「お父さんはまだ神様を信じていますか」。父親は、子供二人の顔をじっと見つめながら、
イエスともノーとも答えない。ここで映画は終わる。これをどう理解してよいのかわたしにはわからない。わたしが「後味が悪い」と感じた理由はこういうことです(5)。
注
1 「時効」というのは日本の法律用語らしい。日本では時効は民法の規定で、「その開始時にさかのぼって権利の取得や消滅を認める制度」だという(『法律用語辞典』自由国民社)。日本の法律は大陸法の影響下にあるので、これは大陸法的な用語のようだ。英米法には時効という
概念はあっても用語はないようなので訳しづらいようだ。英語には statute of limitations という用語があるが、これは「提訴期限に関する法」という意味の法律用語で時効と同じではないらしい。いずれにせよ、時効を神の恩寵と呼ぶとは皮肉である。
2 「小児性愛」 は『広辞苑』には項目としてない。ペドフィリア pedophilia のこと。「小児性愛障害は、小児(通常13歳以下)を対象とする、反復的で性的興奮を引き起こす強い空想、衝動、行動」のことらしい(Wikipedia)。加害者は圧倒的に男性、被害者は女性小児が多いという。
映画では9〜13歳の男の子が被害者。女の子の例が一回言及される。これが、倒錯した性的指向(精神疾患)を指すのか、性嗜好上の障害をさすのか、つまり、病気なのか障害なのかは、議論があるらしい。映画ではボーイスカートの9~13歳の男の子供への性的虐待のことを指している。性的虐待とは具体的にどのような行為をさせることなのかも描写されている。映画では被害者の数は80人前後としている。認めた人の数だから、実際はもっと多いのであろう。
日本では近年小児性犯罪は認知されたものだけで900件を超えると言われるので、実際はもっと多いだろう。日本では犯罪になると強制わいせつ罪が適用されるが、この罰則が罪の重さに比べあまりに軽すぎる(せいぜい数ヶ月から数年)という批判があるが、法律改正は難しいらしい。性犯罪の厳罰化を求める世論は強いと思うが、小児性犯罪については現代日本はまだまだ甘いようだ。
この映画が、日本では、教会批判の映画としてではなく、小児性犯罪批判の映画としても、受け観られてほしいものだ。
3 これは「プレナ神父事件」として知られた実話に基づいているようだ。ただ、単なるノンフィクション映画というわけではなく、ストーリー性をもたせた話としてまとめられている。3人の人生や生活を順番に描き、かつ、時間の中でかれらが変わっていく(運動から抜ける、教会から離れるなど)姿も描かれる。だから映画は観ていて飽きない。監督の手腕なのであろう。
他方、プレナ神父、バルバラン枢機卿についてはほとんど描かれていない。
4 教会から離れるということの具体的意味はいろいろなようだ。ただミサに行かなくなるとかだけではなく、映画では「洗礼証明の取消」を認定してもらうという意味で使っている。誰がどういう権限でどういうふうにそれを行いうるのか、私には見当もつかない。
5 同じような、司祭による性的小児虐待を描いたアメリカ映画があるようだ。2016年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞したというトム・マッカーシー監督の「スポットライト 世紀のスクープ」。これはスクープのように独自に報道したボストン・グローブ紙の記者らの活躍に焦点を当てた作品のようだが、私はまだ観ていません。