カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

三位一体の主日とペスト・コロナ

2021-05-30 15:33:41 | 教会

三位一体の主日ミサに出てきた。教会での私の所属班の順番ではないので出てはいけないミサなのだが、三位一体の祝日なので出ないわけにはいかない。しかもコロナの終息を祈る貴重な機会なのだ。
 天気も良かったが、ごミサの出席者は少なかった。10数名だったか。祝日なのにと思わなくもなかったが、高齢者はミサに出てはいけないというのだから致し方あるまい。

 三位一体の主日はペストと切り離せない。ヨーロッパの大都市には巨大な「三位一体像」が町の広場に立っていることが多い。「ペスト記念像」が多いという。ペストの終息を祝って建てられたものが多いらしい。

 

(三位一体像)

 

 

 諸説あるようだが、ヨーロッパにおけるペストの流行は三度あった。最初は6~8世紀、第二回目は14~15世紀(1)、第3回目が19~20世紀だという。第二回目は中国が発生源でイタリアで猛威を振るったという説が強いようだ。第3回目も中国発で世界中に広まったという(2)。21世紀現在の新型コロナも疫病という意味では恐ろしさは同じだろう。コロナとペストは異なる疫病のようだが、疫病という意味では恐ろしさは同じだろう。ペストという言葉ははもともとドイツ語らしく die Pest  らしいが、英語では単純に plague というらしい(3)。

 今日の福音朗読はマタイ28:16~20だ。イエスが弟子たちに、「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命ずる場面だ。三位一体とは父と子と聖霊が「一体」であることをさす(4)。
 神父様のお説教は短かったが興味深かった。「三位一体とは神の命に与ることです」と切り出された。どういう話になるのかと思ったら、社会には孤立者が増え、孤独な人が増えているようだが、逆に人も70歳を過ぎると、もう新しい友人や知人はいらない、煩わしい、と思うこともある。だがイエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という。女房や子供や友達を煩わしいと思うことはあっても、イエスが共にいてくださることを煩わしいと思うことはない。三位一体とは、神の命に与るとは、そういうことですというお話であった。いつものS節でわかったようでわからないお話ではあったが、なにか説得力があった。

 

(聖書と典礼)

 

 三位一体説はキリスト教に興味を持った人を最初に躓かせる教義だという。なかなかすんなり受け入れがたい教えだということであろう。三位一体とは、「神」は唯一だが(一人だけ、神は複数はいない)、「位格」(ペルソナ)は三つある(父・子・聖霊)、という教義だ。神が3人いるという意味ではない。
 三位一体論はキリスト教がキリスト教である根源だ(6)。カトリック、聖公会、正教会、東方教会も認めている。プロテスタントでもルター派もカルヴァン派も認めているという。
 イスラム教は三位一体を認めない。また、キリスト教系をなのる新宗教をキリスト教とは呼べないのは三位一体を認めていないからだ(7)。三位一体論はそれほどの重みをもった教義といえる。だが直感的にはわかりづらい教義ではある。とはいえだが、神父様のお説教のように、「共にいる」人を持てる喜びの教義でもある。



1 宗教改革はペスト流行への対策だったという説もあるようだ。
2 日本は北里柴三郎らの努力でペストの上陸をなんとか食い止め、被害を抑えることに成功した国の一つらしい。
3 plague だと疫病全般を指すような気もするが、ペストは代表的な伝染病という意味なのであろう。現在の新型コロナも中国が発生源という議論が強いようだ。ペストにはネズミ、ノミ、シラミなど動物から動物、人間への感染があるらしい。ペストは原因菌がつきとめられ、現在は流行は減ったが消滅したわけではなさそうだ。
4 三位一体とは、ラテン語で Trinitas, 英語で Trinity, ドイツ語で Dreifaltigkeit。三位とは位格(ペルソナ)が三つあるという意味だ。神が3人いるという意味ではない。プロテスタント神学では「三一論」という言い方もするようだ。
5 延期されていた洗礼式や堅信式を今日行う教会も多いようで、それはそれでおめでたい祝日だ。
6 三位一体論は325年のニケア・コンスタンティノープル公会議で確定する。アタナシウス派にならって「神のサブスタンシス(本質・実体)は一体」とされ、イエスの神性が確定する。
 そうはいっても、カトリックとオーソドックスでは強調点が異なるようだ。カトリックは、神の「本質 サブスタンシス」はペルソナで一体だから三位一体なのであって、父・子・聖霊の独自性よりは一体性が強調される。他方、正教では、父・子・聖霊の三者は「ヒュウポスタス 自存者」で、一体性よりは独自性が強調されるという。例えば、聖霊は父からのみ遣わされるのか、それともイエスからも遣わされるのか、など教義上の違いもあるようだ。
 三位一体論の神学的説明はアウグスティヌスの説明(存在・知・意思)がよく知られているが、やはりわかりづらいことはわかりづらい。山田晶『アウグスチヌス講話』新地書房 1986、加藤信朗『アウグスチヌス『告白録』講義』知泉書館 2006。
 小笠原優師ですら、「唯一の神が「三位一体」という交わりの様相を帯びているということは、人間の思考能力をはるかに超えていることだけに、まことに興味深い問題だと言わなければなりません」と述べて、あまり詳しい説明には入らない。ただ、三位一体は「イエスという存在を通して初めて見えた来たこと」と強調している点は大事だ。これは小笠原師のお説教の決まり文句の一つで、昔聞いた師のお説教を思い起こさせる(小笠原優『キリスト教のエッセンスを学ぶ』イー・ピックス 2018 186頁)。師はカラヴァッジョ(1571~1610 イタリアの画家)を特に好んでおられたが、カラヴァッジョに三位一体を描いた絵があるのだろうか。
7 モルモン 統一教会 ユーティリタリアン エホバの証人 クリスチャン・サイエンス、キリストの幕屋 など。特に「幕屋」は日本会議の構成団体の一つで、キリスト教系の新宗教として話題になることが多いようだ。

 

 

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一夫多妻と聖戦は当然だ ー イスラム概論8(学びあいの会)

2021-05-27 18:09:31 | 神学


コーランの思想 その3 ー ムアーマラート

(1) ムアーマラートとは共同体内の倫理のこと。シャリーアのうち世俗生活にかかわる法的規範のこと(1)。イスラム共同体の内部の人間相互の正しい関係について定めた倫理規範、法規のことをさすという。以下の15項目が挙げられているという(2)。

①神の他に別の神を設けないこと
②両親に優しく接すること
③近親者・貧者・旅人に与えるべきものを与えること
④浪費をしないこと
⑤吝嗇(りんしょく)を避けること
⑥貧困を恐れて我が子を殺さないこと
⑦姦淫(かんいん)に近づかないこと
⑧不当に他人を殺さないこと
⑨孤児の財産に手を触れないこと
⑩契約を守ること
⑪量目を正しく計ること
⑫自分の知らないことを行わないこと
⑬得意然として歩かないこと
⑭その他忍耐すること・偽証しないこと・訪問・挨拶・食事・言葉遣いの規定
⑮日常生活の基本的規範

 

(2)婦人(女)と婚姻

 「女」はマディーナ啓示で、コーランの第4章とされることが多いという。この章は、女性について語っているだけではなく、以下のような内容についても触れているという。

 婚姻法(妻の数・婚資・婚資を払う余裕のない者の結婚・妻の不貞・姦通・奴隷の結婚・夫婦生活の在り方・妻の月経・未亡人の扶養と再婚・異教徒や啓典の民との結婚):
 離婚手続き:夫が妻に3度離婚だといえば成立する、妻からの申し出は制限される
 相続法(遺産相続):「男児には女児の二人分と同額」、つまり女性の価値は男性の半分らしい
 法的実践(利息の禁止・酒と豚肉の禁止・ジハード(聖戦)など):

 イスラム教は近代法を認めないので同列では論じがたいが、ここで関心を引くのはイスラム教における一夫多妻制(polygamyまたはpolygyny)だろう。一応4人まで妻を娶ることが認められ、5人以上は事情があれば許されるという。妻を保護し、扶養する義務があるが、妻の間に差異を設けることはできないという。だが、ムハンマドは22人の妻を持ち、16人が正妻で、妾が4人、その他が2人だったという。一夫多妻は許されるどころか、コーランの教えなのだ。

「汝ら自分だけでは孤児に公正にしてやれそうもないと思ったら、誰か気に入った女をめとるがよい、二人なり、三人なり、四人なり。
だが、もし妻が多くては公平にできないようならば、一人だけにしておくか、さもなくばお前たちの右手が所有している女奴隷だけで我慢しておけ。」(コーラン第4章2~7節)

 この教えが今でも生きているのだ。定番の説明は以下のようなものだ

「イスラームにおける一夫多妻制の問題は、孤児と寡婦に対しての共同義務的観点から理解することができます。あらゆる時代と場所に適応する普遍的教えであるイスラームが、それら急迫の義務を無視することは有り得ません。」
 
 つまり、コーランにしたがって、「孤児と寡婦の救済」のためという説明が一般的だ。だが、実際には「ヒジャブ」着用と並んで、イスラムにおける女性蔑視、女性差別の典型例とされることが多い(3)。
 一夫多妻制は西アフリカのイスラム諸国に多いという。サウジアラビアやエジプトでは経済力がないとなかなか複数の妻を持てないようだが、それでも1割近い国もあるという。
 近代的価値観から見れば、一夫多妻は明らかに男尊女卑的で女性差別的な制度だ。だが、廃止どころか件数は増えているという報告もあるという(4)。コロナ離婚が増えているにもかかわらずだ。

(一夫多妻)

 

 

 


(3)ジハード 聖戦 Jihad

 かってはジハードは聖戦と訳され、イスラム教は戦争を肯定していると説明された。だが最近よく言われるのは、実はジハードの本来の意味は「努力」であり、神の道に奮闘努力することだ、こういう説明が多い。最近のイスラム教に関する新書本はほとんどこの説明をとっている。
 コーランには、「神の道において汝らに敵対する者と戦え」と「異教徒との戦い」という教義があるが、この説明はこの教義を強調しないという特徴を持つ。ジハードの意味は「努力」なのか「戦闘」なのか。

 イスラム共同体、イスラム世界の拡大または防衛のために戦うことがイスラムの義務である。全世界がイスラム化するまで戦い続ける義務がある。これはイスラム総体に課せられた義務である。 ところがS氏もこの努力説をとっているようで、直接戦闘に参加するだけではなく、財の寄付、馬の提供など、様々な形がある、と説明している。
 ジハードの戦死者は殉教者として天国が約束されている。殉教者はテロリストではないという説明だ。
 これは初期のイスラム共同体の発展と関係しているという。つまり、イスラムの主権が確立していない土地に対するジハードは合法的のみならず、義務である。7世紀のイスラム大征服、十字軍との戦いもジハードである。氏は、現在世界各地のムスリムによる抵抗運動やテロ活動の精神的支えとなっていると述べている(5)。

(ジハード)

 

 

 

 


1 シャリーアのうち主にイスラム教の信仰に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と分類するという。 イバーダートは神と人間の関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における人間同士の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。
 中田孝はシャリーアは「法律というより日本語でいう法に近い」と言って、その意味範囲は広いという。「神様の決めた掟のこと」だという。中田孝『イスラームー生と死と聖戦』2015 集英社 36頁
 なお、本書の末尾に掲載されている池内恵氏の「解説ー自由主義者のイスラーム国論~あるいは中田孝先輩について」は、ジハードを肯定し、カリフ制再興を求め、イスラム国(ISIL)を支持する中田孝のイスラム論が「自由主義の原則を放棄している」ことを明らかにしている。婉曲な中田批判と読める。
2 どの項目ももっともなものだが、逆に言えばこういう生活習慣がまかり通っていたということであろう。
 旧約の「モーゼ5書」(ユダヤ教のトーラー)も律法の書だが、クルアーン(コーラン)のトーラーへの言及の頻度は多いという(大川玲子『聖典クルアーンの思想』2004 講談社)。
 ちなみに、クルアーンが描くイエス像はわれわれが新約聖書で知っているイエス像とは異なるという。例えば、イエスは十字架上では死んでいない、十字架上で殺されたのは別人だとか、イエスは家の窓から昇天したとか、120歳まで生きたとか、埋葬地は別だとか、いろいろな伝説が残されているという。
3 ヒジャーブは、髪と首を覆い隠すスカーフのこと。ベールで顔を覆い隠すのはニカーブとよばれる。ヒジャーブはイスラム教徒女性の自由と解放の象徴だとか、サラリーマンのネクタイのようなもので安心感を与えるとかの説明をする研究者は多い。他方、異教徒の女性は性奴隷だと主張するアラブ系移民とか、ヨーロッパでのレイプ事件とか、性暴力事件のメディア報道もみかける。
4 日本にも側室制度があったし、ヨーロッパには公娼制度があった。現在、インド・フィリッピン・シンガポール・スリランカなどではイスラム教徒のみは一夫多妻が認められているという。南アフリカ、ナイジェリアでは法的に認められているという。一夫多妻は法的には違法だが犯罪とはされない国はさらに多いという。一夫多妻制は消滅に向かっているとは言えないようだ。
現在の日本には23万人以上のムスリムがいるという。重婚はないにせよ一夫多妻制がどうなっているか詳しい実態はわからない。ちなみに日本のカトリック人口は40万人強にすぎない。
5 この表現からわかるように、S氏のジハードへの評価ははっきりしない。これはジハードを「小ジハード」と「大ジハード」に分ける議論に影響されているからであろう。小ジハードは「戦闘」、大ジハードは「奮闘努力」のことというのが通説で、大ジハードのために小ジハードは致し方ない、というロジックだ。 だがコーランのなかでこういう区別が書かれているかどうかは、イスラム研究者の間でも見解が分かれるらしい。イスラム法の第一法源はコーラン、第二法源はハディースで、そこにはジハードは血を流して行う異教徒との戦いと明記されている。イスラム教徒がみな戦争を好むとか、テロに賛同しているわけではないだろう。だが、イスラム教の「教義」はジハードを聖戦として認めている。
 カトリック教会は長らく「正戦論」(Just War 正義の戦争)をとってきたが、フランシスコ教皇は2020年に3回目の回勅 「Fratelli tutti」を出し、正戦論を放棄する道を歩み始めたといわれる。なお、聖戦は正戦の一部で、戦争が非限定的かつ宗教的な場合をさすようだ。

 

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巡礼は義務である ー イスラム概論7(学びあいの会)

2021-05-26 20:26:25 | 神学


2 コーランの思想 その2 ー 行


 イスラム教では「行為」が重視される。ただ信仰があればよいとは考えない。コーランにはムスリムが従うべき行為基準が具体的に述べられている。この義務的実践を「行」(イバーダート)という。内容は以下の5個なので、「五行」または「五柱」(アルカーン・ハムサ)と呼ばれる。

 ①信仰告白 ②礼拝 ③喜捨 ④断食 ⑤巡礼

 少し順番に見てみよう。

①信仰告白 シャハータ

 「アッラーのほかに神は無し。ムハンマドは神の使徒である」という定句を「アラビア語で」唱えること。
 前句「アッラーのほかに神は無し」は神の一神性を強調しており、後句「ムハンマドは神の使徒である」は、ユダヤ教やキリスト教とは違うということを強調しているという。

②礼拝 サラート

 人間が神に向き合い、その僕であることを表明すること。毎日5回祈るという(夜明け前、午後、日没前、日没後、夜)(1)。
 毎週金曜日の午後はモスクで集団で礼拝する義務がある。平日は一人で自宅でもどこでも礼拝してよい。
 礼拝への招きをアザーンといい、モスクの塔から礼拝を呼びかける人をムアッジンと呼ぶ。
呼びかけの内容は、「アラー・アクバル」(アラーは偉大なり)で始まり、信仰告白を含み、礼拝に来たれなどの文言だという。


(礼拝の基本動作)

 

 

 

③喜捨 ザカート

 貧者・困窮者・旅人・孤児のために富を提供すること。二種類あるようだ。
 定めの喜捨 ザカート:収入の2.5%(2)
 自由な喜捨 サダカ:

④断食 サウム

 イスラム暦9月(ラマダン月)には、病人・旅人・(子供・兵士)を除くすべてのムスリムは、日の出から日没まで一切の飲食を断ち、禁欲生活を保つ(性行為も禁止という)。そのため、日没後は普段以上に大食する傾向があるという。ラマダン月には食料品の売り上げが増大するといわれる(3)。

⑤巡礼 ハッジ

 イスラム暦の12月(スール・ヒッジャ月)の8日から10日の間ににはメッカのカーバ神殿へ巡礼する(4)。スンニ派では、ムスリムは一生に一度は果たさねばならない「行」とされる。
ハッジという言葉は、メッカでの巡礼者の将棋倒し事件の報道が続いて日本でも馴染みがでてきているようだ。
 カーバ神殿はアブラハムの子イシュマルとともに建てた神殿と伝えられ、そこに旅する能力(体力と資力)のある者にとっては義務である。
 巡礼の具体的行為は詳しく定められている。

イスラム暦12月7日 この日までに、白布2枚からなる巡礼服を着用し、「ライパイカ」(我、御前にあり)の章句を大声で唱えながらメッカに入り、モスク内のカーバ(黒い石)の周りを7回回る。その後、サファーとマルワの二つの丘の間を7往復する(タワーフ)。
12月8日 メッカ郊外のミナーの地で一夜を明かす
12月9日 早朝アラファートの地へ向かい、ラクマ山を中心にコーランを続唱し、悔い改めの儀式を行う 日没後にミナーとの間にあるムズダソファの地に至り、そこで一夜を明かす 翌朝ミナーに戻り、悪魔をかたどった3本の石柱に小石を投げる そのあと、子羊などの犠牲を捧げ、頭髪を切って巡礼服を脱ぐ
12月10・11日 ミナーで過ごした後メッカへ戻り、もう一度タワーフ(7回巡り)を行い、終了する

今日200万人の人が巡礼するという。巡礼した者は ハッジ(男)、ハッジャ(女)と呼ばれ、尊敬を受けるという。

巡礼は体力勝負、資力勝負だということがよくわかる。一夫多妻制と聖戦の話は次回に回したい。


1 カトリックでいえば、「聖務日課」と似ている。「時課」まではないようだ。
2 どこまで守られているのかはわからないが、キリスト教での「献金」よりは重要なようだ。2.5%は、キリスト教会の月定献金やお寺さんへのお布施(檀家維持費)、政党の年会費、ゴルフ場の年会費などとくらべて特に大きいとも思えない。
3 2021年は4月12日月曜日夕方から始まり、5月12日水曜日日没までだったようだ(地域によって少しは異なるらしい)。ラマダン月明けの三日間はお祭り(イード)なのでしばしば紛争の停止(停戦)がおこなわれる慣例があるようだ。2021年のイスラエルとガザとの抗争はラマダン月の最中だったので対立の根深さが際立ったといわれる。
 なお、イスラム暦(ヒジュラ暦)は太陰暦だが、日本の旧暦(太陽太陰暦)とは異なり、閏月がない。そのため、1年は12ケ月だが、年間約11日づつ季節や太陽暦とズレていくという。西暦との換算が面倒だ。ムハンマドがメッカからメディナへ聖遷した年(西暦622年)が元年で、1年は12ヶ月、1か月は30日(29日)だという。新聞やカレンダーには両方の暦が載っているという。
4 巡礼地はカーバ神殿が定められているが、メディナ(ムハンマド埋葬の地)、エルサレム(ムハンマド昇天の地)でもよいらしい。メッカ(ムハンマド生誕の地)はムスリムのみが立ち入ることができる街であり、市域全体が聖地とされているという。サウジアラビア以外の外国のムスリムのハッジ、外国人(異教徒)のサウジアラビア入国、街のインフラ維持・整備のための異教徒労働者の扱いなど、話としては面白い話題に事欠かず、S氏の体験談はおもしろかった。
 現在、巡礼希望者数は受け入れ可能数をはるかに超えており、また興奮に伴う政治的・社会的混乱を恐れてサウジアラビア政府はビザの発行で人数をコントロールしているという。
 なお、カトリックの3大巡礼地は、ローマ(サンピエトロ大聖堂)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン 聖ヤコブの墓)、エルサレム(イスラエル イエス昇天の地)とされる。

 

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善行か予定か ー イスラム概論6(学びあいの会)

2021-05-25 21:04:33 | 神学

 イスラム教の思想としての特徴は「6信5行」と「ムアーマラート」の2点に求められるという。6信5行はかっては定番の大学入試問題だったので知らない人はいないだろうが、ムアーマラート(世俗生活上の法的規範)はあまり耳にすることはないので、これを思想的特徴とみなすのは興味深い(1)。

 

(コーラン)

 


2 コーランの思想 その1ー 信

イスラム教の教義の核心である信仰告白は明確だ。「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」。一説によれば、これさえ唱えれば誰でもムスリムになれるという。
イスラム教では以下の6「信」を基本的な「信仰箇条」とし、それを守ることをムスリムの義務としている(2)。

①神 ②天使 ③啓典 ④預言者 ⑤来世 ⑥予定

 少し中身をみてみよう。

①神 アッラー Allah ← al-ilah(the God)

 唯一神の原理。汝の神は唯一なる神、アラーのほかに神はない、神は全知全能で、天地の創造主であり、絶対者である。被造物と隔絶するも世界に関与する存在とされる(3)。悪人を罰し、信仰者にはよい報いを与え、悔い改めたものには慈悲深い(4)。

②天使

 神と人間の間に存在する超自然的存在として、天使・ジン・悪魔 が認められる。コーランには天使ガブリエルと天使ミカエルのほか、さまざまな天使についての記述がある。ジンとは、アラビア半島で信じられていた一種のデーモン(霊鬼)をさすらしい。

③啓典

 コーランのほか、旧約聖書・新約聖書も啓典として認められる(5)。しかし事実上コーランをさす。

④預言者

 アダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨハネ・モーゼ・ダビド・イエス・ムハンマドなど(6)。イエスは預言者の一人とされている。ムハンマドも預言者のひとりであり、最後の預言者だが他の預言者と同じく「神性」は持たないとされる。

⑤来世

 世界には終末がある。「天が裂け、星が飛び散り・・・」とされ、終末論はイスラム教の特徴の一つだ。終末においては、人間は生前の姿に復活し、最後の審判を受ける。終末の到来は誰にもわからない。人の一生の「帳簿」が開かれ、裁かれる(7)。
 信仰者(つまりムスリム)は天国は、無信仰者(ムスリムではない人)は地獄へ送られる。天国とは、滾々と湧き出る泉、緑滴る樹、美味しい果物、美しい乙女のいるところだという(8)。

⑥予定説

 コーランには驚くべきことに予定説が存在する。これは人間の善行(六信五行)を説くイスラム教の思想と矛盾するが、ともにコーランに書かれている。この両者の調和がイスラム神学者の重大な課題であったという。現在でもイスラム神学の最大の課題のようだ(9)。

 信仰箇条は以上の6個だが、このほかにさらに二つの思想的特徴が挙げられるという。

①世界観

世界の創造については、旧約聖書の創世記と軸を一つにする。神の一言で無から創造が実現する。世界は人間のために作られた神のの恩恵であり、感謝を忘れぬことが大切だとされる。

②人間観

人間は自己の信仰と行為により報いを受ける。人間は自由な主体的存在として自己の行為に責任がある。他方、これとは矛盾する予定説の主張もある。つまり、人間の行為はすべて神の力によるもので、神の意志としてあらかじめ定められているという(10)。


 5行(柱)の話は次回に回したい。


1 イスラム法(シャリーア)は、「コーラン」と「スンナ」(預言者の言行)の二つに基づいて9世紀ごろまでに整えられたという。この「法解釈」は学者にゆだねられ、かれらは「法学者」として「ウラマー」(ulama)と呼ばれるようになる。同時に政治的支配者になっていく。
2 信仰宣言のこと。「信条」、「クレド」ともいう。信仰を告白する定式文のこと。神道のようにこれを持たない宗教も珍しくはない。
 カトリックでは、ミサの中で「ことばの典礼」の最後のところで、「共同祈願」の前に、「信仰宣言」を唱える。単に「信条」と呼ぶこともある。信仰宣言は全員が起立して司祭と一緒に唱える(コロナ禍の現在のミサでもここは口頭で唱える)。「ニケア・コンスタンチノープル信条」または「使徒信条」が唱えられる。どちらが唱えられるかは司祭によるようだ。両者の違いは歴史的なものらしい。文言だけでいえば「使徒信条」には「陰府に下り」があるが、ニケア・コンスタンティノープル信条にはない。この違いは信仰宣言が幼児洗礼時の信仰宣言から発達してきたことや、公会議の発達など複雑な歴史的背景があるようだ。どちらも短くはないが信徒はだれでも暗記している。自分がカトリックであることの唯一明確な表明だからだ。「洗礼式の信仰宣言」は本当に短く、簡潔で、わかりがよい。
 信仰宣言はプロテスタントでは「信仰告白」と呼ばれることが多いようで、信仰の意識化と共同体(教会)への帰属意識の表明という意味が強いようだ。ルター派の「アウグスブルク信仰告白」、イギリス国教会の「ウエストミンスター信仰告白」はよく知られており、また美しい。
3 アラーは、外から人間世界を監視しているだけではなく、人間の歴史に介入してくるという意味らしい。
4 よい報いとは天国に行けるということらしい。他方、原罪論や三位一体論はない。
5 「啓典」とは神の啓示と聖典のことで、イスラム教では「啓典の民」とはユダヤ教徒とキリスト教徒をさす。トーラーと詩編、福音書を聖典として持っているからだという。Holy Scripture は「経典」とも呼ばれるが、この訳語はなにか仏教用語の印象が強い。確定された「教典」を持たない宗教もあるので、啓典も教典も「文字」よりは「朗誦」される点が強調される。キリスト教では「聖典」を「正典・外典・偽典」と区別するが、なにが外典かはカトリックとプロテスタントでは異なる。
6 最近は少なくなったが、「預言者」と「予言者」を混同する議論がまだ散見される。
7 埋葬における土葬中心主義はキリスト教よりも強いようだ。ヨーロッパにおける移民問題の焦点という人もいるようだ。
8 砂漠地帯に住む人々の願望を集約しているようだ。「永遠の平安」などという願望はないようだ。
9 日本のイスラム研究者はこの予定説と善行説の対立・矛盾にはあまり言及しないようだ。もっぱら善行説を強調する印象がある。キリスト教でも善行説をとるカトリックとカルヴァンの二重予定説の対立は根深い。なお、二重予定とは救いの選びと滅びの選びがあるという意味のようだが、予定説はカトリックや正教会が受け入れていないだけではなく、プロテスタントのいくつかの教派でも受け入れていないところがあるようだ。日本では、M・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義の発達に与った、という論理を展開したという議論があまりにも有名だ。
10 これを矛盾とみるか総合とみるかは意見の分かれるところなのであろう。カトリック教会の人間論は「神の似姿」論、人格論(ペルソナ論)に特徴があり、善行説から人間論を展開することはないようだ。

 

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異教徒は仲間ではない ー イスラム概論5(学びあいの会)

2021-05-24 20:48:48 | 神学


 5月の学びあいの会は参加者が多かった。17名くらいいたのではないか。イスラム教を学びたいという信者さんが増えているのかもしれない。他教会からの参加者もおられたようだ。
 イスラム教への関心の高まりの背景はいろいろあるだろうが、私が思いつくのは、イスラム教は平和の宗教だという従来の教科書的説明に対して、最近のイスラム過激派の行動についてのメディア報道が疑問を生み出しているからではないだろうか。キリスト教徒とイスラム教徒、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立抗争が伝えられ、カトリック新聞などを見る限りカトリック教会も以前のように「諸宗教間の対話」の重要性を強調しなくなってきている印象を受ける。

 この学びあいの会の講義はイスラム教神学、特に教義が中心ではあるが、同時に極めてカレントなテーマでもあり、どのような「視点」から論じるかが重要になってくる。カトリックとしてイスラム教をきちんと理解して仲良くしましょう、というわけにはいかないことは参加者はみなわかっており、講義後の質問も厳しいものがあった。

 「あなたがた信仰する者よ、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間としてはならない」(コーラン 第5章51節)という教義を持つイスラム教を理解することは簡単ではない(1)。


Ⅲ 聖典 ー コーラン

 Al-Qur'an アル・クルアーン (読誦されるもの)(2)。アルは定冠詞なのだという。アラビア語で書かれたイスラム教の根本聖典である。
 ムハンマドは610年から632年まで22年間にわたって神から啓示を受けたといわれる。この啓示をムハンマドは口頭で弟子に伝え、人々はそれを記憶していた。いわば口伝えの啓示だ。これを651年に第3代カリフであるウスマーンが文字として収録させたものだという(3)。
 聖典の大きさでいえば、旧約聖書(全39巻)よりは短く、新約聖書(全27巻)よりは長いという(4)。114章からなり、各章に名称がついているがそれは内容を表すのではなく単なる呼称にすぎないという。また、各章に一貫したストーリーはなく、各章の長さはまちまちで長短あるようだ。初期のものは短く、後期のものは長い傾向があるようだが、配列は時代順ではなく、長いものから順番に配列されているという。

 文章は、「人間どもよ・・・」と、神が一人称で人間に直接語り掛けたままの言葉だという。人間による文学的作為はすべて排除されているため、コーランは読みずらいという。よく知られているように、翻訳は禁止されている。神の言葉を他の言語に翻訳することは不可能だからだという(5)。
 コーランは「天の書板」(6)に書かれた神の言葉を天使ガブリエルがムハンマドに読み聞かせたものと言われる。朗々と詠唱するするもので、音楽的韻律美をもつという。
 コーランは神の言葉そのもので、コーランに従うことが神に従うことである。コーランは人間の正邪、善悪の判断基準となる(7)。

 また、内容としては、宗教上の教義だけではなく、実生活に関する規定を含んでいる。宗教的内容としては、神概念、神の唯一性、天地創造、アダムの創造と楽園追放、終末、死者の復活などがある。まるで旧約聖書の世界のようだ。
 実生活上の規定としては、巡礼、タブー(ハラーム)、道徳的項目、礼儀作法、婚姻、離婚、扶養、相続、売買、刑罰、ジハード(聖戦)などを含むという。

 これらのコーランの規範を「伝承」(ハディース)などで拡大解釈したものが「シャリーア」(イスラム法)と呼ばれるという。


(コーラン)

 


 次回は、コーランの思想の特徴について整理してみよう。


1 S氏はイスラム教に対してそれほど厳しい視線を持っているわけではないようだ。中近東での生活体験もあり、イスラム教は穏健な宗教だという実感を持っているようだ。しかしそれは普通のイスラム教の信徒についての印象であり、教義や神学については異なった見解をお持ちかもしれない。今後の話の展開に期待したい。イスラム教を批判的に語ることは身の危険を覚悟しなければならない。仏教やキリスト教を批判しても身の危険を感じることはないがイスラム教を語るときは注意しなければならないというのは、1991年の『悪魔の詩』の訳者五十嵐筑波大助教授殺人事件が教えてくれたことである。
2 「読誦」をS氏は「どくしょう」と発音していた。「どくじゅ」という読みは経文を読む場合に使う仏教用語なのだろうか。
3 一気にはいかなかっただろうし、複数の文書があったのかもしれない。中田孝によれは「コーランに異本は存在しない」という。新約聖書の成立経過をいろいろと思い起こさせる。
4 聖書は全66巻から成るという普通の説に従う。
5 つまりアラビア語がわからないと読めないのであろう。実際にはさまざまな言語への翻訳があるが、それらは「参考資料」であり、「聖典」ではないという。日本語では、

井筒 俊彦 (訳)「コーラン」〈上中下〉 (ワイド版岩波文庫) 2004 が定番のようだ。

 参考までに、井筒訳のコーランをみてみよう。文体(訳文)の雰囲気が伝わってくる。第4章で「女」と題されており、、メディナ啓示175節という(引用は文字通りではない)。

「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名においておいて・・・

1 人間どもよ、汝らの主を畏れまつれ。汝らをただひとりのものから創り出し、その一部から配偶者を創り出し、この両人から無数の男と女とを地上に撒き散らし給うたお方にましますぞ。アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼みごとをするときに、いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。また、汝らを宿してくれた母の胎をも尊重せよ。アッラーは汝らを絶えず厳重に監視給う。」


6 S氏は「かきばん」と発音しておられたが、なんのことかは私にはわからない。
7 要は、我々が知っている、自由や人権を重視する「近代主義的価値観」を認めないということのようだ。また、近代法を持たないので、個別の事案の判断は法学者たち専門家たちがおこなうようだ。

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