カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マタイ福音書「山上の説教」について(学びあいの会)

2017-05-23 00:45:35 | 神学

 2017年5月の「学びあいの会」は5月にしては珍しい猛暑の22日に開かれました。過去数回、ベネディクト16世ヨゼフ・ラッチンガー著 里野泰昭訳『ナザレのイエス』(2008・春秋社、原著2007)を読んでいます。今回はその第四章「山上の説教」第1節「真福八端(幸いな人)」に入りました。
 報告者はラッチンガーの説明の要約というよりはかなり自由にまとめて話しておられました。冒頭、聖書学の研究手法としての「様式史批判」論と「編集史批判」論との違いを説明され、主に文体の比較を行う様式史批判手法の有効性を強調された。

 「山上の垂訓」(共同訳は山上の説教 Sermon on the Mount)はキリスト教信仰の真髄である。キリスト教の教えは結局「愛」の教えと言われるが、「愛」とは①神を愛すること、②神を愛するとは隣人を愛すること、ということで、人を愛することが神を愛することになるという二重構造がこの教えの中核である。「山上の垂訓」は、イスラム教で言えば「五行六信」(神・天使・コーラン・預言者・来世・予定を信じ、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼を行うこと)みたいなもので、イエスの教えの集大成である。
 イエスはその短い人生において数々の奇跡とともに多くの教えを述べた。これらの多様な教えをまとめたのが「山上の垂訓」で、マタイ福音書5章から7章までに記されている。同じ話はルカ福音書6:17~49にも記述されているが、こちらは「平地の垂訓」と呼ばれ、はるかに短い話となっている。マタイ福音書は基本的にユダヤ人向けだから「山」で話したことにして旧約のシナイ山を想起させ、モーセの「十戒」の補強・完成という意味を強調したかったのであろう。ルカ福音書は異邦人キリスト者向けの性格が強かったから「山」を強調する必要はなく、イエスの教えがユダヤの世界に限定されるものではなく、むしろ普遍的な世界に向けられたものであることを強調したかったのであろう。イエスはこの長い説教を一度に行ったわけではなく、「山上の垂訓」はイエスの数多くの説教をマタイが(マタイ福音書家が)まとめて編集したものであろう。つまり意識的な編集がなされているわけだ。
 「山上の垂訓」の内容は多岐にわたる。まず「真福八端」がくる。ついで「地の塩・世の光」(5:13-16)があり、「律法の成就」(5:17-20)が続く。5:21~48は「6つの反対命題」といわれ、「十戒」の掟の徹底がはかられる。反対命題とは「律法ではこうなっている。しかし私は言っておく」という表現で切り返し、いわゆる律法主義を批判している(本書では、第2節「メシアのトーラー」でさらに詳しく論じられる)。
 第六章は信心業で、ユダヤ教の施し・祈り・断食についての教えがとかれ、「主の祈り」が与えられる。6:24から第七章はいわば「態度論」で、人間の「物」に対する態度、「人」に対する態度、「神」に対する態度、が示され、7:12は有名な「黄金律」となる。7:13以下は「注意事項」と呼ばれるらしく、7:24~27の「家と土台」の話で終わる。今日は冒頭の「真福八端」が紹介され、各条ごとに読み、関連する旧約部分を読み合わせた。議論しだしたら切りの無い「幸いの教え」だが、みなで静かに読んだ。

 さて、「真福八端」である。「しんぷくはったん」と読む。最近はあまり聞かない言葉である。聞いたこともない、という人もいるかもしれない。昔の公教要理では良く使われた言葉だが、なぜ最近使われなくなったのか私にはわからない。カト研の皆さんには、ジョンストン師風に、英語で、Beatitudes と言ったほうがわかりがよいかもしれない。
 教理でいえば、真福八端は『カトリック教会のカテキズム』の第3編「キリストと一致して生きる」第一部「人間の召命、霊における生活」第一章「人格の尊厳」第2項「至福への召命」の「1 真福八端」」(項目1716)として、「真福八端は、イエスの説教の中核をなすものです」と説明されている。(524頁) 真福八端は、幸福になることは、人生の目的であり、行為の究極目的であることを明らかにします、と書かれている。
 また、『カトリック教会の教え』では、第三部「キリスト者の倫理」第一章「人間の尊厳と救いへの招き」第二節「真の幸福への招き」第二項「イエスによる至福の告知」のなかで、各条ごとに詳しく説明されている。真福八端という日本語は判りづらいが、普通は「真の幸福のための八つの言葉」という意味だ。『カトリック教会の教え』では、beatitudes を「至福」と訳し「神に祝福された幸福」のことと説明している。念のために見てみよう(新共同訳)


 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせら れるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報 いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

あまりにもよく知られた教えである。ちなみに英訳も見てみよう。

 Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
 Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.
 Blessed are the meek, for they shall inherit the earth.
 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,
 for they shall be satisfied.
 Blessed are the merciful, for they shall obtain mercy.
 Blessed are the pure in heart, for they shall see God.
 Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons of
 God.
 Blessed are those who are persecuted for righteousness’ sake,
 for theirs is the kingdome of heaven.

 Blessed are you when men revile you and persecute you and
 utter all kinds of evil against you falsely on my account. Rejoice
 and be glad, for your reward is great in heaven, for so men
 persecuted the prophets who were before you. (Mt 5:3-12) 

 今日はこの八つの教えを一つづつ見ていったが、ここでは第一の「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」だけを取り上げてみてみよう。「心の貧しい人」とはなんのことか。真福八端のなかでも最も難解な部分である。日本語ではそのままでは殆ど意味をなさないのではないか。心が貧しいとは心の狭い偏狭な人という意味か。そうではなさそうだ。英語ではBlessed are those who are poor in spirit という訳もある。poor in heart という訳も多い。heart のかわりに ghost も使われるようだ。そして、poorとは貧しいという意味か、乏しいという意味か、可哀想という意味か。ドイツ語聖書など、うまく訳せない言語では意訳が多いようだ。日本語訳はこれでもまだ原語に忠実に訳そうとしているのかもしれない。
 フランシスコ会訳はこうだ。「自分の貧しさを知る人は幸いである」。「心」とか「霊」とかでてこない。つまり、この表現にはいろいろな解釈、説明があるようだ。ここでは最も一般的な説明を考えてみよう。ルカでは「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20新共同訳)とあり、貧しいとは文字通り物質的に貧しい、貧乏という意味が強い。だが、マタイでは、貧しいとは「恵みに乏しい」という意味に変えられ、いわば霊的な貧しさが強調される。ラッチンガー(の訳者は)、「霊によって貧しい人は幸いである」ととらえ(訳し)、「恩寵の貧しい者」(110頁)という意味になると説明している。貧しいとは物質的か、非物質的(精神的)か、という違いである。もちろんオーソドックスな理解はその両方を包み込むものとして、心の貧しい人とは、魂の打ち砕かれた人、自分の中に救いの可能性を認め得ず、神により頼むことしかない人、とされる。一言で言えば、心の底から「謙虚な人」という意味だ。だが、「心が貧しい」を「謙虚」の意味でとれるようになるにはかなりの勉強と人生経験を必要とするのではないだろうか。
 ラッチンガーは言葉の定義ではなく、アッシジのフランチェスコ(アシジのフランシスコのこと)こそ「真福八端の精神が最も濃密な形でその実存の中にまで移し替えられた一人の人間」(114頁)だとして、詳しく検討していく。確かに、言葉に遊ぶよりは、聖人を見る方が、この教えをより深く自分のものにする途なのかもしれない。真福八端の8つの言葉はどれもパラドキシカルである。心の貧しい人こそが天国に入れる、とは、『歎異抄』(善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)(金子大栄校注岩波文庫45頁)に劣らず逆説的な命題である。
 ラッチンガーは以下7項目を逐次検討していく。ここでそのすべてに触れることはできない。それは、さらに難問が続くからだ。かれはルカにおける真福八端の思想を取り上げていく。今日の報告者はこの部分は省略されたのでここでは深いりしないが、ルカにおいて「4つの祝福の言葉の後に、4つの不幸の言葉が続く」(135頁)。「いま富んでいるあなた方は不幸だ・・・いま満ち足りているあなた方は不幸だ・・・いま笑っているあなた方は不幸だ・・・すべての人が誉めるとき、あなた方は不幸だ」という恐ろしい言葉が続く。これは真福八端の思想をルカとマタイを比較しながら理解するという作業を意味し、具体的には「Q資料」の影響力の重みの違いを検討するという大変な仕事になってくる。深入りしなかった報告者は賢明だったと思う。
 次は「地の塩・世の光」の話である(マルコ4-21・49~50)。キリスト者は独特の味をもってこの世に味付けをしなければならない。キリスト者は光であり、すべてを照らす使命を持つ、という教えだ。続いて、「律法について」(5:17~20)となる。イエスは律法を否定しない。むしろ律法を完成させる。律法の本当の趣旨を貫徹させなければならないということが述べられる。(律法という言葉は日本語独特である。法とか法律という言葉と区別され、聖書的な言葉となっている。外国語ではこういう区別はないようだ。例えば英語では、律法も、法律も、法も law だけのようだ。これは律法が福音との対立概念とされ、否定的な意味が付与されてきたためのようだ。日本の聖書研究とはなんだったのか、と考えさせられるが、便利な区別、使い分けといえばいえなくもない)。
 5:21~48までは「6つの反対命題」がとりあげられる。十戒の掟の徹底化といわれる。

 ①腹を立ててはならない

 ②姦淫してはならない

 ③離縁してはならない

 ④誓ってはならない

 ⑤復讐してはならない

 ⑥敵を愛しなさい

 以上の命題はどれも、「~とあなた方は聞いているーしかしわたしは言う」という形になっており、「律法からの自由」が述べられる。ここで念のために「十戒」を思い起こしてみよう。

 第一戒「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」
 第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」
 第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
 第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」
 第五戒「あなたの父母を敬え」
 第六戒「殺してはならない」
 第七戒「姦淫してはならない」
 第八戒「盗んではならない」
 第九戒「隣人に関して偽証してはならない」
 第十戒「隣人の家を欲してはならない」(新共同訳)

①は第六戒の徹底だし、②は第七戒、④は第九戒の徹底だ。中でも重要なのは⑤「復讐してはならない」だ。律法は同害同復をとる。それはそれでハムラビ法典にあるような復讐の連鎖・拡大を防ぐ機能を持ったが、イエスはそれだけでは不十分だとする。個人倫理の一つで、集団間の争いにはそのままは適用できないだろうが、キリスト教独自のエトスである。
⑥「敵を愛しなさい」が最も重要だ。そんなことはできっこない。そりゃそうだ。だがここでの[愛」とはアガペーのことだということを思い出そう。聖書では、「愛」には、アガペー(神愛)、エロス(情愛)、フィリア(友愛)などいくつかの意味が含まれているが、最も大事なのはアガペーとしての愛だ。「愛」という言葉も日本語としてはまだまだこなれていないが、最近使われるようになった「ご大切」という訳語は大事にしたい。キリシタン時代から使われた日本語らしい日本語だと思う。キリスト教の影響で、「愛」という日本語も「性愛」だけを意味するのではなく、もっと精神的な思いやりや慈しみを意味するようになってきていることは喜ばしい。さらに「ご大切」という訳語がアガペーの訳語として、love の訳語として、定着していってほしいものである。人を大切にすること、徹底的に大切にすることが、人を愛するということなのであろう。敵をもご大切にする。難しいことではあるが、山上の垂訓の教えの焦点といえよう。

 

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イスラームの豆知識

2017-05-14 22:27:31 | 神学

 2017年5月14日に教会壮年会主催の講演会がありました。テーマはイスラームについてでした。カトリックから見たイスラームということになりますから興味深い報告でした。報告者は現役時代に中東に10年近く駐在員として住まわれた方で、生活感あふれる報告でした。全身にムスリムの真っ白な男性衣装(UAEだからカンドウーラと頭にかぶるクゥトラ)をきちんと着こなされ、かなり力に入った講演でした。ご本人は「豆知識」と謙遜しておられましたが、キリスト教とイスラームはどこが同じなのか、どこが違うのか、日本社会はムスリムにどう対応していったら良いのか、など極めて今日的なテーマですので、報告を少しまとめておきたいと思います。

1 イスラームとは
 イスラームとは「唯一の神アラーに絶対的に服従すること」の意で、アラブの預言者ムハッマド(570~632)が創立した一神教のこと。信者をムスリム、神殿をモスクという。(昔はマホメッドと呼んでいたがこれはトルコ語。ムハッマドはアラビア語)。ムハッマドは610年から632年まで22年間活動した。28年頃30代の青年として突然現われ、わずか数年で(2年ほどで?)処刑されたイエスと比べるとその活動期間は長い。イスラームは、ユダヤ教、キリスト教の影響が大きいが、後発の宗教であるだけに神学的にはかなり整理されているという。イスラームとキリスト教はともに復活を信じ、最後の審判を信じるが、イスラームは三位一体説は非合理的だとしてをとらない。ユダヤ教は復活説も三位一体説もとらない。イスラームは教会を持たないので司祭はいない。ウンマ(政教一致の共同体)は教会ではない。カリフは預言者の代理人であり、やがて宗教的指導者というより政治的指導者に代わっていく。現在、カリフがいるのか、誰がカリフか、などは今日の過激的テロ集団ISの評価にも関わる未解決の問題のようである。「法源」の解釈者として法学者がいる。シャリア法はいわば六法みたいなものらしく、ヨーロッパ型の(キリスト教型の)法の支配論や三権分立論では説明できないようだ。法源と解釈の違いにより多くの学派が生まれ、スンニ派・シーア派(12イマーム派)などの名前は現代日本でもなじみ深い。ウンマを導くのは誰なのか、イマーム論が教義の中心になるようだ。シーア派を分派・異端と見なすのかどうかは、アラブとイランの対立という今日の政治対立にも関係しているようだ。預言者・祭司・律法学者の区別は聖書を読むとき大事だが、預言者論で言えば、イスラームではアブラハムもモーセもイエスも預言者の一人で、ムハッマドは最後の預言者とされる。

2 コーラン(アル・クルアーン)とは
 コーランとはイスラームの根本聖典。ムハッマドが610年から632年までの間に大天使ガブリエルから受けた啓示を人々が記憶し、後に収録されたもの。全11章(スーラ)で、新約聖書よりは長く、旧約聖書よりは短い。(井筒俊彦訳 全3巻 岩波文庫 1964)。アラビア語で書かれ、翻訳は不可で、翻訳は参考文献扱いという(アラビア語を解さないインドネシア、マレーシアなどアジアのムスリムはどうしているのだろう? そういえばわれわれカトリックも第二バチカン公会議以前はお祈りをラテン語で-意味もわからずにー唱えていた)。ムハッマド自身は文盲だったといわれ、自身で書いた文章はない。イエスも、読み書きはできたが、自分では書いたものを残していない。コーランの主な内容としては、神の観念、天地創造、アダム、楽園追放、人類の歴史と神の支配、終末(死者の復活と審判)、天国、地獄、預言者、など信仰に関するもの。さらに、実生活に関するもの(シャリア法)として、礼拝、断食、巡礼、タブー、道徳、礼儀作法、婚姻、離婚、扶養、相続、売買、刑罰、聖戦などがある。長い章と短い章が混在するが、基本的に「神の命令」が書かれており、新約聖書が「福音」中心であるのと対照的である。

3 六信五行とは
 イスラームの教義である。六信五行は大学入試の定番問題で、日本でもよく知られている。六信とは、アラー・天使・啓典・預言者・来世・予定のことで、イスラーム神学の対象だ。五行とはシャリアの世界で、①信仰告白 ②礼拝(サラート) ③喜捨(ザカート) ④断食(サウム) ⑤巡礼(ハッジ)のこと。信心行としてはキリスト教と同じだが、その徹底ぶりはクリスチャンの比ではない。報告者はこの六信五行を具体例を挙げながら詳しく説明され、どれも興味深いものであった。

4 イスラーム法(シャリア)とは
 シャリアとは、聖典クルアーンなどの法源にもとづいて法学者たちが組み立てた法のことという。ヨーロッパ的法概念でいえば、法律は人間が作るもの(議会での立法など)であるが、イスラームでは法律は神が作ったもので、人間が勝手に作ったり変えたりできない。具体的解釈や実施方法は法学者の仕事となる。「法源」はクルアーンに次いで、伝承(スンナ)、イジュマー、キャースが主なものらしい。報告者は具体例として、タブー(ハラーム)と婚姻を紹介・説明された。タブーは、殺人(自殺を含む)、傷害(同害同復)、姦通、中傷、飲酒、窃盗、豚肉、死肉、利子があり、厳しい掟だという。婚姻は男子は4人まで妻帯可だが、これは未亡人と孤児対策だったらしいが、現在は経済的豊かさのシンボルに化しているという。また、女性は非イスラムとの結婚は不可で、男子はユダヤ教・キリスト教の女性となら可だという。結婚は契約事項で、結納金は結婚保証や離婚保険として額が最重要だという。また、聖戦(ジハード)についても説明された。戦死者は殉教者として天国へ直行するが、遺族は手厚く保護されることになっているからジハードが無くなることはないだろうという。

 イスラームの教えは結局は「神の唯一性」に帰着し、これはキリスト教の三位一体説への明確な対抗意識の産物だという。イスラームに比較的好意的な報告者もカトリックとしてここだけは譲れない信仰告白のように聞こえた。
 この報告を聞いてすぐに思い出したのは、M.ウエーバーの宗教社会学におけるイスラーム論だ(武藤一雄他訳『宗教社会学』「経済と社会」1927第二部第五章 創文社1976)。ウエーバーはユダヤ教、カトリック、ピューリタン、原始仏教、儒教、道教、イスラム教などを相互に比較しながら、イスラームの「現世順応性」を強調した。それは原始仏教がもっていた「現世逃避性」とは対照的だ(原始仏教は、チベット・中国・日本で民間宗教・自然宗教の影響で姿を変えてしまった現在の仏教とは区別される)。イスラームは戦士宗教だし、倫理的救済概念を持たず、優れて封建的な罪概念を持っている。ウエーバーは言う。「イスラム教はいくつかの決定的な点において、ユダヤ教とキリスト教に近づくことはなかったのである。というのも、ユダヤ教とキリスト教がまったく独特な市民的・都市的宗教性をもっていたのに対して、イスラム教にとっては都市はただ政治的意味をもつにすぎなかった・・・ユダヤ教と対比してみるなら、ここには包括的な法律知識への要求と、ユダヤ教の合理主義を育てたあの決疑論的思考様式が欠如している。文人ではなく、武人こそがこの宗教性の理想である。」(325-6頁)。世界規模で見れば、キリスト教徒の数とイスラム教徒の数が逆転する日が遠からず来るという。その前にイスラームに「宗教改革」の日が訪れるのだろうか。イスラームのルターが生まれる日が来るのだろうか。

 

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「父と同一本質」「聖書にしたがって復活し」(神学講座その7)

2017-05-02 14:08:28 | 神学

 2017年5月1日の神学講座は晴天に恵まれましたが、5月連休のまっただ中のせいでしょうか、参加者は少なめでした。今回はベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神』(2011)の第2章第3節「父と同一本質」および第4節「聖書にしたがって復活し」の2節が説明されました。
 第3節は、1975年のニカイア公会議1650年記念式典における講演で、H神父様によると「文章のトーンがこれまでと全く異なる」とのことです。繰り返しの表現や無駄な表現が多いという。第4節はバイエルン放送局からの復活祭のための講話のようだ。第3節は三位一体論、第4節は復活論だから、カトリック神学の中で最も難解なテーマだが、ともにラッチンガーは難しい議論をさけて、わかりやすく話している。神父様も、ちょうど前日が復活節第三主日で、第一朗読で使徒言行録2・22-33が読まれたこともあり、「聖書と典礼」をそのまま配られた。また、参考資料として1コリント15-18とルカ24-27のギリシャ語聖書とラテン語聖書のコピーも配られ、「現れる(顕われる)」という言葉の意味を説明された。そのうえ、イザヤ書53章のコピーを配られ、一緒に読み、味わった。講演記録ということもありラッチンガーの両節は短い文章であったため(11頁と13頁)、神父様は丁寧に説明された。テーマがテーマなので良く準備された説明であった。

第3節「父と同一本質」
 父と同一本質とはホモウーシオスのことである。信仰宣言(ニケア・コンスタンチノープル信条、使徒信条)にあるこの言葉はイエスの「神性」を表している。イエスとは誰だったのか。昨今のキリスト論はイエスの人性を強調する、人間イエスを強調する傾向が強いので、ラッチンガーをそれを批判的に吟味する。
 H神父様は初めに興味深いことを言われた。このテーマは三位一体論のことだが、最近教会はこの言葉を使いたがらなくなってきている。理由はいろいろあるだろうが、特にペルソナ概念があまりに哲学的すぎるからではないか。「三一論」という言い方が多いという。これはわたしには驚きであった。わたしの勉強不足のせいか、三一論という言い方はプロテスタント神学での言い回しで、カトリックは三位一体論と表現する(と訳している、英語はTrinity, ラテン語はTrinitas)と思っていた。これもエキュメニズムの一つの表れなのかもしれない。
 さて、ホモウーシオスのことである。この概念はアレイオス主義の誘惑(従属説という異端)に対抗して形成されてきた。アレイオス主義は現在では異端説と見なされているとはいえ、当時もいまも一定の支持をひきつける思想である。言(ロゴス)は被造物であり、神と同一本質ではあり得ないというこの主張は、その内部に従属説や類似説など多様な説があるようだが、現在でもわかりやすいとして納得する人もいるようだ。だが、子は父に従属するのではなく、イエスは父と同一本質という考え方は、公会議の繰り返しの中で成立してきた教義である。つまり、正統な教理がまずあって、それに対抗するものとして異端説が生まれる、というものではない。さまざまな説が拮抗対立する中からある教理が受け入れられていき、教義として確立してくる、と考えられるというわけだ。教義はミラノ勅令(寛容令 313年)から数百年にわたる歴史の中で作られてきたものであり、正統と異端というものがもとからあるわけではない。
 ラッチンガーはホモウーシオスをなにか哲学の問題として論じることを批判する。むしろ、「哲学者のようにではなく、漁師のように」理解すべきだという。漁師とは使徒たちのことだ。漁師の問いとは、イエスとは誰だったのか、というものだ。イエスは人間だった。また神であった。神が人間になるとはどういうことなのか。人間が神になるのではない。神が人間になるとはどういうことなのか。こういう問いの仕方は、自然宗教(自然発生的な宗教意識のこと 阿部利麿『日本精神史ー自然宗教の逆襲』2017)にどっぷりとつかっている現代日本では決して出てこない。伊勢神宮には神様がお祀りされている、菅原道真は学問の神様だ、などという言説に何の違和感も抱かない現代日本人には、普遍宗教(創唱宗教 救済宗教)がいう神の概念は把握困難なので、神が人間になる、などということは問いとして浮かんでこないのではないか。
 ラッチンガーは自然宗教ではなく、K・ヤスパース(1883-1969)をとりあげて過度なイエス人間論を批判する。無神論という意味では自然宗教も実存主義も同じだろう。ヤスパースをハイデッガーとならぶドイツの実存主義哲学者としてとらえるラッチンガーは、彼をある程度肯定的に評価しながらも、結論的にはイエスを「人生の指針について何も与えることのない例外的存在」としか見なしていないと批判する。この場合の実存主義とは、少なくとも「人間の場合」には、「実存」(existence)が「本質」(essence)に先行するという意味に理解しておこう(『岩波哲学・思想事典』)。つまり、神が人間になったということ、イエスが「子」であるということ、をヤスパースはついに受け入れられなかったという意味であろう。
 ラッチンガーは言う。「ホモウーシオス(同一本質)という言葉はニカイア公会議の教父たちの理解では、単純に「子」という象徴言語を概念へと翻訳したものであったのです」(110頁)。ホモウーシオスとは哲学者の答えだった。漁師の答えではなかった。漁師たちはイエスは「子」であると聖書の言葉通りの意味で理解した。ホモウーシオスは「哲学者のようにではなく、漁師のように」理解せよ、というのがラッチンガーの主張のようだ。
 神父様は最後に興味深いことをいくつか言われた。確かにこういうラッチンガーの説明は、キリスト教信者向けで、信仰を持たない人には議論のフォローが難しいのではないか。また、漁師たちにとって、「イエスをとおして神を見る」ということはそれまで考えたこともない革新的なものの見方だったのではないか。人間はみな神の前では平等だとか、人類はみな兄弟だとかいうよく聞く言説は、イエスを「子」として見ない限り無内容になってしまうと言われた。どれも考えさせられる指摘であった。

第4節「聖書にしたがって復活し」
 復活論は翻訳による内容の改変などさまざまな角度から議論されているが、ラッチンガーは復活論の中核的テーマは、聖書のテキストに戻るならば、二つの伝承形式があることを区別することだという。伝統的には復活論の思想的背景として、ギリシャ的な霊魂(プシュケー)の不滅説およびヘブライズム的な肉体の復活説が指摘されてきたが、ラッチンガーは「復活」と「出現」の区別こそ最も重要だという。「復活」と「蘇生」の区別すらつかない日本文化の文脈ではラッチンガーのこの義論は少し丁寧な説明が必要である。
 ラッチンガーによると、新約聖書における復活の伝承には二つのタイプがあるという。一つは「信仰告白の伝承」と呼ばれ、中心的にはパウロの書簡に見られる。もう一つは「物語伝承」と呼ばれ、4福音書に書かれている復活の物語だという。ではこの二つはどう異なるのか。両者は、「それぞれ非常に異なった問題意識と、それぞれに異なった意図と目的を持っています。その結果、その主張の種類は異なって」(115頁)いるという。物語形式の伝承は、復活がどのように起きたかを記しているが、結局は「信仰を擁護する」、教会を守る、という目的のために書かれている。他方、信仰形式の伝承は信仰そのものを描いている。キリスト教は結局なにを信じているのか。それはこちらの形式の伝承にこそよりはっきり記されている。ラッチンガーの解説は当然こちらに集中する。
 信仰形式の伝承の典型例としてコリント人への第一の手紙の15章3~8節があげられる。

           キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
           葬られたこと、
           また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
           ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(新共同訳)

 この文章は、この信仰告白がすでに30年代にパレスチナの地で成立していたことを示しており、パウロはそれを後代に伝えてくれたわけだ。ラッチンガーはこの文章を丁寧に解説していく。パウロの信仰宣言はイエスの死をもって始まる。「かれは死んだ」と書いている。なんと簡潔な、ラッチンガー風に言えばなんと「単純直截なテキスト」なことだろう。このシンプルな事実報告にパウロは二つの補足を付け加える。一つは「聖書に書いてあるとおり」であり、もう一つは「わたしたちの罪のために」という補足だ。聖書に従ってとはイエスの死はなにか偶然の出来事ではなく、聖書の言葉の成就だということを示している。また、罪のためとはイエスの死が預言者の言葉にかかわっていることを示している。ここで、イザヤ書53・7-11が詳しく説明されるが、ここで触れる余裕はない。
 聖書はつぎに突然「彼は埋葬された(イエスは葬られた)」と続ける。ラッチんがーはここで「墓」の話に入る。パウロは、福音書とは異なり、空の墓については何も語らない。かれはイエスがそこに「置かれた」ということを重視する。つまり、「墓から復活する(墓から立ち上がるとか)」などという理解はパウロにはなかったという。パウロにとり復活とは蘇生とか、「臨床的な死の克服」のことではないからだ。次に「復活者の出現」についてラッチンガーは説明していく。「出現」とは英語ではAPPARITIONで、復活はSSURECTIONで別の言葉だ。日本語訳でも「現れた」となっているが、神父様は、1コリント15-5では ラテン語では visus est であり、ルカ24-34では apparuit であり、ギリシャ語でも異なる単語が使われ、意味が異なることを丁寧に説明された。ギリシャ語の意味は「かれは自らを見せた」という意味だという。
 つまりイエスを見ることができるのは、イエス自らが姿を見せた者だけということになる。出現は幻視とは異なることは当然だが、イエスを見るためには、こちらに「内的に開かれた心が、内的に開かれた精神が必要なのです」(122頁)という。神父さまは、信仰を持った人のみがイエスを「見る」ことができるというのなら、私たちの特権みたいですね、と笑っておられた。「見る」という行為の複雑性のことを言っておられたのであろう。この出現論の説明は、社会学的に言えば少しく機能主義的に聞こえなくもないが、神父様らしい冗談ではあった。ラッチンガーは言う。出現は復活ではなく、その「反照」にすぎない。だが、出現は見ることができる人にしか起こらない。それは、イエスは、死から生き返ったもの、蘇生した者として生きているのではなく、「これらの次元を超えた神の力によって生きている」、「死の力が克服され」、「神の力が働いた」ことを意味しているからだという。これはこれであまりはっきりしない説明だが、それは三位一体の「聖霊」が説明されていないからであろう。聖霊は次章のテーマである。

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