カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

古代教会の教会生活 ー 教会論(10)

2020-02-26 13:27:36 | 教会

 雨の中、灰の水曜日なので「灰の式」にでてきた。教会論でいえば、灰の水曜日はちょうどこの頃(3世紀頃)すでに始まっていたようだ(1)。

 岩島師の教会論の続きである。第13章は「古代教会の自己展開ー教会生活」と題されている。
前回は教皇制が生まれてくる背景をみてきた。ペテロが初代教皇ということになっているが、これは実証されていない。実際、教皇制は徐々に形成されていったのであって、ペテロや使徒や弟子たちが司教であったという記録もないという。ローマの司教も最初から首位権を持っていたわけでもなく、せいぜい「同士的アドバイスのニュアンスが強い」(2)という。また、古代教会時代の公会議、ニカイア公会議(325)、コンスタンチノープル公会議(381)、エフェソ公会議(431)でも教皇やローマの影響力はほとんど見られないという。カルケドン公会議(451)においてさえ、レオ1世は手紙でキリスト論論争に関わっただけで出席したわけではないという。教皇制の出現は様々な歴史的要因を持っているということであろう。
 そこで次に問題になるのは、キリスト者たちの教会生活だ。どういう生活を送っていたのか。簡単に要約してみよう。教父使徒文書『ディダケー』の紹介のようだ。

Ⅰ 洗礼

 洗礼は最初は川や海でおこなわれた。後に聖堂に移る。
ヒッポリトスの使徒伝承(220)によると、求道者は3年のカテケージスを要し、生活態度も判断材料だったという。カテキスタの資格取得も厳しかったという。
 迫害の時代には、洗礼は生活全体の変更や社会からの分離を伴ったので、文字通り命がけだったようだ。3世紀に入ると、洗礼式に十字架のしるしが用いられ、信仰告白がなされ、代父母制も生まれたようだ。
 幼児洗礼は5世紀に入ると一般化するが、原罪論の確立と関係があるという。アウグスチヌス問題だろう。

Ⅱ 聖餐

 聖餐は使徒言行録でも言及されている。ディダケーは「パン割き」の感謝を捧げよと教えている。2世紀以降は、司教が(司祭ではない)が司式し、聖書朗読時には求道者は退出を求められたという。
 聖餐は元来晩餐の記念であるが、かなり早くから「犠牲」として理解されていたという。
迫害が終わると、「奉献文」(カノン)が成立する。典礼は地域ごとに様々なものが発達していったようだ。

Ⅲ 悔悛

 「ヘルマスの牧者」(2世紀前半)の中心テーマは悔い改め。悔悛は一生に一度きりだったという。

Ⅳ 殉教者

 初期のキリスト者(3)は、一般市民と同様の生活をしているものの、精神的には世俗と一線を画して、キリストの教えに従って生きていた。つまり迫害の危険性が常にあった。
 迫害は1世紀後半から313年まで「断続的かつ慢性的に」おこなわれた。激しい迫害者として、ネロ(64)、ドミチアヌス(96)、マルクス・アウレリウス(161~180)、デキウス(98~117)、ディオクレティアヌス(303~305)などがいる。
 迫害に耐え、信仰告白した人を「告白者」(コンフェソール)とよび、命を失った人を「殉教者」と呼んだ。

Ⅴ 古代教会の自己認識

 2世紀から教父時代までの教会の展開は、教会の成長の第二段階と呼べる。この時代の教会観の特徴は、組織的教会論をまだ持っていないことだ。教父たちの関心は神、キリストに向けられており、教会そのものには向けられていない。
 しかしあえていえば、新約・旧約聖書を用いて、シンボルによる教会像が述べられているという。

1 舟 : ノアの箱舟、ペトロの舟(ルカ5-3~11)。当時の教会はマイノリティだったから、世俗の大海に漂う救いの小舟のようなイメージだったようだ。
2 母 : 汚れ無き処女、キリストの花嫁
3 家 : 神殿、町(ダビドの町)
4 キリストの体
5 月 : 新月を教会に例える 自然のなかに教会を見ていた


「聖マリアと月」

 

 このあと、若干の質疑応答があった。なかでも教会が「月」に例えられることの意味が話題となった。やりとりは興味深く、学ぶところが多かった。


1 灰の水曜日は(日本では)二回しかない大斎・小斎だ(もう一回は聖金曜日)。長い(40または46日)四旬節が始まる。私はアルコールを控えるくらいの節制しか出来ない。私の教会では額ではなく頭に祝福された灰がぬられる。神父様は「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです」と唱える。
「塵」と「土」(Dust,Soil or Ground)は紛らわしいが、創世記3:19のようだ。
「土から取られたあなたは土に帰るまで、額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る」
(協会共同訳)
英語だと、
By the sweat of your face, you shall eat bread, till you return to the ground, for out of it you were taken;  for you are dust, and to dust you shall return.(ESV)
少し古い英語だと、
Still thou shalt earn thy bread with the sweat of thy brow, until thou goest back into the ground from which thou was taken; dust thou art, and unto dust shalt thou return.(Knox Version)

2 増田祐志『カトリック教会論への招き』2015 100頁。「クレメンスの手紙」の説明がある。
3 「キリスト者」という呼称は、キリストの教えに従って生きていたアンティオキアの人々に初めて用いられたという。シリアにすんでいた異邦人のことだろうか。エルサレムやローマではないことが興味深い。使徒言行録11:26が根拠のようだ。キリスト者という言い方は日本では新共同訳でも使われる呼称(訳語)だが、日常的には「クリスチャン」が使われていると思う。かって使われたキリシタン、バテレン、耶蘇教徒、天主教徒の呼称は今は使われない。小説や映画などなどにはキリスト教徒、キリスト信者という呼び方も出てくるが、教会の中で使われているのを聞いたことはない。教会の中で使われるのは、信者(さん)、カトリック(信徒)だろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代教会の組織化の始まり ー 教会論(9)

2020-02-24 22:46:08 | 教会

 2月の学びあいの会は新しい天皇誕生日の振替休日におこなわれた。春一番のあとの暖かい一日であった。コロナヴィルス騒ぎにもかかわらず参加の顔ぶれはいつもと変わりなかった。
 第11・12・13章に入る。タイトルは「古代教会の自己展開」であるが、教会の組織化はほとんど進まず、また、これといった明確な教会論は展開されなかった、ということが明らかにされる。
 前回までの新約聖書時代の教会論では、教会の本質が「神の民・キリストの体・霊の被造物」の三点に整理できることが説明された(1)。今回はこれらの本質がどのように具体化され、制度化されていくかと言うことが主要テーマとなる。

第11章 教会の本質の自己実現について

 前回まで述べてきた教会の本質(3項目)は、抽象的存在ではなく、歴史的存在である。「本質と形態」は同一ではなく、現実の教会にその本質が具現化しているわけでもない。しかし形態を通してしか本質に迫ることは出来ない。たとえば、今日の教会論の主要なテーマー教会の権威、教皇の首位権、不可謬権、ヒエラルヒー、女性の聖職、エキュメニズム、などなどーは聖書に展開された教会論ではない。歴史的に積み重ねられてできあがったものである(2)。
 教会の本質の自己実現の歴史は「神のわざ」と「人間の自由意志」との相互作用のなかで起こる。その特徴は以下の3点にある(3)。
①歴史的一回性
②構成員の自由な行為による展開
③哲学による予知不可能性

第12章 古代教会の自己展開ー指導形態

 教会は組織化とまではいかないが、ある「指導形態」を取り始めた。

Ⅰ 始まり・導入

 古代教会の古代とはいつまでの時代を指すのか。古代の終わりは大体500年頃というから、大体教会教父の時代と同じと考えて良さそうだ。(395年東西ローマ帝国の分裂、476年西ローマ帝国滅亡)。
 岩島師は、古代教会の一般的特徴として、①教会の急速な拡大 ②内部構造の形成 の2点をあげているが、基本的には霊的共同体としてみられていたという。その根拠は「使徒教父文書」である(4)。S氏は特に「ディダケー」(Didache)について詳しく紹介しておられた(5)。

Ⅱ 使徒継承論 ー ローマのクレメンス

 ローマのクレメンスは第4代教皇に列せられている。教会内部での主導権争いで使徒たちの任務の継承(使徒継承)が困難になっていた。クレメンスは教会組織を現在で言えば「位階制」としてみており、司祭職の継承(使徒継承)は伝えられた使徒の教え(使徒伝承)を守る保証だと考えたようだ。教会は既になにか組織または制度として考えられていたようだ。

Ⅲ 職制三段階(司教・司祭・助祭)の完成 ー アンティオキアのイグナティオス

 これも使徒教父文書だが、アンティオキアのクレメンスが各地の教会に送った手紙の中に既に「監督・長老・執事」という制度が見て取れるという。つまり、司教・司祭・助祭という制度だ。この制度が教会の一致を保証するという考えだという。イグナティオスは「仮現説」(受肉・受難・復活を認めない)や「ユダヤ主義」(ユダヤ教の律法遵守)を批判し、「監督」の重要性を述べているという。「カトリック」という言葉が用いられ(公同教会・カトリック教会)、監督のあるところにカトリック教会があるとした。カトリックが「普遍」という意味を帯びてきた契機だという。岩島師は150年頃にはこの制度が全教会で定着していたという。

Ⅳ 司教座・教会会議・公会議

①教区制度の確立

 当初は各州の首都に司教座ができ、やがて地方にも司教区が拡大する。そして首都大司教(のちの大司教)が生まれ、パロキアがディオツェージスに替わる(parish が diocese に替わる)。そして総大司教(パトリアルカ)が誕生する(6)。

②教会会議に見る教会観

 2世紀後半から特に異端との闘いのなかで教会会議が開かれ、新しい教会観が生まれてくる。テルトリアヌス(7)によれば、教会会議は司教中心で、司教区を超えた広い範囲の会議のことで、ローマ帝国の州議会がモデルだという。その特徴は以下の二点だという。
1 教会会議は信仰と教会に関する問題を取り扱う(規律、教え、異端問題など)
2 地方教会の決定は全教会に共通という意識(決定事項は書簡で他の地方に伝えられた)

③公会議

 やがて公会議が生まれてくる。これは全世界の司教会議。教会が世界的に発展した結果生まれた。「使徒会議」に源を持つとはいえ、「教会会議」から直接発展したわけではなく、皇帝主導という特徴があった。第1回はニケア公会議(325)。第二バチカン公会議(1962-65)が21回目とされている。

Ⅴ ローマ優位と「ペテロの教会」論

 ローマの司教はいつから教皇なのか。どんな権威を有していたのか。
大きく見て、ローマの司教は2世紀頃から指導力を発揮し始め、4世紀には確固としたものとなり、6世紀以降は教皇とはローマ司教のみを指すようになった。

 

1 ローマ優位の根拠

①ローマはペテロ、パウロの殉教の地である
②ローマはローマ帝国の首都である

2 ローマ司教が教会全体に介入した

①ローマのクレメンス(第3代ローマ司教)の「教職」観
②アンティオキアの司教イグナチオスのローマ教会への敬意(8)
③復活祭論争・パスカ論争(9)
④エイレナイオスが『異端反駁』でローマの首位権を認証した(10)

3 「ペテロの教会」論

 ローマの司教はペテロの後継者だという理解のこと。
ローマ司教シキキウス(402-417)はペテロの後継者である自分は全教会の責任者であると述べた。第3回公会議エフェゾ公会議(431)には教皇使節の手紙が送られた。レオ1世(440-461)によりペテロ教会論は完成したという(11)。

4 ローマ司教の呼称

Papa : 東方教会では総大司教、大司教、大修道院長にも使われる。西方教会では5世紀中頃から(グレゴリウス7世)という。
Pontefex Maximus : ポンティフェックス・マクシムス 橋を架ける人
Vicarius Christi :  キリストの代理者
Servus servorum : 下僕中の下僕

 ローマ司教の権威は、最初の300年間は地域の司教間でまとまらない問題に介入する程度にすぎなかった。コンスタンチノープル遷都後、コンスタンチノープル総大司教の権威が高まり、ローマと不調和となる。カルケドン公会議(451)のレオ1世によりローマ司教の権威が高まり、中世のグレゴリウス7世(1020-1085)(カノッサの屈辱で著名)で不動のものとなる(12)。

 長くなったので、第13章は次回にまわしたい。



1 教会の「本質」とは通常「一・聖・普遍・使徒継承」と定義されるようになるが、それは後の時代のことである。これは岩島師の整理と理解しておきたい。
2 これは当然の主張のように聞こえるが、立ち止まって考えてみると伝統的教会論からみるとかなりラディカルな主張のようにも聞こえる。
3 この特徴の整理はよく理解できなかった。私なりに理解すれば、誕生したばかりの教会には常に分裂の危機があった。主導権争い、正統・異端論争、教会への迫害への対応策をめぐる争いがあったと言うことであろう。教会は誕生したばかりで、組織らしい組織はできておらず、外からも変わった新興勢力としてしかみられていなかった。本拠地も、エルサレルム・アンティオキアの二つに分かれ、やがてローマが中心地になっていく。こういう激動の歴史的背景のことを指しているようだ。 
4 「使徒教父文書」とは90年代-150年代に成立した10(または7)の文書のこと。新約聖書と教父文書の中間の時代に書かれた。時代的には新約聖書の一部の文書と重なるか、それ以前のものらしいが、使徒の名前が冠せられていないので新約聖書のなかには含まれなかったという。教会の正統的信仰の線上にあり、教会では新約聖書に次ぐ重要な文書とされている。『ディダケー』(12使徒の教訓)が最も重要らしいが、そのほか「ローマのクレメンスの第一・第二の手紙」(97)「バルナバの手紙」「ポリュカルポスの手紙」「アンティオキアのイグナティオスの手紙」(110)「ヘルマスの牧者」の7文書と、さらに3文書を含むこともあるようだ。基本的に正統信仰だが、パウロの思想からは離れているという。
5 ディダケーとは「教え」という意味らしいが、日本語では「12使徒の教訓」と呼ばれるようだ。マタイ福音書との類似性が高いという。内容は二部構成で、一部は洗礼準備のための教え、二部は教会生活の諸規定(祈りや聖餐など)が書かれているという。
6 「5大総大司教」とは、ローマ・コンスタンチノープル・アレキサンドリア・アンティオキア・エルサレレム。現在はローマ以外はほぼイスラム化している。この変化の過程で「枢機卿」が生まれてくる。枢機卿とは「教皇の顧問」で、公会議での議決権を持つ。枢機卿の人数や資格は歴史的に変化するが、現在は司教であることが条件のようだ。
7 テルトリアヌス(160-220)は最初のラテン教父。教会の「聖性」はどこに由来するかという問題に関してモンタノス派の異端運動と対決し、教会の「聖性」は「構成員の聖性」に由来すると主張した。この主張はやがてアウグスチヌスによってさらに止揚され、教会の聖性は教会の構成員ではなく、教会そのものに由来するとされ、「聖なる教会」という考え方が定着していく。
8 アンティオキアはパウロやバルナバたちの拠点だった。ここがローマに屈服していくことになる。
9 パスカとは過越祭を意味するヘブライ語。復活祭をいつ祝うかについての論争。結局325年のニカイア公会議で、「春分後の最初の満月後の最初の日曜日」となったが、議論は今でも続いているようだ。
10 エイレナイオスは2世紀後半(130-202)の現在のフランスのリヨンの司教。『対異端駁論』とも。グノーシス主義を批判して、真の教会の保証を「使徒継承」に求めた。聖霊の賜物としての使徒伝承と使徒継承に、教会の唯一性・聖性・普遍性(カトリック性)・使徒性を見いだしたという。
11 レオ1世は「大教皇」と呼ばれる。ローマ司教の優位権を主張し、中世の教会の基礎を確立した。ちなみにふたりしかいないもうひとりの「大教皇」はグレゴリウス1世(540-604)だという。 
12 『教皇庁年鑑』によると、現在の教皇の「肩書き」は以下の計8コだという(カトリック中央協議会)。
ローマの司教、
イエス・キリストの代理者、
使徒たちのかしらの後継者、
普遍教会の最高司教、
イタリア首座司教、
ローマ管区首都大司教、
バチカン市国元首、
神のしもべたちのしもべ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信者の心得」と「献金」 ー 第39回横浜教区典礼研修会に出る(3)

2020-02-17 15:24:56 | 教会

 「カトリック信者の心得」の件が典礼研修会で質問などの形で直接でたわけではない。ただ「献金」の件が何度か触れられていた。また、先日開催された私の所属教会の「信徒大会」(1)でも「献金」の件が質疑応答のなかで出た。少し思うところがあったのでメモしておきたい。
 要は、「信者の心得」を文書できちんと印刷し、配布し、いつでも使えるよう周知徹底したらどうだろうか、ということだ。

  教会維持費や献金の話は「カトリック信者の心得」に明記されている。とはいえ普段目にするものでもない。ましてや洗礼を受けたばかりの人は「カトリック信者の心得」として公教要理など教えられるのかもしれないが、普段はあまり自覚していないと思う。熱心な信者さんでも同じだろう。ところが、冠婚葬祭とか献金の話になると俄然「ウチの教会はどうなっているの」ということになる。

 「心得」が文書できちんと印刷され、配布されている教会もあるだろうが、少ないだろう。だから、典礼研修会や信徒大会で、財政が逼迫していますとか言われてもなかなか実感が伴わないのではないか。「え、ウチも払うの? いくら? 個人なの世帯単位なの?」という人もなかにはいるのではないか。

 「心得」という言葉は最近あまり使われないようだ。『広辞苑』では「承知しておくこと」とあり、『新明解』では「何かをする前に知っておくべきこと」とあるだけで、必ずしも「宗教用語」ではなさそうだ。とはいえ、キリスト教でも仏教でもよく使われる言葉のような気がする。
 
 私が思うに、この「心得」を印刷するなり、ホームページを使うなりして、もう少し公開してもよいのではないか。各教会によって心得の表記は異なるだろうが、何らかの方法で信徒に伝達する手段があればと思う。

 わたしの所属教会では「信徒名簿」(2)に「カトリック信者の心得」がなんと14頁にわたって詳しく書かれている。先々代の主任司祭の手になるものと聞いているが、よく出来ている。

 

 

 信者の心得は『祈りの友』(サンパウロ)が参考にされることが多いようだが、ここではミサに出席することや献金の話は「諸注意」に入っている。「心得」には「経済的援助」と一般的に書いてあるだけである(3)。

 教会維持費とは「月定献金」と「ミサ献金」(プラスその他時々の献金)のことだ。大きく言えば、月定献金は「教区」(4)に納め、教会の活動・維持管理と司祭の生活費に充てられる。ミサ献金は「日本や世界」中の教会のために使われる。「献金袋」がまわる教会と、入口に「献金箱」が置かれている教会があるようだ。教会によっては、教会の改修・改築基金を献金に組み込んでいるところもあるようだ。

 月定献金がどのように算出され、集計されるのかはわたしにはわからないが、私どもの「信者の心得」には「収入の1パーセントを目安に」と書かれている(5)。大事なのは何パーセントかではなく、教会維持費が信徒の心得のひとつであることを折を見て教会の中で伝えていくことだと思った。


1 私ども教会では、「信徒総会」と呼ばれていたものが昨年から「信徒大会」という名称に変わった。何が理由かはわからないが、教会委員長の判断だという。議事に変更があるわけではなかった。
2 教会の名簿も取扱が難しいようだ。氏名と霊名だけではなく、住所・(固定)電話番号・所属組名が書かれている。望めば記載をお断り出来るようだが、プライバシー重視の時代にそぐわないという声も聞く。名簿そのものを廃止した教会もあると聞いている。ホームページもあまり活用されていない教会も多いと聞く。
3 念のために転載しておこう。

 【信者の心得】

 朝、目がさめた時、まず十字架のしるしをして、一日を神にささげ(起床の祈りを参照)なるべく早く朝の祈りを唱える。そして、その日一日を神とともに過ごす決心をする。
 日中、神のみ旨に従って過ごすようにつとめる。大事な仕事や食事の際にはいつも祈り、また、生活全体に祈りの気持ちが生かされるようにつとめる。
 夜、その日に受けたお恵みを神に感謝し、できるだけ家族そろって夕の祈リを唱える。良心を糾明し、回心を新たにする。床につくとき、神のご保護を願い、すべてを神に委ねて、やすらかな心で眠る。
 自らの本分にしたがい、良心的に、勤勉に、労働または学業に励む。
愛と親切な心をもって他人に接し、その救いのために協力を惜しまず、よい模範となるよう心がける。
 つつしみを忘れず、罪の機会をさけ、誘惑にあったときには、神の助けを願って、これにうち勝つようにつとめる。
 忍耐と犠牲の心を養い、苦しみや災難に対し、キリストの受難と光栄を思い、それを乗り越える力を神に願う。
 日常、聖書に親しみ、また信仰に関する書物を読み、キリスト信者としての教養を深め、徳を身につける。
 神の民であるキリスト信者同士の交際に、できるだけ参加し、信徒使徒職活動を、少なくとも祈りと理解で後援し、おのおの可能な限り実際の活動に参加、協力する。
 所属する教会の発展、維持のために強い関心をいだき、ことに経済的援助を分に応じて果たすよう心がける。

【諸注意】

 洗札を受けてカトリック教会の信者となったものは、教会の教えに従って信仰生活を送ります。教会には、わたしたちの信仰生活をより豊かに、みのりあるものにするために、さまざまな取り決めがあります。

 次の具体的なことを自覚する。
1.洗礼は、キリストの教えを理解し、受け入れ、受洗の希望を表わしたものに授けられる。
2.信者の両親は、自分の子供が、洗札の恵みをできるだけ早く受けられるよう配慮する。
3.洗礼を受けた人は、その信仰をさらに強め、キリスト者としての生活に必要な恵みを受けるため、堅信の秘跡を受ける。
4.幼児受洗者の親は、子供が七、八歳になったら、初聖体を受けられるよう、司祭に指導を願う。
5.聖体を受ける者は、固形物、流動物のいずれも一時間前より摂らないこと。水や医薬は直前までゆるされている。
6.しばしば、ゆるしの秘跡を受けるように心がける。
 少なくとも毎年一回、復活の祭日のころに、ゆるしの秘跡を受ける。病人は司祭を自宅に招いて、ゆるしの秘跡を受けることができる。そして、不幸にも大罪を犯した者は、できるだけ早く、秘跡によるゆるしを受けるべきである。
7.病気のため、主日、祭日のミサに長期にわたって参加できないとき、司祭に申し出て、目宅、病院などで聖体を受けるようにする。病気が重くなったり老齢のために重態と判断されるときには、司祭に連絡して病者の塗油の秘跡を受ける。周囲の人もこれに気を配るようにする。
8.信者の結婚は、本人にとってはもちろん、教会にとっても大事なことである。ゆえに、信者と結婚しようとするときにも、洗礼を受けていない人と結婚しようとするときにも、少なくとも挙式予定の一か月前には主任司祭に報告して、その指示を受けるようにする。そして必要な手続きを終えた上で、祝福された結婚式をあげるようにする。また準備に必要な要理指導、結婚講座を受けるようにする。
9.日曜日(主日)と守るべき祭日には、労働を休み、ミサ聖祭にあずかる。日本での守るべき祭日は、主の降誕(クリスマス)と主の昇天となっている。主の昇天は次の日曜日に祝われるように定められている。聖母の被昇天と諸聖人の視日は当日に祝われるが、司牧上適当と認められる場合は次の日曜日に祝うことができる。当日に守るべき祝日ではない。
10.日曜日と守るべき祭日には、大きな不都合の生ずる事情のないかぎり、労働を休み、休息をとる。(日常の家事は、この労働には含まれない)。
11.大きな支障のないかぎり、日曜日と守るべき祭日は、ミサ聖祭にあずかり、聖なる日として過ごす。ミサにあずかれないときにも熱心に祈り、聖書を読むようにつとめる。
12.教会の定めに従って、灰の水曜日と聖金曜目には大斎、小斎を守る。
 大斎の日には、一回だけ十分に食事を摂リ、他は少量の食事にする。(満二十一歳より満五十九歳までの信者)。
 小斎の日には鳥、獣の肉は食べない。(十四歳以上)。
13.毎金曜日は、償いの日として定められているので、主キリストの受難を記念し、自発的に愛徳、犠牲のわざに励む。
14.自分の所属教会に、教会の維持、布教の活動の援助のため、教会維持費を納める。
15.ミサ聖祭のとき、自らの奉献といけにえへの参加の印として献金する。
16.だれでも、家族のため、亡くなった方のため、あるいはその他の特別な意向のため、司祭にミサを依頼して祈ることができる。ミサを依頼するときは、あらかじめ、自分の意向と希望する日時を司祭に申し出、応分の謝礼をすることになっている。
 生活の困難や特別な恵みを願いたいとき、また人へのプレゼントとしてもミサをささげていただくことをすすめられる。
 特に親戚(受洗なしで召された方も含めて)の命日にミサをささげていただくことは意味深く、大切な愛徳の行為である。
17.ミサを依頼したときと同様に、洗礼、堅信、結婚、葬式などの司式を依頼したときは、挙式教会およぴ司式者その他開係者に、その謝意を表わすために、教会の維持、およぴ経済的援助の意味を含めて、適当な謝礼をするならわしになっている。
18.カトリック信者はかならず教会(小教区)に所属していなければならない。(どこかの教会に籍をもっていなければならないヽしたがって信徒が移動するときは、今までの所属教会に申し出て、信者転出証明書をもらう。そして移動先の所属教会に提出し、信者名簿に記入してもらう。
        (以上)
 わかりやすいが、それほど具体的ではない印象がある。

3 カトリック教会では、宗教法人上の法人格は「教区」であって、「小教区」ではないようだ。「カトリック中央協議会」や「横浜司教区」が包括宗教法人らしい。税法上は公益法人で、所轄官庁や税務署に提出する書類は大変らしい。
4 東京大司教区では「1~3%」と書かれている(「信仰生活の助け」)。日本のお寺さんでは檀家としての維持費やお布施の額は寺や檀家の格で異なるようだ。神社では祈願料が主体でお賽銭や氏子の寄付は比重が低いらしい。政党の党員の会費はかなり幅があるようだ。教会や寺院や政党の比較は面白そうなテーマだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ的からラテン的へのパラダイム変換 ー アウグスティヌス ー

2020-02-16 14:27:56 | 神学

 神学講座2020の第4回である。あいにくの雨であった。第3章のタイトルは「アウグスティヌス ー ラテン的・西方的神学の父」となっている。ヒッポのアウグスティヌス(354-430) Augustin である。知らない人はいないラテン教父の代表者だ。キュンクはバランスのとれた評価を心がけているようだ。アウグスティヌスがキリスト教をラテン化し、西欧化させたことを強調している。

 

 

Ⅰ 新しいパラダイムの父

 キュンクによると、アウグスティヌスには二つの大きな特徴があるという。

①西方の神学と信仰に深い刻印を与えた
②東方から最も厳しく拒絶された神学者 

 どういうことか。アウグスティヌスはキリスト教神学の「パラダイムの大変換」をおこなった。つまり、それまでのギリシャ的・ヘレニズム的キリスト教をラテン的・カトリック的(西欧的)キリスト教に転換したからだという。パラダイム変換は「進歩」だけを意味しない。かならず「喪失」を伴う。アウグスティヌスというこの極めて現世的な男、鋭い弁証家、輝かしい文章家、情熱溢れるキリスト者は、何を捨て、何を作り出したのか。

Ⅱ オリゲネスとアウグスティヌスの共通点と分岐点

 前回取り上げたオリゲネスとこのアウグスティヌスの共通点は多い。二人とも、キリスト教信仰と新プラトニズムを和解させ、神学とはキリスト教信仰についての「方法的」反省だと理解し、聖書解釈は逐語的ではなく霊的・比喩的におこなった。

 だが違いも大きい。ギリシャ教父とラテン教父の違いと言っても良いかもしれない。アウグスティヌスの誕生ははオリゲネスの死後100年だ。ミラノ勅令(313)やニケア公会議(325)の後であり、ローマ帝国はキリスト教になっていた。アウグスティヌスは活躍し、やがてローマ帝国の滅亡を目の前にしながらこの世を去って行く(『神の国』は426年)。この100年の違いは大きい。

 オリゲネスはギリシャ哲学は詳しかったが、アウグスティヌスは修辞学の教師で哲学は素人であり、ギリシャ語も出来なかった(嫌った)という。オリゲネスは聖職位階に批判的だったが、アウグスティヌスは最終的には司祭となり、司教となり、活躍していく。つまり、オリゲネスはギリシャ人であり、アウグスティヌスはラテン人だった。
 オリゲネスは異教的・敵対的環境のなかで殉教者のように生きた。アウグスティヌスは、キリスト教的環境の下に育ちながら、いちどキリスト教を拒否し、マニ教の世界で生き、やがて「回心」を経験する。
 キュンクは、だから、アウグスティヌスは「教会教父の黄金時代」を生きたとはいえ、三つの「危機」を克服せざるを得なかったという。

Ⅲ 危機のなかの生涯

 アウグスティヌスはローマ帝国が支配する北アフリカ(現在のチェニジアあたり)で育った。17歳で結婚しており、子どももいた。マニ教(性的欲望は悪だという善悪の二元論)にまつわる出来事はあまりにも有名な話なので触れるまでもあるまい。やがてかれは30歳でローマへ旅立ち、ミラノで司教アンブロシウスと出会い、司教への途を駆け上っていく。他方、この北アフリカの地ではやがてキリスト教は衰退し、7世紀にはイスラムによって廃墟とされ、歴史の藻屑と消えていった。

Ⅳ キリスト教への転換

 司教アンブロシウスの新プラトン主義との出会いにより、アウグスティヌスは「決定的な回心」を経験する。庭園で聞こえた子どもの言葉「取りて読め」で回心したかれは(『告白録』)、世俗的生活と快楽主義的習慣を捨て、徹底した禁欲的生活に入った。親からの財産をすべて売り払い、私的所有を完全に断念したという。35年もの長い司教生活のなかでかれは厳しい戒律を守った。まわりのかれ以外の司教は大部分が妻帯していたにもかかわらずである。かれのこの姿勢が、後の西方のラテン教会の神学を形作り、修道会の模範になっていった。

Ⅴ ドナティスト派の危機 ー 真の教会をめぐる争い

 アウグスティヌスは司教としても神学者としても精力的だった。『告白録』『神の国』では聖書からの引用は4万を超えるという。
 かれの神学には二つの巨大な「危機」の刻印が押されているという。一つは「ドナティスト派の危機」であり、第二は「ペラギウス派の危機」である。この危機の乗り越え方が、かれの神学を、つまり後のカトリック教会の神学を、①職階主義的にし(聖霊主義教会論を離れ)、②恩寵論的にした(自由意志論を弱めた)という。

 ドナティスト派(1)との闘いに、最後はアウグスティヌスはカトリック教会の代表として勝利する。とはいえ、かれの教会観はこの闘いのなかで「制度主義的」なものに変質していった。ドナテゥス派の成立の背景として、この時代のキリスト教がすでに「大衆化」していたことを忘れてはならない。世俗化した教会は堕落し始めていた。例えば、堕落した、罪を犯した司祭の洗礼は有効なのか、という問いがある。今風にいえばサクラメントの「事効」説と「人効」説の対立だ。闘いは激しく、長く続いた。カトリック教会は今や「迫害される教会」から「迫害する教会」へと変わっていた。アウグスティヌスは「教会の統一」に熱心に取り組んだが、つまり、ニケア派(カトリック派)とドナティスト派の和解を試みたが、司教や皇帝の介入に苦しんだ。結局かれは、例えば典礼に関していえば、有効性の問題と合法性の問題を区別しなければならないと述べた。つまり、不品行な司祭が何をするかではなく、神がキリストにおいて何をするかが重要だと主張した。要は、ダメな司祭による典礼も教会の意向のなかで秩序正しくおこなわれれば有効だ、という考えだ。これは後の神学では「働きそのものによって エクス・オペレ・オペラート ex opere operato 」とよばれ、典礼は単純にそれが遂行されさえすれば有効だということになった。これは現在でも有効な教義である。

Ⅵ 宗教の事柄における暴力の正当化

 このドナテゥス論争で、アウグスティヌスは「見える教会」と「見えざる教会」の区別をおこない、教会論と典礼論を細部にわたって明確化した。411年のカルタゴでの両派の論争でアウグスティヌスは勝利を収める。だがそれは暴力と流血をともなう勝利であった。
 この勝利は、アウグスティヌスがそれを望んだか否かは別として、異端者や教会分裂(Schisma)を起こす者たちに対する暴力の行使を神学的に正当化していった。こうしてドナテゥス派は壊滅した。大多数は国家の暴力に屈した。だがこの勝利は高くついた。ドナティストの没落と共に誇り高いアフリカの教会は消えていく。そこにイスラムが入ってくるのは時間の問題だった。

 アウグスティヌスはこうして、逸脱者に対する強制改宗・異端審問・聖戦の神学的正当化の共犯者となる。これは他のギリシャ教父たちは決して足を踏み入れなかった領域だという。

 といっても、アウグスティヌス個人はヒッポに住む非キリスト者たちを根絶しようとはしなかったという。救いといえば救いだろう。キュンクはアウグスティヌスを一方的に批判しているわけではない。

Ⅶ ペラギウス派の危機 ー 恩寵をめぐる論争

 アウグスティヌスは神学者から司教になる過程で制度的な思考に傾き、厳格になり、非寛容になっていった。ペラギウス派の挑戦を受けて立ったのである(2)。これは結局は「恩寵か自由意志か」にかかわる神学論争である。そしてあまりにも大きな(悪)影響を後世に残した「原罪論」を作り出した。キュンクは、この危機は「アウグスティヌスの神学を先鋭化し狭隘化した」(123頁)とまでのべている。
 ペラギウスも恩寵の重要性を認めていた。だが、ひとたびキリスト者になれば自らの「自由意志」に基づいて、自分の行為によって救いへの途を切り開かなければならないと主張した。だから「原罪」という表象を拒絶した。
 譬えはよくないが具体的に考えてみよう。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は「原罪」を持っているのか。ペラギウスは、人間は罪無くして生まれてくる。人間は自分の責任で堕落する。だが自分の自由意志で回心することもできるとした。これはまるで昔の古典的なストア派の倫理観である。
 アウグスティヌスは違うという。「新生児の無罪性」の主張は、神と人間の関係の歪曲であり、救済の必要性を無視する議論だと考えた。恩寵による救済を重視した。
 やがて公会議の開催、破門、と激しい政治闘争と神学論争が続く。アウグスティヌスはマニ教のかどで告発される。ペラギウス派のユアヌスは性的な事柄になんら道徳的問題はないと主張した。婚姻関係にある男女の性行為は問題ないと主張した。アウグスティヌスは反論する。性行為には悪魔の烙印が押されており、肉の悦びからの節制によってしか人間は救われないとした。若き日の自堕落な生活を思い起こしていたのだろうか。

 性行為を罪悪視するこういう原罪観は本当にカトリックの見解なのだろうか。アウグスティヌスが『告白録』で描いた人間の意志の弱さ。肉の衝動が神の意志を遂行することをいかに妨げるか、それゆえ絶え間なく神の恩寵を必要としていると述べたのはアウグスティヌスだ。意志の支えのために恩寵を必要としているという。

 だが、最後の疑問が残る。この「意志」そのものが、意志すること自体が、「悪」なのではないか。アウグスティヌスの問いは続く。

Ⅷ 原罪と予定説

 世界のすべての「悲惨な出来事」の背後には一つの巨大な罪が隠れている。「原罪」だ。この罪がすべての人間の上に作用を及ぼしている。こういう思想は古くから、どこにでもあった。
 キュンクによると、アウグスティヌスはこの原罪観を、①堕罪の歴史化 ②堕罪の心理学化 の2点から説明したという。

 堕罪の歴史化とはなにか。アウグスティヌスによれば、人間はアダムの堕罪によって最初から深く腐敗させられている。ローマ書5:12 「彼においてすべての人が罪を犯した」。アウグスティヌスはこの「彼」をアダムと読んだ。ギリシャ語の原テキストとラテン語の翻訳の問題もあり、聖書学者の間でも議論がある問題らしいが、アウグスティヌスはここに、アダムの「原ー罪 Ur-Suende」のみならず、「原罪 継承ー罪 Erb-Suende 」を読み取ったという。これが人間が生まれながらにして身体と心を毒され、死の虜になっている理由なのだという。

 もっと大きなアウグスティヌスの原罪観の問題は、かれが「原罪の継承を性行為と結びつけ」(129頁)たことだという。かれは人間の本性の中心を性的なものに置く。特に性欲は人間本性の腐敗の源だという。性欲は行為の最初と絶頂において、また睡眠中に、意志のコントロールから引き離される。性的な事柄そのものが悪なのではない(それではマニ教になってしまう)。コントロールできないことが悪なのだという。だから、洗礼という救済のわざが必要だという。特に幼児洗礼が必要だという(3)。

 だが、これらすべてが神の恩寵によって起きているのなら、どこに人間の自由の余地があるのだろうか。恩寵と自由の問題である(4)。
 アウグスティヌスによれば、人間の自由が神の恩寵に動機を与えることはない。逆である。人間は恩寵によって自由へと突き動かされる。恩寵は獲得するものではない。贈り与えられるものだ。神の贈与のみが人間においてすべてを生じさせるのであり、人間の救済の根拠である。

 ここで素朴な疑問が湧いてくる。では、なぜこの世には救われない人間がこれほど多くいるのか。悪をなす人間が多くいるのか。アウグスティヌスの答えは「二重予定説」だ。すなわち、神は、天使の堕罪によって生じた欠員を他の理性的存在によって補充するためにごく少数の人間だけを祝福へと予定している、と考えた。他の「断罪にあう大多数」とはちがうごく少数の人間だけが救われるというのだ。

①人間の「救済」は神の「憐れみ」だ
②人間の大多数の「棄却」は神の「義」だ 自由意志で悪を選択した人間は断罪への道を歩むが神はそれを放置している

 オリゲネスなら、ギリシャ教父なら、こんなことは決して言わない。やがてカルヴィンはこの予定説をさらに徹底化していくが、キュンクによれば、これは「恐るべき教え」である。アウグスティヌスは一体全体何を考えていたのか。

Ⅸ アウグスティヌスに対する批判的反問

 アウグスティヌスの功績は疑問の余地はない。わざの重視に傾きがちな西欧の神学を、パウロの義認の神学へと方向付けた。そして「恩寵」の意味を明らかにした。恩寵論が西方教会の神学の中心になってくる。
 他方、東方教会は、ヨハネの神学そのままに「人間の神化」に関心を集中し、パウロの義認論を無視した。やがて西方のキリスト教は、わざの宗教や律法の宗教から、恩寵の宗教へと脱皮していく。だが、このアウグスティヌスにして、後のラテン教会の発展に関して責任のある問題を残してしまった。キュンクは3点指摘している。

①性的な事柄の抑圧

 性と罪に関するアウグスティヌスの教説である。性行為は子どもを産むためにのみおこなわれるべきであると主張した。性的悦びが夫婦の関係を豊かにするなどかれには考えられなかった。性的リビドーは異端の烙印が押されてしまったのだ。キュンクは、ベネディクト16世を皮肉って言う。いまだに教皇が大真面目に次のような見解を表明している。「男が自分の妻を見るという行為がまさに純粋に快楽のために起こるなら、それは淫らに見ることになる」。こういうことを言うようでは、キュンクがヴァチカンに受けがよくないのはよくわかる(5)。

②恩寵の物象化

 東方教会では、人間の「神化」、「不死性」、「永遠性」に関心が集中し、「恩寵」論は全く発展しなかった。西方教会では、恩寵はすでに単に聖書的にではなく、神の御心として、罪の免除として、理解されてきていた。アウグスティヌスはさらに恩寵を人間のなかの「力」として理解する。それは「注入された恩寵」とされた。これは、神ご自身というよりは、「被造的恩寵 gratia creata 」と呼ばれ、ラテン的な神学と中世の教会が合体していく基礎となったという。

③予定説

 予定説は人を不安に陥れる。他のギリシャ教父たちは、堕罪の後でも人間には決定能力があるという教理を保持し続けた。かれらは、救われるか救われないかについて神が前もって無条件に予定のようなものを持っているとは考えもしなかった。だがアウグスティヌスは、ペラギウス派への過剰な恐怖心と防衛心から、マニ教的な予定説を引き継いでしまった。未受洗の赤ん坊さえ神は義のために最初から永遠の断罪に定めているという。キュンクは何と恐ろしい教説だろうと詳しく批判していく。イエスの使信にこんなことは書かれていない。アウグスティヌスの責任は大きい。

④新しい三位一体論

 ギリシャ人にとり、すべては唯一の父なる神から始まる。父こそ神である。子の神性、聖霊の神性は父から与えられる。一つの星が他の二つの星に光を与えているともいえようか。
 だがアウグスティヌスは違う。三つのペルソナのすべてに共通な、神的本質・栄光・尊厳から出発する。父は御子において自身を認識し、御子は父において自身を認識する。ここから人格化された愛として聖霊が出てくる。聖霊の根源は父と子の両方だ。ニケア・コンスタンチノープル信条にあるように、「聖霊は父から、そして御子からも発出した」(『カトリック教会のカテキズム』では「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され」)となる。東方教会では聖霊は父からのみ発出していると考え、現在でも聖霊の二重の根源説は否定されているようだ。
 アウグスティヌスのこの新しい三位一体論は完成されたものではない。キュンクは「構想」と呼んでいる。だが大きな貢献であることは間違いない。だがアウグスティヌスにはこの構想を完成させる時間は残されていなかった。

Ⅹ ローマ帝国の重大な危機

 410年8月に、フン族に圧迫されたゲルマン系の西ゴート族がローマを攻略し、数日にわたって略奪した。北アフリカにとり対岸の火事では済まない。この古代世界の首都が滅亡するなどありうるのか。なぜこんなことになったのか。

①異教的な古ローマの答え:ローマの神々の復讐であり、キリスト教徒こそ責任がある
②キリスト教的な新ローマの答え:これは神の罰だ。キリスト教的なビザンチンが古いローマに取って代わるのだ
③アウグスティヌスの答え:『神の国』を執筆した(6)。

 22巻のうち最初の10巻は「弁明と論争」だという。そこではローマ史の「非神話化」がなされる。ローマには国家の正義が欠けていた。国家の目的は正義を基礎に置いた秩序のなかで平和を維持することである。
 ローマの古い神々も非神話化される。ローマの没落には、キリスト教徒に責任がないだけではなく、ローマの神々が無力だったからだ。そもそも神々など存在しないとした。アウグスティヌスはギリシャ・ローマの神々への信仰を徹底的に批判し、破壊した。
 アウグスティヌスはキリスト教徒にも語りかける。キリストという神による保護を異教徒に持ち出すことを批判した。キリスト教徒の神は、人間を不幸から守るために地上で富や幸運を確保してやるなどとは約束していない。そんなことを信じているのは神を信じていないからだ。「神を信じる者は、ただ神の前で心の貧しい(謙虚な)者だけである」(143頁)。人間は人生の遍歴において苦悩を避けることは出来ないが、それに耐えることは出来る。そして終末がすべての苦悩からの解放と永遠の平安をもたらしてくれる。これはアウグスティヌスの「神義論」である。

ⅩⅠ 歴史の意味とは何か

 『神の国』の後半12巻は、歴史の根拠と意味の考察に向けられているという。歴史とは現世の国(地上の国)と神の国との対決である。それは救いの歴史であり、災いの歴史である。アウグスティヌスは歴史を「七つの時代」にわけて歴史の「目的」を描いている。
 私にはこの描写を要約する力は無い(7)。キュンクによれば、アウグスティヌスはキリスト教帝国には不信感を抱いている。だが、神の国はこの地上の時間のなかでは「カトリック教会」として姿を現している。神の国の地上における具体化であり、可視化である。だがそれは神の国と同一ではない。現世の国家が作用を及ぼしているからだという。

 アウグスティヌスは現代的意味での歴史家ではない。歴史の意味の見取り図を描いているだけである。だが、かれは「歴史神学」の創始者と呼べるという。歴史をなにか目的を目指して進む一本道の直線的動きとして捉える史観だ。到達すべき目的は永遠の神の都、平和の国、神の国である。こういうキリスト教的史観は、「循環的な、ヘレニズム的な、インド的な理解とは全く異なり」(146頁)、一つの神によって導かれる、方向付けられた運動である(8)。

 ヴァンダル族はアリュース派だった(9)。ヒッポもかれらによって包囲された。430年8月、かれらが防衛戦を突破する前に、アウグスティヌスは息を引き取った。西ゴート族がローマを略奪してからちょうど20年目である。ローマの世界支配はここでも終焉を迎えた。だがアウグスティヌスの神学はヨーロッパ大陸にわたり、世界史を形作っていく。
 
 キュンクはつぎのようなアウグスティヌスの言葉で本章を結んでいる。『神の国』の最後の文章だという。

「第七の現世の時代は、われわれの安息日であるだろう。その日の終わりには夕暮れは来ないで、永遠の第八の日が、主の日が来るだろう・・・その時わたしたちは自由になり、見るだろう。愛して、讃えるだろう。見よ、終わりなき終わりにはそのようになる。なぜなら、終わりなきこの国に至るという以外に、どこに私たちの終わり(目的)があるというのだろうか。」(148頁)



1 ドナトゥス派は、ローマ帝国で既に多数派となっていたキリスト教が堕落したことに反発し、教会の純粋性を強調した。昔の殉教時代、教会迫害時代を覚えていた人々は、「聖霊主義的な」教会理解とサクラメント理解をまだ保持していた。当然、教会と典礼の「客観的聖性」を主張するカトリック派と対立する。長い闘いの後、カトリック教会はアウグスティヌスの指導の下に412年にかれらを強制的に自分たちの教会へ併合する。
2 ペラギウス(生没年不詳)とは、英国出身だがローマで活躍した禁欲的修道者だという。カルタゴには410年に来ている。堕落したキリスト教徒に厳格な道徳的規律を求めたという。
3 成人洗礼ばかりであった初期キリスト教の時代とは異なり、幼児洗礼が主流になるほどキリスト教徒が増えていたとも解釈できよう。
4 恩寵とは、grace(英)、gratia(ラテン)、charis(ギリシャ)のこと。「恩恵」とも訳される。人間の側の条件なしに神から授けられる無償の賜物のこと。旧約では「選び」、新約では「義認」と呼ばれることもあるようだ。自由意志さえ恩寵を前提とすると考える。自由意志論争(恩寵論争)は、普通、宗教改革期の論争とされるが、実際には昔からあるもので、キリスト教神学を貫いている論争のようだ。キュンクのこういう言い方は後世のイエズス会とヤンセニズムの論争を想起させる。
5 たまたま、今日年間第6主日の福音書朗読はマタイ5:17-37だった。「山上の説教」のところだ。殺すな、腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、復讐するな、敵を愛せ、などなどと続くところだ。神父様はお説教で主に「義」という文脈で説明しておられた。
6 『告白録』は良く読まれるが、『神の国』の通読は難しいらしい。
山田晶 『アウグスティヌス講話』新地書房 1986
加藤信朗 『アウグスティヌス 告白録 講義』知泉書館 2006
金子晴勇『アウグスティヌス『神の国』を読む -その構想と神学-』 教文館 2019
 ちなみに、私の洗礼名はアウグスティヌスだ。男子では結構ポピュラーな洗礼名らしい。現在はやりはやはり、アシジのフランシスコか。日本では、ヨゼフ、フランシスコ・ザビエル、マルコ、洗者ヨハネ、トマス・アクィナス、などが多いという。
7 キュンクも、上掲の金子氏も説明してくれているが、わたしにはあまり良くはわからない。
8 こういう直線的な発達史観そのものの評価についてはキュンクは何も語らない。こういう直線的・終末論的時間の観念と、輪廻的・円環的時間の観念との比較が欲しいところである。
9 アリュース派はキリストの神性を父なる神の下に置く。キリスト従属説とも呼ばれるらしい。カトリック(ニカイア派、アタナシオス派)とは異なり三位一体論を否定する。かれらは短期間にハンガリーからヨーロッパ全土を通過し、スペインに至り、北アフリカにまで進んだという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奉献文は誰が唱えるのか ー 第39回横浜教区典礼研修会に出る(2)

2020-02-13 11:02:07 | 教会

 

 

 午後の部は、O師による奉献文の説明と、第3・4奉献文の共同の「唱和」だった(1)。

 O師はまず、神秘(ミサ)に「与る」というのは、「上からいただく」という意味ではなく、「参画する、くみする」という意味だと説明された。そして、奉献文は感謝の祈りであり、「会衆の一致」が強調されていると説明された。「会衆」と「群衆」が対比的に説明され(2)、「主日ミサにいる人々は会衆なのか群衆なのか」と問われた(3)。

 ついで、参加者が二組に分かれ、対面して、第3奉献文と第4奉献文が唱えられた。私は奉献文は読んだことはあっても唱えたことはないので驚いた。司祭もミサごとにこの長い奉献文を祈っているのだから本当に大変だと感じた。特に第4は長い(4)。

 このあとの質疑応答は長く、また真剣なものだった。だが結局時間切れになってしまった。出た質問を思い出すままに書いておきたい。

①奉献文は四種類あると言うがどう違うのか。
主にO師が答えておられた。どう使い分けるのかについては説明は簡単だった。


②奉献文は誰が作ったのか。なぜ4つなのか。
これは難しい質問だったらしく、O師は音を上げてマイクをK師に渡された。K師が答えておられた。歴史的説明から入り、丁寧な説明であった。第二バチカン公会議のあと、日本独自の奉献文を作ろうという動きもあったが沙汰止みになったという興味深い話もされた。


③年間主日の叙唱はどう選んだらよいのか。
O師が答えておられたがわたしには理解できなかった。私が質問を聞き違えたのかもしれない(5)。


④感謝の典礼なのに奉献文に赦しの話がないのはなぜか。
これも第二バチカン公会議における奉献文の扱いの話でK師が答えておられた。また、日本語では「奉納」と「奉献」の意味や語感が近すぎて区別が難しいとの指摘は興味深かった。

 この後、ごミサがあった。講演のあとなのでなにか新鮮に感じられた。福音朗読をされた若い(協力)司祭によるボストンでの神学校での経験を交えたお説教は熱意が感じられて心を洗われた。こういう人たちがこれからの日本の教会を支えていってくれるのだと安堵感があった。

 ということでこの研修会は大いに勉強になった。準備された藤沢教会の方々や、教区典礼委員会の神父様方の熱意には胸を打たれた。だがなにか運営にもう一工夫があっても良さそうだった。参加者は高齢者ばかりではない。女性ばかりではない。また質問から見て参加者の要求水準も高そうだ。もう一段工夫されたというか丁寧な研修会を望みたいところだ。
 例えば、この研修会の成果のフィードバックはどうなっているのだろうと思う。参加者が旧交を暖め、新たな知識を吸収してそのまま自分の教会に帰るだけではあまりにももったいないと思う。ここで得た成果を自分の所属の教会にフィードバックする手立てをこの研修会のなかで話し合うことは出来ないのだろうか。私のような第三者があれこれ言う筋合いの話ではないが、各教会の典礼委員の責務の大きさを強く感じた。ご苦労様だがこれからも頑張って欲しいと願う。

1 質疑応答のなかで、「歌う」と「唱える」はどう違うのかというのがあった。音楽的には「節」がついているかどうからしいが、ミサのなかではどう区別しているのか。神父様方もうまく答えられず、珍しくしどろもどろだった。わたしなども、「栄光の賛歌」は唱えるときはすらすら出てくるが、歌うとなるとつまづく。「主の祈り」は「唱えろ」と書いてあるが、歌えと言われたら歌えるのだろうか。
2 O師は総則78を引用して、会衆という言葉を使っておられるようだ。社会学から見れば、群衆の対概念は公衆であって、会衆というのは聞いたことがない。会衆とは、教会用語としてはcongregationの訳語であり、教会の構成員という意味なのではないだろうか。
3 O師は質問のなかで、司祭とか神父という言葉を決して使わず、「司式者」という言葉をずっと使っておられた。ミサの話だからそういうものなのかもしれないが、私にはなにか違和感が残った。また、この問いにも質疑応答のなかで質問が集中した。例えば、奉献文は、数も多く、歴史的経緯もあるとは言え、現在は人間の側からの賛美と感謝の祈りとされている。昔は(ローマ奉献文では)悔悛と生け贄が強調されていた。O師は「会衆の一致」ということを強調しておられるが、それが奉献文の中心なのか、という質問もあった。かなり手厳しい質問であった。
 O師は答えてはいたが、それにしてもまだお若い師はご高齢の質問者に対してどうしてこういう「上から目線」の応答をされるのか。公会議で時代が変わったというのは致し方ない。質問の妥当性より、回答の正邪より、こういう場でのやりとり・交流は、信徒を励まし、信仰を深めることが目的のように思える。司祭の霊性というと大げさだがなにか株主総会みたいな印象を持った。
4 質問としては出なかったが、やはりかすかに疑問は残った。奉献文って信徒が唱えるものなのだろうか。特に「栄唱」は司祭にのみ許された祈りであり、今まで(日本でのみ)許されていた「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」は信徒は唱えないで、「アーメン」とのみ唱えるようにとの話が教会で繰り返しなされてきていたこととどう整合するのだろうか。
 例えばわたしの所属教会ではこの件はあるときミサの司会者がミサが始まる前に唐突に「通告」した。理由も背景の説明も全くなかった。われわれ信徒は次のミサからは注意して唱えなくなったが、それでも数十年唱えてきた祈りだからすぐに止めるわけにはいかない。ついつい口にしてしまう人もいる。するとまわりからかすかな失笑が起こる。ご本人は当惑するしかない。なぜきちんとした説明がないのか不思議である。
5 叙唱は恐らく旧約や書簡との関連で選ばれるのだろうが選択の根拠の説明はなかった。典礼書通りということなのであろう。叙唱(かっては序誦)は奉献文の一部なのか独立しているのかもはっきりしない。『キリストと我等のミサ』だと「叙唱」「叙唱前句」は独立しているような印象を与える。『ミサに親しむためにーバージョンⅡ(式次第と解説)』でははっきりと奉献文の一部として位置づけられている。
 ちなみにその文言(翻訳)も興味深い。普段われわれはこう唱える。
  司祭:  主は皆さんとともに。
      会衆:  また司祭とともに。
      司祭:  心をこめて神を仰ぎ、
      会衆:  賛美と感謝をささげましょう。
英語だと
  Celebrant: The Lord be with you.
      Congregation: And also with your spirit.
      Celebrant:  Lift up your hearts. または Let us lift up our hearts.
      Congregation: We lift them up to the Lord. または We have raised them up to the Lord.
      Celebrant: Let us give thanks to the Lord.
      Congregation:  It is right and just. または It is right to give him thanks and praise.
日本語訳では最後の1行が訳されていないことがわかる。
公会議前はこう訳されていたようだ。
  司祭:  主は、あなたたちとともに。
      会衆:  またあなたの霊とともに。
      司祭:  心をあげよ。
      会衆:  われらは、心を主にあげ奉る。
      司祭:  われらの神なる主に感謝しましょう。
      会衆:  それは、ふさわしく、正しいことである。
「あなたの霊とともに」「ふさわしい」「正しい」は今になると新鮮に聞こえる。
といってもラテン語だったからなにもわからなかった。
  Celebrant: Dominus vobiscum.
      Congregation: Et cum spiritu tuo.
      Celebrant: Sursum corda.
      Congregation: Habemus as Dominum.
      Celebrant: Gratias agamus Domino Deo nostro.
      Congregation: Dignum et justum est.
今はいろいろな教会でいろいろな言語でミサが挙げられているようなので聞いてみたいものだ。『6ヶ国語ミサ式次第(会衆用』には日本語・ローマ字・英・西・ポルトガル語・タガログ語)が収められている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする