Ⅳ 恩恵の教義
カトリック教会の恩恵に関する教義は以下の通りである。
①ペラギウス論争(1)の結果、救いのためにはキリストの恩恵が前提で、救いの恩恵は神から無償で与えられている(484年のカルタゴ教会会議、529年の第2回オランジュ教会会議)
②トリエント公会議の「義化の教令」は、神の恩恵と人間の協力(善行)の必要性を説き、恩恵によって実現される人間の内的変化の現実性を強調した
③ヤンセニズムとの論争の結果、ピウス5世、イノケンチウス10世、アレキサンドル8世、ピウス6世は、キリストの救いが特定の人に限定されるという考えを排斥した。
④第二バチカン公会議はキリストと聖霊の恩恵の働きの普遍性を教示した。キリスト教徒以外の者にも恩恵があるとした(現代世界憲章第22項「新しい人 キリスト」、教会憲章第16項「キリスト教以外の諸宗教」)
Ⅴ 現代神学
現代神学においては、カトリック・東方教会・プロテスタントの対話が推進され、恩恵論が刷新された。主な動向は以下の通りである。
①恩恵はキリストにおいて世を救う神の慈しみ深い決定である。従って恩恵論は、存在論的な概念よりも人格的な概念(愛、和解、出会い、友情など)を用いることがふさわしい
②恩恵は、父なる神が御子と聖霊を遣わすことによりご自分の生命を人々に与えることである。これは「創られざる恩恵 gratia increate)と呼ばれる神の人間への「自己譲与」で、人間を「神化」する恩恵である。この自己譲与概念を恩恵論の中心にしたのがK・ラーナーである(2)。これは伝統的には「成聖の恩恵 gratia sanctificans」と呼ばれてきたものである。人間の被造物的存在も変化する。このように人の内に父と子の聖霊が内在する。
③世界創造の業と、御子と聖霊の派遣による救いの業は一致する。恩恵は創造の完成ともいえる。聖霊はすべての人間に常に働く。
④神の恩恵はキリストを通しておこなわれる。すべての人はキリストによって生き、キリストに向かって歩む。キリストの死と復活により神の恩恵は全世界を包んでいる。
⑤神の恩恵は教会の境界線を越えているが、本質的に教会と関係している。神は人を個別的にではなく、一つの民として救われる(教会憲章第2章「神の民について」第9項「新しい契約と新しい民」)。これは救済予定説を解決する。
聖書の言葉(ロマ8:28-30)は、特定の個人ではなく、神の民が全体として確実に永遠の生命に入るとのべている。但し、聖書は個人が神に逆らって救いから自らを閉め出す可能性を排除しない。その可能性が現実になった人間がいるか否かは誰も知らない。
⑥人間精神への神の自己譲与は人間の精神状態を変える。遣わされた聖霊により神を愛し、互いに愛し合うように人間を内面から動かす(教会憲章第40項「すべての人が聖性に招かれている」)(3)。回心は神の恩恵によって引き起こされる根本決断である。大罪はこの方向付けを撤回することを意味する。
⑦聖霊は各人にそれぞれ特別のカリスマを与える。
⑧成聖の恩恵の状態にある人の善行が永遠の生命に値する功績であるという伝統的教えの意味は、聖霊によって育てられた愛は永遠に存続するということ(現代世界憲章第二バチカン公会議39項「新しい天と新しい地」)。報いを得るためではなく、純粋な愛によって生きる人こそ、すでに、今、神の生命に与っている。
⑨恩恵によって得られた神との和解と、人間相互の和解は、不可分である。
『現代世界憲章』
Ⅶ 他宗教との比較
①イスラム教
キリスト教と同じくアラーは人の罪を赦す慈悲深い神である。啓示も信仰も神の恩恵の賜物である(4)。しかしコーラン(クルアーン)によれば、アラーは、ある人々には不信仰の心を与え、永遠の地獄に入るためにかれらを創造したという。アラーの慈しみには限界がある。
②ヒンズー教
特にヴィシュヌ派に恩恵思想が顕著である(5)。人間は救われるためにただ神に信頼して、自分をことごとく神に委ねれば良いとする。これに対してシヴァ派、ヴァダガラ派は人が努力して修得に励んでこそ神の恩恵が期待できるとする。
③仏教
釈迦仏教ではひたすら修行による解脱が説かれるが、大乗仏教においては恩恵の思想が現れる。特に浄土教では阿弥陀仏への他力の信仰こそ救いの道であるとされ、仏の恩恵の思想を強調する。親鸞の「悪人正機説」は恩恵理念の徹底的な表現といえる。ルター、カルヴァンの思想と類似している(6)。
注
1 ペラギウス論争とは恩恵と自由意志をめぐる論争。ペラギウス(4世紀中頃)は自由意志を認めない恩恵論を批判した。また原罪論では模倣説をとり、遺伝説をとるアウグスチヌスと対立した。
2 神の自己譲与とはK・ラーナーの神学のキー概念である。神の自己譲与とは聖霊が内在することであり、恩恵の本質をなすとされる。
3 神の自己譲与はかっては成聖とか聖化(sanctification)と呼ばれた。聖とは聖別したもの、神に属するものという意味である。だが、プロテスタントはこの言葉を好まず、義認という言葉を選んだ。それは業の自力的功徳を避けるためであると言われる(岩波キリスト教辞典)。
4 イスラム教の恩恵論についてS氏は極めて好意的な紹介と説明をされた。アッラーの神とヤーヴェの神は同じであり、イスラム教の救済論は予定説に近いと説明した。氏は現役時代に中近東のスンニ派の世界で仕事をしていたというのでわからなくもないが、少し好意的すぎる説明であった。非ムスリム(異教徒・不信仰者)を抹殺し、全世界がムスリムになるまで闘いを止めないと主張するイスラム教の教義を安易に容認することはできない。キリスト教にはこういう主張はない。ただしこれはイスラム教の教義の問題であり、個々のイスラム教徒の話ではない。わたしの身近には、イラン人男性と結婚し、イランと往復しながら生活している日本人がいる。また、指導したアジア・アフリカからの留学生たちはほとんどがイスラム教徒であった。わたしはイスラム教の教義には批判的だが、イスラム教徒を知らないわけではない。
5 ヒンズー教はバラモン教からより土俗的な宗教に変容した宗教と言われる。ヒンズー教ではヴィシュヌ派とシヴァ派が主流だという。両者は「マヌ法典」は共有するが、ヴィシュヌ派は恩恵と慈愛をより強調するという。
6 一般論で言えば、日本では絶対他力説と予定説は類似しているという議論は多い。たとえば、「歎異抄」(1300年頃)と「ウエストミンスター信仰告白」(1646年)とを比較して、神・仏の絶対性・超越性の強調という共通性を指摘する議論は多い。これは次の学び合いの会のテーマになりそうだ。