カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

恩恵論は予定説を超えたか ー 恩恵論4(了)(学び合いの会)

2022-07-31 13:55:14 | 神学


Ⅳ 恩恵の教義

 カトリック教会の恩恵に関する教義は以下の通りである。

①ペラギウス論争(1)の結果、救いのためにはキリストの恩恵が前提で、救いの恩恵は神から無償で与えられている(484年のカルタゴ教会会議、529年の第2回オランジュ教会会議)
②トリエント公会議の「義化の教令」は、神の恩恵と人間の協力(善行)の必要性を説き、恩恵によって実現される人間の内的変化の現実性を強調した
③ヤンセニズムとの論争の結果、ピウス5世、イノケンチウス10世、アレキサンドル8世、ピウス6世は、キリストの救いが特定の人に限定されるという考えを排斥した。
④第二バチカン公会議はキリストと聖霊の恩恵の働きの普遍性を教示した。キリスト教徒以外の者にも恩恵があるとした(現代世界憲章第22項「新しい人 キリスト」、教会憲章第16項「キリスト教以外の諸宗教」)

Ⅴ 現代神学

 現代神学においては、カトリック・東方教会・プロテスタントの対話が推進され、恩恵論が刷新された。主な動向は以下の通りである。

①恩恵はキリストにおいて世を救う神の慈しみ深い決定である。従って恩恵論は、存在論的な概念よりも人格的な概念(愛、和解、出会い、友情など)を用いることがふさわしい
②恩恵は、父なる神が御子と聖霊を遣わすことによりご自分の生命を人々に与えることである。これは「創られざる恩恵 gratia increate)と呼ばれる神の人間への「自己譲与」で、人間を「神化」する恩恵である。この自己譲与概念を恩恵論の中心にしたのがK・ラーナーである(2)。これは伝統的には「成聖の恩恵 gratia sanctificans」と呼ばれてきたものである。人間の被造物的存在も変化する。このように人の内に父と子の聖霊が内在する
③世界創造の業と、御子と聖霊の派遣による救いの業は一致する。恩恵は創造の完成ともいえる。聖霊はすべての人間に常に働く。
④神の恩恵はキリストを通しておこなわれる。すべての人はキリストによって生き、キリストに向かって歩む。キリストの死と復活により神の恩恵は全世界を包んでいる。
⑤神の恩恵は教会の境界線を越えているが、本質的に教会と関係している。神は人を個別的にではなく、一つの民として救われる(教会憲章第2章「神の民について」第9項「新しい契約と新しい民」)。これは救済予定説を解決する。
 聖書の言葉(ロマ8:28-30)は、特定の個人ではなく、神の民が全体として確実に永遠の生命に入るとのべている。但し、聖書は個人が神に逆らって救いから自らを閉め出す可能性を排除しない。その可能性が現実になった人間がいるか否かは誰も知らない。
⑥人間精神への神の自己譲与は人間の精神状態を変える。遣わされた聖霊により神を愛し、互いに愛し合うように人間を内面から動かす(教会憲章第40項「すべての人が聖性に招かれている」)(3)。回心は神の恩恵によって引き起こされる根本決断である。大罪はこの方向付けを撤回することを意味する。
⑦聖霊は各人にそれぞれ特別のカリスマを与える。
⑧成聖の恩恵の状態にある人の善行が永遠の生命に値する功績であるという伝統的教えの意味は、聖霊によって育てられた愛は永遠に存続するということ(現代世界憲章第二バチカン公会議39項「新しい天と新しい地」)。報いを得るためではなく、純粋な愛によって生きる人こそ、すでに、今、神の生命に与っている。
⑨恩恵によって得られた神との和解と、人間相互の和解は、不可分である。

 『現代世界憲章』

 

 

 

Ⅶ 他宗教との比較

①イスラム教

 キリスト教と同じくアラーは人の罪を赦す慈悲深い神である。啓示も信仰も神の恩恵の賜物である(4)。しかしコーラン(クルアーン)によれば、アラーは、ある人々には不信仰の心を与え、永遠の地獄に入るためにかれらを創造したという。アラーの慈しみには限界がある。

②ヒンズー教

 特にヴィシュヌ派に恩恵思想が顕著である(5)。人間は救われるためにただ神に信頼して、自分をことごとく神に委ねれば良いとする。これに対してシヴァ派、ヴァダガラ派は人が努力して修得に励んでこそ神の恩恵が期待できるとする。

③仏教

 釈迦仏教ではひたすら修行による解脱が説かれるが、大乗仏教においては恩恵の思想が現れる。特に浄土教では阿弥陀仏への他力の信仰こそ救いの道であるとされ、仏の恩恵の思想を強調する。親鸞の「悪人正機説」は恩恵理念の徹底的な表現といえる。ルター、カルヴァンの思想と類似している(6)。

 


1 ペラギウス論争とは恩恵と自由意志をめぐる論争。ペラギウス(4世紀中頃)は自由意志を認めない恩恵論を批判した。また原罪論では模倣説をとり、遺伝説をとるアウグスチヌスと対立した。
2 神の自己譲与とはK・ラーナーの神学のキー概念である。神の自己譲与とは聖霊が内在することであり、恩恵の本質をなすとされる。
3 神の自己譲与はかっては成聖とか聖化(sanctification)と呼ばれた。聖とは聖別したもの、神に属するものという意味である。だが、プロテスタントはこの言葉を好まず、義認という言葉を選んだ。それは業の自力的功徳を避けるためであると言われる(岩波キリスト教辞典)。
4 イスラム教の恩恵論についてS氏は極めて好意的な紹介と説明をされた。アッラーの神とヤーヴェの神は同じであり、イスラム教の救済論は予定説に近いと説明した。氏は現役時代に中近東のスンニ派の世界で仕事をしていたというのでわからなくもないが、少し好意的すぎる説明であった。非ムスリム(異教徒・不信仰者)を抹殺し、全世界がムスリムになるまで闘いを止めないと主張するイスラム教の教義を安易に容認することはできない。キリスト教にはこういう主張はない。ただしこれはイスラム教の教義の問題であり、個々のイスラム教徒の話ではない。わたしの身近には、イラン人男性と結婚し、イランと往復しながら生活している日本人がいる。また、指導したアジア・アフリカからの留学生たちはほとんどがイスラム教徒であった。わたしはイスラム教の教義には批判的だが、イスラム教徒を知らないわけではない。
5 ヒンズー教はバラモン教からより土俗的な宗教に変容した宗教と言われる。ヒンズー教ではヴィシュヌ派とシヴァ派が主流だという。両者は「マヌ法典」は共有するが、ヴィシュヌ派は恩恵と慈愛をより強調するという。
6 一般論で言えば、日本では絶対他力説と予定説は類似しているという議論は多い。たとえば、「歎異抄」(1300年頃)と「ウエストミンスター信仰告白」(1646年)とを比較して、神・仏の絶対性・超越性の強調という共通性を指摘する議論は多い。これは次の学び合いの会のテーマになりそうだ。

 

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ペラギウス論争からヤンセニズム批判まで ー 恩恵論3(学び合いの会

2022-07-29 09:47:47 | 神学


Ⅲ 教義史

 恩恵論は古代・中世から宗教改革に至るまでの激しい論争の中で整備されてきた。近代神学・現代神学の中で論争はさらに激しくなるが、ここでは主な恩恵論の発展を要約する。

1 古代

①教父たちの恩恵論の共通点

 古代ギリシャ・ローマ世界では二つの救済論が支配的であった。一つはストア的禁欲主義の救済論(1)。もう一つは密儀宗教の秘密の儀式による救済論だ(2)。古代教父たちはこれらの汎神論的救済観念や、人間と神の本性の区別を軽視した哲学思想を否定した。古代教父たちは、神の超越性を主張し、神の恩恵によりイエス・キリストを通して救われることを強調した。
 他方、教父たちは、ストア派を批判しながらも、逆に倫理を軽視した運命論に対しても批判を展開し、神の恩恵なしには救いはなく、恩恵を受け入れ、実らせること以外に救いは無いと主張した。

①ギリシャ教父

 ギリシャ教父たちの恩恵論は、ヨハネ福音書に従う。三位一体と受肉の神秘に基づき、神の救済的働きを説明する(アタナシオスの受肉論)(3)。
 また、本来被造物である人間は恩恵によって神の子となる。すなわち人間が神性を受ける。ギリシャ教父に固有の「神化」(Theopoiesis)の思想(4)を展開した(カイサリアのパシレイオス)(5)。

②ラテン教父

 ギリシャ教父が恩恵について「神化」に重点を置いたのに対して、ラテン教父は恩恵による人間の「倫理化」を強調した(6)。
 アウグスチヌス以来、原罪によって傷ついた人間は恩恵によって癒やされるとされた。アウグスチヌスの恩恵論はペラギウスとの論争(7)で深まった。

2 中世神学

①恩恵論一般については、スコラ神学者たちはアウグスチヌスの恩恵論の影響下にある。秘跡論が発達するにつれ、神が秘跡を道具として恩恵を与えるという考え方が強調された。

②トマスの恩恵論
 トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を神学に導入した。彼以前の神学者たちが提示した神学を体系化し、ギリシャ教父の「神化」思想をアリストテレス哲学を用いて新しい解釈を施した。

 トマスによれば、神は人間をその本性を超える目的(超本性的目的 finis supurnaturalis)に招いている。それは顔と顔を合わせて神を見ることである(Ⅰコリ13:12)。これは「至福直観」(visio beatifica/beatific vision)(8)と呼ばれる。これは来世でしか達成されないが、神は人間が現世において「信望愛」(9)によってそれに向かった進んでいくのを望んでおり、そのために「超本性的恩恵」(高揚的恩恵 gratia erevans)が与えられる。
 これは人間の本性的願望を満たすものである。義人の霊魂は習性的恩恵および注入徳で富まされており、この善き習性により正しい生き方が容易になる。さらに神はこの行為にあたって、行為のための恩恵(助力の恩恵)を与える。
 高揚的恩恵は人間の弱さを癒やす「救治的恩恵」(gratia midekicinalis)の役割も果たす(11)。

 トマス・アクィナス

 

③唯名論 nominalism

 中世末期の唯名論神学(12)の中で、スコラ学の体系的恩恵論(存在論的恩恵論)は崩壊していく。14・15世紀の神学者たちは恩恵について理性によって探究することを諦めた。一方では神が自由にそのように決定したと述べ、他方、人間の道徳的力を過信し、自力によって神の恩恵を受けるにふさわしい者になることが出来ると主張した。

3 宗教改革とトリエント公会議

①ルターの思想

 ルターの宗教改革の出発点はかれの恩恵理解にあった。ルターによれば、神はキリストの贖いのゆえにキリストを信じる罪深い人間を義と認める(信仰義認論)。これは神の一方的恩恵で、人間のいかなる善行も義認の原因ではない。
 人間の救いが神からの一方的恩恵によるもので、人間は自力では救われないという点では、ルターの思想は教会の伝統的教えに反するものではない。しかし、以下の点は、教会が受け入れがたいものである。

イ)原罪は各人が持つ情欲である
ロ)原罪によって人間の自由意志は完全に失われた
ハ)人間の徹底的堕落のため、義とされた人間も常に大罪を犯し続けている
ニ)神は人間にその大罪を帰してはいない
ホ)救いに必要な唯一のことはキリストへの信仰である
ヘ)人間のいかなる善行も救いには役立たない

 ルターおよびその弟子たちはこれらの主張を後に緩和したが、他方、聖霊が救済に果たす役割に関しては宗教改革者とカトリック教会とでは大きな相違が見られた。

②トリエント公会議

 トリエント公会議(1545~63)はプロテスタントとの論争を念頭に、恩恵に関するカトリックの教えを総括的に述べた。1547年の「義化についての教令」は、神の先行的恩恵の全き必要性と無償性を述べ、人間の自由な協力の必要性を強調した。この教令はバランスのとれたすぐれた恩恵論である(13)。

4 近代神学

 トリエント公会議後も、カトリックとプロテスタントとの間の論争は継続した。カトリック教会内においても、二つの大論争が起こった。

①イエズス会(ルイス・デ・モリナなど)とドミニコ会(バニエスなど)との間で、神の恩恵と人間の自由意志の関係についての論争が起きた。教皇パウルス五世が160年に、いずれの説も禁じること無く、両者は相手を異端としてはならないと命じた(DS1997)。

ヤンセニズム論争
 17・18世紀にフランスで激化したヤンセニズム(14)は厳格な倫理を説きながら、人間の自由意志を否定した。キリストの救いは予定された一定の人々だけ与えられ、キリスト教徒以外の人の行いは罪であると主張した。バニエス(ドミニコ会)や歴代教皇はヤンセニズムを排斥し、多くの神学者がヤンセニズムの狭い考え方に反発し、より広い見方を提唱した。つまり、神は救いのために十分な「充足的恩恵 gratia sufficiens)をすべての人に実際に与えていると説くようになった。

 

 


1 ストア派とは前300年頃アテネに設立された哲学の一派。万物を支配するロゴスと倫理を重視した。新約聖書で「哲学」とか「哲学者」と呼ばれるのはストア派のことだという。初期の教父たちはその汎神論を批判したが、キリスト教に与えた影響は大きい。
2 「密儀宗教」とは古代ギリシャ・ローマで隆盛を極めた宗教一般をさす。密議とは秘密の宗教儀礼という意味らしい。ゼウス神をあがめるローマの宗教や、ペルシャのミトラス教などを含むようだ。
3 アタナシオス Athanasios 373年没 アレキサンドリア主教。ヒュポスタシス(自存)とウーシア(実体)の意味を整理し、三位一体論を発展させた(ギリシャ定式)。「正統信仰の父」と呼ばれる。ヒュポスタシスやウーシアとは聞き慣れない用語だろうが、これらの概念が解らないと三位一体論の成立を追えなくなる。ローマ定式ではさらに発展する。
4 「神化」とは人間が神になるというよりは、人間が神性を帯びて神に近づくという意味のようだ。聖書にはこの言葉はない。だが受肉論の発展の中で、人間は罪を覆せば、本性上の神にはなれないけれど恩恵により神に似たものになれるという考え方だ。神格化ではない。カトリックとは違い、ギリシャ正教では現在でも重要な観念として生きているようだ。
5 カイサリアのパシレイオス カイサリア主教 379年没 カッパドキアの3教父のひとり 大パシレイオスの方である ギリシャ正教(東方正教会)では今でも特に崇敬されているという。
6 ギリシャ教父とはギリシャ語で思索・著作した教父、ラテン教父とはラテン語で思索・著作した教父のこと。かならずしも時代区分ではないし、何年から何年までとは言い切れないようだ。大体2~3世紀頃活躍し、グレゴリウス1世を最後の教父とするなら7世紀頃まで続いたと言えそうだ。だから新約聖書の著者たちは教父とは呼ばれない。なお、教父(Church Fathers)とは、教会が、正統信仰に基づいて活動し、聖なる生活を送ったと認めた人という限定があるようだ。ラテン教父たちが倫理を重視したのもストア派の主張を意識してのことだろう。「倫理化」とは、神が嘉する善行を重視するという意味のようだ。
7 ペラギウスは4世紀中頃の修道士。ペラギウス論争で著名だ。原罪論ではアウグスチヌスの遺伝説を批判し、模倣説を展開した。また、自由意志論に基づき、アウグスチヌスの恩恵説や予定説を批判した。411年に異端宣告を受けるが、現在でもその思想的影響力は残っていると言う神学者もいるようだ。
8 至福とは地上の現世的幸福とは違って神の国で得られる至福である。直観とは(直感ではない)直接目で見るという意味だが、ここでは「顔と顔を合わせて」観る、つまり、神と相まみえるという意味だという(「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを観ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります」Ⅰコリ13:12 協会共同訳)。トマスは、至福直観は人間の本性や知性では無理であり、恩恵の力でも無理だが、それを求める願望は人間の本性に備わっていると述べているという(『神学大全』第1部第12問)。
9 「信望愛」は教会ではよく使われる言葉だ。お祈りでは、信德唱,望徳唱、愛徳唱を唱えることもある。Iコリ13:13の有名な文言はよく言及される。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」。
10 トマスの枢要徳論。枢要徳は徳の倫理学のことで、「信仰・希望・愛」の三つ(対神徳)と、「思慮・正義・勇気・節制」の4つの倫理徳からなる。対神徳は注入徳で、恩恵により与えられる、注入される、徳である。
11 こういうカテゴリー論、弁証論は中世スコラ学の特徴で、現代の我々には解りづらい。スコラ哲学はやがて普遍論争の中で、唯名論によって批判されていく。
12 唯名論とは、「普遍論争」のなかで、普遍という性格を事物の側にではなく、言語の側にのみ帰属させる考え方を指す。普遍は必ずしも音声言語だけに限定されない。14世紀のオッカム(1347年没)を代表的論者とする人が多い。「オッカムの剃刀 Ockham's razor 」は晦渋なスコラ学を破壊していった(節減の原理 不必要な条件をあれこれ立てて議論するな)。

13 主に予定説・二重予定説批判が中心のようだ。DS1521~1550。わたしは読んだことはない。
14 ヤンセニズム(ジャンセニズム)とは、恩恵の問題をめぐり、アウグスチヌスの思想(予定説など)を受けつぐヤンセン(ジャンセニウス 1585-1638 オランダの神学者)に由来する思想。フランスのアウグスチヌス主義者たちはこのヤンセニズムの思想に従ってイエズス会と「自由意志論争」を戦った。自由意志を軽視し、恩恵を過度に重視する。ヤンセニズムの影響を受けるとミサに行かなくなる、聖体拝領をしなくなると言われたこともある。ヤンセニズムの評価は立場により異なり、定まっていない。パスカルから現代までフランスの思想界には影響が残っているという説もあるようだ。

 パスカル 『パンセ』「人間は考える葦である」(人間は弱い存在だ でも考えることが出来る)

 

 

 

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「贖い」と「償い」が区別できない現代の日本人 ー 恩恵論2(学び合いの会)

2022-07-27 08:22:56 | 神学


Ⅱ 聖書

1 旧約聖書

①神の恵みという考え方は、旧約聖書においては世界創造の物語の中ではっきりと示されている(創世記 1ー2,知恵の書 11:24-26)
「あなたがお造りになったもので、あなたが忌み嫌うものは何一つない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずである・・・」(知 11:24)

②さらに、アブラハムの選びと祝福の中でも示される(創 12:3)(1)
「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う・・・」

・小さな民族イスラエルの「選び」によっても明らかにされる。(申 7:7)。
・神の慈しみは人間の罪を超えて、人を神と和解させる。罪を悔い改める民を神は赦す(エレ 31:20)。
・もともと神はその義のゆえに正しい人に報い、罪人を罰すると言われる。しかし後に、神の義はすべてのイスラエルの罪を赦し、民を解放すると述べられる(イザヤ 42:6,46:8)。
・この神の義は「救済的義」といわれ、「恩恵」概念に極めて近い。。旧約聖書によれば、神の恵みの頂点は将来の新しい契約である(エレ 31:31-34,エゼ 36:26-27)。
・預言者たち(2)はこの新しい契約という恵みをイスラエルの民と、さらにはすべての民に約束されているとする(イザ 42:1,6)

2 共観福音書

 イエス自身は、興味深いことに、恩恵という言葉を用いていない。だが、イエスは恩恵神学に対して二つの基礎となる教えを提供している。

①父なる神の「善良さ」
②「神の国」の到来

・ 神の善良さ(マルコ 10:17)は、見失った羊を探す羊飼い、無くした銀貨を捜す女、放蕩息子の譬え(ルカ 15:4-32)に表される。
・ イエスによって始まった神の国の到来は(マルコ 1:15)(3)、神の恵みの到来に他ならない。神の恵みを体験し、神の子とされた人は、当然、天の父にならって憐れみ深い人にならなければならない(ルカ 6:36)。
・ 共観福音書によれば、イエスは生涯の終わりに、受難によって「新しい契約の血」を人々のために流し、復活して、弟子たちに聖霊を与える。
・ このようにして旧約聖書が預言する「新しい契約」が実現した。この事実を カリス charis という言葉で神学的に説明したのがパウロである。恩恵論、特にその贖罪思想はパウロにより彫琢された。

3 パウロ

①根本主張

 カリス charis という語は、恵み・魅力・好意・賜物・感謝などを意味する。パウロは恵みの意味でカリスという語を101回使用しているという。
 その根本思想は、父なる神の愛が、イエスの死と復活という人々のための恩恵として体現され、すべての信者は聖霊で満たされるということを意味する。神の「救済的義」がイエスの「贖い」(4)を通して、神の恩恵により、無償でイエスを信じる人に与えられる(ロマ、ガラティア、コリント)。
 神はその恩恵により人々をキリストに結び、自分の子にし、罪を赦す。この人々はキリストという「頭」と一致した「体」となる(エフェゾ)。
 神は、人間の正しい業ではなく、その憐れみによって人を救い、聖霊によって新しく生まれさせる(テトス)。

 神の恩恵の働きを表す表現はさまざまである。整理すると以下のようになる。

・法的表現:正しい者と認める、義とする
・人格的表現:愛する、和解させられる、神との平和を得る
・生物的表現:新たに生まれる、成長する、体の肢体となる
・存在的表現:新しく造られる

②罪からの解放という思想

 パウロは、イエスにおける神の恩恵の働きを、人々の罪深いことの関わりにおいて考える。人間のあらゆる努力も、モーセの律法も、人々を罪から解放しない(ロマ 7:1-24)。キリストの贖いによってのみ、神はキリストを信じる人の罪を赦し、罪から解放する。

③キリスト、聖霊、父なる神との新しい関係

 恩恵により義とされた人間は、キリストと一致し、キリストの兄弟となり(ロマ 8:29)、神の相続人となり(ロマ 8:17)、キリストを「着ており」(ガラ 3:27)、キリストと一つの体となり(ロマ 12:5)、一つの霊となり(Ⅰコリ 12:3)、聖霊が与えられる(ロマ 5:5)。このような恩恵のもとにある人は神の子とされる(ガラ 4:4-7)。

④信仰、洗礼、愛、新しい生き方

・無償で義とされるためには、人はイエスの贖いの業を信じ、神に従順でなけれならない。この信仰も聖霊の助けによる恩恵である(Ⅰコリ 12:3)。
・洗礼によって人は聖なるもの、義人とされる(Ⅰコリ 6:11)。
・愛の実践に伴う信仰こそが大切である(ガラ 5:6)
・愛が無ければ何の益も無い(Ⅰコリ 13:1-3)
・神の戒めを守り(ロマ 13:9)、善い行いを実行し(エフェ 2:10)、愛にもとづいた生活をすることを勧める(エフェ 5:1-2)
・各人に配られた「恩恵の賜物」(カリスマ)は全体の益のために奉仕するためである(Ⅰコリ 12:7)

4 ヨハネ

 ヨハネ福音書においては、charis という語はプロローグに現れるのみであるが(1:14,1:16-17)(5)、イエスが愛の神を身をもって示すものとして、神が贈られた恩恵であることを福音書と手紙全体が物語っている。
・ ヨハネにおいて恩恵を具体化する概念は、神の「生命と光と愛」である(第1ヨハネ 1:5,4:8)。
・ この世は、死と闇によって支配されている。しかし神はそれにもかかわらずひとり子を与えるほどにこの世を愛しておられる(3:16)。
・ 人となったロゴスは,生命、光である。イエスはこの世を救い、愛と平和を与え、永遠の命を授けた。
・ 信者は、父と子の一致に与り、神の子として生まれ変わる。この生命を得るためには、イエスを信じ、水と霊によって生まれ変わり、互いに愛し合わねばならない。

5 新約聖書の恩恵の教えの要約

①イエスは、その生涯のすべてによって、神が善良な方であることを示し、神の慈しみの訪れとしての「神の国」の到来を説く(旧約で預言された新しい契約の実現)
②パウロは、神の愛のわざとして、神がキリストの死と復活によって人々をキリストと一致させ、キリストの肢体、聖霊の神殿とすると説く(6)
③ヨハネは、イエスにおいてこの世に来た神の愛が、人々を父なる神とこの一致に参与させ、神の生命に与らせると説明する。こうして人間は死と罪から解放され、希望を持ち、常に喜ぶことが出来る。

 

 磔刑像(大分教区中津教会)

 


1 アブラハムはイスラエル民族(ユダヤ人やアラブ人など)の祖とされ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という「啓典の民」の始祖とされる。
2 キリスト教では、イエスの後、新約以後の時代には預言者は登場しないとされる。イエスは救い主であり、預言者でない(イスラム教ではイエスは預言者の一人とされ、ムハンマドが最後の預言者とされる)。なお、黙示録の著者ヨハネを預言者と見なす考え方もあるようだ。
3 言うまでもなく「神の国」概念は難しい。英語では Kingdom of God と呼ばれるので「神の王国」と訳すこともある。日常的に「天国」とか「天の国」という言い方もあるようだ。いろいろな説明が可能だろうが、結局は、神の国は、①どこか外に(上とか天とか)にあるのではなく、人間の中にあるという理解(ルカ 17:20-21)か、または、②この世の終わりに、最後の審判の後、訪れるという理解(ヨハネ黙示録 21:1)、のどちらかになる。どちらも考えられるのだろうが、神学的には②が正解だろう。
4 贖い(あがない)(redeem redemption)とは我々日本人には理解が難しい言葉だ。これは基本的に遊牧民族の文化が持つ観念なのかもしれない。もともと農耕民族のわれわれにはこういう生活習慣が無かったのかもしれない。贖うという言葉の辞書的定義ー買い戻すとか身代金の支払いとか奴隷の解放とかーはどこを参照しても出てくるので繰り返す必要はあるまい。問題は、贖いを償いの意味で理解してしまうと、キリスト教の救済の意味がわからなくなってしまうことだ。償いとは、「罪の業に対して、祈り、信心業、苦行、善行、愛徳などの業を持って、悔い改めを示すこと」(岩波キリスト教辞典 岩島忠彦)。他方、贖いとは、「売却して土地や家を買い戻す権利や義務・・・こうして贖いは罪からの解放を意味する術語となった」(岩波キリスト教辞典 月本昭男)。ところが『岩波哲学・思想事典』ですら、「転義的には、罪の償い一般をも贖罪と呼ぶ」と述べ(788頁)、償いは贖いと同じだという。広辞苑や新明解など通常の辞書辞典はどれもがほとんど区別をつけない説明になっている。これでは人間がなにか行為をすれば「罪を贖える」ことになってしまう。
 贖罪や救済の語義に関しては、社会学者の橋爪大三郎氏の説明がわかりやすかった。基本的な問いはこうだ。イエスが殺されることによってなぜ人類が救われるのか。イエスの死刑と人類の救済はどう関係するのか、という問いだ。橋爪氏は「原罪」の「連帯責任」から説き初め、「同害報復」という「復讐法」のロジックを使う。「この類推で言えば、イエス・キリストは、人類全体の罪を背負って、身代わりに死刑になりました。処罰が済んでしまったので、人類は、罪のあるまま助かるのです」(『いまさら聞けないキリスト教のおバカ質問』2022 81頁)。贖罪論にはいくつもの神学的説明があるが、橋爪氏は古典的な「刑罰論」で説明する。弁証法神学の立場はとらない同氏としては無難な説明方式の選択なのであろう。贖いと償いの区別がつかない現代の日本人にはこのような説明の仕方がわかりやすく、説得力があるようだ。
5 「言が肉となった」の第1章。「初めに言があった。言葉は神と共あった。言は神であった。・・・恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(協会共同訳)
6 このように、恩恵論の形成にとりパウロの役割は圧倒的だが、その彫琢はアウグスチヌス、トマスの登場を待つことになる。次回に触れてみたい。

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恩恵論はカトリックとプロテスタントの分断の源か ー 恩恵論1(学び合いの会)

2022-07-25 18:14:03 | 神学

 2022年7月の学び合いの会は、第7波に入った新型コロナ感染拡大の中で開かれた。猛暑とコロナのせいで参加者は10名ほどのいつものの顔ぶれであった。

 今回は神学的人間論の第3弾としての恩恵論である。神学的人間論は創造論、原罪論と検討してきたので、残るは恩恵論ということになる(1)。

 恩恵論は伝統的には「救済論」として論じられてきた(2)が、救済論というカテゴリーはキリスト論と恩恵論(秘跡論)を含むので、現在の神学教育では別のコースとして設けられているようだ。

 現代の恩恵論の課題は明確だ。現代社会を支配する能力主義・業績主義・理性中心主義は様々の問題点を産みだしていることは誰もが認めているが、それを乗り越える視点を、自己決定する主体(自分自身)ではなく、「恩恵」(恩寵・聖寵・恵み)に求める試みを明確化することのようだ。歴史的には恩恵論はカトリックとプロテスタントを分断する論点だったが、今日では無神論や唯物論を乗り越える試みとしても見直されてきているという。

 今回の報告は以下のような目次でなされた。

1 概要
2 聖書
①旧約聖書 ②共観福音書 ③パウロ
④ヨハネ  ⑤新約聖書の恩恵論の要約
3 教義史
①古代 ②中世 ③宗教改革とトリエント公会議 ④近代神学
4 教義
5 近代神学
6 他宗教との比較

 恩寵論は他の宗教でも論じられるが、恩恵の独特の意味はキリスト教神学により独自の刻印を押されている。つまり、恩恵論はほぼキリスト教神学で展開・発展してきた。キリスト教独特の観念・概念といって良いかもしれない。

 それは早速みてみよう。

Ⅰ 概要

 恩恵 χάρις(charis ギリシャ語),Gratia(ラテン語), grace(英語), Gnade(独)、grace(仏)

 恩恵とは、キリスト教的救済理解の中心をなす言葉だ。
「キリスト教での恩恵は、人間の側の魅力や資格を前提条件にせず、因果的法則を超えて自由に予知不可能な仕方で神から授けられる無償の賜物」(岩波キリスト教辞典、宮本久雄)のことである。
 賜物だから(3)、人間の側からの努力や行為に無関係であり、人間の自由意志さえ恩恵が前提となる。旧約では神による「選び」(申7:6-11)とか、新約では「義認」(義化)(ロマ5)などと呼ばれる。
 イエス・キリストの死と復活によってすべての人が救われるという神の愛を意味する。すなわち、神がイエスを信じるすべての人の罪を赦し、永遠の命に導くということを意味する。
 新約聖書では、パウロは charis という言葉を多用するが、別の文書では別の表現が用いられるという。
 恩恵論は、キリスト教の「神理解」と「人間理解」の本質に属する。歴史の中で様々な論争があり、プロテスタントがカトリックから分裂する一因ともなったが、現在においては両者の意見の収斂が見られるという。

 教会ではグラチア(ラテン語)が普通に用いられ、恩恵という言葉はあまり用いられない印象がある(4)。

 幼児洗礼

 



1 「神論」を神学的人間論に含めて、神の存在、本質、属性、像、ことば、神認識などを論じることもあるようだ。キリスト論が「史的イエス」と「信仰のキリスト」の対比論が中心になるので、恩恵論は神学的人間論の中で論じざるを得ないのかもしれない。神論を含めれば、神学的人間論は4本の柱があることになる。
2 キリスト論ではキリストによる救いの業が論じられ、恩恵論(神学的人間論)では救いへの人間の参加・参与が論じられてきた。視点の大きな違いのようだ。
3 カリスマ(charisma 超人的な資質・能力)はこのカリスから派生した言葉のようだ。カトリックの典礼では聖別したぶどう酒を入れる杯も カリス chalis  calix と呼ばれるのでまぎわらしい。 

 カリスとチボリウム(信者用のご聖体を入れる器)

4 たとえば、聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリアの祈り)は、

Ave, Maria, gratia plena:

Dominus tecum:・・・・・・・

 となる。

また、ガラシャ夫人で知られる細川ガラシャの洗礼名ガラシャはグラチア(恩恵)から来ているという。

 

 

 

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特別展「発掘された日本列島2022」に驚く

2022-07-18 17:05:57 | 観光


 特別展が終わるというので昨日思い切って埼玉県立博物館(歴史と民俗の博物館)を訪ねた。文化庁主催の全国巡回展だそうだが、内容の素晴らしさに驚いた。上野の国立博物館でなぜ展示しないのだろうと思うほどの特別展だった。
 わたしは、発掘だの古墳だの遺跡だのという考古学には全くの音痴だが、近年の日本の考古学上の発見が、われわれが昔学校で習った昔ながらの縄文・弥生・古墳時代の観念を覆すほどの大発見が続いていると言うことは側聞していた。縄文時代にも稲作がおこなわれていた地域・時代があったらしいなどという話をどこかで聞いたことはある。どういうことなのだろうと思い、はるばる時間をかけて大宮まで行ってみた。行ってみて驚いた。
 展示物の多様さ、説明のわかりやすさ、全国的視点からの出土品の相互比較など、準備がよくなされていたことがわかった。写真撮影もほとんど許されていた(フラッシュは不可)。参観者も多く、家族連れから高校生まで、そして我々のような高齢者もいた。考古学ファンとはどうも歴史ファンとは異なるらしいという印象を受けた。
 埼玉県行田市の埼玉古墳群 が2年前に国の特別史跡に指定され、世界遺産指定を目指していることは承知していたが、ここには埼玉県出土以外の新発見の遺跡11箇所の出品も展示されていた。日本列島では毎年8000件近い遺跡が発見されているという。

 遺跡の表示で c.1750BP - c.1400BP (古墳時代)などとある。BC ではなく BP だ。BPとは Before Present の意味だという。cとは炭素を使った絶対年代測定法のことらしい。各展示品には英語の説明もついており、日本語の説明よりわかりやすく、丁寧な印象を受けた。
 これで関東での展示は終わりで、これから全国を巡回するという。古墳ブームなので、多くのファンを引きつけることであろう。

 

 「発掘された日本列島2022」

 

 

 長野県富士見町・藤内遺跡出土 双眼五重深鉢

 

 

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