カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

未完成なポスト・モダンのパラダイム ー カール・バルト(4)

2020-04-08 16:18:11 | 神学

 結局、緊急事態宣言が発令された。考えてみれば、宗教改革の時代も黒死病(ペスト)が流行っていたという。新型コロナウイルスとともに21世紀の世界は変革の時代、変動の時代へ入っていくのかもしれない。外出禁止ですることもないので庭仕事をする。

 さて、キュンクのバルト論に戻ろう。キュンクは、バルト神学をきちんと評価するために、もう一度バルト神学の出発点へと戻っていく。20世紀の始まりの時期だ。

Ⅷ バルトはポストモダン的パラダイムの完成者ではない

 1921年にただの田舎牧師から突然ゲッティゲン大学の改革派神学教授になってしまったバルトは一冊の本に出会う。H.ヘッペ著『福音主義的・改革派教会の教義学』(1861)である。運命の出会いと言われる。古改革派の正統主義という。バルトは、三位一体・処女降誕・陰府下り・昇天などの教義を無批判に受け入れたのではないにせよ、かれは宗教改革の伝統へ、中世のスコラ哲学へ、古教会の教父学へと立ち戻っていった。他の弁証法神学者たちはこのバルトの方向転換を批判した。立ち戻りそのものを批判したのではなく、その「方法」を批判した。バルトは当時の聖書解釈や神学を中傷し、無視したのである。

 バルトはカンタベリーのアンセルムスの「理解するために信ずる credo ut intelligam 」を評価した。信仰はすべてに先立つとした。シュライエルマッハーのように、「理解した後に信仰する」という姿勢を批判した。

 バルトは、信仰とはキリストのことばを知り肯定することだと定義する。そしてこの信仰とは教会のクレド(信仰告白)と同一視される。歴史的な信仰告白が「真理」だという前提の元で、『教会教義学』はクレドの反省、再検討を推し進めていく(1)。
 キュンクは、『教会教義学』におけるバルトの議論の進め方はヘーゲルの精神哲学を想起させるという。この評価がバルト研究者の間で一般的なものなのかどうかはわからないが、弁証法的な議論の展開だということなのであろう。弁証法は二者択一から始まる。キュンクはバルトとヘーゲルを対照する。

①ヘーゲルは言うだろう。人はすべて経験的・抽象的なものを超えて、真に具体的・思弁的思考へと自らを高めよ。そうすれば「反省 Nach-denken」において精神の真理が開けてくる。「さもなければ」人は真の哲学者ではない。
②バルトは言うだろう。人は、あらゆる歴史的・哲学的・人間学的・心理学的な困難を心配しないで、聖書によって証言され、教会によって宣教されている神の言葉に従え。そうすれば「反省」において啓示の真理が開けてくる。「さもなければ」人は真のキリスト者ではない。

 つまり、バルトは言う。キリスト教徒にとり、キリストは唯一の肉となった神の言葉であり、「ただ一つの、唯一無二の」生命の光であり、この光以外に他の光は何一つ存在しない。他の神のことばは存在しないし、他の啓示は存在しないし、存在し得ない。

 こういうバルト神学の主張は完全無欠のように聞こえる。バルト学派の人々はこの主張に何も問題を見ていない。だがキュンクは言う。カトリックから見て、この主張に本当に問題はないのだろうか。

Ⅸ なお残る挑戦ー自然神学(2)

 バルト学派の人々のように、内在的な「バルト・パラフレーズ」だけで済ますわけにはいかない。それはそれで立派な仕事だが、それだけでは不十分だ。批判的精神はバルトの主張なのだから、バルト神学に対しても批判的にならねばならない。

①「神の創造」が、初期バルトが言ったように垂直に上から落ちてくる神の恩恵の単なる着弾点ではないのなら(有名なバルトの比喩)、後期バルトが言ったように「神のよき業」でもあるのなら、キリスト教徒のみならずすべての人々が真の神認識ができるとという帰結がなぜ出てこないのか。

②もし神が神学的・事実的に万物の創造の始めに立っているのなら、今日の人間の問いを出発点にして認識の秩序を組み立てることが、神学的・方法的に許されないのか。バルトはすでにシュライエルマッハーに対してはそれを許していたのではないか。

③聖書の使信がキリスト教徒にとり決定的な試金石なら、なぜ神についての言説が改めて聖書に依拠しなければならないのか。

④もし非キリスト教世界の誤りについての聖書の否定的言明を受け入れるのなら、ローマ書1:20とか使徒言行録17:27が言っているように、非キリスト者も生ける神を認識できるのだと言うことをなぜ無視するのか。

 実際には、後期バルトは、『和解論』などで、キリストと並んで、「他の光」、「他の真の言葉」の存在を認めるようになってきたという。かっては、例えば、仏陀はイエス・キリストの「反射光」にすぎないとか、日本の浄土宗という恩寵の宗教は単に不信仰の形式だとか言っていたが、今や、自然宗教、自然法、世界の諸宗教への新しい、肯定的評価を、暗黙のうちにだが、浮上させてきているという(3)。

 だが、キュンクによると、これはバルト神学の「破綻」だという。『教会教義学』は、最初は近代からポストモダンへのパラダイム転換を成し遂げたが、第二段階では、プロテスタント正統主義・スコラ学・教父学へと遡っていき、結局一種の正統主義にたどり着いた。バルティアンは認めようとしないけれど、バルトの「啓示の実証主義」は根本から破綻しているという。

 だが、キュンクはバルトを否定しているのではない。むしろその変化を肯定的に評価しているようだ。バルトは1920年代に『ローマ書』を書き直した。1930年代には教義学の最初の巻を書き直した。1960年代に、同じように、キリスト教神学を世界の諸宗教のコンテキストのなかで学び取ろうとしていたのではないか。

 バルトは生涯の終わり頃、古くからの競争相手であったエミール・ブルンナー(1889-1966)と和解したという(4)。
 ならば、バルトは、同じく競争相手であったルドルフ・ブルトマン(1884-1976)とも和解できるのではないか。ブルトマンは、バルト神学の根本的志向(神の神性、神の言葉、宣教と人間の信仰)を肯定しながらも、他方、自由主義神学(釈義における歴史的・批判的方法、非神話化)を放棄しようとはしなかった。バルトはブルトマンの挑戦をどのように受けて立つのか。バルトとブルトマンは二者択一の選択なのか。キュンクは二人のうちどちらを選ぶのか。


1 『教会教義学』の構成は、プロレゴメナ(序論のこと、具体的には「神の言葉」の検討)、神論、創造論、和解論、救済論。実際には和解論の半ばで中断しているというから、未完の書ということになる。邦訳は神の言葉Ⅰ/1から和解論Ⅳまで全36巻ある(新教出版社)。解説書はたくさんあるようだが、わたしは佐藤優『神学の履歴書』(2014)による「創造論」(1~3章)に学ぶところが多かった。啓示論や保守論の説明は佐藤流の本領発揮で面白く、田辺元(無の哲学)との比較は著者の国家観がでていて興味深い。

(教会教義学)

 

 

 

 

2 自然神学はNatural Theologyの訳語なので物理神学とも呼ばれたらしい。自然神学とは何かは議論を始めたらきりがないだろうが、キリスト教が啓示神学なのに対して、人間が理性を使って自然を観察しても神を認識できるという考え方のことをさす。この区別はキリスト教信仰は理性に反しないと主張したトマス・アクィナスから始まると言われる。トマス主義の岩下壮一師は、「信仰の神と認識の神」と呼んで区別し、「自然神教は畢竟架空論のみ・・・公教のみが真の宗教なり」と述べている(『カトリックの信仰』「緒言 宗教とは何か」)。仏教を自然神学とみなす考え方は多いが、この場合、自然神学は容易に宗教的多元論に傾いていく。
3 こういう評価がキュンク独特なのか、プロテスタント神学者のなかで一般的なものなのかはわからない。オーソドックスなバルト神学者大木英夫牧師の評価は近い(『バルト』講談社 1984 滝野川教会での若かりし頃の大木先生の説教を懐かしく思い出す この教会はカトリック信者を追い出したりはしなかった)。
4 Emil Brunner スイスのプロテスタント神学者。バルトとともに弁証法神学を展開する。ブルンナーは、人間には啓示と結びつく「結合点 Anknuepfungspunkt」があると主張してバルトと「自然神学論争」を展開し、決裂した。この論争ではバルトは自然神学を否定的に評価している(A・E・マクグラス著 芦名定道他訳 『「自然」を神学するーキリスト教自然神学の新展開』 教文館 2011)。キュンクはこれは不必要な絶交で、バルトに非があると考えているようだ。
 ブルンナーは東京神学大学でも教鞭を執り、日本のプロテスタント神学への影響は大きいという。なお、「結合点」とはキリスト者が非キリスト者にも語りかけていくことで、「宣教」と言っても良さそうだ(熊沢義宣「ブルンナー」『キリスト教組織神学事典』、2002(新装版) 307頁)。

(ブルンナー)

 

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ポストモダン的パラダイムの創始者 ー カール・バルト(3)

2020-04-07 15:33:28 | 神学

 やはり緊急事態が宣言されるようだ。明日から始まるという。まとめ買いをしてはいけないという。カップヌードルには飽きました。


ハムスター買い(ドイツでのまとめ買い・買い置きのこと)

 


 バルトは、カトリック神学との対決と相互理解を通して、エキュメニズムに関して合意に到達した。教会一致への途だ。いわば方向転換した。賛同者も多かったが、批判者も多かっただろう。やがてかれは、晩年、自分は「時代遅れになった」と言っていたという((1)。ではバルト神学はどう評価したらよいのか。キュンクは、バルトは「ポスト・モダンなパラダイムの創始者」だという。どういうことか。


ルーズソックスはポストモダンか こんな時代もありました

 

 


Ⅵ なぜ近代のパラダイムは批判されるべきなのか

 バルトを神学史のなかでどう位置づけたらよいのか。アメリカの神学者やブルトマン主義者のなかで一般的な呼び方「新正統主義者」(2)が良いのか。それとも、日本に多いバルティアン(3)、つまり、バルトを賛美し、凌駕不可能な神学的頂点とみなす人々が呼ぶ「神学の改革者」と呼ぶべきか。
 キュンクはこれらの人々の評価に対置して新しい呼び方を提出する、バルトを「ポスト・モダンなパラダイムの創始者」と呼ぶ。極めて興味深い命名である。ではそれはどういう意味なのか。

 キュンクは言う。

1 バルトを軽蔑する新正統主義者たちに言いたい。バルトはポスト・モダン的パラダイムの「主たる創始者」だった
2 無批判なバルト崇拝者たちに言いたい。バルトはポストモダン的パラダイムの創始者だったが、完成者ではなかった

 キュンクは自分のこの主張を基礎づけるために、バルト神学の時間的な展開・変化を跡づける。キュンクによる慎重な、しかし長いフォローが続くが、ここでは無理矢理整理してみよう。

1 バルトは最初、近代神学の信奉者だった。シラーやワグナーを好み、カントやシュライエルマッハーが導きの星であった。自由主義神学の弟子として出発する。
2 やがてバルトは、シュライエルマッハーによって完成される自由主義神学への鋭い批判者に変貌していく。ザーフェンヴィルの牧師としての10年が農村の危機を体験させ、社会主義者となる。歴史的相対主義と宗教的個人主義がキリスト教を空虚なものにしていると感じた。教会は空席だらけ、形式的な典礼と説教が支配していた。
3 1914年の第一次世界大戦が近代的パラダイム(自由主義神学)の限界を明らかにした。自由主義神学者たちがのきなみウイルヘルム2世の戦争政策を支持したし、ヨーロッパの社会主義も戦争のイデオロギーに対して無力だった
4 バルト神学は「危機の神学」へと大きく発展した。ドイツ帝政と領邦君主的教会支配の没落、、アメリカ合衆国の登場、ロシア革命の勃発とともに、理性信仰・学問信仰・進歩信仰を中核とする「近代」が崩壊した。そのあとに近代後の(ポストモダンの)時代が生まれようとしていた。

Ⅶ 神学のポストモダン的パラダイムの創始者

 バルトはここに神学のポストモダン的パラダイムの創始者となった。市民社会、市民文化、伝統と権威が次々と崩壊するなかで、キリスト教は今のままでは生き残れない。一方では聖書時代の歴史現象に戻ったり、他方では、内的経験に閉じこもったりするだけでは、生き残れない。バルトは「信仰の批判的な力」の結集を求めた。 ブルンナー、ゴーガルテン、ブルトマンらとともに刊行した新しい雑誌「時代と時代の間に」には綱領的宣言として「神の言葉の神学」がつけられた。やがてこれは「弁証法神学」と呼ばれるようになる。この神学は、シュライエルマッハーを乗り越えて、つまり自由主義神学乗り越えて、前進することを目指した(4)。具体的には以下のような「方向転換」を求めた。

①近代的人間中心主義から新しい神中心主義へ
②宗教的人間の歴史的・心理学的自己解釈から、聖書に証言された神ご自身のことば、啓示、行為へ
③神概念についての語りから、神の言葉の宣教へ
④宗教や宗教性からキリスト教信仰へ
⑤近代的な「人・神」論から聖書的な「神・人」論へ

 こういうバルトの主張は、ポストモダン的なパラダイムへの転換をもたらした。キュンクは、バルトこそ「20世紀の教会教父」であるという。では、このポストモダン的パラダイムがもたらした「神学の新しい方向づけ」とはなんなのか。キュンクは2点強調しているように思える。

  第一はその「キリスト論的集中」だ。この用語はバルト神学の用語としてよく用いられるが、その細かい内容はわたしにはよくわからない。キュンクによれば、それは、啓蒙の弁証法(ホルクハイマーとアドルノの1947年の著書)を認識すること、つまり、近代的合理性が持つ独裁的・破壊的な力を見抜くことによって、キリスト教をなにか人間的なもの、歴史的なものに拡散させてしまった自由主義神学を乗り越えて、「キリストにおける救い」を見直すこと、を意味するようだ。「福音が持つ政治的・社会的な挑戦の強調」ということのようだ。

  第二は、この神学がもつ全体主義批判の姿勢である。バルトはこの時期にすでに20世紀が全体主義の衣をまとい、不条理へと導かれると判断していたことである。あらゆる近代の産物である国家主義と帝国主義への批判を最初から持っていた。教会は、あらゆる政治システムに対して批判的・預言者的姿勢をとるべきだと主張していた。

 バルト神学の出発点は1934年の「バルメン教会会議」にあるといわれる。この会議の宣言(5)は、イエス・キリストのことば以外に、真理や神の啓示を認めないと言っている。多くの他の神学者たちがナチス的・ファッシズム的全体主義のなかに近代の頂点を見ようとしていたのに対して、全体主義のなかに「近代の終焉」を見ていた。ナチズムに対して戦ったドイツ教会闘争である。

 

ドイツ連邦郵便発行のバルメン宣言50周年記念切手 1984:イエス・キリストは神の言葉である

 

 キュンクは、バルト神学の「偉大な志向」を以下のようにまとめる。これ以上はないほどの高い評価である。

①聖書のテキストは、哲学的・歴史学的研究のための証拠書類ではない。それは、「全く他者たる方」との出会いを可能にする神の言葉である。人間はこの神の言葉を、承認し・認識し・告白する(anerkennen,erkennen,bekennen)ことが許される。
②人間はだから中立的な観察と解釈以上のことに向かうべきだ。悔い改め、回心、信仰が求められている。
③教会の課題は、この神の言葉を、宣教という人間のことばを通じて、社会のなかで妥協することなく表明することである。
④教会の宣教も、教義も徹頭徹尾イエス・キリストへと「集中」しなければならない。イエスは人間の良き模範だけではない。イエス・キリストは神と人との関係に関する決定的な基準である。

 キュンクは、もはや付け加えるべきものはないという。完璧だというわけだ。だが、この新しい神学的志向は、教義としてだけではなく、現実のなかでいかにして実現できるのか。バルトの『教会教義学』はただ敬われるだけでよいのか。キュンクはバルト神学の評価へと入っていく。


1 情報化社会、地球環境問題に関してバルト神学が何を言えるというのだろう。
2 新正統主義とは、神の超越性を強調した宗教改革(カルビニズム)の正統主義を、20世紀の視点から再評価して自由主義神学を批判する立場ともいえようか。弁証法神学とか危機神学という言い方もあるようだが、専門家は区別するらしい。
3 バルティアンとはバルト神学の賛美者、信奉者。硬直したバルト主義者を揶揄するあだ名。
4 佐藤優は、「バルト神学によって、自由主義神学が止揚されたという見方は間違っている」と言って、バルトの神学上の意義を、①神を発見したこと②近代を完成したこと、の2点に整理している。佐藤優は「赤い神学者」と呼ばれたフロマートカ(ヨセフ・ルクル・フロマートカ 1889ー1969 チェコのプロテスタント神学者)を高く評価しているが、基本はバルト神学だろう。『神学の履歴書ー初学者のための神学書ガイド』新教出版 2014 12頁)。
5 草案はバルトが書いたと言われる。バルトはよくこう語ったという。「ルター派教会は眠り、改革派教会は目覚めていた」。教会闘争への両派の関わり方をうまく言い表しているという(宮田光雄 『カール・バルト』岩波現代全書 2015 54頁)。

 

 

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義認論からエキュメニズム論へ ー カール・バルト(2)

2020-04-06 14:17:08 | 神学

 明日にも緊急事態宣言が発令されるかもしれないという時にバルト論でもないが、だからこそと思わなくもない。

Ⅳ エキュメニカルな相互理解

 ルターによれば、教会は信仰箇条によって発展もするし、衰退もする。教会は信仰箇条によって立つ。宗教改革とトリエント公会議(対抗宗教改革)の時代以来、カトリックとプロテスタントとの相互理解にとって根本的な障害物と見なされてきたのが、「義認の教説」(義化論・成義論)だ。ここでなにか意見の一致が見られれば、教会分裂の克服が可能になる。
 キュンクの著書『義認』( Rechtfertigung 1957 )(1)はそれを意図したものだという。義認に関するバルトの教説とカトリック教会の教説の間には基本的な一致があり、義認論はもはやプロテスタントとカトリックとの教会分裂の理由にはならないと主張しているという。

 キュンクはこの本についてバルトから送られた礼状「著者への手紙」をー誇らしげにー紹介している。バルトからキュンクへの私信で、キュンクの説への慎重な、しかし好意的な返答である。長文なので引用できないが、極めて興味深い内容の手紙だ。

 このキュンクの著書は、当時としては過激な主張をしていたにもかかわらず、ローマによって「禁書目録」に入れられることはなかったという。1958年にヨハネ23世が教皇となり、カトリック教会は第二バチカン公会議にむけて新しい方向に歩み始めていたからである。

 やがて、1971年に地中海のマルタ島で、ルター派世界連盟とローマ・カトリック教会の合同研究委員会による「マルタ文書」なるものが発表され、ルター派とカトリックとの間で次のような合意が確認されたという。

「カトリックの神学者たちも、義認の問題について、信仰者に対する神の救いの賜物はいかなる人間的条件にも拘束されないことを強調する・・・義認の使信は、福音の中心も最も重要な説明であると、繰り返し新しく表明し直されなくてはならない」(301頁)。この合意文書はローマからも確認がなされたが、このときすでにバルトはこの世の人ではなかったという。

(宗教改革500年記念 ルーテル教会との共同礼拝 中央がフランシスコ教皇)

 バルトは、教義学は単に「自由な」学問なのではなく、教会という場所でのみ可能で、意味豊かな学問になり得るという主張をしていた。バルトのこういう主張は、あまりにカトリックとスコラ神学に接近しすぎているという批判が当時のプロテスタント側からあり、かれは最初の『キリスト教教義学』(1927)という本のタイトルを『教会教義学』に変更したのだという。キュンクはバルトのこの主張を、「福音へ集中した、カトリック的な、そして真にエキュメニカルな教会論である」と評価している。

 だが、エキュメニカルな理解が双方で難しくなるのは、議論が、神学ではなく、「教会の組織構造や
教会政治の実際」が話題になる時だ。バルトは、教皇職がもつエキュメニカルな可能性に魅了されてはいたが、個別の歴代教皇については反発していたという。バルトは、「私はこのペテロの座から、よき羊飼いの声を聞いたことがない」と言っていたようだが、ピウス12世の時代(1939-58)のことらしい(2)。

Ⅴ 第二ヴァチカン公会議

 5年間しかなかったが画期的だったヨハネ23世の教皇時代(1958-63)に、第二ヴァチカン公会議が開かれ(1962-65)、「二重のパラダイム転換」(宗教改革のパラダイムと現代的パラダイムが教会と神学に統合されること)が起こった。カトリックの「現代化」である。バルトは深く感銘を受け、ヨハネ23世についてためらうことなく述べたという。「今、私はよき牧者の声を聞くことができる」。

(ヨハネ23世 第二バチカン公会議)

 

 キュンクも公会議に関わっていく。バルトに刺激されて宗教改革のスローガン「常に改革されるべき教会 Ecclesia semper reformanda 」を掲げて、公会議に改革プログラムを提出していく。公会議は非常にプロテスタント的に見える恒常的改革の必要性を「教会憲章」のなかに受け入れていった。それは、一方では宗教改革者たちの関心事(聖書と宣教の重視・信徒の重視・典礼における各国語の使用)を受け入れることであり、他方では、現代的問題(信仰・良心・宗教の自由、寛容とエキュメニカルな相互理解、ユダヤ教や世界の諸宗教との対話、世俗世界への対応など)への新しい態度・姿勢を受け入れることであった。

 このカトリック世界の大変化と霊的波瀾は、当時のプロテスタント世界が陥っていた広範囲にわたる停滞状況と対照的だった。だが、それでもバルトはカトリックにはならなかった。キュンクはバルトを公会議に招待したが、健康上の理由で断ったという。1966年にかれはローマに旅行に出かける。バルトはパウロ6世(1963-78)を尊敬に値する愛すべき人を思ったようだが、すでに改革をとどめようとする教皇庁の妨害に出会っていると知ったようである。

 キュンクは、バルトがその後の後継者(ヨハネ・パウロ1世と2世)についてどんな印象を持ったかはわからないと言っている(3)。事実この時点ではバルトは『教会教義学』の執筆を打ち切っていた。トマス・アクィナスが『神学大全』を突然打ち切ったように、バルトも突然仕事を中断した。それは「未完成交響楽」にとどまったのだという。バルトは最後の未完成の講演原稿のなかにルカ20・38を引用して82歳の生涯を閉じたという。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである」(協会共同訳)

1 邦訳があるかどうかわからない。
2 ピオ12世またはピウス12世(Pius PP. XII、1876年 - 1958年)は第260代ローマ教皇(在位:1939年 - 1958年)。本名はエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ(Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli)。第二次世界大戦をはさんで20年間カトリック教会を導く。死後75年で関係書類の公開がなされるとの規程に伴い、先般、デジタル化された書類が公開され始まったという。ピオ12世のナチへの対応姿勢を巡っては毀誉褒貶が激しく、まだ評価が定まっていないようだが、研究が進むことだろう。われわれや少し上の世代には、ヨハネ23世と並んで身近な名前である。

(ピオ12世)

3 ヨハネ・パウロ2世の保守的な傾向が明らかになるにつれて、キュンクはヨハネ・パウロ2世批判を強めていく。
(ヨハネ・パウロ二世)

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ポストモダンの神学 ー カール・バルト(1)

2020-04-05 14:56:25 | 神学

 いよいよキュンクのバルト論である。おしゃべりの会(神学講座2020)は新型コロナウイルス感染拡大防止の為教会に集まれないのでお休みだ。致し方ないので本の要約をしておきたい。
 今日は受難の主日なので、ごミサがないのはわかっていたが、一応教会に行ってご聖体訪問し、お祈り、祝別された棕櫚の枝をいただいてきた。何人かの方がお祈りしていたが寂しいお聖堂だった。来週の復活祭のミサもない。困ったものだ。

 「カール・バルトは、スイスの生んだ20世紀最大のプロテスタント神学者の一人である」は宮田光雄氏の『カール・バルトー神の愉快なパルチザン』(1)の書き出しである。この評価は言い過ぎではないようだ。プロテスタント神学者の中では聖書学(様式史研究)ではブルトマンの方をより高く評価する人もいるようだが、社会的影響力の大きさでは、この「赤い牧師」、反全体主義者、エキュメニズム主義者、「危機の時代の神学者」の右に出る人はいないようだ。キュンクもバルト神学を「いかなる解放の神学よりもラディカルな解放の神学である」(2)と評価を惜しまない。バルトもキュンクもモーツアルトの専門家でもある。通じるところは多いようだ。キュンクは、カトリック神学者として、プロテスタントのバルト神学の何をどのように評価するのであろうか。

 本稿のタイトルを「ポストモダンの神学」とした。本章の本来の副題は「ポストモダンへの移行における神学」となっている。これは、キュンクがバルトを本書の最後で「神学のポストモダン的パラダイムの創始者」と呼んで話題になったからである。バルト神学がどういう意味でポストモダン的なのかは論考をみることにして、ポストモダンでさえ乗り越えられて過去の哲学的思潮になってしまっている2020年代の今日、バルト神学をポストモダン的と評価することにどういう意味があるのかも考えながら見ていきたい。80年代のポストモダン論争、ラッチンガー(名誉教皇ベネディクト16世)とハバーマスらによる批判(3)を思い起こすとき、このキュンクの議論の時代的制約性(原著は1994年)も覚えておきたい。

Ⅰ 喧嘩っ早いプロテスタント

 キュンクは、バルトが「反カトリック扇動者」としての自分の姿勢を明らかにした、1948年の ーつまり、戦後のー オランダのアムステルダムで開かれた「第一回世界教会会議」での発言から話を始める。誰でも知っているバルトの過去の経歴やヒットラー帝国への闘争(4)の話から始めるのではないことが興味深い。
 この大会では、プロテスタント、カトリック、東方教会などが集まって「世界キリスト教協議会」(WCC=ORK)の発足が意図されていた。エキュメニズム運動のシンボルだった。だが結局、ローマ教皇ピウス12世は参加を拒否し、ロシア正教も参加しなかった。このとき62歳のバルトは、「この(ローマとモスクワの)拒絶の中に、わたしたちの上に及んだ神の力強い手を率直に認識しないでいられようか」と高々と宣言し、最後の教皇首位主義者 Vorkonziliar ピオ12世に挑んだのである。

Ⅱ ローマ・カトリシズム批判

 バルトのカトリック批判は、神学的には深いものに根ざしており、時代的にも遙かに遡るという。バルトは若いときカトリック神学者(イエズス会)エーリッヒ・プシュワラと出会い、「存在の類似性」(アナロギア・エンティス)(5)の理念につき議論する。バルトは、カトリックは、シュライエルマッハーらの「新プロテスタンティズム」よりはキリスト教の精神をよく守っていると判断したが、神の啓示を独占するという「根本的誤謬」を煩っていると批判した。世界は世界、人間は人間、神は神で断絶しており、イエス・キリストにおいてのみ和解が可能になると主張した。弁証法神学の立場である。
 『ローマ書』『教会教義学』におけるこういう主張にカトリック神学は注目し始めたという。第二バチカン公会議はまだ遠い先の、1930、40年代のことである。

Ⅲ カトリックからの理解の試み

 バルトに注目した二人目のカトリック神学者はバルタザールである(6)。『カール・バルト その神学の表現と解釈』(1951)はバルト神学の内的理解の突破口となったという。バルタザールはバルトこそシュライエルマッハーとのみ比較できる神学と思想を持った人物だと高く評価した。特に、バルトによる「キリスト中心 Christus-Mitter 説」(キリスト集中説)にもとづく「予定論」の新しい解釈を高く評価したという。

 キュンクは、バルトの『教会教義学』(1932)は「二正面作戦」の戦いだったという。右正面にローマ・カトリシズム、左正面に自由主義的新プロテスタンティズムを置き、危機の神学、弁証法神学をもって正面突破しようとする。

 右正面のローマ・カトリックは、スコラ哲学と第一バチカン公会議(1869)の結果、「存在の類比」論に囚われ、神と人間を横並びにして、自然と恩寵、理性と信仰、哲学と神学の協働関係を構築しようとしていた。バルトは神と人間の断絶を強調して、ローマ・カトリックを批判する。
 左正面の自由主義的新プロテスタンティズムは、シュライエルマッハーの影響のもとに、神と神の啓示ではなく、敬虔な宗教的人間を強調しすぎていた。だからかれらは、カトリックと同じように、支配的な政治システム(第一次世界大戦の戦争政策、ナチズムの国家社会主義)に妥協していった。
 神と人とのこの「存在の類比」の故に、プロテスタントの「ドイツ・キリスト者」はヒットラーのなかに、キリスト教とドイツ国家を結びつける新しいルター、新しいキリストを見たのではないか。バルトの批判は激しかった。

 

 

 だが、バルタザールは、このバルトの主張ー存在の類比からの分離あるいは信仰の類比の対置ーは「誤った問題設定」だと見抜いていたという。カトリック神学も教会も、神と人間の相違をバルトが言うように単に「同水準化する」などと望んでいないし、神の啓示を独占したいなどと望んでもいない。バルトはバルタザールとの長い論争の末に批判を受け入れ、「その言葉(アナロギア・エンティス 存在の類比)は今では埋葬しました」と述べたという。だがバルティアン(7)の多くは、教会分裂(カトリックとプロテスタントの分裂)は、教皇制やサクラメントのせいではなく、この存在の類比説によると現在でも相変わらず主張しているという。

 キュンクはここでバルトをこれ以上追求しない。むしろ、自分が、カトリック神学と福音主義神学が和解可能であることを学んだのはバルトからであると素直に述べている。「カール・バルトは、まさに彼が福音主義神学の断固たる形成を体現したからこそカトリック神学に最も近いところに来たということである」(299頁)。訳文は硬いが、キュンクはバルトに好意的だ。カトリック神学と福音主義神学はどこで和解しうるのか。キュンクはそれは「エキュメニカルな神学」の可能性の追求のなかにみる。

 バルトのエキュメニズム論は次回に回したい(8)。

1 宮田光雄 『カール・バルトー神の愉快なパルチザン』 岩波現代全書 2015。なお、パルチザンとは特定の党派性を持った者という意味だが、現代では、機動力を持ったゲリラ(遊撃兵)という意味で使われる。この「神の愉快なパルチザン」という呼称はバルト自身が選んだものだという。ユーモアとアイロニーが含まれているようだ。
 ちなみに簡単に年譜を見てみよう。カール・バルトは1886年にバーゼルで生まれ、1968年にバーゼルで死去。1904-1909の神学生時代、1909-1921の副牧師、牧師時代。1919年出版の『ローマ書』がスイスの田舎牧師をドイツ語圏最大の神学者にする。1921-1935の神学教授時代。1935年ナチスによりボン大学の教授職から追放され、以後バーゼル大学で神学を教えながらヒトラー帝国に抵抗する教会闘争に参加する。終戦後の1948年の世界教会会議での講演が彼の名声を不動のものにする。1959年『教会教義学』の最終巻(Ⅳ/3)。1962年最初の米国旅行。1966年最後のローマ旅行。1968年バーゼルで死去。
2 ハンス・キュンク 『キリスト教思想の形成者たち』新教出版社 2014 328頁
3 J・ハバーマス/J・ラッチンガー 『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』 岩波書店 2007
  Dialektik der Saekularisierung Ueber Vernunft und Religion (2005)
4 バルトが起草した1934年の「バルメン宣言」(ナチに抗議したドイツの福音主義教会の宣言)は、「現代史のなかで最も感動的な物語」であるという(小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社 1995 240頁)。
5 「存在の類比」とは難しい神学用語だが、神と被造物との間には類似性があるというトマス神学の概念。専門的な議論は別にして、基本的には人間は神の似姿であるという視点をさすらしい。バルトは類似性より断絶を強調する。佐藤優などは「関係の類似性」概念と対比させて好んで論じている。関係の類比概念もはっきりしないが(バルトにならって)信仰の類似という意味らしい(『同志社大学神学部』光文社新書 2015)。
6 ハンス・ウルス・フォン・バルタザール Hans Urs von Balthasar 1905-88。プシュワラとリュバック(1896-1991)の両者の弟子。バルトとおなじくバーゼルに住んでいた。イエズス会
を退会し、在俗修道会「ヨハネ共同体」を設立。第二バチカン公会議前後のカトリック神学の指導者。カトリック神学のなかではカール・ラーナーと並び称される。
7 バルティアンとはバルト神学の賛美者、信奉者。硬直したバルト主義者を揶揄するあだ名のこと。否定的なニュアンスをこめて使われることが多いようだ。
8 佐藤司郎 『カール・バルトとエキュメニズム:一つなる教会への途』 新教出版 2019
著者はプロテスタント神学者なのでキュンクとは視点が異なる。

 

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カトリック司祭の老後と介護 ー 「人生を歩み続ける途で」(外川直見神父 ロヨラハウス館長)

2020-04-01 18:43:01 | 教会

 長く教鞭を執られた後、ロヨラハウスの館長として、リタイアした司祭の老後と介護に尽くされてきた外川直見(けがわなおみ)神父がこのたび山口教会に移られることになった。新型コロナウイールスで騒がしいなか、カト研の有志の方々が送別会を開かれた。そのおり、神父様がご紹介されたお話の一部が2016年の「カトリック生活」11月号に掲載されている。師の許可をいただいたのでここに紹介したい。
 カトリックの司祭は一応75歳が定年になっているようだ。その後も元気な場合は、召命の減少や司祭不足もあり、教区司祭を続ける場合もあるようだが、介護が必要になる場合もある。司祭や牧師の老後と介護というと大げさな話になるが、制度としてもまだまだ十分ではないようだ。老いと病と死に直面する司祭が何を考えているのか、外川神父様のお話を紹介したい。この文章は外川神父様のお人柄がよくわかるとともに、キリスト者が死をどのように考えているかを具体的に示している。

 

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