カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルターと芸術家たち

2017-10-25 10:34:12 | 神学

 10月31日がルターの「95ヶ条の論題」提示から500年の記念日ということで10月24日に「アカシア会」(教会の信徒の集まり)でM氏が講演された。演題は「ウイッテンベルクの小夜啼鳥マルティン・ルターと芸術家たちーそのⅠ ザックスとワーグナー」であった。カト研には音楽に詳しい方がたくさんおられるが、わたしは音楽や絵画には全くの素人でなんの知見もない。そんなわたしが、碩学のM氏のルター論、芸術論をここで紹介するのはまったくお門違いであることは重々承知しているが、学ぶことが多かったので恥を忍んでふれてみたい。私が誤解しているところが多々あるかもしれないと危惧しているが、カト研の皆様にはお役に立つところがあるかと思い、少し講演の内容を紹介してみたい。

 「M.ルターと芸術」というテーマは私には新鮮な問題意識だ。普通ルター論は①神学論か②人物論に照準が別れてしまう。神学論では福音派の義認論などが論じられ、改革派との異同が議論の中心となる。人物論・性格論ではルターが神経症を病んでいたとか、健康はすぐれなかったとかいう話になる。だが、③ルターの芸術への関心・貢献というのは面白い視点だ。音楽でいえば、ルターはコラール(賛美歌)を作詞したり、作曲したりしていて、『神はわがやぐら』『深き悩みの淵より』くらいは私でも知っているが、ルター自身の音楽論とはどんなものなのであろうか。また、絵画についてもルターはどのような態度をとり、関心を持っていたのだろうか。わたしには見当もつかない。

 ルター論でもう一つ考えなければならないのは、ルターその人ではなく、ルターを取り囲む人々、ルターの支持者たちが果たした音楽への貢献、絵画への貢献だ。こういう人々の働きがなければ、ルターの思想はあれほどのスピードで、あれほど広範囲に広がることもなかったのではないか。つまり、ルター本人の芸術との関わりと、ルター支持者たちの芸術との関わりを区別する必要があるように思えるが、どうなのだろうか。今日のM氏の講演は、ザックスとワーグナーというルター支持者二人の音楽家をとおして、ルターの特徴を明らかにしてくれた。音楽や絵に造詣の深いM氏の講演はおもしろかった。今日は音楽家が取り上げられた。次回は、L・クラナーハ、A・デューラー、P・ブリューゲルというルターを支持した画家たちを紹介しれくれるという。クラナーハやブリューゲルは私は名前くらいしか知らないので楽しみだ。今日は、クラナーハが描いたルターの画が数枚紹介され、興味深いものであった。

 さて、本題に入ろう。表題の「小夜啼鳥」とはルターのことだ。それは、H・ザックス(Hans Sachs 1494-1576)が、ルターを讃えて書いた長編詩、『ヴィッテンベルクの鶯(Die Wittenbergisch Nachtigall)』または『ウイッテンベルクの小夜啼鳥』(1523年7月8日発表、Nachtigallとはナイチンゲール、英語でnightingale)からきているのだという。これは当時の教皇とカトリック教会を糾弾する激しい詩だという。ザックスは、靴職人ギルドの親方で、画家であり、ドイツのマイスタージンガー(職匠歌人と訳されるらしい)の栄誉を与えられたルネッサンス期ドイツの百科全書学派の人文主義者だという。

 このザックスは、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー( Wilhelm Richard Wagner 1813-1883)の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)に登場する。第3幕でニュルンベルクの民衆が歌うコラール「目覚めよ。朝は近づいた」は、ザックスの詩『ヴィッテンベルクの鶯』の冒頭の一節に基づいているのだという。M氏が紹介された詩をのぞいてみよう。出典は藤代幸一『ヴィッテンベルクの小夜啼鳥』2000年だという。

目覚めよ、夜明けが近づいている。
緑の森で一羽の小夜啼鳥が
喜ばしげにさえずっているのが聞こえる
その鳴き声は山や谷に響き渡る。
夜は西に傾き、朝は東から昇る。
茜に照り映える曙が
どんよりした雲間から現れ、
そこから明るい太陽が輝きわたる。

 文字通りルターを讃える歌のように読める。ワーグナー自身にはルターを讃える意図があったかは判然としないらしい。また、ワーグナーの楽劇は宗教改革とは直接の関係はないようだ。だが、当時の北ドイツの庶民の中にあった教会高位聖職者への反感と、改革を希求する心情をすくい上げることに成功したから、傑作としての評判をよんだのだという。 こうして、ザックスとワーグナーによって、ルターと「小夜啼鳥」が結びつけられ、「ウイッテンベルクの小夜啼鳥」といえばルターのことを指すようになったのだという。ルターと音楽といえば、ヨハン・セバスチャン・バッハの名前がすぐでてくるが、ザックスとワーグナーの貢献も忘れてはならない、というのがM氏の話のポイントだと理解した。私は楽劇と歌劇の区別もつかない。おそらくオペラのことを指しているのだろうが、なぜ「マイスタージンガー」が「楽劇」と呼ばれ、「タンホイザー」が「歌劇」とよばれるのか、その区別はどこにあるのかまったくわからない。それでも、M氏の説明は詳細で説得力があった。

 このあと、M氏はルターの経歴を時系列的に説明された。それはそれで興味深い話もあったがここでは省略して、M氏が最後に強調された「要約」をまとめておきたい。
①ルターの教説の伝搬は、聖書のドイツ語訳の普及、北ドイツ・ネーデルランド地方の芸術家たちの協力、活版印刷術普及、に負うところが大であった
②「95ヶ条の論題」を扉に打ち付けたというメランヒトン(ルターの同志)の記述は誤りで、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルグ大司教あてに1517年10月31日づけで書簡とともに送ったものである
③この10月31日にルターはカトリック教会と決別したわけではない。問題が始まっただけである。ルターが破門され、両者が決別したのは1522年1月3日のことで、3年余の月日が経った後である。ルターは、当初、教会の改革を求めていたのであり、決別しようとは思っていなかった。
④岩下壮一師は、ルターはカントに代表される近代思潮の原型だが、カント以上に「自我」中心であると評価していた。「ルターによれば・・・救いの重心は自己の心の中のこと、即ち純主観的のこととなって了った」(『信仰の遺産』1929)

 どれももっともな要約である。このあと若干の質疑応答があった。たとえば、M氏のルター評価は「甘すぎる」のではないか、いや、『マリアの賛歌』(1521)を上梓したときはまだマリア崇敬の気持ちを持っていたのではないか、ルター派とカトリック教会はどうして「和解」の方向に進みつつあるのか、などなど多岐にわたった。M氏の次回の講演が楽しみである。

 

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「集会祭儀」とは何か

2017-10-22 16:50:05 | 神学

 以下はカトリック教会の教区のなかの全くローカルな話題です。カト研の皆さんの中には一粒会で活躍なさっている方も多いと思いますが、特に宣教活動などに関わっておられない方にはあまり興味の湧かない話題でしょうから、読み飛ばしていただいて結構です。
 10月21日の土曜日、台風のなか「地区共同宣教司牧委員会」主催の研修会が開かれた。こういう宣教とか司牧とかあまり考えたことがなかったので、勉強のためと思って出席してみました。どうもカテキスタの方々向けの研修会のようで、大雨にもかかわらず30名くらいの方が来ておられました。研修会のテーマは「横浜教区の三部門を考える」と題され、講師はY教会のF神父様で、神奈川第四地区共同宣教司牧の第三部門の担当司祭とのことです。こういう責任ある神父様が宣教についてどのように考えておられるのか知りたくて出てみました。
 宣教といっても、キリスト教信徒数が日本の総人口のわずか1パーセント内外という現状で、どうしたら信徒を増やすことができるか、という話なのか。自分たちはマイノリティだという話なのか。それとも、日本文化におけるキリスト教の影響力は大きく、福音を伝える素地は十分あるという話なのか。たとえば、現代日本人の10%くらいは何らかのかたちでキリスト教系の学校を卒業しているという。聖書は常にベストセラーで上位から落ちることはないという。近代日本の思想や文学はキリスト教ぬきには語れないだろう。日本文化の中でキリスト教はマイノリティではないという話なのか。日本の司祭たちはどちらの側面に目を向けて宣教を考えているのだろうか、というのが私の素朴な疑問というか関心事だった。

 横浜教区には2007年から地区共同宣教司牧委員会に三つの部門が設置され、活動しているという。①祈る力を育てる部門 ②信仰を伝える力を育てる部門 ③神の愛を証する力を育てる部門。F神父様はこの各部門を順番に説明された。細かい話は別として、ポイントだけをふれてみる。
 ①の「祈る力」部門は、司祭不在の小教区が増えているので「ミサのない主日の集会祭儀」を開けるように、「司式者」と「奉仕者」を養成する部門のようだ。もちろん司祭がいないときの葬儀の執り行いとか震災時の集会のしかたとかも含まれるが、もっとも大事なのは主日の集会祭儀だろう。②の「信仰を伝える力」部門は、従来の教会学校、中高生会、キリスト教入門講座などは行き詰まっているので、新しい途を考えねばならないとしていろいろ話された。内容はもっともな話もあったが、私としては疑問に感じる話がいくつかあり、あとで少しふれてみたい。③「神の愛を明かしする力」部門では、地元自治体での市民活動に積極的に参加することが強調された。福祉活動はもちろん大事だが、たとえば市民祭りなどへの協力が求められるという。この部門が設置された10年、20年前には、「野宿者への支援、対日外国人への関わり」(変な表現だが、2007年4月8日付の司教教書で使われている)、青少年活動の強化、環境問題への取り組み、の4点が挙げられていたが、社会状況が変わったので現在は力点が変わってきているという話であった。
 どれも興味深い話で、カテキスタの方々のご苦労が思いやられる話題が多かった。私には個人的には三つの点が印象に残った。

 第一点は、集会祭儀の話だ。司祭がいれば主日のミサがあげられるわけだが、司祭がいない場合主日に集まった信徒はどうしたらよいのか。そもそも聖体拝領はどうなるのか。私は集会祭儀は話としては聞いていたが、実際に参加したことはないのでイメージがわかない。キリスト教2000年の長い歴史のスパンで考えれば司祭のいない教会や集会は多かったであろう。日本で言えばキリシタン弾圧の歴史が思い起こされる。だが現在は司祭不足は本当に深刻なようだ。日本では信者数に比べると小教区(教会)の数が多すぎるという議論もあるようだが、司祭不足で集会祭儀が実際に行われているところもあるようだ。ではどういう風におこなうのか。そもそも聖体拝領をどうするのか。F神父様は主日のミサと集会祭儀の「比較表」を使って説明された。基本的には流れとしても(時間的にも)あまり違いはないようだが、それでも集会祭儀では感謝の祈り(叙唱・賛歌・奉献文)と聖体拝領がない。聖体拝領ができないのは困るので、実際には聖変化をすませたパンを「聖体奉仕者」が配る、というケースが多く、聖体拝領なしの集会祭儀は少ないらしい。問題は誰が「司式者」「奉仕者」で、どういう資格が必要なのか、司教の任命なのだろうがいつどのようにするのか、など細かい説明はなかった。カテキスタやシスターたちの仕事になってくるのだろうか。ミサの代わりの集会祭儀が現実のものとなってくるのだと私もなにか時代の変化を感じた。

 第二点は、F神父様が力説しておられた、「教会は神父ではない」説だ。司祭の個性で教会が左右されてはならない。あの神父がいいの、悪いのはよくない。主任司祭が変わるごとに教会のあり方が変わるのは良くない。教会は信徒のものであり、司祭のものではない。なんでも司祭に頼りがちな今の日本の教会の現状はよくない、などなど現状をかなり強い言葉で批判された。もっともなお話である。だから信徒だけで集会祭儀ができるような力をつけなさいということであろう。でも、と私は思う。司祭の人格に、人柄にひかれて、教会に足を踏み入れる人というのはいまでもいるのではないか。その人格や人柄の背後に強い信仰があることに気づいたとき、宣教が始まるのではないか。われわれは無個性な司祭を望んでいるのだろうか。わたしは祈らない司祭をみたくない。

 三点目はF神父様が「信仰を伝える部門」の説明で使われた議論だ。この部門はかっては「侍者のやり方」を学ぶ部門みたいに思われていたがそれは違うという。信徒はいままでの考え方を改めねばならないという。神父様は、「死後の救いのための個人的な罪のゆるし、倫理、道徳が教会教義の中心となってきました・・・・・が、こうした個人的な善・徳・罪・悪・倫理について祈り考えることは、もちろん大事なことですが、その結果として社会の、公の、善・徳・罪・悪・理想について祈り考えることが、なおざりにされてはならない」(『ひびき』2017年438号)、と述べる。つまり、神父様は突然「個人と社会」というディコトミーを使って話し始め、自分のことだけではなく、社会のことに関心を払わなければならない、と強調された。言われていることはもっともなのだが、これが「宣教」の趣旨なのだろうか。「社会」は「善悪罪徳」などの倫理的判断で語るものなのか。「善い社会」という言葉で神父様は何を言いたいのだろう
 。私も社会学者の一人として言えば、せっかく「個人と社会」という問題の立て方をされるのなら、どうして「共同体」論に話を展開しないのか。教会は共同体だといつも言われているのではないだろうか。というよりいまどき「個人と社会」という問題の立て方自体意味をなさないが、なにか特別な意味があるのだろうか。これは社会学の話なのでここで深入りしても致し方ない。神父様は言う。「日本の社会の行方(教育法、憲法の改正など)を考える」ことが大事だという(『教区報54号』)。総選挙の投票日を明日にひかえてこう言われると、「神父様、ちょっと」と思った。

 講演のあと知人と挨拶した。そして神父様の文章を読み返した。「個人の罪や悪だけではなく、社会の罪・矛盾・不条理・不公平にも目をとめ、その被害者と悲しむ者、および、それを正そうとする社会の良心的な目、理性的な働きから、あてにされる教会になりたい」(同上『ひびき』)。文章としてはきれいだ。だが、「(東日本大震災の)福島の被害者に救いの手をさしのべなさい。自分はどうなっても、被害者が喜べばそれでいいではないですか。自分のことはどうなってもいいんです。助けることが大事なのです」と言われた。「善きサマリア人」(ルカ10:30~35)の話を使って強調された。この話のとき私は思った。横浜・鎌倉・逗子などに住み、豊かな生活をしているエリートに支えられた教会が多いところで、本当にこういうメッセージがとどくのだろうか。言葉の綾、比喩ですといわれればそれまでだが、豊かな教会にはそれにあったメッセージが望まれるのではないか。実際の援助活動に熱心に取り組み、エキュメニズム活動で仏教各宗派とも交流のあるF神父様にしてこの言葉を語るのだから、私も考え込んだ。この地域の小教区は社会経済的に見てかなり特殊なのかもしれない。
 そして、少し考えた。司祭はカテキスタを前にするとこういうスタンスで話をするのだろうか。ごミサでの説教ではさすがここまで踏み込んだ話はないだろう。「個人の救済」ではなく「社会に関心」を持て。カテキスタの人たちは私のような一般信徒を前にして、そういうことを言いたいのだろうか。むしろ、普通の信徒は、不安だらけの自分の信仰を強め、深め、後押ししてくれるひとを求めているのではないか。カテキスタにもとめられているのはともに信仰を深める姿勢だ。「個人と社会」という19世紀社会学風の問題の立て方をするから、こういう議論になってしまうのだと思った。若いF神父様の熱意はわかったが、宣教司牧委員会が考えている宣教とは、どうも私が考えていたものとはなにか方向が違うのではないか、という印象を持った。鈴木範久氏は近著『日本キリスト教史』(2017)でこう述べている。「日本のキリスト教は、たとえ信徒の数の増減とは直結しなくとも、日本の文化、社会において、どのように向き合い、どのように関わるか、このことが大きな課題になるといえる」(371頁)。宣教とは単に信徒の数を増やせば良いというものではない。といって、独りよがりの福音を述べ伝え、実践すれば良い、というものでもないだろう。カテキスタの方々が担う課題は大きい。こういう人たちがこれからの教会を豊かにしていってくれるのであろう。

 

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『使徒信条を詠む』(4)(神学講座)

2017-10-03 11:55:38 | 神学

 神学講座は毎月第一月曜日におこなわれているが、10月もお休みだったので、前回の続きを報告したい。

 第二部は「使徒信条の解釈」と題されており、大きく二節にわかれている。第一節は「三位一体の神」というタイトルで、使徒信条の第Ⅰ項目(父の祈り・父を信じます)、第Ⅱ項目(子の祈り・キリストを信じます)、第Ⅲ項目(聖霊の祈り・聖霊を信じます)が講じられる。第二節は「人間の救い」というタイトルで、「五つの要素」(普遍の教会・聖徒のまじわり・罪のゆるし・からだの復活・永遠のいのち)が講じられる。今回はこの第一節をまとめ、第二節は次回にまわしたい。

第8講 「御父である神を信じます」

 使徒信条の第Ⅰ項目は「私は『天地の創造主、全能の神である父』を信じます」という文章である。阿部師はここで、神は信ずる相手であって、論じる対象ではない、と主張する。言われてみればなるほどそのとおりである。でもどうしても論じたいのなら、見方を逆転させて、人間論的に考えた方が理解が進むという。人間は「神の似像」だからだ。具体的には、以下の三点を強調する。

①神は「父なる神」として捉えるべきだという。つまり、遠藤周作や井上洋治師のように「母なる神」と言いたくて仕方が無い人たちを批判する。これはこれで興味深い指摘で、いろいろ議論が可能であろう。
②「譬え」を用いてイメージ化して把握していけ、という。譬えの重視はキリスト教神学の特徴だが、これは神学者J.メッツによれば「物語的神学」とよばれるのだという。ここでは、伝統的な、スコラ的「論証的神学」が批判されていく。かなり明確な立場性の表明で、そこまで言っても良いのかと思うほど断定的である。
③神の三つの特徴として、天地の創造主・唯一の神・全能の父、の三要点が説明される。キリスト教はパウロ的な「十字架の神学」だけではなく、「創造論」を組み込んでいる。しかも他の宗教とは異なり、神の全能性、唯一性を強調する。キリスト教がなぜ創造論をユダヤ教、または、旧約聖書から引き継いだかについてはいろいろ議論があるようだが、(関根清三『旧約聖書の思想』1998、田川健三『書物としての新約聖書』1997)、師は創造論が使徒信条に組み込まれていることは所与のこととして講義を展開している。使徒信条の成立は新約聖書の本としての(正典としての)成立と切り離せないだろうが、阿部師はそこまでは立ち入らない。

第9講 「御子イエス=キリストを信じます」

 第二項は、「私は、『神の独り子、私たちの主イエス=キリスト』を信じます」という文章である。イエス=キリストを「主」と呼ぶのはなぜなのか。「神」を「主」と呼ぶのはなぜなのか。それは、神が我々を呼ぶとき固有名詞で呼んでくれるからだ、という。ルカ10・41の「マルタ・マリア」の話が説明される。ルカ福音書と使徒行録(使徒言行録・使徒行伝)は一続き、一体のものと考えるならば、マルタが活動修道会を指し、マリアが観想修道会を指していると解釈できるのだという。そして教皇ベネディクト16世のキリスト論『ナザレのイエス』が詳しく紹介され、「人間中心主義的な歴史批判的聖書学」が批判される。ちなみに、「歴史批判的方法」とは、テキストを(聖書を)その成立当時の状況のなかにおいて検討する手法のことだ。現在の視点から論ずるのではないということを意味する。この歴史批判的手法への批判や、現代の史的イエス研究としての「第三探求」(これも論じ出すと切りがない)批判のトーンは強すぎる印象があるが、イエス=キリストを「神の似像」から「神の似姿」への「成熟」として捉える視点は新鮮で、わたしは学ぶところが多かった。

第10講 受肉と神化

 第二項はさらに4段階に分けられるが、細かくは「10の要素」に分けられるという。第10講では①「聖霊によって人となり」、②「おとめマリアから生まれ」、の二つが説明される(訳文は阿部師のもの)。受肉論と神化論である。
 受肉とは日本語としてはまだなじまない言葉だが、かっては「御託身」または「御托身」という言葉を使っていた。意味は、「神が肉になる」つまり「神が人間になる」ということだ(ヨハネ1・14)。「肉」という言葉(ヘブライ語のバーサール、ギリシャ語のサルクス)には「神から離れて生きる傲慢な生き方」という意味が含意されてとのことだが、日本語としてはこういう含意やニュアンスはないので、語感としてはいまのところ少し生々しすぎる感がしなくもない。いずれ日本語として定着すれば、つまり日本語を変えることに成功すれば、自然に受け入れられていくかもしれない。「愛」という日本語の言葉がキリスト教の影響のもとに性愛という意味を超え始めていることは誰も認めることだろう。言葉の内包と外延が深まり、広がってきているのだ。同じことが「肉」という言葉にも起こるかもしれない。
 神が受肉したのは「人間を神化するため」だという。神化とは、神の似像としての人間が神の似姿へと成熟することをいう(似像と似姿の違いに注意)。神化とは救済論的な意味であり、存在論的意味(人間が神と同等のものに成り上がる)ではない。これは古代ギリシャ教父たちの考え方で、阿部師は詳しく説明している。ここは師の専門領域のようだ。
 イエスは「おとめマリアから生まれた」。阿部師はここではマリア論に入る。「おとめ」とは生物学的な処女を意味するだけではなく、「純粋な信仰を抱く者」という意味で使われるという。マリアは「信仰者の模範」としてあがめられる。マリア崇敬を強調する阿部師はトマス・アクィナスを使ってマリア論を展開する。「三位一体の神が安心して居座る場所がマリアという人間である」とはトマス・アクィナスの言葉だという。神学上のマリアと歴史的なマリアがどうつながるのか、もう少し説明がほしいところである。

第11講 ポンティオ・ピラトのもとで

 イエスの全生涯の要約の第二段階は、「③ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、④十字架につけられて死に、⑤葬られ」という文章だ。イエスの受難・死・埋葬のことだ。ポンティオ・ピラト論はおもしろい。使徒信条になんでピラトの名前が入っているのか、だれでも疑問に思うだろう。ローマ帝国から派遣されたユダヤ総督のピラトはそもそも悪者なのか、それとも可哀想な人なのか。けしからん奴なのか、哀れむべき人間なのか。評価はいつも分かれるようだ。ピラトの名前が残っていることについて阿部師は二つの理由をあげている。①キリスト者に人間の弱さを思い出させるための代表者として、②イエスの歴史的存在を保証するため、だという。ピラト論もいろいろあるようだが、わたしは勉強不足で阿部師のピラト論の特徴がどこにあるのかはわからなかった。

 十字架上の死については、イギリスの神学者アリスター・マクグラス(1953-)を使って十字架の神学を説明する。マクグラスは聖公会の神学者のようだが、阿部師は良く読み込んでおられるようだ。マクグラスは日本では佐藤優が現代最高の神学者と評価していることでよく知られている。阿部師がここまでプロテスタント神学を組み込んでくることに驚きを感じた。というより、十字架の神学についてはカトリックとプロテスタントの違いはなくなってきているのかもしれない。
 また、マルコ15・34の「わが神、わが神、なぜ私を見棄てるのですか」の解釈として、伝統的な、①死の絶望に襲われた人の叫び、②自分が見棄てられたことを知った人の叫び、の二つの解釈を否定し、ベネディクト16世の解釈、すなわち、この言葉は詩篇22を身をもって体験した義人の出来事、をとる。つまり、神への祈りだという。これはなかなかフォローしづらい説明だが、それは、ラッチンガーのような神学者の説明・解釈は、普通我々がおこなう個人主義的解釈を避け、教会としての共同体的解釈を優先するからだという。個人としてどう考えるかではなく、教会としてどう考えるか、が優先される。こういう議論の展開のしかたには阿部師も説明に苦労しているらしく、10頁近くを費やしている。

 イエスの葬りについては簡単にふれているだけだ。墓に葬られるとは「完全に死んだ」ことを意味しているという。復活は蘇生とか、あの世からの舞い戻りと考えがちな日本人への阿部師の暗黙の批判のようにも読める。

第12講 よみに降るイエス

 イエスの全生涯の要約の第三段階は、「⑥死者のもとに降り」という文章です。これは大事な点だ。信者の視点から見れば、イエス登場以前の人間は救われないのか、イエスを待ち望みながら死んだ人(殉教者など)はどうなるのか、幼くして亡くなった赤子はどうなるのか、堕胎で下ろされた子はどうなるのか(いわゆる水子問題)、キリストを知らずに生涯をおえる人、洗礼を受けていない人は救われないのか、などという切実な問いが周囲から寄せられる。これらの問いへの答えはシンプルだ。「まだ救いの無い状態に留め置かれている」となる。が、この答えは本当に説得力をもっているのか。アウグスティヌスの煉獄論もあまり聞かれない。遺伝子操作、ゲノム編集が可能な時代にも通じる説明がほしいところだ。
 イエスが到来する以前の死者が赴いたところを「よみ」(陰府)という。かっては「古聖所」とよんでいた。死者は死後すぐに天国に行くのではない、地獄に落ちるのでもない、「よみ」にとどまっている、というのがローマ・カトリック教会の説明だ。だが、阿部師は、教会は「死後の世界」についてほとんど語っていないという。『カトリック教会のカテキズム』では、死者のもとに降るイエス=キリストに関する記述はほんのわずかだという。ヨハネ・パウロ二世の許可を経て発表された教理省書簡『終末論における若干の問題について』(1975年)はこう述べているという。「聖書も神学も、死後にくる未来の生命についてふさわしく描写するために十分な資料を与えているわけではない」。ここでは、イエス=キリストが死後の世界にまで降りていく、つまり、イエスは生者のみならず死者をも救おうとする点が強調されており、死後の世界そのものについてはあまり語られない。仏教、ヒンズー教、イスラム教ではどうなのだろう、と考えたくなるがそれはまた別問題となる。

第13講 復活・昇天・高挙・再臨の際の裁き

 イエスの全生涯の要約の第四段階は、「⑦三日目に復活し、⑧天に昇って、⑨全能の御父である神の右の座に就き、⑩生者と死者を裁くために来られます」という長い文章だ。つまり、イエスの地上での生活のあと何が起こるのか、という問いへの答えだ。阿部師は「意味のある完成へ」向かう、と表現している。意味のある完成とは抽象的な表現だが結局は救いのことだろう。師は、「無意味な人生はありません」と述べる(182頁)。

 阿部師はまず復活論を詳しく説明する。イエス=キリストの復活には六つの意味が込められているという。

①神の愛の勝利 ②新しいいのちの始まり ③強烈な愛の思いの実現
④豊かな人生の歩みの開示 ⑤ともに食事をして連帯する
⑥シャローム(平和)の呼びかけ

 この六つのメッセージが詳しく説明されるが、なぜ六つかは述べられていない。また、内容も特に変わったことが述べられているわけではない。思うに阿部師の復活についての考え方なのであろう。
 阿部師の復活論の特徴はむしろ「弟子達の復活体験」の説明にあるように思えた。まるで黙想会での講義のような丁寧な説明である。おもにマタイ福音書を下敷きにして論じているが、共観福音書のなかでもマタイ福音書をたかく評価しているようだ。マルコよりマタイを重要視しているところに阿部師の特徴が表れているように思えた。また、四福音書の並べ方に関する阿部師の理解の仕方が垣間見えて興味深かった。つまり、われわれが知っている「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」という順番での並べ方(いわゆる東方型)とは異なり、「マタイ・ヨハネ・ルカ・マルコという西方型の並べ方を想定しているように思えたが、これは私の早合点かもしれない。

 「天に昇り」とは主の昇天のことだ。「御父によって御子が高く挙げられた」(高挙)という表現もある。高挙はフィリポ2・9での出来事を指しているという。

 わたしが興味深いといつも思っているのは、「神の右の座に就く」という表現だ。なぜ「右」なのか。これは「御父から見て右」であり、仰ぎ見る我々から見れば「左」となる。阿部師は「右」は日本で使われる「上司の右腕」と同じ意味だと言っている(177頁)。本当にそうなんだろうか。
 普通の日本文化論では日本文化は「左の文化」と言われる。左の方が右より上、偉い、ということになっている。紫宸殿の「左近の桜、右近の橘」はよく知られている。京都の皇居から見て(南に向いて)左側が偉い、重要ということになっているらしい。北を向けば、左京区は右側、右京区は左側にある。お雛様でひな人形を飾るとき、「男雛」と「女雛」の位置を思い出してほしい。結婚式で花嫁の座る位置はあなたの地域では(結婚式場では)花婿の右ですか、左ですか。基本的には「左の文化」が生きていると言ってよいだろう(地域性があるので断定はできない)。キリスト教は「右の文化」だと阿部師は考えているようだ。ユダヤ教やキリスト教で「右」が重視されるのは、「右」が「善」や「正義」を象徴し、「左」は「悪」のシンボルだからだ。日本の「左の文化」論のように上下・優劣を表すのではない。比較の軸が異なる。阿部師がキリスト教は「右の文化」で「上司の右腕」と同じだというのなら、師のさらなる説明を聞いてみたいところだ。

 「再臨」とは世の終わりにイエスが再び来ると言うことだ。死んで、復活して、昇天して、再臨する。阿部師はこれは現代人には「奇異なものと映るかもしれない」と認める(178頁)。が、師はここで「心性史」という手法を用いて説明を始める。社会構造を重視する従来の歴史学とは対立的な心性史の立場だ。具体的にはF・ブローデル(1902-1985)に代表される「アナール学派」の「再臨論」を展開する。中世ヨーロッパの神学ではなく、社会構造ではなく、迷信や習俗をとおして民衆の再臨観を描く。阿部師がアナール学派をこれほど高く評価していることに驚いた。

 「神の裁き」は公平を実現する最後の手段だ。伝統的に「私審判」と「公審判」の二つを受けるとされている。私審判は個人レベルでどれだけ愛情深く生きたかが問われ、公審判では所属する共同体や人類全体とどれだけ連帯して生きたか、が問われる。公審判は「最後の審判」と呼ばれ、「主の日」とも呼ばれる。最も重要な審判だ。私審判と公審判との間には時間差があると考えられた時代もあったという。だが阿部師はここでもバランス感覚が重要だと主張する。私審判も公審判もともに「共通善」を追求しなければならないと述べる。バランス論者の面目躍如である。「裁き」とは世俗法による裁判所の裁きとは異なる。ヨハネ福音書によれば、「裁き」とは「せっかく到来した光を、自分から避けて暗闇のなかにとどまろうとする人間の傲慢不遜な態度において生じてしまっている自業自得の事態」だという(ヨハネ3・19)。光を感謝して受け入れていない人はすでに「裁かれている」のだという。ちょっと護教的な表現だが、阿部師らしい言い方ではある。


第14講 聖霊を信じます

 使徒信条の第Ⅲ項目は聖霊を信じますという宣言文だ。ここでは阿部師の聖霊論がはっきりと示されている。聖書論としては阿部師はヨハネ福音書を使って、聖霊を「弁護者」として説明する。これはオーソドックスな視点だが、阿部師の特徴は聖霊論がなぜ必要かを述べるところにある。「聖霊こそが諸宗教対話のキー・ポイントになる」と述べる。宗教対話を強調し、聖霊論を強調する、というのは司祭として当たり前の発言のように見えるが、第二バチカン公会議以降の半世紀をみるとこれは勇気のいる発言だ。

 宗教対話なんて、結局カトリックの独自性を曖昧にするだけだ、という批判、わたしは賛同しないが、そういう批判は根強い。聖霊論なんて、はやりの「スピリチュアリズム」と紙一重、聖霊復興運動なんて教会を壊すだけだ、という批判もある。こういうなかで、K・ラーナー、K・バルト、門脇嘉吉師、宮本久雄師を援用しながら、アジア的アニミズム信仰、宇宙信仰を堂々と弁護し、何でもヨーロッパ的な聖霊概念を押しつけようとするバチカンを強烈に批判していく。「アジアには、人間を超え、人間を根源的に活かす内在的原動力を信じる霊性的傾向が見られます」と述べる(191頁)。バチカンの言いなりになることを是としない日本のカトリック教会の姿が垣間見える。

 諸宗教との対話では、排他主義・多元主義を避け、包括主義をとると宣言する(193頁)。つまり、救いはイエス=キリストにおいてのみ可能だという立場を譲らない。司祭として当然と言えば当然だが、「聖霊をとおしての他宗教との対話」路線が包括主義とどういう風につながるのか、もう少し説明がほしいところだ。
 わたしはここでどうしてもW.ジョンストン師のことを思い出す。「諸宗教との対話」の強調はジョンストン師の原点だ。阿部師と同じだ。だが、ジョンストン師は多元主義者ではないが、かといってかれを包括主義者として一括してくくることにはわたしは躊躇を感じる。私にはそれは彼の聖霊のとらえ方が独特だったからだと思えて仕方がない。かれが日本語に訳した『不可知の雲』(14世紀イギリスで書かれた著者不明の神秘主義的神学書、日本語訳は20011年エンデルレ書店発行)はかれの学位論文のテーマでもあったが、この神秘主義神学における聖霊概念は阿部師の言っている聖霊概念とは、アジア的聖霊概念とは、異なるように思える。カト研の皆さんはどう思われるだろうか。
 ジョンストン師の聖霊論とはなんだったのだろうか。かれは「聖霊来たりたまえ、聖霊来たりたまえ」(Come, Holy Spirit. Come, Holy Spirit) といつも祈っていた。今でも彼の祈りの声が聞こえてくる。でも、かれは聖霊論は展開しなかったのではないだろうか。彼の著書『愛する』(2004)には「聖霊」への言及は多い。でもそれは体系化された聖霊論ではない。それはいったいなぜだったのだろうか。カト研の皆さんのご教示をいただきたい。
 話を諸宗教との対話に戻せば、阿部師は、アシジで開かれた「世界諸宗教者平和祈祷集会」を紹介している。ヨハネ・パウロ二世の回勅『聖霊ー生命の与え主』(1986)に触れている。ジョンストン師もこの祈祷集会について講演会などで折にふれ話していたし、著書でも言及していた。「これは神学者の会議ではなく、<祈る人々の集まり>で、ローマではなく、アシジで開かれたということがすべてを物語っている」、と述べている(Mystical Journey, 2006,p.219)。かれのこの集会への高い評価とローマへの冷ややかな視線を感じさせる文章である。だが、この集会もこのあとまた歴史の波に飲み込まれていく。が、それはまた別の話である。
聖霊論は難しい。

 

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カトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義(2)(増田祐志師講演)

2017-10-01 18:03:45 | 神学

 増田師の講演の第5節「第二バチカン公会議」は時間切れで省略されてしまった。実はレジュメのこの部分は『カトリック教会論への招き』の第6章からの抜粋で4頁にも及ぶ。ここではレジュメを要約するよりは本の第6章そのものを要約してみたい。
 第6章は「第二バチカン公会議ー適応・刷新・対話・混乱」と題され、5節から成る。第1節 公会議招集 第二節 教会論 第三節 変化と転換 第四節 評価 第五節 新たな旅路へ:第二バチカン公会議からの出発、となっている。

序 ここでは増田師は20世紀を「暗黒の世紀」と呼ぶ。教会の教えではなく、理性が人類に幸福をもたらしてくれると信じてきた近代社会が新たな問題に直面して制御不能になってきているという。例えば、人口爆発・食糧問題・環境問題などをあげている。教会の自己理解はすべて歴史的現実と結びついており、現代では第二バチカン公会議が教会の自己理解の規範となっているという。

1節 公会議招集
増田師は、「カトリック・リベラリズムの断罪、第一バチカン公会議での教皇不可謬権の決定、「近代主義」の拒否といった教会の自己防衛時代が19世紀と20世紀前半ばまで続いた」と書き出す。かなり思い切った表現である。増田師の思想的立場性がはっきりとわかる。ヨハネ23世による第二バチカン公会議の招集と、リュバック・コンガール・ラーナー・キュンクらの公会議での役割を高く評価する。つまり、今までの公会議のようにある思想を断罪したり排斥したりするのではなく、また、新しい教義や神学体系を提示するのではなく、「教会とは何か」について徹底的に自己追求行った。歴史上初めての「教会論の公会議」が第二バチカン公会議だったという。

2節 教会論
公会議は16の公文書を交付した(4つの憲章・9つの教令・3つの宣言)。なかでも教会論として最も大事なのは、『教会憲章』と『現代世界憲章』だという。この二つは我々にも容易に手に入るもので、カテキスタの人たちには必須の文書なのであろう。その特徴を増田師は以下のようにまとめている。
①教会の組織 教会は組織としては二つの次元を持つという。信仰共同体と制度だという。具体的には位階制が原理であり、教皇・司教・司祭・信徒・修道者のヒエラルヒーを持っている。
②教会所属 キリストの教会の構成員は誰なのか。誰が教会を作っているのか。第二バチカン公会議以前の回勅『キリストの神秘体』には「キリストの教会はローマ・カトリック教会」と書かれている。プロテスタントや仏教など他宗派、他宗教はキリストの教会に所属しているとは考えられていなかった。第二バチカン公会議は「神の民」という概念を持ち込むことで、カトリック教会以外にもキリストの教会が存在する可能性をカトリック教会として歴史上初めて認めた。考えてみれば、「神の民」とは遠くルターの言葉である。こういっては言い過ぎかもしれないが、キリストの教会はカトリック信者だけの教会ではない、と宣言したのだ。
③信教の自由 驚くべきことにカトリック教会は公会議まで信教の自由を認めていなかった。「公会議直前まで歴代の教皇は唯一の宗教であるキリスト教、唯一のキリストの教会であるローマ・カトリック教会という主張を固持していた」(198頁)。増田師はピオ9世の「誤謬表」の例などをあげている。だが、信教の自由が基本的人権に属し、人格の尊厳に属するという理解が共通理解となり、政教分離の統治原則が多くの国で採用されるに従い、カトリック教会は自らの姿勢を明確に宣言する必要がでてきた。第二バチカン公会議は、「人格が信教の自由に対する権利を持っていることを宣言する」と述べた。高らかな宣言であった。それまでの教皇文書は信教の自由を認めていなかった。だがついにカトリック教会が信教の自由を認めたのだ。これがいかに革命的な宣言であったか、われわれはベルリンの壁崩壊のなかで知ることになる。
④教会の一致 公会議は、カトリック教会以外にも「聖化と真理の要素が数多く見いだされる」とキリスト教他宗派の教会論的価値を認めただけではない。さらに一歩踏み出して教会一致を推進する「エキュメニズム」への積極的姿勢を示したのだ。増田師は、「一致は、片方が相手を吸収することでも合併することでもない。双方が歴史的に培ってきた伝統・規律・習慣や慣例、霊性を尊重した上での<交わりの回復>である」(200頁)と説明する。だが、「諸教理との比較に際しては、それら諸真理の間に秩序すなわち<順位>が存在することを忘れてはならない」とも述べる。「真理に順位がある」、という神学的命題は、「事実はひとつだが真理は複数ある」という哲学の命題と共に、神学と哲学の違いを際ださせてくれる。わたしにはすぐにはピントこないが、カト研の皆さんはいかがでしょうか。
⑤他宗教との関係 第二バチカン公会議の時点では(1960年代前半、日本で言えば安保闘争のあと)、公会議参加者はほとんどキリスト教圏からであり、アジア・アフリカなど非キリスト教圏の問題に光をあてることはできなかった。「ユダヤ教とイスラム教については親近感を示すが、それら以外の伝統的諸宗教に対しては人間本性に普遍的に備わっている宗教性にもとづくものとして、尊敬の念を表明するにとどまる」(201頁)。それほど強い関心をはらってはいなかったということだ。だが、諸宗教との関係は、グローバル化した現代では問題状況がまったく異なる。仏教的環境が支配的な現代日本で、外国人労働者が増大する将来の日本で、われわれカトリックが他宗教とどのような関係を創っていくのかは、第二バチカン公会議の公文書のなか答えを探しても見つからないだろう。これはわれわれの課題だからだ。

3節 変化と転換
ここでは増田師はまとめをかねて以下の三点を強調する。
①教会観が変わった: 「制度としての教会」観から「秘跡としての教会」・「神の民である教会」・「交わりの教会」観への変化。「仕えられる教会」観から「奉仕する教会」・「連帯する教会」観への変化。「完全な社会である教会」観から「旅する教会」観への変化。「永遠不変の教会」観から「たえず刷新される教会」観への変化。
②教会統治: 司教の団体性指導原理が確認される。(つまり、教皇権主義と公会議主義とのせめぎ合いは今でも続いているということ)。
③教会の本質と使命: 「信仰の遺産」に含まれる「諸真理の順位」の識別の必要性と重要性。キリスト教会内にもカトリック教会内にもみられる「多様性の積極的評価」。カトリック教会だけが救いの道ではなく、聖霊による聖化と恵みは教会の外にも働いているという認識。
 ここで指摘された三点は議論しだしたらキリの無い論点を含むだろうが、増田師の教会論がよくわかるところである。
 最後に師は次のように述べる。これが彼の結論だろう。「450年以上前にルターによって唱えられたテーゼの多くが第二バチカン公会議では受容されている。逆に言えば、ルターによって現代のカトリック教会は活気づけられたというべきであろう・・・それでも一致が難しい問題がある。一つは教皇、つまりペトロ座の理解である。それは位階制の理解とも関係する。さらに、この位階制の中での女性についての立場である。カトリック教会は女性叙階を認めない。しかし、その根拠となるとそれほど明確ではない」。

 このあと質疑応答が30分もたれた。質問ではなく自分の意見を繰り返すだけの人もいたが、大方の質問はまじめで、増田師もにこにこしながら答えておられた。秋の日の良き講演会であった。

 

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カトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義(1)(増田祐志師講演)

2017-10-01 17:59:55 | 神学

 9月の最終日、カトリック雪の下教会で、横浜教区カテキスタ会主催の第22回公開講座が開かれました。イエズス会司祭の増田祐志(マサシ)師が秋晴れのもと午前・午後と4時間近く講演されました。演題は正確には「宗教改革500年にあたりカトリック教会側から見た宗教改革の批判的意義ー未来に向けてー」と長いものでした。タイトルが魅力的なせいか、司会者によると100名余の参加者がありました。東京教区からの参加者もかなりおられたようで、関心の広がりを感じます。といっても参加者はほとんど女性で、男性は見た目で一割くらいだったのではないでしょうか。
 偶然でしょうか昨日今日と、日本基督教学会が三鷹市のルーテル学院大学で開催され、宗教改革500年記念特別プログラムとして、特別講演やシンポジウムが催されたようだ。プロテスタントもカトリックもルターを記念する行事を共に持つほど、今年は重要な記念すべき年だということでしょう。100年前の1917年にに宗教改革400年記念の催しなんて考えられなかったのではないか。200年前、1817年に宗教改革300年記念行事なんてなかっただろう。カトリックとプロテスタントは、互いの違いを主張するよりは、互いに共通するものを強調しあえる時代になった、そういう時代がやっと到来した、と理解しておきたい。

 さて、今日の増田師の講義は、基本的にはかれの著書『カトリック教会論への招き』(2015 上智大学出版)の第5章・第6章をまとめてくれたものである。とはいえ、本とは違って講演ではご本人の意思や感情がどうしても出てくるのでわかりやすい。増田師はこの講演で特に目新しい話や主張をなされたわけではないが、ルターや宗教改革への高い評価、第二バチカン公会議へのつよいコミットメントが印象的であった。増田師の専門は教会論とのことだが、歴史や音楽に造詣が深いとのことで、話は彼方此方に飛んだ。実際、配布されたシラバスは最後まではたどり着けず、途中で終わってしまった。それほど話題が豊富だった。
残念だったのは音響だ。マイクが機能せず、増田師も途中からマイクなしで話し始められた。師は訥々と話すタイプでそれほど声が通る方ではない。聞く方も高齢者ばかりで耳の遠い方も多い。後席の方は聞き取りに不自由を感じたのではないか。画竜点睛を欠いたのは残念であった。
 増田師は私は初めてお目にかかる神父様であった。昔私の所属教会で黙総会の指導をしていただいたことがあるようだが、私には記憶がない。その増田師は予定の時間が来ると突然ふらっと現れた。ノーネクタイのジーパン姿で、どう見ても文系の大学教師風である。カラーをつけてこられても場にあわないが、師はすぐに講義に入られた。お祈りなし。まぁ、ご本人にしてみれば大学の授業の気分だったのであろう。お見かけしたところ50代半ばか。司祭というよりは研究者という雰囲気であった。といっても上智で副学長も務められたことがあるとのことで、行政手腕もお持ちの方なのであろう。

 さて、本論に入ろう。この講義は5部構成であった。Ⅰ宗教改革関係についての流れ、Ⅱ宗教改革を準備したもの、Ⅲルターの神学、Ⅳ宗教改革がカトリック教会に与えた影響、Ⅴ第二バチカン公会議、という構成である。

 増田師はまず「宗教改革とは」というテーマで宗教改革の定義から始められた。95ヵ条提題の話だ。強調しておられたのは、「現在も世界はその影響下に置かれている」という点だ。われわれはまだ宗教改革の影響下のもとに生きている、という指摘は新鮮であった。
Ⅰ 宗教改革関係についての流れ
ここは、95箇条の提題(1517)→ルターの審問・破門→ドイツ農民戦争→アウグスブルグ信仰告白(1530)→アウグスブルグ宗教和議(1555)→30年戦争(1618~)→ウエスファリア条約(1648)、という歴史的経過の説明。特に変わった話はなかったが、宗教改革がなぜドイツ(当時そんな名称も国もなかったが、ヨーロッパの片田舎で)で起こったのか、についての「地政学的説明」は面白かった。イタリア・フランスとの地理的断絶が大きな要因だったのではという説明は興味深かった。

Ⅱ 宗教改革を準備したもの
ここでは5つの背景が指摘された。
①叙任権闘争を経ての教皇権の強固化
②乱れた教会生活への反動(カタリ派の断罪、アシジのフランシスコやドミニコの容認
③アヴィニヨン捕囚、教会大分裂による複数教皇乱立問題はコンスタンツ公会議(1414-1418)で一応終結するが、公会議至上主義が台頭してしまう
④ウィクリフ(英・14C半ば)、フス(ボヘミア・15C前後)らによる「見える教会」と「見えない教会」の区別(堕落教皇への不服従は合法だという主張)
⑤カトリック教会改革への意欲(意欲はあったが、公会議至上主義への警戒心や、ルネッサンス教皇らの悪習のために教会改革は頓挫し、結局はダメな教皇レオ十世の在位中にルターの宗教改革が始まる)

Ⅲ ルターの神学
増田師はルターが新しい「教会観」をもたらしたという。ルターの神学については増田師は『カトリック教会論への招き』のなかでは、義認論・教会論・サクラメント論を詳しく論じている。今日の講義では、ルターがもたらした新しい教会観として次の三点をあげられた。①制度としての教会から「交わり」としての教会へ ②マナルキア(専制主義)としての教会から「神の民」としての教会へ ③位階制や教会法によって管理される教会から「霊の自由な働き」の場としての教会へ。ルターが教会を変えた、とはいわないが、「教会観」を変えた、という主張は新鮮であった。具体的な説明は、このあとルターの生涯を詳しくたどることでなされたが、ここでは改めて説明する必要もあるまい。師が強調されたのは二点あった。一つは、ルターは贖宥状システムを問題にしたのに、バチカンは教皇権威の問題にすり替えてしまい、紆余曲折を経て結局ルターは破門されてしまう。少し時代が異なればフスのように焚刑に処されていてもおかしくなかったようだ。第二点は、「三つの『のみ」論」に到達した点。つまり、「恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ」、の考えだ。救い(義)は信仰のみで得られる、聖書は教皇より権威が上だ、聖書が誰でも読めるなら解釈は司祭や教皇の解釈と異なっても構わない(万人祭司説)という考えだ。
 増田師は、ルターに好意的だ。「ルターはカトリックとしてreformを始めただけであって、カトリック教会や教皇権威を否定するつもりはなかった。ましてや新しい宗派を立ち上げる意図もなかった・・・ルター派(福音主義派)が成立し、キリスト教内を分裂させた」(レジュメ4頁)。師は、「ルター神学」と「ルター派神学」の区別を強調しておられた。これはこれで重要な論点で、おそらくは今日の日本基督教学会でも論じられていたテーマであろう。

Ⅳ 宗教改革がカトリック教会に与えた影響:トリエント公会議
 ルターやカルヴィン後のカトリック教会の自己改革運動についてはいろいろな呼称があるようだ。「反宗教改革」、「対抗宗教改革」、「カトリック教会改革」などだ。増田師は、どれが正しいかというより、それぞれの名称は改革運動のどの点に注目しているかを示唆しているという。
 トリエント公会議(1545~63)は、宗教改革者の主張を念頭に置いて開かれた。会議のテーマや作られた文書はルターらを強く意識しているが、増田師は「教会論としては目新しいものはない」と断定している(147頁)。内容は二つに大別できるという。①ルターが否定した従来のカトリック教会の教理を再確認すること、②教会生活の規律化を目指す自己改革、だという。宗教改革者たちと神学的には同じ立場の教義(三位一体論や受肉論)に触れた文章はなく、また、ルターが批判した教皇制や位階制を取り上げた文書も無いという。ここでは一貫して「制度としての教会」が前提とされ、教皇制が前提とされる。この教皇についてのカトリックの理解は300年後、19世紀半ばに第一バチカン公会議の文書に結実するのだという。
 このトリエント公会議についての増田師の基本的な理解は明快だ。同公会議は教会の分裂という事態に直面して、宗教改革者の存在を認めたくない。宗教改革者たちが言う「三つののみ論」に基づく「目に見えない教会」の理解に対して、教会は位階制・権威・伝統に基づく「目に見える教会」を確認しようとする。このような宗教改革派に対する敵視の態度は第二バチカン公会議まで続くことになるという。

 増田師は具体的には次の4点にまとめて詳しく講義された。
①聖書と伝承(伝統)の確認。聖書のみを主張した宗教改革者に対して、福音は書かれた書物である聖書と、書かれざる伝承の両方で保持されてきたとする。そして聖書の「正典」のリストも示した。これはカトリックとしては決して譲れない視点だろう。聖書のみというが、聖書が伝承(口伝)から書物として書かれたのはいつ頃で、どのような背景があったのか、新約聖書が27文書になったのはいつか、なぜか、なぜ共観福音書はあの順番に並べられているのか、正典とはなにか、偽書とは、などなど、聖書のみ論者が応えねばならない論点は多い。(加藤隆『新約聖書の誕生』2016、田川健三『書物としての新約聖書』1997)。「聖書は教会権威(伝統)のなかで解釈される必要がある」(5頁)というのが増田師の立場だ。
②義認論と義化論。トリエント公会議は、信仰とは啓示された教理への同意のことで、信仰のみは否定。洗礼による義認だけでは不十分で、内的人格において義とされる(義化)が必要だと主張した。だが、増田師は現在はこの義認論と義化論の区別はほとんど意味を失っているという。
③秘跡論では、「事効論」(ex opera operato)が確認され、「人効論」(ex operaoperanto)が否定される。秘跡は秘跡執行者の徳の有無には影響されないという考え方だ。例えば、あの神父様のミサより、この神父様のミサの方がありがたい、効果がある、などということはあり得ないという考え方だ。
④司牧職の改革。司牧者のための神学教育や信徒のためのカテキズムが、必要。また、司教や司祭は管轄する自分の地域に居住する義務を負う。当たり前のことだが、自分が司牧する教区に行ったこともない司教がこの当時たくさんいたということであろう。不在地主みたいなものだったのだろうか。
 このようにトリエント公会議は断続的に20年近くにわたって行われた。教会は、自己改革・修正・確認を試みた。イエズス会など新しいタイプの修道会も誕生してくるし、従来の修道会も再興される。だが、努力はしたが成功しなかった。このあとカトリック教会はついに300年間公会議を開くことができなかった。開く力が無かったというべきか。近代社会が到来したからか。近代思想や近代科学のまえになすすべがなかったと言うべきか。それはそうだろう。だが、それ以上に、教会には公会議中心主義の復活への恐れがそれほど強かったといえないだろうか。教皇権をなんとしても譲りたくない、公会議に従属したくない、の気持ちが強すぎたのではないか。われわれは300年後の第一バチカン公会議、400年後の第二バチカン公会議を待たねばならなかった。(続く)

 

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