カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

近代のパラダイム神学か ー シュライエルマッハー(2)

2020-03-23 12:51:42 | 神学

Ⅶ キリスト教の本質

 シュライエルマッハーのキリスト教理解は伝統的な理解から離れてきている。だから正統派だけではなく、改革派の人々の眉をもひそめさせたという。かれの理解をキュンクは「意識・キリスト論」と呼んでいる。シュライエルマッハーは神の啓示をなにか人間的な敬虔な感情として、なにか心理的なものとして理解しているのではないかと批判されたようだ。

 シュライエルマッハーはキリスト教の本質は「無限なものの観照」において見られねばならないと言っているという。つまり、キリスト教はユダヤ教とは違って「報い」という理念で規定されているのではなく、「破滅と救済」、「敵対と媒介」の関係によって規定されているという。何を言っているのかよくわからないが、キリスト教は「無限なもの」にかかわるべきだといっているようだ。つまり、キリスト教は徹底的に「論争的な宗教」だが「聖性へ突き進む宗教」である。その始まりはユダヤ教ではなく、イエスにある。イエス・キリストこそ、「唯一の einzig 」ではないにせよ、「無二の einzigartig 」の「媒介者」である、ということらしい。相変わらずよくわからないが、キリスト教は「無限なものへの感覚」なのだという。イエスを、単に神的存在ではなく、このように「意識に引きつけて」描くことは今までにはなく、独特の描き方であったようだ(1)。

Ⅷ 近代的な信仰論

 

 

 シュライエルマッハーの「意識・キリスト論」(『宗教論』)は多方面から批判された。彼の反論は『キリスト教信仰』(1821)を待たねばならなかった。この間ナポレオンがプロセインを攻撃し、シュライエルマッハーは「キリスト教的・プロセイン的愛国者」に変貌していた。この『信仰論』は独特の副題を持っている。「福音主義教会の原則に沿い、連関を持って叙述された」と訳されている。原題は、”Der christliche Glaube nach den Grundsaetzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt”。この組織神学の本は、トマス・アクィナスの『神学大全』、カルヴァンの『キリスト教綱要』に比肩する著作だという。

 

 

 キュンクはこの『信仰論』の特徴を、「あらゆる宗教改革的・正当主義的な教義学から区別」されたものだと説明している。特徴を三点あげている。

①組織神学は「厳密に歴史的に構成されたもの」でなければならない。つまり、無時間的な、不変的な教理学ではなく、「ある特定の時代に通用した教理を、連関において扱う学」なのだという。
②エキュメニカルに形成されている。これは、カトリック対プロテスタンティズムという話ではなく、ルター派と改革派の対立には意味がないということだ。つまり、1817年の「ルター派・改革派の合同」を支持する教義学ということのようだ。
③「経験」に結びつけられていること。宗教的経験から出発すること、キリスト者の集団的・共同体的意識から出発することを主張した。かれはアンセルムスの以下の言葉を本書の扉の頁に掲げているという。「私は信ずるために知解しようと試みるのではない。むしろ知解せんがために信じるのだ」「なぜなら、信じない者はそれを経験することなく、経験しない者はそれは認識しないからである」。

 ついで、キリスト教の本質規定を、「キリスト教とは信仰的心情の目的論的方向におけるある独自の形態である」としている。これも、翻訳の問題を除いても、よくわからない文言だ。キュンクは以下のように解説している。

①シュライエルマッハーは宗教の3段階の発展段階説をとっている。「物神崇拝ー多神教ー唯一神教」で、キリスト教は最後の段階だという。「目的論的」とは、目的規定的であり、それ故倫理的で活動的であるという意味だという。
②キリスト教を他の宗教から区別している「独自性」とは、その「理性的な性格」にあるのではなく、その「救済の性格」にあるという。救済とは、「仲保者」たるイエス・キリストに関係づけられているという意味だ。
③キリスト中心という性格。キリストの人格の重視はシュライエルマッハー神学に不可欠だという。
④「信仰の意識」に出発点を置く。ナザレのイエスの客観的歴史から出発するのではなく(2)、教会共同体の敬虔なキリスト教的「意識」、救済の意識から出発するということのようだ。

 こういう理解は、キリストを「人」として理解することに比重がかかっているのか、それとも「神」として理解することに比重がかかっているのか。キュンクは、これはシュライエルマッハーの「意識・キリスト論」の中心的な「欠点」だという。

Ⅸ キリストー真に人

 シュライエルマッハーの「意識・キリスト論」はたんなる主観的信仰の想像物ではない。それは信仰論において大規模な「非神話化」を行っている。堕罪や原罪、天使と悪魔などの非神話化に止まらず、非神話化はイエスの処女降誕、奇跡、復活と昇天などの物語にまで及んでいる。

①キリスト教はその歴史的源泉をナザレのイエスの史的形姿に持つ
②かれのキリスト中心主義はイエス・キリストの歴史の帰結である
③イエスの歴史的形姿は単なる「救済の出来事」ではなく、「物語られるもの」でもある

Ⅹ キリストー真に神?

 シュライエルマッハーのキリスト論は異端的ではない。それは、仮現論(現代の超自然主義)ではないし、ナザレ人主義(現代の合理主義)でもない。前者のように、救済を「魔法」として理解するのを拒否し、後者のようにイエスを普通の人間に他ならないと見なすことも拒否する。かれは、非神話化の作業をしながらも啓蒙主義的・合理主義的なイエス論からは離れている。かれは敬虔なキリスト教的自己意識を強調する。では彼のキリスト論とはなにか。

 かれは,宗教の本質を「絶対的依存感情」に求めた。宗教の本質は道徳ではなく、神に対する「直感と感情」であるという。この感情は、対象に自分が感情的に依存するという意味ではなく、自己と対象との対抗関係が統一されたものへの依存のことである。つまり、信仰のことである。
 
 キュンクはさらにシュライエルマッハーのキリスト中心主義を詳しく紹介している。キリスト中心主義」とは、キリストは敬虔の完全な具現であるがゆえに,神意識の原型(Ur-Bild)であり,救いの原型であるということらしい。ここでは我々にはフォローしきれないほど細かい議論が続く。あえて要約すれば、シュライエルマッハーは、キリスト教を、当時の啓蒙主義思想のように何らかの倫理的理想の模範として理解するのではなく、かといって古い教会のように理解不可能な教理命題を従順に受け入れるだけではなく、歴史的イエスのなかに現臨した神による規定として理解した。
 シュライエルマッハーは宗教的多元論者ではない。かれは、神の存在は排他的にキリストにのみ来たのであり、キリストとの関係においてのみ「神は人となった」という。ヨハネの「言は肉になった」は彼の教義学の根本テキストだという。

ⅩⅠ 批判的な問い返し

 とはいえ、キュンクはシュライエルマッハーへの批判がなされてきたことを忘れない。以下の4点にまとめている。

①かれの意識神学は『宗教論』でも『信仰論』でも、聖書の役割が下位に置かれている。
②かれの宗教の定義(絶対的依存感情)、人間の主観から、信仰共同体の意識から出発する宗教の定義は肯定されるにせよ、キリスト論を人間論から区別しすぎている。
③かれは、神の暗闇、人間の否定的現実の経験(苦悩、罪、挫折、疎外、歴史の矛盾など)にきちんと目を向けていない
④彼の神学は、預言者的・大祭司的・王的イエスを描いているが、十字架の躓き、復活の希望には十分な目を向けていない。新約聖書の書簡など諸文書を中心に位置づけていない。

 つまり、シュライエルマッハーの神学は近代の神学だったが、逆に「近代の時代精神」の囚われてしまっているという。近代社会に成立した神学なのに、同時に近代社会の限界に制約されてもいるというわけだ。

ⅩⅡ にもかかわらず、近代のパラダイム的な神学

 シュライエルマッハーはヘーゲル主義者など多くの批判者にかこまれた。批判者は多かったが、かれは「希なる卓越した精神」だったという。かれの『信仰論』は19世紀にはすべての神学者に読まれたという。かれは、愛国者だったが、教会の国家からの自立を擁護した。国家教会ではなく、国民教会を擁護した。「自由な人間性とキリスト教的な神との連帯のおいて・・・彼こそ近代のパラダイム的な神学者」(281頁)だという。キュンクのシュライエルマッハーの評価は高い。

 キュンクはシュライエルマッハー論を閉じるに当たって、およそ100年後に『教会教義学』(1932)においてシュライエルマッハーを批判したカール・バルト K・Barth の「賞賛のことば」を引用している(3)。

「われわれは、神学の世界にはまれにしか与えられないような、一人の英雄と関わることになる・・・この場所を一度も愛さなかった者、そしてこの場所を繰り返し愛するような状況にない者には、この場所を憎悪する資格はない」


1 この章の翻訳は、他の章の翻訳と比べて、同一の訳者の訳文とは思えないほど生硬というか直訳に近い。機械翻訳とも思えないが、日本語になっていない文章が散見される。
 簡単に言えば、シュライエルマッハーは、「神」ではなく「信仰」を分析したということだ。「信仰論的神学」と呼ばれるらしい。これは、カント的二元論の克服を意図したものらしく、理性主義万能の風潮に対して宗教独自の世界を回復したいという思いがあったらしい。といってもこういう意識論的な自由主義神学は、20世紀に入ると、神と人間の完全な断絶を主張する二元論的な弁証法神学によってやがて批判されていくことになる。
2 よほど重要な本なのであろう。神学部や哲学科の学生の必読書なのかもしれない。われわれのなかで読んだことのある人はいないので、なんとも議論にならなかった。松井 睦 訳『信仰論 』下巻 第一分冊「キリスト論」 シャローム印刷  2013 
2 とはいえ、、史的イエス研究に批判的という意味ではなく、信仰論的神学の強調という意味のようだ。むしろ批判的歴史学とは結びついており、聖書解釈に関しては伝説や物語を排して聖書を歴史文書として批判的に研究するのが自由主義神学の特徴らしい。
3 キュンクは紛れもないバルトシンパだが、よほどシュライエルマッハーが好みのようだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近代神学の祖 ー フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1)

2020-03-22 16:21:37 | 神学

新型コロナウイールスの感染拡大で、主日のミサは3月いっぱいお休みとなった。日曜日のごミサがなくなると何か生活のリズムが崩れてくる。教会活動はほぼ全面停止状態だ。明日の学びあいの会も同じくお休みになるだろう。おしゃべりの会も集まれない。代わりに報告担当だったシュライエルマッハーの部分をまとめてみた。

 神学講座2020の6人目はシュライエルマッハーである。このおしゃべりの会のメンバーはみなカトリックだからシュライエルマッハーはあまりなじみがない。プロテスタント神学にとっては文字通り近代神学の父だろうが、カトリックの世界では神学者としてより哲学者として言及されることが多いようだ。例えば増田祐志師は、「解釈学が一般解釈学として成立したのは、理性と意志により「神に対する絶対帰依の感情」を説く近代神学の父シュライエルマッハー(1834年没)」と言及しているが、あくまで哲学史の中での言語論的転回の一例として触れているにすぎない(1)。

 だが、キュンクによる評価は高い。そしてその紹介は難解である。本章のサブタイトルは「近代の薄明の中の神学」だが、われわれの理解も「薄明」だ。おしゃべりの会にはシュライエルマッハーを読んだことのある人はいない。キュンクの議論に沿っていくと哲学の素養の無いわれわれは迷路に迷い込む。理解できたところだけで議論するほか無かった(2)。だからわれわれの問いは、キュンクはなぜルターに続いてシュライエルマッハーを取り上げるのか、だ。シュライエルマッハーの評価は最近ふたたび高まっているという。それにしても、自由主義神学のシュライエルマッハーはやがて弁証法神学やカール・バルトによって批判され、克服される過去の人ではないのか。キュンクはシュライエルマッハーをどのように位置づけるのだろうか。



Ⅰ 敬虔主義と合理主義の彼方に

 教科書的に言えば、シュライエルマッハー(1768-1834)は、自由主義神学の創始者であり、近代神学の父と呼ばれ、ロマン主義神学の生みの親であり、普遍解釈学(一般解釈学)の始祖でる。系譜的にはドイツ観念論の中に位置づけられるが、「直感と感情」を中心とした信仰概念を提出した近代聖書解釈学の代表者ともいう。なんとも形容詞と肩書きの多い人だが、それだけ偉大な、つまり、時代を(18世紀後半から19世紀前半を)を代表するような人物であったということであろう(3)。
 ここでキュンクはシュライエルマッハーを哲学史、思想史のなかに位置づけようとしている。シュライエルマッハーは「敬虔主義とも合理主義とも一線を画した近代人、近代の神学者」だという。どういうことか。
 ルター以降の思想史の整理のしかたはいろいろあるだろうが、例えば、ルター派は正統派と敬虔派に分かれるが、敬虔主義に啓蒙思想が流れ込む。啓蒙思想は大陸の合理論とイギリスの経験論からなる。合理論と経験論の対立はカント哲学で止揚されるが、カントの二元論批判は観念論とロマン主義の両サイドからなされる。このロマン主義の流れの中に自由主義神学の誕生をみ、弁証法神学の源を位置づける、という整理の仕方は、それほど間違ってはいないだろう(4)。
 シュライエルマッハーは正統派ではない。敬虔主義の環境の中で育ったが、啓蒙思想やカントの影響を受けた。だが28歳でベルリンで職を得るとかれは敬虔主義とも合理主義とも袂を分かっていく。

Ⅱ 近代人として

 シュライエルマッハーは、「宗教改革から近代への神学的パラダイム変換」を具体化した。かれは「近代人の神学者」だという。かれはもうルターのようにコペルニクス以前の世界には生きていない。天使だの、悪霊だの、魔女だのが生きる世界には住んでいない。では、彼が「近代人」であるとはどういうことか。

①近代哲学の肯定
かれは、カント・フィヒテ・ヘーゲルをよく知っている
②歴史的批評を肯定している
かれはイエス伝研究を第一テモテ書から始めている
③解釈学を普遍解釈学へ発展させた
④近代的な文学・芸術・社交を肯定した
かれは啓蒙主義を乗り越えようとしているロマン主義者たちと親しかった

 シュライエルマッハーはたしかに近代の入り口に立っている。

Ⅲ 近代人の信仰

 かれは、女性と子供に関しても開放的な思想を持っていた。現代教育学のパイオニアだという人もいるようだ。かれは自分の「信仰」を次のようにまとめているという。

①無限の人間性を信じる:かれにはジェンダー的視点はなかった
②意志の力と教養の力を信じる:かれは教育を性差別から解放する方法とみなした
③感動と徳義を信じる:かれは芸術と学問の魅力、祖国愛、明るい将来を信じた

 カール・バルトはやがてシュライエルマッハーのこういう「信仰」観を批判していくが、シュライエルマッハーにとっては結局「文化と教養」が重要な課題だった。キュンクはこの点をもっと肯定的に評価したいようだ。

Ⅳ 近代と信仰は両立するか

 しかしこの教養ある人々は宗教を軽蔑していた。この人々向けにシュライエルマッハーは処女作をだす。『宗教論ー宗教を軽蔑する教養人への講話』(1799)だ。よく読まれる本らしい。だが、卓越した何人かの同時代人ーフィフテ、シェリング、ヘーゲル、ヘルダーリンらーは、関心を神学から哲学へと、詩作へと、移していった。かれらは宗教を放棄したわけではないが、宗教は思弁的形而上学の体系に組みこまれてしまった。だから、啓蒙主義の後、19世紀を目の前にして、宗教に疎遠な時代に宗教を呼び戻すこと、それがシュライエルマッハーの課題だった。では彼が呼び戻したいと思った宗教とは何であったのか。

 


Ⅴ 宗教とは何か

 シュライエルマッハーは、宗教は科学ではない、だが道徳でもない、宗教は「経験」である、という。具体的には、「直接的な観照と感受」(5)だという。宗教は「無限なものに対する感覚であり味覚」だという。宗教を「感情」(Gefuehl)をみなすのはシュライエルマッハーの特徴らしいが、これはロマン主義的な情緒という意味ではないという。それは、宗教とは「人間の絶対依存の感情」と定義する場合の感情の意味らしい。この「絶対依存」という言葉もシュライエルマッハー独特の用語らしく、かれの神学をますます難しくする。

Ⅵ 「積極的宗教」の意味

 宗教とは人間の「絶対依存の感情」といっても、キリスト者が犬が主人に依存しているように神に依存しているという意味ではないという。道徳的人間の内的自由というくらいの意味だ。これも曖昧な定義だが、具体的には「国教会制」に反対するという意味だ。かれが改革派の流れの中にいることがわかる。フランス風の教会と国家の分離を要求した。また、教会改革を要求し、教会は聖職者共同体ではなく、個人共同体だと主張した。また、啓蒙主義神学とは異なって自然宗教(理性宗教)は存在しないと強調した。つまり、かれはユダヤ教、キリスト教、イスラム教を「積極的宗教」(positive Religionen)と呼び、宗教における「積極的」(肯定的)なるものを探求していく。「無限なもの」はそれ自体としては存在しないし、抽象的なものではない。具体的な、有限な形で存在する。つまり、宗教は多様な形で、多元的に存在すると主張した。といっても彼はキリスト教が他の宗教にまして最も純粋に個別化されているとした。つまり、キリスト教は「すべての宗教の中で相対的に最善」だとした。ここでキュンクは、シュライエルマッハーがヘーゲルとは違って、イスラムや仏教や儒教などについてほとんど知識がなかったことだから致し方ないと少し擁護している。
 シュライエルマッハーの神学への貢献は、宗教を「経験」としてみる視点、「共同社会」としてみる視点を確立した点にあるという。

 続きは次稿にまわしたい。

1 増田祐志『カトリック神学への招き』2009 16頁 ちなみに、言語論的転回 linguisitic turn  とは20世紀英米系哲学の一潮流で、哲学の基本的方法が意識の分析(反省)から言語の分析へと転換したこと。
2 プロテスタント神学では、佐藤優・深井智朗『近代神学の誕生ーシュライエルマッハー『宗教について』を読むー』2019、カトリック神学では  若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』2018 が興味深い。深井問題(論文捏造問題)があったので、読む視点を少し変える必要がある。
3 ここには、説明を要するいろいろが言葉が並んでいる。近代神学、敬虔主義、自由主義神学、ロマン主義神学、解釈学、一般解釈学、ドイツ観念論、「感情」などだ。こういう神学用語、哲学用語がわからないとキュンクの説明についていけない。難儀なことだ。また、時代背景はナポレオン時代といってもよいかもしれない。
 一番の問題は自由主義神学の「自由」とはなにかだ。どうも「教理・教義からの自由」という意味のようだ。現在は自由主義神学は死んだと言ってよいのだろうか。福音派からは批判され、他方、バルトなど新正統主義派からも批判される。キュンクはどのように位置づけるのだろうか。
 またドイツ敬虔主義( Pietismus 経験主義ではない)もわかりずらい思潮だ。辞書的にはルター派の正統派内で起こった信仰覚醒運動といえようが、思想的には信仰の主観性・個人性を強調しているという意味で近代的ともいえる。カトリックからいえば、名誉教皇ベネディクト16世はかって、敬虔主義の影響を受けた自由主義神学はあまりにも神を個人主義的に解釈しすぎると批判している。
 解釈学とはテキスト解釈の技法のこと。主に聖書研究で発達したが、シュライエルマッハーは聖書に限らず文献研究の理解に関する体系的な理論として「一般(普遍)解釈学」を確立したと言われているらしい。
4 小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社 1995。中世神学の合理主義は自由主義神学にとり「打撃」だったのか、それとも「解放」だったのか、プロテスタント神学のなかでも評価は分かれるようだ。
5 訳者たちは、「観照と感受」と訳しているが、「直観と感情」とも訳されるようだ。観照は Anshchaunung の訳語らしい。哲学では直観と訳されることが多いらしいが、社会科学では世界観という訳語のほうがなじみがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルター宗教改革の評価 ー マルチン・ルター(3)

2020-03-17 10:55:25 | 神学

 キュンクのルター論(神学講座2020)の続きである。前回、キュンクは、カトリックとプロテスタントはどうしたら共に集うことが出来るか、と問うた。だが、この問いに答えるためには、両者は結局どこで対立しているのかをまず知らねばならない。神学的対決点はなにか。キュンクの整理の仕方は興味深い。

Ⅷ 神学の基準

 中世の教会の「義化」理解が単純に非福音的だったわけでなない。他方、ルターの「義認」理解も単純に非カトリック的だったわけではない。キュンクは、その違いは「ある微妙な色合いの違い」(219頁)だという。
 だが、ルターは宗教改革の対決点を明確にした。ルターの義認論、サクラメント論、神学全体はただ一つの主張に基づいている。つまり、「教会と神学がキリストの福音に立ち還っていくこと」だ。この視点が共有できなければ、教会はルターと対決することは出来ない。
 なぜなら、神学の基準は「聖書」だからだ。教父神学、スコラ学、トリエント、新スコラ主義のどれも大事だろう。だが、聖書に較べれば二次的なものにすぎない。聖書こそ原初のキリスト教の使信であり、ギリシャ教父も、ラテン教父も、中世の神学者も、トリエントの師父たちも、新スコラ主義の神学者も、みなこの聖書に依拠している。
 いかにもキュンクらしい整理の仕方、主張である。そしてキュンクは言う。だから、ルター自身の教説も、みずからの主張の背後に聖書の裏付けを持っているかどうかが問われなければならない。

Ⅸ ルターの正しかった点

 ルターは基本的出発点において新約聖書を背景に持っているか。かれの義認論を見れば答えはイエスだ。特にパウロを背後に持っている。ルターの義認論の特徴は以下の3点だ。宗教改革の3原則と呼ばれることもある。非常に重要な、著名な、宗教改革のテーゼだ。

新約聖書によれば、

①「義認」とは、主観的なプロセスではなく、神の決定であり、神は人間をキリストにおいて義と宣言し、現実に義とする
②「恩寵」とは、魂の質や習慣(ハビトゥス)(1)ではなく、神の生ける愛と慈しみである
③「信仰」とは、知的な働きではなく、人間が神に全人的に信頼し、献身することである

 現在のカトリック神学はこういうルターの信仰義認論を偏見なしに素直に承認するようになってきている。キュンクの言を俟つまでもなく、カトリック教会のこの変化と成長はすなおに評価されねばならないと思う。では、この変化はどうして起こったのか。それは以下の理由による。

①カトリックの聖書釈義が飛躍的に進歩した
②トリエント公会議の諸命題の時代錯誤性が第二バチカン公会議によって明らかになった
③第二バチカン公会議によって新スコラ神学が無力であることが明らかにされた
④第二バチカン公会議がエキュメニズム(教会一致)の可能性を開いた
⑤カトリックとプロテスタントの間で義認論の解釈の違いは、解消不可能な教会分裂をもたらすほど大きな相違ではないことが明らかになった

 これは、パウロの義認論とルターの義認論に違いはないということではない。よく言われるように、ルターの義認論は「個人主義的な平板化」の傾向が強い。だが、だからといってカトリック神学とプロテスタント神学が義認論で対立することはなくなった。義認論の違いは教会を分裂させるものではなくなっている(2)。

 ここでキュンクはローマの教皇至上主義批判を激しく展開する。神学的対立は無くなってきているのに、ローマは宗教改革の根本的主張 ー教皇は聖書の上に立たずー を認めようとしない。キュンクは、ローマの教会構造がもたらす「精神的・反動的な独裁」のせいだと主張する(3)。ルターが福音から出発して何を望んだかをローマは理解できていないというわけだ。厳しい批判である。

Ⅹ ルターの宗教改革の問題をはらんだ帰結

 ルターの宗教改革運動は巨大な波として拡大した。運動は、ドイツのみならず、リーフラント(バルト海東岸の旧ドイツ植民地)、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ノルウェーと拡大する。スイスでもツヴィングリによって、あとにはジャン・カルヴァンによって、よりラディカルな運動が始まった。
 だが肝心のドイツはカトリックとプロテスタントの二つの「教派」に分裂してしまう。トルコが神聖ローマ帝国の脅威になる事態を目にしながら、ルターはこの運動の進展に深い「失望」を感じる。ルターは何に失望したのか。

①宗教改革の感激が燃え尽きてしまった。共同体の生活は昔のままだったし、人々は「キリスト者の自由」にふさわしくは成熟しなかった。ローマの統治機構の崩壊とともに、教会的な支えもなくなってしまった。ひとびとは、宗教改革によって人間がどれほど立派になったと言えるのだろうかと自問し始めた。
②宗教改革への政治的抵抗勢力が強大化した。1530年代には、アウクスブルク帝国議会での和解の失敗以降、宗教改革は拡大する。しかし1540年代にはカール5世が介入してきて、結局シュマルカルデン戦争で敗北する。1555年アウクスブルク宗教和議によってやっと支配領域の教派的分裂が固定化される(4)。
③プロテスタントの陣営自身が「左派」と「右派」に分裂し、統一を守れなくなった。

 

アウクスブルクの和議

 

 ルターはこういう悲劇的状況の中で、人生の最後の数年間を迎えることになる。

ⅩⅠ 宗教改革の分裂

 「ルターは諸霊を呼び起こした」(228頁)。宗教改革運動は「右派」と「左派」に分裂し、ルターは左右の敵に向き合わねばならなかった。右にはローマの体制を盾に取る「教皇主義者」がおり、左には狂信的な宗教的主観主義をとる「熱狂主義者」がいた。
 熱狂主義者とは、画像破壊運動、聖霊体験運動の実践者たちだ。煽動者はトマス・ミュンツァーだ。宗教改革を暴力で貫徹し、「千年王国」を実現しようとした。ドイツ農民戦争(5)だ。農民たちはルターの教えを自分たちの政治的・社会的要求に結びつけようとした。いろいろないきさつの後、農民蜂起の報告に驚いたルターは、なんと諸侯に鎮圧の勧告をし、当局の側に身を置いたのである。10万人の農民が虐殺されたという。キュンクは「宿命」と呼んでいるが、ルターはあまりにも軽率だった。
 キュンクは問う、農民たちの改革への希望、新しい秩序への理想は間違っていたのだろうか。トマス・ミュンツァーが、フリードリヒ・エンゲルスが、エルンスト・ブロッホらがこのあと激しくルターを批判していく。

ⅩⅡ 教会の自由?

 では、宗教改革の「右派」とは誰か。それは結局、教皇権力と領主権力だ。
ルターが打ち出した「自由なキリスト教会」という理想はドイツ帝国では実現しなかった。確かにルターは無数の教会を教皇庁の「捕囚」から、つまり教皇の支配と財政的搾取から、解放した。だがそれはルターの「二つの王国」という教説を生み出した。ルターはローマと熱狂主義者という左右の敵に直面して、両方の敵に対峙するために「領主」に期待した。カトリックの司教がいなくなると教会は混乱する。ルターは「諸侯」が司教の役割を引き継ぐべきだと主張した。領主による教会支配が正当化された。二王国説だ。ルターは、教会を国家の下に位置づけ、世俗的事柄に関しては市民は国家に従順であるべきだと説いた。この説のため、後年ヒットラーの全体主義支配に対してもルター派教会の抵抗は弱かった(6)といわれる。
 つまり、ルターの宗教改革は、世界史の教科書がよく言うように、宗教の自由とフランス革命への途を準備したわけではない。むしろ、君主による絶対主義的支配と専制政治への途を準備したのだ。近代社会は宗教改革のあともう一つのパラダイム変換を必要とする(シュライエルマッハー)。

 キュンクはルター論を閉じるにあたり、三つの、有名な、偉大な、ルターらしい言葉を引用している。

①『キリスト者の自由』の結論部分
「キリスト者は自分自身のうちに生きるのではなく、キリストと自分の隣人のうちに生きる。すなわち、キリストのうちには信仰を通して生き、隣人のうちには愛を通して生きるのである」

②ヴオルムス帝国議会での表明
「私は先に自分で引用した聖書の言葉に拘束され続ける。私の良心が神の言葉に捕らえられている以上、私は撤回することは出来ないし、それを欲しもしない」

③『卓上語録』
「聖書を十分に理解したという者は誰もいないと思う・・・むしろ深く崇拝しつつ、彼らの足跡を追って歩きなさい。私たちは乞食なのだ。それは本当だ」

 まるで、キュンク自身がローマに向かって語っているような引用である(7)。


1 ハビトゥス Habitus は本書では「習慣・状態」と訳されている。社会学ではP.プルデュー(1930-2002)がこの概念を復活させて「文化的再生産」のメカニズムを説明した。幅広い概念なので訳語ではなくそのまま用いられることが多い。
2 キュンクのこの断定は現在から見れば少し楽観的に聞こえなくもないが、キュンクがいかに第二バチカン公会議を高く評価していたかがよくわかる。だからこそ、第二バチカン公会議の成果を否定しようとする一部の勢力にキュンクが激しく対抗してきたとも言えそうだ。
3 キュンクは明言しているわけではないが、これが執筆時期から見てヨハネ・パウロ二世を指していることは明らかだ。キュンクが現在の名誉教皇ベネディクト16世の批判者であることも広く知られている。
4 領主の宗教が領民の宗教になるという原理のこと。逆に言えば、どちらの宗教にも属さない者はこの宗教和議から排除されることになる。
5 ドイツ農民戦争(1524-25)の詳しい経緯は別として、ミュンツァーの反乱が失敗したあと、南ドイツの農民たちはルター派を離れ、カトリックに戻っていく。ドイツの宗教地図の原型ができあがる。
6 ルターは晩年の説教においても、ユダヤ人について口汚く述べているという。後年の国家社会主義者たちは、ユダヤ人憎悪の扇動のためルターを引き合いに出したという。残念だがルターも時代の子だったとしか言えない。また、ルター派教会(ルーテル教会)といっても一枚岩ではなく、教義上の違い、エキュメニズムへの対応の違い(1999年のルター派世界連盟とカトリック教会との義認に関する共同宣言への賛否)などがあり、現在はルター派と一言で言うのは難しいらしい。
7 パーキンソン病に苦しむ現在85歳のキュンクは最近発刊したばかりの著書で、PAS(physician-assisted suicide 自殺幇助)は信仰に矛盾しないと述べているようだ。だが、かれが「希望の光」(a ray of  hope)と呼んでいるフランシスコ教皇さまがそれをすぐに認めるとも思えないが、どうだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教改革の4大綱領 ー マルチン・ルター(2)

2020-03-16 09:39:05 | 神学

 キュンクのルター論(神学講座2020)の続きである。

Ⅴ 宗教改革の4大綱領文書

 1520年に宗教改革の綱領的文書が発表される。ルター自身には独自の神学大系を構築する力はなかったようだが、状況に応じて目標を実現する実行力を持っていたという。キュンクは、宗教改革の綱領的位置を占めるルターの4文書を挙げる(1)。

1 第一の文書 説教『よきわざについて』
これは、教会向けのドイツ語の文書。信仰とわざの関係が問われ、信仰こそキリスト教的実存の基礎だと述べる。

2 第二の文書 『キリスト教の改善について ドイツ国民のキリスト者貴族に与う』
これはドイツ語による教会改革への情熱的呼びかけ。教皇制が教会改革を妨げているとして激しい教皇制批判を展開する。同時に教会的・世俗的生活一般の改革が求められ、「万人祭司制」が登場する。

3 第三の文書 『教会のバビロン捕囚』
これは神学者むけでラテン語で書かれている。サクラメント(秘跡)論で、ルターによるおそらく唯一の体系的な神学書だという。教会はサクラメントは7つと言ってきたが(2)、洗礼と聖餐(聖体)だけがイエス・キリストが制定したものであり、他は教会の慣習にすぎないとした。この主張はローマの教会法の基盤を揺るがし、破壊する過激な主張だった。

4 第四の書 『キリスト者の自由について』
これはルターの義認論の総括だ。第一の文書をさらに発展させたものという。日本でも良く読まれる文書だ。第一コリント9:19の説明だ(3)。人間は、内的には(信仰では)すべてのものの上に立つ自由な主人であり、外的には(わざにおいては)すべてのものに奉仕する僕であるとした。

(表紙)

 

Ⅵ 宗教改革の根本動機

 ルターは巨大な政治的起爆力を持った人だったが、本当は信仰の人であった。ルターを、単なる教会批判者だとか、贖宥状批判をしただけだとか、教皇制からの政治的解放を求めただけだとか理解してはならない。それは誤った理解だ。ルターを宗教改革へ突き動かしたのは、「教会がイエス・キリストの福音へと立ち還ること」(213頁)であった。ルターを中世的パラダイムから区別するのは以下の二点である。

1 「聖書のみ」 sola scriptura :何世紀も続いてきた伝統・法・権威に対して、ルターは「聖書の優位」を対置する
2 「キリストのみ」 solus Christus :神と人間の間を媒介する聖人や聖職者たちに対して、ルターは「キリストの優位」を対置する
3 「信仰のみ」 sola fide :人間の努力である「わざ」や「功徳」に対して、ルターは「恩寵と信仰の優位」を対置する

 これらの義認論の主張は「教会改革への公開のアッピール」(213頁)であって、なにか新しい教理や教説を定式化することを意図していたわけではない。新しいゼクテを作るつもりがあったわけではないという。むしろ教会生活の刷新を意図していた。だがそれを神と人間の間に介在する教皇が妨げていた。ルターにすれば教皇はまるでキリストの位置を占めていた。
 ルターはここに「教皇制の徹底的批判」を開始する。ただし、ルターが問題にしたのは、個々の教皇ではなく、教皇制という制度だった。制度としての方法や構造が福音に対立していると主張した。

 ルターの初期の闘争は、やがて教皇や公会議の不可謬性問題に関する闘争にまで発展してしまった。キュンクはこれは「主要な責任はローマの側にある」と断定している(214頁)。ルターの悔悛と改革への呼びかけに、ローマもドイツ司教団も答えようとはしなかった。そこでは、聖ペテロ教会の建設とか、贖宥状とか、教皇庁の巨大な財政赤字などが問題だっただけではなく、「ローマは最終的には常に正しい」という「原理」が問題だった。こういう原理が支配していた。こうした中世的なローマ・カトリックのパラダイムすべてが問題だったのであり、それは今や危機に瀕していたのである。

 1521年4月に若干25歳の神聖ローマ帝国皇帝カール5世は「ヴォルムス帝国議会」を開催し、やがて「ヴォルムス勅令」によってルターとその支持者を帝国から追放した。ルターの著作は焼却された。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(4)はルターをヴァルトブルク城 Wartburg に匿う。ルターはここでエラスムスのギリシャ語・ラテン語訳聖書から「新約聖書のドイツ語訳」を完成させる。これは高地ドイツ語(現在の標準ドイツ語に近いらしい)で書かれており、ルターの宗教改革のパラダイムは一気に新たな展開に入っていく。

Ⅶ 宗教改革のパラダイム

 ルターの新しいパラダイム、宗教改革のパラダイムとはなにか。それは一言で言えば、「福音への回帰」だ。伝統的な教会と神学への抗議(プロテスト)の下に福音へ還って行くことだ。ルターによる福音の新しい理解、義認の新しい位置づけが、神学に新しい方向を与え、教会に新しい構造をもたらした。文字通り「パラダイム転換」だった(216頁)。キュンクはその特徴として以下の3点を指摘している。

①伝統的な概念(義認・恩寵・信仰・律法・福音など)が変化した。昔からのアリストテレス的概念(実体・偶有性・質料と形相・現実態と可能態など)が放棄された
②判断の伝統的な基準だった規範(聖書・公会議・勅令・理性・良心など)がずれを生じた
③形相・質料説に基づくサクラメント論などの理論、および、スコラ学の思弁的・演繹的方法が動揺をきたした

 つまり、ルター神学の新しい単純さ、創造的な言葉の力(理論の持つ内的結びつき・根源的透明性・牧会的影響力)が当時の聖職者や信徒を魅了した。ルターはわかりやすかったのだ。また、活版印刷術、パンフレットの流布、ドイツ語の賛美歌などがルターの教説の普及に貢献した。
 神学や教会の諸問題を解くための意味解釈のモデルが転換された。「以前には見えなかった多くのものが今は知覚される」(217頁)ようになる。万人司祭制、義認論など、「聖書的・キリスト中心的な新しい神学概念」へと神学全体を導いたという。

 具体的には、ルターがパウロの義認論の使信を新たに発見したことが以下の新しい理解をもたらしたという。

①神の新しい理解: 抽象的な「それ自体としての神」(an sich)ではなく、「われわれのための神」(fuer uns)
②人間のあららしい理解: 信仰において、義人であり同時に罪人である人間
③教会の新しい理解: 官僚機構としての教会ではなく、万人祭司制を基礎とする信仰者の共同体としての教会
④サクラメントの新しい理解: 儀式としてのサクラメントではなく、キリストの約束と信仰のしるしとしてのサクラメント

 やがて、「神学と教会の新しい宗教改革的な概念装置」が歴史的現実として出現してくる。1530年にアウクスブルク帝国議会で「アウクスブルク信仰告白」が人文主義者メランヒトンによって起草されるが、カトリック教会は拒否し、和解は失敗する。そしてついにプロテスタントに属するドイツの諸侯によって「シュマルカルデン同盟」が結成される。ここにルターの宗教改革と政治権力の結びつきが実現する。よかれ悪しかれ、ルターは政治と手を結んだのだ。
 やがて1546-47年に皇帝派とプロテスタント派とのあいだにシュマルカルデン戦争が起こる。1555年のアウクスブルクの宗教和議で Cuius regio, eius religio の原則(領主・領民同一宗教の原則)が確認される。つまり、「地域が属するところの者に宗教も属する」(領主の宗教がその領土でおこなわれる、領民は領主の宗教に従わねばならない)という原則だ。ここには宗教の自由は存在しない。カトリックとプロテスタントの分裂が固定化される(5)。
 こうして教会は、かって1054年に「東西に」分裂した後、500年後にここに「南北に」も分裂する。この世界史的事件は500年経った現在まで影響を残している。キュンクはこう問う。今日のアクチュアルな問いは、「両者はどうしたらついに再び共に集うことが出来るのだろうか。いかなる基準に従えば両者の統一は基礎づけられるのだろうか」。

 どうしたらもう一度共に集うことができるのか。キュンクの問いは次回に回したい。

1 日本の世界史教科書では、第一の説教を除いて、「宗教改革の三大改革書」と呼ぶのが普通らしい。
2 カトリックでは、入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)、いやしの秘跡(ゆるし・病者の塗油)、交わりの秘跡(叙階・結婚)の七つ。特に入信の秘跡が土台となる。聖体は聖餐とも呼ばれる。キリストの神秘(過越の神秘)を祝うことは「典礼」(liturgy)と呼ばれ、教会の共同行為としての儀式全般を指す。秘跡(サクラメント)とはキリストの神秘をいま目に見える形で具体的に示す儀礼のことをさす。
 考えてみると、カトリック教会はどうしてこれほどまで教会の共同体的性格を強調するのだろう。信仰の個人的性格はあまり強調されない。これが私の信仰だ、私はこう信じる、というような言明は教会内ではあまり聞かれない。よく聞かれるのは、どの神父様から洗礼を受けたか、どこで受けたか、という話だ。教会内にはプロテスタントから転じた人が多いと聞く。印象を聞いてみたいものだ。
3 「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。より多くの人を得るためです」(協会共同訳)
"For though I am free from all, I have made myself a servant to all, that I might win more of them."(ESV)
4 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(1463-1525)。ルターを保護し、プロテスタントを承認した。カール5世にしてみれば、フリードリヒ3世は自分の皇帝即位の恩人だから手が出せなかった。ローマ教皇もハプスブルク家に対抗するため手を拱くしか出来なかった。ザクセン公国はドイツ北部にあり、神聖ローマ帝国が解体するとザクセン王国となる。
5 ルター派はこうしてドイツに根を下ろし、ノルウエー・デンマーク・スウエーデンなど北欧諸国に拡大していく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教改革はいつ始まったのか ー マルチン・ルター(1)

2020-03-15 13:13:26 | 神学

 新型コロナウイールス感染拡大問題で、主日のミサは中止となっている。お聖堂のご聖体訪問は可能なので一応おしゃべりに集まる。昨日は当地は牡丹雪が初雪だったのに、桜が咲くという。
 キュンクのルター論である。このおしゃべりの会(神学講座2020)にもルター好きの人がいる。ルターの神学だけでなく、クラナッハ(父)の絵が好きだとか、バッハの音楽が好きだとか言う人たちだ(1)。

 


 本章の副題は「パラダイム変換の古典的事例としての福音への回帰」である。ルターは、伝統的な教会と神学から別れ、福音に回帰し、新しい義認論というパラダイム変換を引き起こしたという主張がなされる(2)。とはいえ、キュンクによると、ルターは宗教改革では特に新しいことをしたわけではなかった。神学のパラダイム変換を実現した「時代の男」だったという(3)。

Ⅰ なぜルターの宗教改革に至ったのか

 宗教改革はすぐそこに来ていた(4)。だが時代はまだ熟していなかった。宗教改革という世界史的パラダイム変換を準備したものは何だったのか。キュンクは背景を4点指摘している。

①ローマ教皇の世界支配の頓挫、東西教会の分裂、教皇庁の分裂(アヴィニョン・ローマ・ピザ)、仏・英・西での国民国家の勃興
②改革を目指した公会議(コンスタンツ・バーゼル・フィレンツェ・ラテラノ)の失敗
③貨幣経済の登場、印刷術の発明、教育と聖書への憧れの普及
④教皇庁の中央集権制・非道徳性、聖ペテロ教会新築のための贖宥状の販売

 アルプス以北でも、教皇庁の支配は機能麻痺を起こしていた。

①反動的教会制度(利息の禁止・教会は免税・教会が司法権を持つ・聖職者による教育の独占・秩序無き喜捨の奨励・多すぎる教会の祭日)
②教会法を使って教会と神学が幅をきかせすぎた
③大学の学問の自覚が高まり(パリ)、教会に批判的になる
④領主司教や修道院の世俗化、聖職者独身制の矛盾の露出
⑤先進的な教会批判者たちの登場(ウィクリフ・フス・マルシリウス・オッカム・人文主義者たち)
⑥中世的な教会と社会の危機の高まり(民衆の迷信依存・うわべだけの典礼と民間信仰(謝肉祭・聖人崇拝)・働かない修道士や聖職者への憎悪・搾取された農民の絶望感)(5)

 これらはパラダイム変換登場の準備・背景ではあったが、まとまった動きには成っていなかった。1人の修道士の登場を待っていた。新しいパラダイムを、信頼に足るパラダイムを、提示したのが、チューリンゲンのアイスレーベンで生まれた、マルチン・ルター(1483-1546)である。

Ⅱ 基本的な問い ー 神の前でいかにして義認されるか

 ルターは1505年に22歳で修道院入りした。では「罪人の義認」という新しい理解がルターのなかに何時生まれたのか? これは「宗教改革の勃発」の日付をいつに求めるかという重要な問題らしい
(6)。日付も大事だが、もっと大事なのはその内容だ。

 ルターが宗教改革で問題にしたのは、(日本の教科書がよく言う)「教会の堕落」ではない。「救済」が問題だった。ルターは修道院で「生の危機」の中にいた。どれだけ熱心に修道生活に没頭しても(唱祷・ミサ・告解・大斎・悔悛)、自分の救いと滅びへの問いかけを静めることが出来なかった。かれはあるとき突然ロマ書のなかに「義認」という考えを見いだしたようだ。神の前で義とされること、それは人間が敬虔だからではなく、ひとえに神の恩寵による。この恩寵は、人間がただ信仰において神に信頼するときにのみ許される。ルターは三つの対神徳(信・望・愛)(7)のなかで信仰を最重要視した。信仰によって罪ある人間が神の義を受けると考えた。これは神学的には決定的に重要な指摘であり、発見だった。
 この義認論の覚醒のあとに「教会批判」が出てくる。教会批判の中から義認論が生まれたのではない。かれは、福音から逸脱し、世俗化し、律法化されてしまったサクラメント、教職制、伝統的教えを徹底的に批判した。
 だが、ルターはカトリックを「批判」はしたが、「断絶」したわけではないという。ルター神学のカトリック神学との「連続性」と「非連続性」の両方を見なければならない。

Ⅲ カトリック的ルター

 ルターの義認論は、それ以前のカトリック神学と結びついている。連続性があるという。キュンクは4点あげている。

①カトリック的敬虔
伝統的カトリック信仰はルターを危機に陥れた。そして、聖書と神の救済意志をルターに教え、指し示したのは、ルターの修道院の上長ヨハンネス・フォン・シュタウピッツだった。
②中世的神秘主義
ルターはクレルヴォーのベルナールの神秘主義に詳しかった。ルターには、神の前で謙遜になること、小さなものとなること、神にのみ栄誉が帰せられる、という「感覚」があった。ルターの義認理解は中世の神秘主義を受けついでいる。
③アウグスチヌス神学
ルターの恩寵の理解はアウグスチヌスとは異なりよりより「人格的」だが、同時に人間の「罪」への視線はアウグスチヌスから受けついでいる。ルターの宗教改革はロマ書1章17節の「神の義」についての独特の理解から始まると言われている。義とは、神の無慈悲な審判ではなく、神の贈り物として理解した。これはアウグスチヌスや中世の神学の遺産である(8)。
④オッカム主義
ルターはその義認論において、オッカム派(唯名論)のペラギウス主義(極端な自由意志論)を批判した。アウグスチヌスと同じだ。だがオッカムの唯名論的神理解の影響も大きいとキュンクは言う。たとえば、恩寵を神の一方的な好意と捉える見方はオッカム的だという。

 つまり、ルターを反カトリックだと「一括して断罪する」ことはできない。ルターの中に中世的・カトリック的伝統が残っているという。

 だがやはりカトリック神学から断絶している思想こそルター神学の特徴だ。ではそれはなにか。キュンクは「贖宥論争」のなかに非連続性をみる。

Ⅳ 宗教改革の火花

 キュンクは、「贖宥論争」を、宗教改革の、必然的原因ではないが、偶発的なきっかけでもなく、「触媒」だった、と述べている。つまり、ものを分解する要素として機能したと説明している。贖宥(9)、つまり、赦された罪の免除なんて、本当に可能なことなのか、誰がそんなことをする権利があるのか。これは当時、すぐれて「神学的」問題だったが、同時に「政治的」問題でもあった。よく知られているように、ルターが問題として取り上げたのは、教皇レオ十世がローマの聖ペテロ大聖堂建築のためにマインツ(ドイツ)の大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに命じた大々的な贖宥状販売キャンペーンだった。
 ルターによれば、悔悛はサクラメントの中に限定されない。それは生活全体の中でなされるべきだ。罪の赦しは神のみが出来る。教皇の権能ではない。教皇のための壮大な教会を建てるために、高価な贖宥状を買って魂の救いを買い取るなんて、罪人に対する神の自由な恩寵という思想となんと食い違っていることか。「95箇条の提題」である。

 ルターはこの提題をアルブレヒト大司教に送りつけた。1517年10月31日(または11月1日)にヴィッテンベルクの城門の扉に貼り付けたとされているが、これは現在は広く知られているように、ただの伝説にすぎないことがわかっている。だが、1517年が、ルターが教皇と司教の権威を震撼させた偉大の記念の年であることに変わりは無い。この年を宗教改革の開始日とする議論は多い。

 ルターはこの提題を送りつけた初期の段階では「教会と決裂する」意図は持っていなかったという。だが時間の経過の中でかれは「意図せざる改革者」になってしまったという。ルターはこの提題にラテン語で「解説」を付け加えたが、やがてドイツ語で直接民衆に話しかけ、説明していくようになる。
 1918年にルターへの異端審問が始まる。マインツ大司教とドミニコ会からの告発、アウグスブルクへの召喚と尋問。

 この異端審問は、「二つの異なったパラダイム」の全面対決であった。トマス主義者である教皇特使カエタヌスと改革者ルターの対決だ。この対決は、「中世的パラダイムへの回帰」か、「宗教改革的・福音主義的パラダイムへの改宗」か、の二者択一だ。主張撤回か火あぶりかの二者択一の中で、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ(10)のためにアウグスブルクを退去する。

 ルターは教皇や司教に屈服しなかった。教会会議の開催を教皇に要請した。1919年「ライプツィヒ論争(討論)」がおこなわれる。ルターの論敵はカトリック神学者J・エックだ。3週間以上にわたる論争の中で、エックはルターの教会批判を受け入れる代わりに、論点を教皇の首位権に移していく。そして公会議の不可謬性問題が登場する。ルターは、教皇の首位権(至上権)を否定し、さらに、火あぶりにされたヨハン・フス(10)にも福音的な面があったと述べて、エックの罠にはまる。公会議の不可謬性を否定してしまったのだ。ルターはここでローマの制度的基盤を否定したことになる。偽装したフス主義者だとレッテルが貼られる。
 この異端審問は悲劇的な結末を迎える。翌年1520年「教皇大勅書」が出される。破門と焚書の脅迫だ。危機は先鋭化し、ルターはついにこの勅書を火に投じた。ローマの裁治権や法体系を否定したのだ。1521年ローマはルターに破門状を送る。

長くなったので続きは次稿に譲りたい。


1 ルターは自分でも作曲したというから驚きだ。ルター派の教会(教団)は日本にはいくつかあるようだが、カトリック司教協議会は2017年に日本福音ルーテル教会と一緒に「宗教改革500年共同記念」をおこなっている。
2 Martin Luther 1483-1546  アイスレーベンで「農民または鉱夫の子」として生まれる。「落雷体験」がきっかけでアウグスチヌス会修道士となる(1505 22歳)。1517「95箇条の提題」。1521破門勅書。1525ドイツ農民戦争でミュンツァー(急進派)を批判。自由意志論争でエラスムスと絶交(宗教改革は「エラスムスが卵を産んで、ルターが孵した」)。1530アウクスブルク信仰告白(ルター派の信条)。1541カルヴァンがジュネーブで市政掌握(教会共和国樹立)。1546シュマルカルデン戦争(宗教戦争)。1546アイスレーベンで死去。生涯の活動の地ヴィッテンベルクで埋葬。信仰義認論が神学の中核で、位階制・修道制を否定。「二王国論」(国家と教会)をとる。
 「義認」(義化)とは何度説明されてもしっくりこない言葉だが、ルターにとっては中核的概念だ。この概念についての教説がカトリックとプロテスタントを分裂させてきた根本的契機だ。だからその日本語訳も義認・義化・宣義・称義・成義など多岐にわたる。カトリック教会では「義化」と訳すのが普通だ。英語ではjustification,ドイツ語ではRechtfertigung。辞書的には普通は「神と人との関係が義と認められること」と定義される。この場合の「義」とは「神との正しい関係」のことで、では「正しい」とは何かが問題となる。教科書的には「行為義認論」対「信仰義認論」と言われるように、「律法にかなう生き方」を「正しい」と考えるユダヤ人キリスト教の行為義認論と、「信仰を通して神から授けられる賜物(恩寵)」を「正しい」と考えるパウロ的・ルター的信仰義認論に区別されるようだ。プロテスタントの義認論の神学的テーマの中心は①信仰と行為②福音と律法③義認と完成(救いの確認)だという(『キリスト教組織神学事典』)。カトリック神学は秘跡論が中心なので、ルターのサクラメント論も義認論と並んで議論する必要がある。といっても現在は、この義認論がカトリックとプロテスタントを分断しているのではなく、むしろその解釈において両者は近づいてきているというのが一般的な理解のようだ。
3 訳者の片山寛氏は「訳者あとがき」で、なぜ「ルターではなくカルヴァンを、バルトではなくブルトマンを」選ばなかったのかと嘆いている。キュンクは、色々批判しながらも、ルターやバルトに好意的である。福音の理解の仕方に親近感を感じるのであろう。
4 宗教改革はいつ始まったかという問いは、教科書的には、ルター派で言えば1517年、改革派でいえば1541年と言えそうだが、あまり意味のある答えではない。
5 まるで世界史の教科書みたいな整理である。それにしてもキュンクの舌鋒は鋭い。ちなみに、山川の世界史は社会経済的背景の変動には触れず、「異端運動」を宗教改革の先駆けと位置づけて説明するにとどまっている。あとはもっぱら16世紀ドイツの話である。執筆者の意図がよくわからない書きっぷりである。
6 キュンクは、最近の研究ではどちらかと言えばより遅い日付、つまり、1518年前半に傾いていると言っている。つまり「95箇条の提題」の後ということになる。
7 対神徳とはわかりづらい用語だが、virtus theologica または  theological virtue の訳語。神学的な徳のこと。Ⅰコリント13:13からキリスト教特有の徳とみなされている。倫理的な徳や知的な徳とは異なり、神により恩恵から魂に注入されるとされている(注賦的徳)。なお、四つの枢要徳(正義、知恵、勇気、節制)cardinal virtues とは別である。
8 「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」(協会共同訳)
9 さすがに最近は、免罪符とはいわず、贖宥状をいう言葉が定着してきた。贖宥とは、「すでに赦された罪に伴う有限な罰の免除」のこと(岩島忠彦・岩波キリスト教辞典)。罪の赦しそのもののことではない。なお、贖宥はカトリック教会では「免償」とも呼ばれる(indulgence)。トリエント公会議は、金銭による贖宥状の販売は禁止したが、その正当性を主張した。現在でも、特に死者のために贖宥を得ることは大事な信心業(祈り・善行・巡礼)として守られている。
10 選帝侯 Kurfuersten とは、神聖ローマ皇帝の選出に独占的権限をもつ諸侯。選挙候ともいうらしい。7人。なお、「諸侯」とはprinces(英)、Fuersten(独)の訳語で第一人者という意味。国王に次ぐ位置を占めて分国を支配した。帝国教会の司教、大修道院長も諸侯の地位を得るようになる。やがて整理されて領邦君主となる。
11 Jan Hus 1370-1415 ボヘミア(チェコ西部 スラブ人だがドイツ文化圏)の神学者。宗教改革の先駆者。ウイクリフ(英 1320-1384)の改革思想に共鳴。聖職者の土地所有や贖宥状販売を批判。焚刑に処される。やがてフス戦争(1419-36)が起こる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする