カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

被昇天祭と終戦記念日 ー 「主よ、どうかお助けください」

2020-08-16 14:24:16 | 教会

 8月15日の関口教会の聖母被昇天祭のミサに与った。聖母マリアの被昇天をお祝いするミサである。

 8月15日は日本では同時に終戦記念日でもある。教会の平和旬間は8月6日から昨日15日までの10日間だ。6日の広島原爆記念、9日の長崎原爆記念、そして15日の終戦記念にいたる10日間である。8月15日の聖母被昇天祭はこの平和旬間の締めくくりの日になる。この日は、1549年にザビエルが日本に到着した日でもあり、教会にとっては特別な日である。

 マリアと終戦。直接の関係はないが、日本のカトリック信者にとってはいろいろな思いを持って祈る日である。しかもこのコロナ禍のなかで迎えた8月15日は例年になく特別な一日だった。

 関口教会の聖母被昇天祭のミサは普段とは少し異なっていた。侍者には何人か子供の侍者が加わっていたし、女性の侍者もいた。聖書の朗読奉仕者もいつものシスターたちではなく一般の信者さんのようだった。共同祈願には終戦記念の祈りが入っていたし、外国語(韓国語?)の祈りも入っていた。菊池大司教はミサをできるだけかっての日常の姿に戻そうと努力しているような印象を受けた。こうして一歩一歩「新しい日常」を取り戻していきたいものだ。

 聖母被昇天祭は祭日なので、第一朗読は黙示録11・19aからで、「第7の天使がラッパを吹く」「女と竜」の箇所だ。第2朗読は一コリント15:20~27aで「死者の復活」の話だ。福音朗読はルカ1:39~50で「マリアがエリザベトを訪ねる」場面だ。普段はなかなか読む機会のない箇所で、味わいのあるところだ。

 菊池大司教はお説教では、聖母被昇天の話というよりは、教皇ヨハネパウロ二世の「広島平和アッピール」と、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』を取り上げながら、教会がいう「平和」の意味内容を詳しく説明されていた。「聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります」というのが話の趣旨のようであった。お説教はいつもより抽象的であったが、被昇天と平和をつなげて論じることの難しさを感じた。

 被昇天は聖母マリアが天に引き上げられたという意味だ。「帰天」だが(1)、聖母は「無原罪の御宿り」なので受動態(受け身)となる。もちろん「昇天」ではない。キリスト教の用語になじみがないと使い分けが混乱する。英語ではAssumption。Ascensionではないようだ。なにが「引き上げられるのか」では、カトリックではマリアの「肉体と霊魂」(body and soul)が教義だが、東方教会のように霊魂のみとみなすところもあるようだ。この議論は「マリア崇敬かマリア崇拝か」という大問題につながるのでここではふれない。被昇天はカトリックでは現在は教義である。被昇天祭は1000年を超える長い歴史を持つとはいえ、教義として公布されたのは1950年である。

(聖母被昇天 ルーベンス)

 

 終戦と敗戦という用語の使い分けも最近はなくなったようだ。戦争は負けたのだから「終戦記念日」はおかしい表現で、「敗戦記念日」と呼ぶべきだという主張が声高になされた時代もあった。最近はあまり聞かれなくなった印象があるが、どうだろうか。これも戦後日本とアメリカとの関係をどう位置づけるかに関わるから軽々な議論はできない(2)。
 75年が経った。今上天皇徳仁殿下は1960年生まれなのだ。8月15日は遠い。私は昔の生活を思い起こすと、これがおなじ日本という国なのか、なにか別の国なのではないか、とふと思うことがある。生活水準は変わった。では日本の社会はほかにどこが変わったのだろうか。

 S師は、聖母被昇天の日の川柳をこう詠む。今日の福音の箇所だ(ルカ1:39~56)。


「五十年 信じ続けて 疲れたかい」 (『福音せんりゅう』214ページ)

 はい 神父様。疲れましたよ。信仰に疲れたのではなく、コロナ禍に疲れました。

 

 今日の年間第20日主日(A年)のミサも関口教会のミサに出た。司式は別の神父様であった。第一朗読はイザヤ56:1・6~7)で「異邦人の救い」。第二朗読はローマ書11:13-15で同じく「異邦人の救い」が語られる。福音朗読はマタイ15:21~28で「カナンの女の信仰」の箇所。

 お説教では福音朗読はユダヤ人と異邦人の「コントラスト」を描いていると説明された。異邦人であるカナンの女の「私を憐れんでください」(15:22)という言葉を中心に説明された。
 だが、8月15日を迎えたばかりの我々には、「主よ、どうかお助けください」(15:25)の方が心に響く(3)。実際、今日の「聖書と典礼」の表題もこの文言を掲げている。


オランス(祈る人)

 

 被昇天。終戦。コロナ。もう一度祈りたい。

「主よ、どうかお助けください」(マタイ15:25)



1 プロテスタントでは召天と訳したり、正教会では永眠と訳したりするようだ。よく仏教の葬儀では「安らかにお眠りください、お休みください」という弔辞を聞くが、キリスト教は肉体の復活を信じるので、教会ではこういう表現は使われない。
2 たとえば、加藤典洋『敗戦後論』。惜しい人を早くなくした。
3 協会共同訳では「主よ、私をお助けください」となっている。カナンの女の信仰が強調されているようだ。

 

 

 

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「お任せ」か「平和旬間」か

2020-08-09 10:37:06 | 教会

 年間第19主日のミサは、分散ミサの順番が私どもの組(班)に今日回ってきたので、午前7時からのミサに出た。7時からの朝ミサにはあまり出たことはなかったので新鮮な経験だった。出席者は20名弱。名簿上は100名くらいの規模の組なので、出席率は高い方かもしれない。高齢女性ばかりで男性は3名のみ。男女比の数字は逆転していて良さそうなのに不思議なものだ。

 ごミサは30分もかからなかった。記念唱で「・・・わたしたちの司教ラファエル梅村昌弘・・・」と唱えるべきところ姓名が省略されたりで、「省エネの****」の名に恥じぬ超スピードのミサだった。

 お説教は興味深かった。福音書はマタイ14:22~33で、「湖上を歩く」奇跡のところだ。ペテロは、怖かったけれどイエスを信じて「お任せ」していたら湖の上を歩けた。しかしお任せをやめて自分の力で歩こうとしたら湖に沈みかけた。神父様は「コロナ禍でみな苦しいけど、イエス様にお任せしましょう」と言っておられるように聞こえた。

 おなじ第19主日のごミサでも、関口教会の菊池大司教のお説教のテーマは「日本カトリック平和旬間」だった。昨日の「東京教区平和旬間平和を願うミサ」にも出てみた。例年8月6日から15日までの10日間は平和のために祈る様々な活動が展開されるが、今年はすべての行事が中止されたというお話であった。ごミサには手話通訳が導入され、韓国語の訳文も日本語と同時に表示されているのが興味深かった。

 師のお説教は平和についてであった。特に「平和の巡礼者」として昨年広島と長崎を訪問されたフランシスコ教皇様についてのお話が中心だった。「解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です」と述べておられた。菊池司教はどうも正平協路線とは異なるスタンスをとっておられるようで、説得力のあるお説教だった。問いただしたり、問い詰めたりするのではなく、ともに歩むという姿勢が好ましい。「総合的エコロジー」という新しい概念・目標を提起しておられた。その具体化が教会の今後の課題になるのであろう。

 

(平和旬間 巡礼ウオーク)

 

 今日は9日。長崎では例年平和記念式典が開催されるが、今年はどういう形になるのだろうか。そして教会はどういう形で関与し続けようとするのだろうか。早朝のごミサはいろいろなことを考えさせてくれた。



 

 

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