カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神秘主義神学の平和思想(資料)

2016-12-19 13:37:41 | 神学

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「神秘主義神学の平和思想ーW.ジョンストン師から学ぶ」(続)

2016-12-18 22:17:36 | 神学

 わたしは今日12月18日(日)に所属の教会の壮年会主催の講演会で話をしてきました。タイトルは「神秘主義神学の平和思想ーW・ジョンストン師から学ぶー」(続)です。前回6月12日に同じタイトルで話をさせてもらったのですが、こちらの手違いで時間切れとなってしまい、今回続きを話す機会を与えていただいたわけです。クリスマス前の忙しい時期に20名位の方にお集まりいただきました。報告後の話し合いも話題が多岐にわたり、わたしも大いに勉強になりました。テーマがテーマなので微妙な論争に陥りかねないところ、皆さん知識と経験の豊かな方たちで、和気あいあいの会となり、さすがと感じ入った集まりでした。
 さて、今回はジョンストン師の神秘主義の平和思想をバチカンの平和論と日本司教団の平和論と比較しながらその特徴を明らかにしたいというのが目的でした。当然カトリックの平和論ですから大きな違いはないわけですが、その強調点の違いはそれなりに大きく、ジョンストン師の平和思想の特徴を少しは浮き彫りにしてみたいと思ったわけです。
 前回6月の報告で使った資料と、今日使った資料を添付しておきます。ご覧いただければ話の粗筋はだいたいおわかりいただけるかとおもいますが、ポイントは二つです。
 一つは地上の平和論だけではなく、キリストの平和論を忘れてはならないというジョンストン師の考えです。具体的には永井隆を現代の文脈で読み直すという作業です。今日の出席者の方のなかには、昭和20年代に流行った「長崎の鐘」の歌を覚えている方も何人かおられ、しかも実際に歌われたのは感動的でした。

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

 第二は再帰的平和論が目指す日本のカトリック教会の「成長」の方法です。信者の数を増やすだけが課題ではないとはいえ、40万人強の信者数ではあまりにも寂しい。現代の日本の司教団がとっている途が、本当に力強い信仰を持ち、日本社会に知的にも社会的にも一定の影響力を持ちうる教会を作りうるのか、というのはちょっと強すぎる表現だが、ジョンストン師が日本的霊性こそヨーロッパ型だけではないカトリック信仰を強化する源なのだと繰り返し言っていた教えを、これからも考えていきたいと改めて思い直しました。

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神学講座「創造主なる神」(その3)

2016-12-05 22:07:10 | 神学
 神学講座は2016年12月5日にベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察』(2011)の第一章「神」第3節「創造主なる神」に入りました。晴天で暖かい日和で参加者は多かった。
 H神父様は、お祈りの後、冒頭、この第3節はあまり神学的には深い議論はなされていないと、いつもの調子で軽く入られた。だが、わたしには興味深い節であった。元々講話だったということもあり、とてもわかりやすく、ラッツインガー神学の特徴がストレートに出ていると思われるからだ。が、逆に、講話だけあって話の脈絡に関係なく、突然別の話題に話が転じてしまい、あれっと思う箇所もいくつかあった。
 本節は基本的には神の存在証明論なのだが、論点は、創造主と救済主は同一の神であることがきちんと理解できないとグノーシス主義に近づいたり、科学万能論/否定論に陥ったり、現実世界に対する憎しみから生まれる過激な革命論に与しやすくなる、という主張だ。創造主と救済主を切り離して論じがちな議論にはラッツインガーは鋭い批判を展開する。
 著者はまず、M.ブーバー(1876-1965)のハシディズム論〈敬虔主義という日本語訳は不正確だが、でもほかに適訳がない。18世紀東欧ユダヤ社会に広がった神秘主義的・反知性主義的宗教運動に源を持つという)を取り上げ、ブーバーの創造主なる神の存在証明論を紹介する。日本でも一世を風靡したことのあるブーバーはユダヤ教徒でクリスチャンではないが、かれのキリスト教理解は深く、その知的影響力は大きかった。創造主が存在することを証明する、それもなにか神学のテーマとしてではなく、自分の問題として学び取ることが重要だ。神秘主義的とまでは言わないにしても、自分の問題として考えろというブーバーの要請はラッツインガーの要請でもあるようだ。
 ラッツインガーは、神の存在証明は単なる信仰の課題ではなく、理性を使って真理を明らかにする作業である、したがって信仰と理性は相補的だ、という。神の存在証明論における理性の強調、真理の強調はカトリック神学の定番で、特にどうと言うことではない。H神父様は、そりゃそうだけけど、これいかにもドイツ的だね、という感想をもらされた。後にも出てくるが、アジア的霊性、日本的霊性からみると、こういうのとは別の角度からの神の存在証明があってもよいのでは、という疑問につながっていく。
 さて、トマス的な神の存在証明論とは別に、近代では宗教と科学は対立するものとして説明されることが多かった。しかしそれは昔の話で、現代ではむしろ物理学や自然科学の最前線にいる人のなかにこそ、自然と世界を支配している「中心的秩序」の存在を認める人が増えているとラッツィンガーは言う。
 ここでラッツインガーは例としてハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901 - 1976)をとりあげる。ハイゼンベルクは理論物理学者で、量子力学の専門家。不確定性原理の発見でノーベル物理学賞をもらいながらも、ナチズム下のドイツに残り、原爆の開発にも理論的に関与していたのではないかともいわれ、歴史的評価はまだ定まらない人らしい。だが、ラッツインガーは同じドイツ人だからだろうか、比較的好意的に論じている。ハイゼンベルクは「中心的秩序」は人間のペルソナのように人格に関わり合うことができるし、人生の「羅針盤」になり得る、と述べる。要は物理学でも神の存在を語っているというのだ。信仰は科学と対立するのではなく、むしろ科学こそ創造主の存在を指し示しているのだという。
 他方、これとは逆に、科学技術の発展が限界に達し、環境問題のような問題が生まれてくると、キリスト教は鬼の首でも取ったかのように、科学や技術の機能性・有用性を疑問視し、旧約聖書をもちだしてそれみたことか、という人も出てくる。ラッツインガーはこういう態度をもきつく批判する。なぜか。
 それは、神の創造とは、ビッグバンみたいに世界がいつ発生したかとかいう遠い過去の話ではなく、「今の問題であり、現実に対する正しい対し方の問題」だからだ。つまり、世界の起源を与える神は、世界の終わりを支配する神と同一の神だからだ。創造主と救世主が同一の神であること、ここをきちんと理解できないと、信仰の基本が崩れたり、異端が生まれたりする、というのがラッツインガーの説明だ。
 こういう異端の危険性の例としてラッツインガーは小アジア出身のマルキオン(Markion 1世紀末-2世紀半ば)をとりあげ、さらにグノーシス主義を批判していく。マルキオンは、一種の化現説を唱え、神の創造に敵対的な態度をとる。旧約聖書はいらない、聖書はルカ福音書とパウロの書簡だけあれば良い。イエスは復讐する旧約の神ではなく、ただ愛の神であり、善い神である、旧約の神の創造は「失敗作」だ、などなどその主張は激しいらしい。マルキオン自身は禁欲主義者であったが、物質的なもの、身体的なもの、に対する嫌悪はラッツインガーによると「暗黒の中世」にまで引き継がれてきたという。
 ここでラッツインガーは面白いことを言う。中世がそんなにひどいのなら、どうして「ゴチック建築」や「グレゴリオ聖歌」が生まれることができたのですか、と切り返す。おそらくあの渋面ににニヤリと笑みを浮かべながら語ったのであろう。面目躍如である。
 さて、ラッツィンガーはここで問題の核心はグノーシス主義にあるとして、これを批判的に検討する。グノーシス主義には適訳はない。それだけ多様な歴史的思想運動ともいえるが、ラッチンガーはグノーシス主義には二つの(一見相矛盾する)側面があると整理する。肉体軽視は一方では誤った禁欲主義を生み、他方では享楽主義(ラッツィンガーは Libertinage と呼ぶ。訳者は自由思想と訳している 無信仰的自由とでも訳すべきか)とつながる。一方は肉体を軽蔑し、他方は肉体を利用する。ともに人間の身体を単なる物体とみる、モノとしてみるという点で同じだ、とラッツインガーは言う。
 著者はなかでも「自由思想」(Libertinage)の側面をより強く批判する。現代でもこのグノーシス主義は人間を「現実世界全体に対する憎しみ」に導く。現実世界を破壊し、革命を起こし、もう一つの別の世界を、と叫ぶ。グノーシス主義は「徹底的な革命の最初のイデオロギー」となった、という。他方「自由思想」は創造を信じず、「この人生は一回きりだから思い切り楽しもう」という人生観をもたらす。まるで人生は偶然の集合であるかのようだ。ラッチンガーは「現実世界が全体として否定され、創造主である神が罵られるところでは、人間は自分自身の根源を絶ちきってしまうのです」と強調する。そして次に、環境問題に議論を進める。環境問題は別の箇所でも論じられるのでここでは触れないこととする。
 ここでもかれの論点は、神の創造とは、理屈や理性の問題ではなく、「羅針盤」のことだという。そして神の創造の羅針盤の例として「自然法」を論じ始める。また、自然法の文脈で突然に妊娠中絶問題を論じ始める。さらには「良心」を論じはじめ、良心とは、人間が心の奥深くで真理を知っているという神秘に対する信仰の表現だ、と述べる。この辺は講話なので話の流れが丁寧ではなく、議論の流れをフォローするのに苦労する。
 H神父様も、最後は纏めようがなかったらしく、二つの話題を提供されて、締めくくられた。ひとつは、なぜ突然「良心」の話なの、という点。良心論は、普通、宗教の多元性の文脈で語られることが多いので(M. Nussbaum, Liberty of Consicence,2008 が話題になったのは記憶に新しい)、神父様はしっかりした信仰があれば良心を持ち出さなくともよいのでは、とつぶやいておられた。また、良心との関連で良く持ち出される「自己実現」論を軽く揶揄されていた。カトリックからみれば、人間には自己実現以上のものがあるのは自明の理だが、「自己実現の過度な強調と礼賛は自分で自分の未来を破壊していることになるんですよ」と、現代日本のような世俗化された世界で説明することはかなり難しい、と言っておられた。異論もあろうがわたしにはもっともな感想だと思われた。
 もう一つの話題は、ラッツィンガーのトマス的神の存在証明論そのもののことだ。論そのものは良いとして、それをアジアや日本の文化的文脈に置いたとき、なにか強い説得力を持ちうるのだろうか、という問いだ。神父様は、西原万里子氏の漫画「きみのかみさま」(2010)を時間をかけて詳しく紹介された。こういう角度からの神の存在証明の方が子どもに、日本人に、よほど説得力があると思う、と言われた。わたしは読んだことことがないのでなんとも言えないが、トマス的説明ではなさそうだ。孫から借りて読んでみたいものである。

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