カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『カトリック神学への招き』(その14)ー 第16章「現代神学の課題」

2016-01-25 22:46:17 | 神学
「学び合いの会」は1月25日、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第6部「現代の神学」の第16章「現代神学の課題」(増田祐志)に入りました。
 この第6部は本書のまとめみたいな部分でわずか6ページです。ですから要約というよりは、本書では検討できなかった現代神学の課題が取り上げられているだけです。具体的には①諸宗教の神学②解放の神学③フェミニズム神学④倫理神学の四項目です。今日は①諸宗教の神学が取り上げられました。
 「諸宗教の神学」とは、他の宗教(仏教、イスラム教など)をキリスト教はどのように理解しているかを問い、説明する神学とされる。キリスト教は、一方ではキリストの救いのみ業を唯一で絶対とみなし、他方、キリストの救いは全人類に及ぶ普遍的なものとする。この一神教特有の排他性と、キリストの教えの普遍性とのあいだの矛盾・対立をどう説明するのか、という問いである。
 他宗教に対する教会の姿勢は歴史的に変遷してきている。新約聖書は基本的にはキリストの絶対性を主張している。古代から中世にかけては「教会の外に救いなし」という排他主義が支配的であった。近代化のなかでキリスト教が他の宗教と出会う過程でキリスト教の相対化が起こってくる。最大の変化は第二バチカン公会議で起こる。「教会憲章」第2章「神の民について」のなかで、他宗教に対する教会の態度が示される。他宗教のなかで真実で尊いものは排斥しないとされ、他宗教との対話と協力の必要性が宣言される。善意の無神論者はもちろん、キリストを知らない人の救いの可能性についても言及している。
 第二バチカン公会議におけるこういう姿勢のラディカルな変化には当然さまざまな批判が寄せられる。保守派からは、キリストの救いの絶対性を相対化している、誰でも救われるのなら教会はなぜ宣教活動をする必要があるのだ、というおきまりの批判がくる。他方、進歩派からは、他宗教との対話といっても結局はカトリックの自己中心主義にすぎないのではないか、という批判がくる。増田師は具体的にはなにも述べていないが、「この問題は21世紀最大の神学テーマ」だと言っている。
 このあとは、報告者の自説が紹介された。現代の教会には他宗教についての考え方に三つの類型があるという。①排他主義②包括主義③多元主義。排他主義は救いにはキリスト教会が不可欠という考え方で、第二バチカン公会議以前の主流はの考えである。バルトのようにプロテスタントにもこの考え方に与する人はまだ多いという。包括主義は、キリストが神と人の唯一の仲介者であると主張しつつ、他宗教の神の認識も啓示であるとする。救いは他宗教にも隠れた形で存在するとする。K.ラーナーの「無名のキリスト者」論など現在支配的な考え方だという。多元主義は、各宗教は同等で、キリスト教も相対化される。富士山への登り口はたくさんあるが、頂上は同じだ、という良く聞く俗論で、教会はこの考え方を「否定」している、という。
 報告の後の討論で、この「多元主義」について議論がなされた。私も、ジョンストン師のことを思い浮かべながら、多元主義は「否定される」というのは言い過ぎで、教会は多元主義を「警戒している」、そして「取り込み、発展させようとしている」という言い方が良いのでは無いか、と発言した。
 私の理解では、ジョンストン師は、神秘神学を通して、「無神論的多元主義」とは異なる「カトリック的多元主義」の途を探し求めていたのだと思う。祈りを通して平和を共に追求するという点で、カトリックも、東方教会も、ヒンズー教も、仏教も一緒に働ける、と考えていたのだと思う。禅をまなんだ何人かのカトリック司祭が教会を離れていったなかで、教会に最後までとどまったジョンストン師は、類型でいえば「包括主義」のカテゴリーに入るのだろう。しかしかれは多元主義の方向をしっかりと見つめていたのでは無いだろうか。
 社会学や政治学の世界でも、多元主義論は最先端のテーマだし、研究は着実に進んでいるようだ、例えば、C.テーラーや、M.サンデルらの議論に今日の増田師の論文を照らしてみると、もう少し具体的に論じて欲しかったと思わざるを得ない。また、現在のホットイシューである、移民・外国人労働者問題に教会が精力的に取り組んでいるとき、多元主義論を「否定」するだけではすまないと思う。
 イエズス会のなかでのジョンストン師の立ち位置を思い起こすとき、この思いが消えない。

 
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