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Ⅹ なお残る挑戦 ー ルドルフ・ブルトマン
キュンクは、今日ではバルトからブルトマン(1)に「寝返る人」がいるが、それは愚かだという。バルトは、ブルトマンの「使信の神学」「非神話化論」は確かに「実存論的」だが、その方法がハイデッガーに縛られて「還元論的」である点を「短所」とみなしていたという。
キュンクは、バルトにもブルトマンにも長所と欠点があるという。問題は、キュンクによれば、二人がエキュメニズム(2)にどのように向き合うかだという(3)。
バルトはブルトマンを次の点で批判したという。
1 ブルトマンは、宇宙・自然・環境を人間の実存に都合が良いように和らげてしまった
2 ブルトマンはリアルな世界史を人間的な歴史性へと、リアルな将来を人間的な将来性へと還元してしまった
3 ブルトマンは具体的な社会的・政治的次元をハイデッガー流の「世界ー内ー存在 In-der-Welt-Sein 」の神学のなかでなおざりにしてしまった
これだけでは何のことだかよくわからない。実存主義を、普遍的真理や人間の本性を問題にするのではなく(バルトのように)、私にとっての真理、単独者としてひとりの人生を生きることの意義、を強調する哲学と理解するならば(ハイデッガーやキルケゴールのように)、バルトはブルトマンに無神論的実存主義の傾向をみたのかもしれない。
逆にブルトマンはバルトの弱点を早くから指摘していた。とにかくバルト神学は「教義学的に複雑すぎる」という決定的欠点を持っているというのだ。
1 バルトは解釈学的議論から距離を置いているが、それは「できるだけ独断的な」議論をするためである
2 バルトは、ブルトマンと約束していた大学での講演を断り、友情を断ってしまった
3 バルトは、神学的解釈は歴史的・批判的釈義なしに遂行できると考えていた
4 バルトは、批判的教理史を遠ざけて三位一体論を論じている
5 バルトは、教会をことさらに強調して、教義学を復古的に再構成して近代以前なみにしてしまった
ブルトマンのバルト批判は正鵠を射ていた。つまり、キュンクに言わせれば、バルトは「16・17世紀または4・5世紀の正統派教義学のアルプス砦に立てこもって」しまったのだ。バルトのこの「防衛戦略」は成功だったのだろうか。
キュンクは、バルトはポストモダン神学を「創始」したが、それを「完成」させようと望んだら、バルトはバルトではなくなるだろうと言う。バルトはもういちど「出発点」に立ち戻り、「最初から始める」道を選ぶだろうと言う。バルトを擁護する、好意的な評価だ。
バルトがもう一度やり直すなら、かれは、マリア論や教皇論、キリスト論や三位一体論を、「歴史的批判に基礎づけられた釈義から、歴史的・批判的に責任を負った教義学」を作ろうとするだろう、と言う。つまりバルトは史的イエス研究を活用することによって、新たな道に進むだろうと言う。
「引き返すのではない・・・シュライエルマッハー、ルター、トマス・アクイナス、アウグスチヌス、オリゲネスに帰って行くのではない・・・むしろかれらと共に、バルトらしく、豪胆さと決然たる態度、集中と首尾一貫性を持って、前進するのである」(327ページ)。
ⅩⅠ ポストモダンの地平を前にしての批判的・同感的な再読のために
カトリック神学とプロテスタント神学がともに「前進する」とはどういうことなのか。キュンクはそれを「バルトの『教会教義学』を批判的かつ同感的に kritisch-sympathisch 再読する」ことだという。なぜならこの本は、改革派でもルター派でもなく、「エキュメニカルな神学」を目指しているからであるという。
このバルト神学はつぎのようなトポス(主題)を持っている。神の固有性の弁証法、創造と契約の関係、時間と永遠の関係、イスラエルと教会との関係、キリスト論と人間論との関係などである。バルトにあってはこれらのトポスが、体系的かつ根源的に展開されている。「これは、いかなる解放の神学よりもラディカルな解放の神学である」。キュンクがバルトをいかに高く評価しているかがよくわかる。
この書は確かに複雑だし、大著だ(ドイツ語で9175ページ 日本語訳で全36巻)。だがキュンクによれば、この本はバルトが「偏愛する」音楽家モーツアルトについて語った言葉「偉大で自由な簡潔性」に貫かれているという(4)。バルトは言う。
「(モーツアルトの音楽は)全く並外れた仕方で自由である・・・それはあらゆる過剰から自由であり、あらゆる根本的破壊と対立から自由である・・・モーツアルトはすべてのことについて、ある不思議な中心から理解しつつ、音楽をしている。だから彼は、右にも左にも、上にも下にも、限度があるのを知り、それを守る」
キュンクは、この「不思議な中心」とは「イエス・キリストにおいて人間に恵み深く向き合ってくださる神ご自身」のことだという。バルト神学においては、この世の闇・悪・否定的なもの・虚無的なもの・悲劇的なものも言及されるが、それらが氾濫することはない。バルト神学は、モーツアルトの音楽と同じように、極端なものの前で踏みとどまるのである。
キュンクは、本章を、つまり、本書を、バルトの著書『アマデウス・モーツアルト』(1956)からの感動的な引用で締めくくる。モーツアルトの音楽を聴く者は、つまり、バルトの神学を聞き取る者は、
「自分が死に陥った者であること、しかもくりかえし生きる者であること ーまさにわれわれすべてがそうなのだがー を理解しており、そして自分は自由へと召されている、と感じることが許されているのである」
注
1 Rudolf Bultmann 1884-1976 ドイツのプロテスタント神学者。バルトとならぶ20世紀神学の巨人。実存論神学と呼ばれるらしい。キリスト教を近代的合理主義的に理解することを批判し、実存論的理解(使信の理解、非神話化された聖書理解)を主張したという。「史的イエス」研究に「様式史批評」という手法を導入し、聖書から史的イエスを再現することは難しく、聖書はむしろケリュグマ(宣教)の書であることを明らかにしたという。
2 エキュメニズム ecumenism とはわかりにくい言葉だが、キリスト教の教派を超えた一致を目指す運動や思想のこと。カトリックでは「教会一致」と訳されることが多いが、プロテスタントでは「世界教会運動」とか「教会一致促進」とか訳されるらしい。普通はキリスト教と他宗教(仏教、イスラム教など)との対話や相互理解の運動は含まないようだ。それはカトリックでは「諸宗教との対話」と呼ばれる。
3 佐藤司郎 『カール・バルトとエキュメニズム:一つなる教会への途』 新教出版 2019
元になった論文(2017)などはネットでも読むことができる。
4 バルトもキュンクもモーツアルトの専門的研究者らしい。この二人がベートーヴェンよりモーツアルトを好むことが神学的には何を暗示するのか興味深い。職人と芸術家という比喩的対比がふさわしいのだろうか。