カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

宗教改革500年にあたってー信仰義認論ー(2)(学びあいの会)

2017-07-25 12:59:23 | 神学

 こういう刺激的な報告を聞くとどうしてもあれこれ思いつきを言いたくなる。少し雑感を述べてみたい。

 今日のテーマは結論を先取りして言えばこうだ。神義論は結局義認論によって解決された。義認論も結局は二重予定説によって完成する。神義論の問いには予定説が答えだ。これがプロテスタント神学からの答えであろう。では、カトリック神学はこれになんと応えるのか。これが今日のテーマとなるはずであった。ところが実際には今日はルターの信仰義認論が論じられただけであった。もう少しプロテスタンティズム一般とまではいかないにしても、カルヴィニズムの神義論、義認論、予定説まで議論の範囲を広げて、「信仰のみ論」だけではなく、「聖書のみ論」まで幅広く論じてほしかった。少し思いつくままに印象をつらねてみよう。

 まず、ルターの「95箇条の論題」とはどういう性格のものだったのか。ドイツ語では 95Thesen というらしい。日本語では「提題」とも訳すようだ。一種の意見書みたいなものらしい。ルターは1517年にヴィッテンベルク城内の教会の門にこの提題を貼り付けたという。この論題はラテン語で書いてあるのだから、普通の市民は誰も読めない。だが、この時期偶然印刷術が到来し、ドイツ語にすぐに訳されたようだ。やがて、ルター本人の予想を超えて、または予想に反して、一気に普及していく。宗教改革の開始である。 この95箇条論題の主題は「悔悛」で、具体的には教会の贖宥制度を批判しているという(注1)。結果的には教会の秘蹟(サクラメント)と位階制(ヒエラルヒー)を中核とするカトリックの教会制度が批判される。棟居報告にあったように、ルターによれば、救いは各人の信仰のみで、教会に依存しない。この信仰義認論が宗教改革の原理となっていく。(注2)
 義認とは難しい言葉だ。カトリックでは義化という言葉を使う。英独ではJustification、Rechtfertigung、というらしい。普通に訳せば、正当化とか弁明、弁解ということにになる。日本語では訳し分ける。また、トマス主義的行為義認論はブルトマン流の信仰義認論(パウロ、ルター)に取って代われたというが(岩波キリスト教辞典)、そう簡単に自由意志論や「良き業」論を否定できるのだろうか。そもそも義認論は神義論(弁神論)Theodicy(Theodizee)とどうつながるのか。

今日の報告を聞くと、どうしてもM.ウエーバー(またはヴェーバー)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(略して『プロ倫』、『倫理』論文とも)での神義論の議論を思い出さざるを得ない。プロ倫といえば禁欲を中心とする資本主義の精神の話ということになっているが、中心命題は「古代ユダヤ教→原始キリスト教→プロテスタンティズム」という「西洋的エートス」の発達と展開だ。同じ合理化論でも、「ヒンズー教→仏教→儒教」という発達経路との違いが強調される。ニーチェの「パリサイ人としての末人」、「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間、この無に等しい人」で終わるこの論文から、今日の報告をちょっとみつめ直してみたい。(注3)

 M.ウエーバーによれば、世界の不完全性についての解決策は歴史的に三つ提示されてきたという。①二元論(ゾロアスター教など)、②輪廻思想(アニミズム、ニーチェの思想など)、があるが、決定的なのは③(二重)予定説の義認論、だという。神が複数いる宗教思想もあるし、善悪ふたつの神を考える宗教思想もある。だが、神はただ一人しかいない、しかもその神は全能である、という思想がいかに特殊で、その思想が、つまり「神観念」が、歴史的に苦難のなかでいかに作られてきたかは、旧約聖書の世界、古代ユダヤ教の世界でしか理解できないという。一神教の世界で義認論は特別の位置を占める。つまり、義認論は一神教でしか解けない問いともいえる。(苦難の)神義論はキリスト教神学の中核だ。
 古代ユダヤ教は、真・善・美の対立する「神々の闘争」に終止符を打ち、「魔術からの解放」を実現し、唯一神信仰を確立する。しかしキリスト教は教会の制度化の中で「秘跡」を作り出す。サクラメントはカトリック教会は現在7つ認めている(洗礼・堅信・聖体・赦し・塗油・叙階・結婚)。ウエーバーはそのいくつかを「魔術」の復活と考えていたようだ。この新しい魔術からの解放をあらためて実現するのがプロテスタンティズムである、というのが基本的な考えのようだ。魔術とはウエーバーによれば「神の意志を操作しようとする人間の試み」のことだ。それは雨乞いの儀式からおみくじまで多岐にわたる。ウエーバーをこういう風に理解することが妥当かどうかはわからないが、わたしは折原浩ウエーバー論をそのように理解している。ウエーバーはキリスト教信仰を持っていたのかどうか。母親はまじめなプロテスタントだったようだ。ウエーバーの思想はカルヴィニズムの肯定的評価に傾いていただろうが、カルヴニズムも多様だ。ピュウリタニズムを西洋的エートスの原型と考えていたようだ。ウエーバーはクリスチャンだったかと問うこと自体あまり意味がないのかもしれないが、かれがカトリックを見る目にはバイアスがかかっていることはご本人もわかっている。といって、カトリック教会には批判的ではあれ、カトリシズムに偏見を持っていたとは言えないだろう。冷戦の時代には「ウエーバー対マルクス」という問題の立て方は一世を風靡したが、世俗化が進んだ現代では、「ウエーバー対ニーチェ」(無神論)、または「ウエーバー対シュミット」(カトリック)という問題の立て方の方が魅力的に見える。わたしには現代のウエーバー研究をフォローする力はないが、関心だけは持ち続けたいものだ。

 では、神義論とはなにか。岩波哲学思想事典は、「ライプニッツの造語で、・・・狭義には世界での悪の存在に対して創造主たる神を弁護すること・・・広義には神ないし超越者の正義と人間の自由意志との関係での悪の問題を意味する」と定義している。岩波キリスト教辞典では「神の創造によるこの世界は善であるはずである・・・現実には悪の様相を呈している・こうして全能かつ善なる神への信仰と現実観察との間に苦しい葛藤が生じ、同時に両者を調和させる要請が生じた。この調停の思索が神義論である」とする。ともに一般的な説明に終始し、聖書に立ち戻って説明していないところが残念である。項目執筆者はともに専門家だから執筆者の問題と言うより編集方針の問題というべきだろう。ウエーバリアンからみれば神義論を「資本主義の精神」と切り離して論じるのは論外だろうが、これは「羽生/折原論争」などにかかわるのでわたしには手が出ない。(注2)

 神義論はどこでも第二イザヤ書から始まる。イザヤは前765年頃生まれたという。イザヤ書は第一・第二・第三イザヤ書からなるらしい。神義論は第二イザヤ書に始まる。、第二イザヤ書はイザヤ書のなかの40章~50章のことで、フランシスコ会訳聖書では「第二部第二イザヤ (40-55章)(一)イスラエルの贖いについての主の計画(40-48章) (二)計画の実行(49-55章)」と題されている。53章は「主の僕の苦難の後の栄光」と題されている。この「主の僕(しもべ)」という思想が神義論の中心となる。ユダヤ人の苦難にたいする怨嗟の感情はニーチェが「ルサンチマン」と呼んだものであり、かれが「神の死」を唱える源になったらしいが、それは中世キリスト教神学の説明への反論だった。悪を「善の欠如」と定義する中世キリスト教神学は、小さな悪は大きな善のなかの一部とみなし、悪の存在を相対化してしまう。少しくらい小さな悪があっても大きな善のためなら致し方ない、になってしまう。これでは、なぜ悪が、不正が、存在するのか、を十分には説明できない。
 この「主の僕」の思想は詩篇に引き継がれる。22~25章だ。だから、「なぜ、わたしを見捨てられたのですか」は、神への恨み言ではなく、むしろ神への賛美を意図していた、という解釈はM.ウエーバー『古代ユダヤ教』の主張だ。第二イザヤから詩篇へ。これが神義論の出発点のようだ。
 他方、神義論は「ヨブ記」に源を持つとする理解の方がより一般的だろう。「義人の苦難」がヨブ記に一貫して流れるテーマだ。これでもか、これでもか、とヨブは苦しめられる。悪が栄え、義人が苦しむ。善なる世界になぜ悪が跋扈するのか。だが、最後に神はヨブに現れ、語りかけ始める。神義論の始まりである。けれども、神の先在と人間の認識の不完全さが述べられ、結局は悪の問題は先送りされてしまう。ヨブ記に答えのすべてがあるわけではないようだ。
 神義論はこのように、一神教的な神観念と世界の不完全性の関係を問う議論である。ウエーバーは一神教とはユダヤ教と部分的にイスラム教と考えていたようで、カトリックは多神教に無限に近づいていると考えていたようだ。カトリックは社会秩序の不正や不完全性にも「神の摂理」のロジックを持ち込まざるを得ないからだ。といって、ウエーバーは一般に思われているほどカトリック教会に偏見を持っていたとも思えない。分析は冷徹だが、偏見ではないように読める。
 詩篇22章「僕の苦しみと国々の救い」~25章に立ち戻ろう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしを見捨てられたのですか」。これは十字架上のイエスのことば「エリ、エリ、レマ、サバクターニ!」(我が神、我が神、なんぞ我を見捨てたもうか)(マタイ27:46 バルバロ訳)である。イエスは十字架の上で苦しみのあまり神に絶望したのか。この言葉は絶望の言葉なのか。それともウエーバーが言うように賛美の言葉なのか。

 神義論を「予定説」の文脈で考えてみよう。予定説 Predestination とは「神はあらかじめ定めた者を選び、義とするが、ある者を滅びに予定する」(岩波キリスト教辞典)という思想だ。二重予定説ともいう。では自分はどっちなのか。選ばれているの、選ばれていないの? カルヴァンはその選びの確証には二つの方法があるという。一つは召命、もう一つは義認だ。ここからカルヴィニズムの義認論が始まる。ルターから離れていく。その離れ方は教義的には多様だし、歴史的には血なまぐさい戦いとなる。予定説による神義論であり、今日のルターの義認論からは少し離れたテーマとなる。
「魔術からの解放」論 Entzauberung も義認論を支える。魔術からの解放は普遍的一神教への途をたどることで完成する。だが、いま我々は魔術から解放されているのか。「魔術・奇跡・技術」は、自らの力のおよばないものへの盲目的信頼の対象という意味では同じだ。現代人は魔術を恐れる。奇跡は信じない。しかし(科学)技術は信じる。奇跡は神の力によるが魔術は神の力によらない。だがその境界線はあいまいだ。おなじく、魔術と科学技術との境界もあいまいだ。ベーコン的な人間による自然支配を単純に信ずる者は、自然のなかに隠れている力を発見し利用している自然科学者を盲目的に信じている。われわれ大衆から見れば現代の科学技術者は古代・中世の魔術者とどこが異なるのだろう。
 カトリックからみた宗教改革の中心的論点は、「教会の可視性・不可視性」問題だ。(注3)K.シュミットやK・ラーナーがいう、つまり、「見える教会」と「見えない教会」の対立だ。信仰義認論は「信仰のみ」という。予定説は「聖書のみ」という。つまり、神の声を直接聞くと考える。これはカリスマを生み出してくる。カリスマとは「神の恩寵」のことだからだ。見えない教会とは神の恩寵にあずかっている教会と言うことになる。だが、教会は人の集まりで、目に見えるものだ。これは「司教制」につながる。他方、見えない教会の統治はどうするのか。歴史的には 監督制vs長老制vs会衆制 と区別されてきたが、ともに ゼクテ Sekte (教団・宗派・教派など訳は定まらず) として発展する。教会と区別されたゼクテという理念型の話はそれこそウエーバーの宗教社会学の話なので今日の学びあいの会では出てこなかった。改革派の(ルター派ではない)棟居氏に改めて論じてほしいものである。(注4)

 

注1 例えば、論題の抄訳は http://muso.to/h-ruta-95.htm
注2 折原浩 『ヴエーバー学の未来』未来社 2005

注3 宗教改革を Magistrial Reform 対 Radical Reform に区分する仕方は、大塚史学的な近代主義的ウエーバー解釈を好む人にはあまり受け入れられていないようだ。前者いわば、教会と国家(支配者、お抱えしてくれる領主、城主、王など)を認めるが、後者は明確な区別をつけようとする。前者には、ルター派、聖公会、カルヴィン主義の長老派が入り、後者にはカルヴィン主義の改革派、アナバプティストがはいる。やがて、バプティスト、アーミッシュ、フッタライト、メイナイト、アドベンティスト、ペンテコステ派が生まれてくる。前者にはやがてピューリタン、メソジストなどが生まれてくる。こういう宗教改革の権威主義派対急進派(適訳が見つからないのでこういう言い方をしてみる)という分類は、宗教改革とはカトリック対プロテスタントの闘いで、プロテスタントは形式的には聖書のみ、内容的には信仰のみ(義認論)で共通し、万人司祭主義をとっていると理解して、どの宗派・教派・会はも基本は同じと考えがちなひと達、日本の世界史教科書を支配している一面的な史観に、宗教改革の新しい見方を提示してくれるのではないか。とはいえ、日本人にはあまりなじみの無い分類ではある。
 宗教改革は国によって進み具合、進み方が異なる。例えば、カトリックからいえば、イギリスの市民革命(ピューリタン革命1640-60、名誉革命1688-89)は本当に「革命」と呼んでいいのか、むしろ単に教会の分裂を招いた「政変」でしかなかったのではないか、という議論もあるようだ。これは宗教改革はではいつ終わったのか、という問いにつながる。国によって違う。時代によって違う。一つの答えはないだろう。イギリスで言えば、エリザベス一世時代のイギリス国教会の成立をもって終わりとする考え方(角川世界史辞典)もあるらしい。100年後に、「宗教改革600年」の記念の年が来るのだろうか。

注4 ウエーバーの話のついでに少し思い出話を残しておこう。カト研の皆様ももう高齢者の仲間入りしている方が多いでしょうから、老人の繰り言ということでお許し願いたい。テーマは学風の違いとでもいえようか。
 わたしは丸山真男先生のゼミでM.ウエーバーを少し読んだ記憶がある。『プロ倫』だったかどうかすら覚えていないが、ゼミの雰囲気が社会学のゼミの雰囲気と違っていて、学風の違いを強く印象づけられた記憶がある。丸山先生はウエーバーの原書と、日本語訳と、英訳とを机の前に並べ、なにか話しておられた。中身はわたしのような初心者の院生にはちんぷんかんぷんだった。ウエーバーの原文は難解なことはよく知られている。そのうえ、関係代名詞や接続詞が多用され、ワン センテンスが一ページにわたるともいわれた。ウエーバーの理論どころかドイツ語すらおぼつかないわたしなんぞについて行けるはずもなかった。指示代名詞が何を指すのかすらわからなかった。ウナギの寝床のような法文系のゼミ室では、奥に先生、その脇に偉い順に助手、院生がきら星の如くならんでいた。われわれ他学科からのぞきに来た院生はもちろん最末席で、遠くの丸山先生がかすかに見えるだけだった。学部からすぐに助手になる人が一番優秀で偉く、院生なんぞは、就職先がないから来たのだろう、屑みたいな者だと言われていた(今はどうか知らない)。丸山先生は一時間半のあまりのゼミで、つまり一時限で、二~三行くらい進むという調子だった。(一学期で一ページ進んだのかどうか)。時代は、60年安保の余燼は残るが「東大紛争」の前で、嵐の前の静けさが支配していた。キャンパスでは新左翼系と代々木の対立が深く進んでいた。だが、丸山ゼミは静かだった。そして丸山先生の口調も静かだった。社会学でも折原浩さんがウエーバー研究会を独自に開いていたが、この時代はまだここも静かだった。というより文献研究に深く沈潜していた。
 同じ頃、わたしは社会学の院生として、雑誌「思想」などで丸山先生と一緒に活躍しておられた日高六郎先生のゼミにもでていた。ここでは参加者の院生たちは勝手にしゃべりまくっていた。何かを一緒に読むと言うよりは、日高先生が雑誌か何かに書かれている論文を前もって論評するというものだった。この日高ゼミの自由さというか、オープンさは丸山ゼミとは対照的だった。先生の個性の違いというより、学問の畑の違いなのかなと当時は思っていた。日高先生は「院生は教師を乗り越えていくのが務めだ」などとおだてておられたから、何も知らない院生は一人前の顔をして何かをしゃべっていたのかもしれない。今思えば恥ずかしい限りである。
 富永健一先生のゼミも印象深かった。T・パーソンスのSocial Systemかなにかを読んでいたのだろうが、若手バリバリの富永先生は明るい性格で一人でなにかしゃべっていた。当時、パーソンスの機能主義理論の評価は定まっておらず、参加者の院生たちは理解しようと必死だった。パーソンスはウエーバーの訳者だけあってそのの英語は難しいと言われていた。読んでみれば英語そのものとしては難しくはない。ウエーバーのように文法がわからないということはない。だが、英語はわかっても、理屈がわからない。用語の意味がわからない。時々顔を出していた小室直樹さんが富永先生と議論を始めると、われわれビギナーには何を論じているのかすらわからなかった。でも自由だった。福武門下の実証派が多い社会学研究室でも高橋徹門下の理論好きはいた。
 アメリカの学生はリーディングアサイメントが多いから徹夜してでも図書館で本を読んで予習する。日本の学生はそれに比べ本を読まない。などとわかったようなことを言う人がいる。日本の学生だって徹夜してでも予習していかなければゼミに出たってただボーとしているだけなのは同じだ。わたしもアメリカの大学にいたことがあるが、勉強しない学生は勉強しない。どこでも同じだ。わたしも教師の端くれとなってゼミを持つようになってみて、ゼミのあり方は多様であることがよくわかった。それは教材やテーマというより、ゼミ生次第なのだ。「学生一流、教師二流」と揶揄される東大は紛争後の東大のことを指しているのかもしれない。
カト研の皆様もこの時期のことは良く覚えておいでの方が多いことだろう。ジョンストン師は上智カト研の指導司祭をやりながら学位論文をまとめつつあった。本郷に住んで東大で非常勤で英語を教えながら四谷まで自転車で通っていた時期である。東大カト研はエルリンハーゲン師が指導司祭だったが、エルリンハーゲン師が突然帰国したこともあり、ジョンストン師は東大カト研の学生も指導していた。ジョンストン師が岡田大司教様やご姉妹に洗礼をさづけられたのもこの頃のことらしい。師は神秘主義神学の研究から禅の実践に深く入り始めた。座禅の日々だったようだ。デュモリン師との交流も深かったようだ。やがて大学紛争が、東大闘争が、時代を変えていく。各大学のカト研が次々と自主解散していく。解体されていったと言うべきかもしれない。ウエーバー風に言えば「神々の闘争」が始まる。後年ジョンストン師が「カト研はどうして無くなったのですか」と問われたときの悲しそうな眼が忘れられない。師には、新左翼もIRAも同じように見えていたのだろうか。この疑問の意味はカト研の皆さんでしかおわかりいただけないだろう。

 

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宗教改革500年にあたってー信仰義認論ー(1)(学びあいの会)

2017-07-25 12:56:22 | 神学

 七月の学びあいの会は、ルターの95箇条論題の提示(1517)から500年に当たって宗教改革の意味を考えてみようということで、主にルターの信仰義認論の紹介・説明がなされた。宗教改革記念日 Reformationtag は10月31日という。この記念日はわれわれカトリックにはあまりなじみがなく、むしろ今年は浦上四番崩れの明治維新150周年といった方がピンとくる。いずれにせよ大事な節目の年ということだろう。今日はテーマがテーマだけに参加者が多く15人近かったのではないだろうか。

 今日は、まず、プロテスタントの神学者棟居(むねすえ)洋氏のカトリックO教会での報告「宗教改革500年にあたってールターの信仰義認論ー」(2017年5月)が紹介・説明された。フェリス(プロテスタント系の女子中高)の校長でもあった棟居氏がカトリック教会で講演をしたわけである。ついで、カテキスタS氏が「信仰義認論ーカトリックから-」という報告をされた。棟居報告へのコメントという形をとりながら、カトリックサイドからの宗教改革についての現在の評価の整理とでもいえるものであった。その後質疑応答があり、終わったのは正午近かった。そこで、ここでもこの順番でそれぞれを要約していこう。また、両報告についてのわたし個人の印象を雑感風に述べてみたい。わたしの雑感はまとまりがないうえに長いので、今日のブログは二回に分けて載せてみたい。できるだけ簡潔にと心がけてはいるのだが、整理ができないまま書き連ねてしまうので、内容が支離滅裂の上に長文になってしまい、我ながらあきれ果てている。お読みいただく方にはただただお詫び申し上げるしかない。

 まず棟居氏の報告である。これはネットでも読めるのでご覧いただくのが早いが(注1)、レジュメは、①ルターの信仰義認論とは ②この認識に至った経緯 ③信仰義認論vs行為義認論 ④ルターの信仰義認論の現代における意義 という構成になっている。
①ルターの信仰義認論とは、「人は信仰によってのみ義とされる(正しいと認められる)」という考え。つまり、罪人である人間が義とされるのは、「行い」によるのではなく、「信仰」のみによる、という主張。その教理上の根拠として必ず登場するのがパウロである。ロマ書3:20-22である。「イエス・キリストへの信仰によって、神の義を信じるすべての人を救い、そこに差別はありません」(3:22 フランシスコ会訳)。
②では、「塔の体験」を中心としてルターの生涯が紹介される。「このように、信仰は聞くことから始まります。そして、聞くことは、キリストの言葉を聞くことです」(ロマ書1:17)。神の義は神から「与えられる」ものであり、み言葉と聖霊が一緒に働くという信仰にいたった経緯が述べられる。
③では、義認に関するカトリックとプロテスタント(ルター)の考えの比較がなされる。カトリック教会の贖宥制度は行為義認論の上に成り立っていた。信仰義認の認識に達していたルターはこの考え方を批判し、1517年に95箇条の論題(贖宥の効力を明らかにするための討論)を発表し、宗教改革が始まる。行為義認論の義は、アリストテレス的な「応報的正義」であり、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認論の義とは異なる。信仰義認論の義とは「一方的に」無条件に与えられるものである。
④は棟居氏の現代社会論のようでさまざまか論点が提示されるが、ポイントははっきりしている。聖書でいう罪とは神を侮り、背を向けること。義認とは現代的にいえば、愛・承認・赦し・自由という4つの表現をもって言い換えることができる。特に、他者から承認され、さらに神から正しいと認められること、自分の存在・人格・生の最終保証が与えられることが義認ということである。

 以上のような棟居氏の報告に対して、S氏は以下のような補足説明をおこない、カトリック側の考えを整理された。お二人は個人的には友人ということもあり、この整理は批判ではない。むしろ、ルター派とカトリック教会の歩み寄りが近年急速に進み、意見の対立は解消しつつある点を強調されていた。
 S氏はまず、神義論(Theodicy、Theodizee)から入られた。神は万能なのに、世界にはなぜ悪と不公正が存在するのか、という問いである。皆で、イザヤ42:6,45:8
を読んだ。第二イザヤ書である。主の僕の話である。神はイスラエルの民の罪にもかかわらず契約を実行し、イスラエルを救う。
 続いて、義化論・義認論(Justificatio,Justification,Rechtfertigung)に入る。話の中心はパウロだ。行い(善き業)ではなく、信仰によって義とされると主張するロマ書(3:21~26)、愛の実践の重要性を説くガラテア書(ガラ 5:6)、善い行いの実行を説くエフェソ書(2:10)などを共に読んだ。カトリックにとっての義化とは、人間(罪人)側からの応答とそれに伴う内面的変化(聖化)を含むもものであり、プロテスタントの理解のように神が一方的に与えるものではないと考えることを確認した。カトリックは聖化を強調し、「義人と化する」という意味で義化という言葉を選ぶのだろうか。プロテスタントは「義と認めてもらう」側面を強調するから義認という言葉を選ぶのだろうか。なぜこういう訳し分けが行われるのかわたしにはわからない。
 ついで、ペラギウス論争(アウグスチヌス対ペラギウス)を中心に古代教父たちの「恩恵論」(恩寵論)が説明された。神の恩恵なしには救いはない、この恩恵を自由に受け入れることなしに救いはない、というアウグスチヌスの教えが紹介される。ルターはアウグスチヌス会の修道士だったから、こういう恩恵論を好んだようだ。といってもこれはやがてカルヴィニストからは批判されていく考えでもある。参加者の方が、これは鎌倉仏教の「他力本願説」に似ているとコメントされ、少し議論を楽しんだ。
 続いて宗教改革者達の義認論が説明された。わたしにはもっとも聞きたいと思っていた論点だが、S氏はパウロに軽く触れただけで済ませてしまった。どうしてカルヴァンに、予定説に触れなかったのか。カルヴィニズムの評価こそ今日のテーマの中心のはずだがと思ったが、今日の話題はルターに限定されていたから致し方なかったのかもしれない。S氏にもなにか考えるところがあったのであろう。とはいえ残念であった。
 次に、カトリック側の義認論が説明された。まず、トリエント公会議(1545~1568)での「義化の教令」が説明された。カトリック教会は、ルターの95箇条論題のあとも、のんびりと様子を見ていて、公会議を開いて対応を考える、ということができなかった。この間、宗教改革の動きは各国で急速に進んでいく。カトリック側の対応はよく世界史の教科書などでは「対抗宗教改革」とか呼ばれて(さすが「反宗教改革」と呼ぶひとはいなくなったようだが)、トリエント公会議とイエズス会の発足(1534)があげられるが、トリエント公会議はやっと開かれたものであり、しかも開かれても18年もだらだらと続く。そしてそのあと300年間、カトリック教会は19世紀半ばまで、公会議を開く力がなかった(第一バチカン公会議 1869-70)。近代社会に入ったからである。このトリエント公会議での「義化の教令」とはつぎのようなものである。
①イエスの受難の功徳によってのみ人間は義化される
②義化により信望愛の徳が注入される
③人間は恩恵を自由に承諾し、協力し、信じ、悔い改めることによって義化に心を向かわせる、つまり神の恩恵の先在性と人間の自由な協力の両方のバランスが必要である。
 こうして、カトリックの義化論とプロテスタントの義認論はなにか対立するものとして位置づけられてしまった。この神学上の対立は長く続く。この対立の和解は、K.バルトの義認論とH.キュンクの『義認論』(1957)の登場でやっと可能になる。(この辺は現代神学の課題で賛否両論があるらしい。キュンクはこの件でやがてベネディクト16世(現名誉教皇)から叱責されることになる)。
 近代神学では特にヤンセニスムが取り上げられた。ヤンセニスム(ジャンセニスム)とは、アウグスチヌスを研究して教会の改革を図ろうとしたJ.ヤンセン(1585-1638)の教説である。恩恵と予定を強調し、自由意志や人間の功徳を認めない。「恩寵は絶対的に有効・予定は無償かつ無条件」(岩波哲学思想事典)という教説は現代までその影響力が残存しているという。モーツアルトのオペラ「魔笛」の話が出たり、皆さん結構盛り上がっていた。
 最後にS氏はまとめの形で、「カトリックの教理」として以下のような整理を提示された。
①恩恵の無償先行性
②人間の自由な承諾と協力(義化論)
③救いは特定の人に限定されない(ヤンセニスム批判)
④恩恵の働きの普遍性(教会憲章第一章16 ここは「キリスト教以外の諸宗教」と題されている)。
 つまり、カトリックとプロテスタントは教義面で歩み寄ってきており、意見の対立は解消され、表現および強調点の違いはあっても根本的には一致しうると述べられた。例としてキュンクの著作(1957)が言及され、1984年のルター派教会とカトリック教会合同委員会の声明、および、聖公会とカトリック教会の合同委員会の声明(1987)があげられた。S氏のこの理解がカトリック教会の中でどの程度共有されているのかわたしには測りかねるが、カテキスタのなかでは共通の理解なのであろう。
 S氏は最後に補足として「免償について」というタイトルで考えを述べられた。棟居氏はカトリックの行為義認論はカトリック教会の「贖宥制度」に基づいていると述べていたが、カトリックの免償(贖宥)についての説明が不十分だと言われた。宗教改革というとすぐに「免罪符」(贖宥状)をあげてカトリック教会の堕落を指摘する議論が多いが、贖宥とは何なのだろうか。岩波キリスト教辞典は「贖宥 indulgence とは、すでに赦された罪に伴う有限な罰の免除、免償ともいう」と定義している。『カトリック教会のカテキズム』では、「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし」(1471項)とされている。わかりづらいが、「告解」のことを考えてみよう。告解は、①悔悛②告白③ゆるし④償い からなる。簡単に言えば、ゆるしと償いだ。この「赦し」と「償い」の区別がきちんとできないから、免罪符などという誤訳が生まれてしまったのだろう。「赦される」ことと「償う」こととは別物なのだ。S氏は『カトリック教会のカテキズム』からのコピーまで配布して免償の意味を説明された。プロテスタントにはこの告解という秘跡がないのでなかなか理解が深まらないのであろう。といっても告解は習慣でもあるから、カトリック教会でも今日ではきちんと守らない人が急速に増えてきているともいわれる。

注1 http://catholic-i.net/kouen/

 

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「解説 三位一体について」神学講座『イエス・キリストの神』(その9)

2017-07-04 17:31:13 | 神学

 J.ラツインガー『イエス・キリストの神』を取り上げた神学講座は前回で一応終わりました。2017年7月は訳者里野泰昭氏による本書の解説「三位一体について」を読む予定でしたが、神父様のご都合により休講となりました。そこで今回はこの解説をわたしなりに簡単に整理しておきます。
 この解説は49頁に及ぶ長文のもので、里野氏の神学研究の成果が反映された力作である。ラツインガーによる本書は三位一体論といってももっぱらホモウーシオス論が中心で、ヒュポスタシスとかペルソナとかの概念が全く言及されていない。哲学畑の人からはこれではあまりにギリシャ哲学に偏っていると批判されるだろう。里野氏は本書は神学書ではなく黙想会用の講話をまとめたものだからと弁解しているが、やはり弁解にとどまってしまう。そこで、「それでは」、と直弟子として師匠に替わって三位一体論論争の歴史をふり返ったのが本論文である。
 キリスト教は三位一体の神を信ずる。でも、三位一体とか、三一とか、トリニティーといわれてすぐにピントくる人は日本人は少ないのではないか。「三が一で、一が三である」なんて、子供だましの言説で馬鹿馬鹿しくて開いた口がふさがらない、というのが大方の印象ではないか。例えば、ゲーテは『ファースト』第一部で、メフィストフェレスに「三が一で、一が三である」なんて馬鹿げた教説である、と嘲笑させている。
 信者の中でも、三位一体の教義なんて公教要理で聞いた訳のわからないお話で、よくわからないけどただありがたいお題目として唱えているだけ、という人もいるのではないか。里野氏は間違いはここにある、と言うところから話を始める。三位一体論という教義の「結論」から信仰の話を始めるから訳がわからなくなる。三位一体論は長く苦しい論争の果てに教会がたどり着いた終着駅だ。この論争の「歴史」を知らないと三位一体論は迷宮入りしてしまう、というのが里野氏の議論の出発点である。

 三位一体論論争は当時のリビアの司教アレイオス(256-336)が「ロゴスは被造物である」と主張したことに始まる。つまり「子」は被造物というのだから、大変な考え方だ。つまり、三位一体論とは、「三が一である、一が三である」とかいう話から始まったのではなく、「子」と「父」は「同一本質」ホモウーシオスなのかどうか、という話から始まっている、というわけだ。
「子は神である」と言ってきた教会は困った。しかも、このままでは、「父」が「神」で、「子」も「神」なら、「神」が二人いることになってしまう。キリスト教は聖書の伝統に従って唯一神の信仰を守っている。神が二人では矛盾する話となる。論争は激しい宗教的・政治的争いとなる。長く激しい論争の末、結局はこのアレイオスの主張はニカイア公会議(325)で異端として退けられ、次のコンスタンチノポリス公会議(381)で終止符が打たれる。そして三位一体論はアウグスチヌスによって神学的に整備される。これが三位一体論論争の流れで、これがはっきりしないと三位一体論はそれこそ「神学論争」になってしまう。少し丁寧にみてみよう。

 三位一体を理解する上で重要な概念のひとつは「ヒュポスタシス」hypositasisという概念だ。これは東方教会(ギリシャ教会)が、父と子は互いに独立した存在であると言うことを示すために用いた言葉だ。このヒュポスタシスという概念を三位一体との関連で初めて使ったのはアレクサンドリアの神学者オリゲネス(184-253)だという。オリゲネスはギリシャ教父の一人で、「聖書の三つの読み方」(字義的解釈・道徳的解釈・霊的解釈)を主唱したことで知られる。ベネディクト16世の評価も高い(『教父』 2009 ペテロ文庫 第6・7章)。ヒュポスタシスには日本語では「自存者」という訳語が当てられるらしいが、意味は一個の独立した存在ということだ。もともとは医学用語で、尿の沈殿物を指したらしく、何もないところから何かが結晶となって沈殿してくる様を表したようだ。オリゲネスはこの概念を三位一体に援用し、父から子が生まれ、聖霊が「流出する」、しかも父と子と聖霊はそれぞえ独立した存在性を有している、と考えた。この東方教会の「三つのヒュポスタシス」概念が三位一体論を理論化するとともに、やがて西方教会を東方教会から切り離していくことにもなる。
 ヒュポスタシスをラテン語に訳すと「スブスタンティア」substantia になるのだという。日本語では「実体」と訳されているらしい。西方教会(ラテン教会)は三位一体を、父と子と聖霊の三者を、「一つのスブスタンティア、三つのペルソナ」として理解した。「三つのヒュポスタシス」と考える東方教会、「一つのスブスタンティア・三つのペルソナ」と考える西方教会。この対立が東西両教会を分離させていく。東方教会は一つの神のうちに父と子があり、子は父に従属している、と考える。いわゆる「従属説」である。東方教会にはこのほか様態説とか類似説とかも登場し、議論は輻輳する。
 この論争はニカイア公会議で決着が図られる。アレイオスの考えは異端とされ、子と父とは「ホモウーシオス」同一本質であると定義された。しかし決着がついたわけではない。アレイオスの支持者は多く(現在でも?)、しかもホモウーシオスの「ウシーア」とは何なのかについて合意が成立していなかった。ホモウーシオス(一つの、同一のウシーア)のウシーアとは「実体」なのか、「本質」なのか、または「存在」のことなのか。哲学好きの人にはこの「実体・本質・存在」の区別は重要な区分だろうが、カト研の皆様には釈迦に説法なのでここでは触れないことにしよう。論争はさらに複雑化していく。東方教会ではホモウーシオスを排除し、「三つのヒュポスタシス」を強く主張する人々がでてきたようだ。アタナシオス(295-373)はニカイアの「ホモウーシオス」を受け入れる条件で「三つのヒュポスタシス」について語ることを認めたという。里野氏によれば「西方教会は一性を重視し、東方教会は三性を重視した」(172頁)という。
 ニカイアの「ホモウーシオス」と「三つのヒュポスタシス」の二者を統合したのがカッパドキアの三教父と呼ばれる三人で、「三つのヒュポスタシスの一つのウシーアにおける一致」という定式化で、これは西方教会の「一つのスブスタンティア、三つのペルソナ」という定式化と並ぶものとなる。さらに、聖霊の神性についての聖霊論論争でも聖霊は神であって被造物ではないと言うことで合意が成立する。ここで三位一体論論争は終結し、コンスタンチノポリス公会議(381)でこの教義の正当性が承認される。
 コンスタンチノポリス公会議では三位一体論論争は決着するが、こんどは「キリスト論論争」が登場する。イエスの「人性」と「神性」の関係をめぐる論争だ。イエスのなかではイエスの人性は神性のなかに完全に吸収されてしまっているという単性説がでてくるが、これは否定されていく。「イエスは真の意味で神であり、真の意味で人間である」とい教義が確立されていく。
 三位一体論論争はおもに東方教会でおこなわれた。西方教会の貢献はほとんどなかったという。しかしこの欠陥をおぎなったのがアウグスティヌス(354-430)である。アウグスティヌスは、ペルソナとは「関係による存在」で、三位一体とは三つのペルソナであると定式化した。アウグスティヌスのペルソナ論はアウグスチヌス神学そのものなのでわたしの手にはおえない。里野氏はM・ブーバーの「我―汝」論を使って詳しく論じるが、これはこれで現代の三位一体論につながっていくのだろう。
 里野氏の三位一体論論争の歴史的要約ははここまでだ。このあと、里野氏は最も重要な当初のテーマに戻る。つまり、三位一体論とは、「イエスが神であるとは何を意味するのか」という問いである。「三が一で、一が三であるのとはどういうことか」という問いではない。答えは問いのしかた次第で変わってくる。適切な問いのないところに適切な答えは見えてこない。
 イエスが神であるとはどういうことか。これは神が人間になった、ということを意味する。人間が神になったのではない。神が人間になったという話だ。日本では例えば菅原道真は神だ、学問の神様だ、という場合、人間が神になった、と言っている。神が人間になった、菅原道真になった、とは言っていない。日本で、神が人間になったという文脈で神が語られるのは、昭和天皇の「人間宣言」(1946)くらいだろう。天皇は現人神であることを自ら否定しただけで、神(天皇)が人間になったと言っているわけではないという議論もあるだろうが、神が人間になるという思考は古事記にも日本書紀にも見られないのではないか。
 「神」という概念も正確な理解が必要だ。われわれが「神が人間になった」と言うとき、この神は「聖書の神」である。神様一般、絶対者、超越者、第一原因、など、哲学者のいう神ではない。聖書の神が神なのである。
 では、聖書の神とはどういう存在なのか。里野氏は聖書の神とは「人間に顔を向ける神」と呼んでいる。「聖書の神は、貧しい者、苦しむ者、虐げられた者、神の義を求める者の神である」(194頁)。イエスが神であり、「子」であるとは、イエスにおいて神が顕されたということである。里野氏はヨハネ福音書の中に入っていく。
 共観福音書によれば、イエスには「子」としての自己意識があった、という。イエスは「アッバ、父よ」と呼びかける。イエスのこういう自己意識はイエスの生涯を貫いているというのが里野氏の理解だ。自己意識とはあまり聞き慣れない言葉ではあるが、おそらくこれはかれの師ラッチンガーが講義でいつも言っていた言葉なのであろう。
 里野氏は最後の「まとめ」の部分で、新しい三位一体の図を示している。これもあまり見慣れない図なので念のため添付しておきたい。最後に里野氏の言葉を引用しておこう。


  人間の側から神を知ろうとする試みによっては、わたしたちは神に達することができない。

  神が神の方からを人間に開いてくださったときにのみ、わたしたちは初めて神を知ることができる。

  これが、イエス・キリストにおいて起きたのだと信じることが、イエスは神であると信じることであり、

  三位一体の神秘を信じることなのである。(201頁)

 

 

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