カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「弱さ」の神学 ー 待降節黙想会の講話

2024-12-09 15:56:14 | 神学


 当教会で待降節の黙想会があった。ごミサの前に教会で開かれるということで、保久要師の講話が中心だった(1)。
 講話のタイトルは「クリスマス~弱さの中の希望」というもので、その内容は興味深いものであった。「弱さ」に関する保久師のお考えを整理されたもののようだ。師は神学という言葉を使ってはおられないが、弱さをテーマにした議論は教会内では珍しいので、ここに印象を書き残しておきたい。

 黙想のテーマは「神様の救いの計画」というもので、師は5ページにわたる長文のレジュメを配られた。以下、骨子だけをまとめてみたい。

【レジュメ】

 

 

 師の主張は簡潔だった。「なぜ救い主は「弱い」存在としてこられたのか?
この問いに答えるために師はつぎのように話を始められた。

①第一の創造では、神はアダムとイブを作られた : アダムとイブは 「大人の姿」として創造された。人間は「幼子」として創造されたのでは無い。

 神は恵みとしてアダムとイブを贈られた。「強い存在」としてではなく、「恵み」として贈られた。だが知恵の実を食べてしまい、自分が強い存在、神になろうとした。
 イスラエルは強さを求めて、強さがすべてという社会を作ってしまった。だが、圧政の中、「いつか、ダビデやソロモンのような偉大が王が現れると思い、救い主を待望」した。

* 原罪(楽園からの追放)、イスラエルの度重なる罪、戦争と圧政、搾取 = 強者が支配する社会

②第二のアダムであるキリストは「幼子」として到来した。大人として突如現れたのでは無い

 ここには、強さを求めるのでは無く、弱さを大切にする社会をつくるというメッセージが込められている。これが、幼子イエスが送られた意味であり、クリスマスの意味である。
 
* 幼子は、無力・無防備・弱き者で、人の助けが必要である = 「弱さ」を中心とした社会に!

 師は、紀元前11世紀のイスラエルから説きおこされ、イエスの到来まで詳しくお話しされた。このような前置きの後、師は、メインテーマである「弱さ」とは何かをつぎのように説明された。

【講話】

 

 


 具体的には、
①村上春樹『壁と卵」(エルサレム賞受賞スピーチ 文藝春秋2009年4月号)
②教皇フランシスコ 「東京カテドラルでの若者との対話」(2019・11・25)
③高橋源一郎・辻信一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』(2014 大月書店)

 の3冊を取り上げ、おのおののなかで「弱さ」がどのように説明されているかを詳しく紹介された。

 ①では、「政治的正しさ」(Political Correctness)の欺瞞性が指摘された。「わたしは弱い者の味方である。弱い者は正しいからだ」という言説も欺瞞的だ。「弱い者は正しい」という言説は広く受け入れられている。では村上春樹も左翼なのか。師は、ラベリングよりも、村上春樹が人間を蝕む「本質的な弱さ」を「物語」を通して描いていると述べられた。

 ②では、教皇フランシスコが言いたかったのは、「人間はそもそも弱い存在で、それを思い起こさせるために神は人となった」ということではなかったか。

 ③では、社会的弱者(精神障害者・身体障害者・介護を必要とする老人・難病にかかっている人などなど)の「弱さ」のなかに新しい社会の可能性がある。効率的な社会・均質的な社会・弱さを排除し、強さと競争を市場原理とする社会は、本質的に脆さを抱えている。

 最後に師は、ご自分の主張をつぎのように整理された。

①弱さは周りを変えていく。弱さにこそ力がある
②弱さを中心として共同体はみんなが幸せになれる
③弱さはいいもんだ! 弱さの中に希望=救いがある!

 このように文字化してしまうとなにかきれい事を仰っていたようにしか聞こえないが、師のお人柄のせいか、違和感の無い流れのお話であった(2)。師は最後にフランシスコ教皇様のつぎのような言葉で締めくくられた。

 「よくいう、『生きている限り希望はある』は正しくありません。言うならばその逆で、いのちを生かし続け、守り、世話し、育むものが希望です」(『キリスト者の希望 教皇講話集』ペテロ文庫)

 ということで、クリスマス前の黙想会としてはかなり難解なテーマだったという印象がある。「正義は弱者にある」は本当なのか(3)。

注 
1 黙想会にはいろいろな形があるようだが、今回は講話の後にごミサという流れだった。つまり、ミサ中のお説教も講話につながる話だった。福音朗読はルカ3・1~6で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼の話だが、お説教はイザヤ書の「荒れ野」についてのお話だった。荒れ野とか荒野とか言われても多様な森林帯を持つ日本ではイメージしにくいが、砂漠とでも考えておけば良さそうだ。
2 師は教区では事務局での仕事をずっとしてこられ、司教様の信頼も厚いという話を知人から聞いた。小教区司祭になったのは今回が初めてだと自己紹介されていた。小説も書いておられるようで、文学に造詣が深い印象を持った。
3 競争社会に生きているサラリーマンや学生にはあまり説得力の無い主張ですね、と師自身も講話の中で認めておられた。では、キリストに倣って生きるとはどういうことなのか。わたしは今、ヨゼフ・ラッチンガー(教皇ベネディクト16世)の『ナザレのイエス』(2007)と、ハンス・キュンク『イエス』(2012)を比較しながら読んでいる。二人が描くイエスの姿の違いに驚くというより、「キリスト者である」ということ、「キリストに倣って生きる」ということについて、二人の理解の違いに驚いている。

 

 

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「躓かせる」とはどういうことか

2024-09-29 22:10:22 | 神学


 今日の御ミサは主任司祭が出張不在のため、前前任の主任司祭のH神父様が司式された。人柄の良さで人望があったH師の久しぶりのミサということで多くの方が集まった。お聖堂が信徒であふれたのはコロナ禍以来初めてだったと思う。

 今日は年間第26主日で「世界難民移住移動車の日」ということで、福音朗読はマルコ9:38~48だった。この章ではイエスが自分の受難を予告する場面が読まれるのだが、この箇所では「誘惑の警告」をしている。地獄の説明などおどろおどろしい表現があるのでのであまり読んでみたくなる箇所ではない。ここの42節はこのように始まる。

「わたしを信じるこれらの小さな者のひとりをつまづかせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」

 ここで「つまづかせる」という言葉が出てくる。H師は今日のお説教でこの言葉の意味や用法、使い方について話された。興味深いお説教だったので少し考えてみた(1)。

 神父様が言われるように、「つまづく」ということばは我々は日常会話ではほとんど使うことがない。だが、「聖書と典礼」では「新共同訳聖書」からこの文言を引用してくる。ちなみに「協会共同訳聖書」でもおなじ訳語がつかわれている。では、つまづくとはどういう意味なのだろう。

 日常用語でいえば、「広辞苑」は二つの用法を挙げている。①けつまづくという意味で、なにか障害物に足先を蹴り当てる(段差でつまづく) ②中途で失敗する(経営につまづく)。つまり宗教的な意味や用法は指摘していない

 宗教的な意味では、例えばキリスト教では、「信仰上の理解を妨げるもの」と説明されている(2)。例として、救い主が人間のかたちをとって現れたこと(マタイ11:6)、神の子の十字架の死が躓きになる(Ⅰコリ1:23)。
 『岩波キリスト教辞典』(2008)では、躓きとは人を転倒させる障害物をさすが、転じて、失敗や過失の原因、神が民に敵対して与える苦難、イエスが期待されたメシア像を裏切ったため人々が信ずることができないこと、を指すと説明している。さらに、「倫理的には、隣人にとって傷害となる言葉や行為」のことと説明している。あまりはっきりしないが、教会内での用法はこちらの説明に近い印象がある。

 問題は訳語だ。「つまずかせる者」という訳語は聖書によって異なる。バルバロ訳では、「小さな人の一人にでも罪を犯させる者」とある(3)フランシスコ会訳は「つまづかせる人」である。新共同訳、協会共同訳でも「つまづかせる」だ。
 H師は英訳では「whoever causes one of these little ones who believe in me to sin」とあり(4)、要は罪を犯すよう誘惑する者・事を意味するようだと説明された。もっともな説明だった。
 でも、なぜ「つまづかせる」などという訳語があえて選ばれているのか。他の言語ではどのように訳されているのか知りたいところだ(5)。

【年間第26主日】

 


1 H師のお説教は以前と同じくわかりやすいものだった。わかりやすく解説するというのは難しいことだが、師は今日の朗読箇所を「我々の信仰生活が不完全なままでもよいのではないか」という趣旨で説明された。もちろんイエスは「完全を求めよ」と繰り返し説いており、完全を求めねばならないが、それでも自分の不完全さを認めてもよいのではないか、と言われた。聞き慣れた「H節」の連発で久しぶりに痛快なお話であった。
2 『聖書辞典』(新教出版社、2007,291頁)
3 バルバロ訳の注では、つまづきについて、「有力な古写本にはなく、書入れがどうか不明である」とある。
4 この訳文は、The Holy Bible English Standard Version, 2014 のもの。
5 『文語訳新約聖書』(岩波文庫)では「躓かする者」とある。聖書の翻訳には聖書学者だけではなく、文学者、言語学者、芸術家など多くの分野の人が関わっているという。「つまづく」という訳語は広く受け入れられているようだ。とはいえ、わたしにはその宗教的意味合いは現在は薄れてきているような印象がある。信仰の障害になるという意味でつまづくという言葉は使われる機会は減ってきているのではないだろうか。

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聖変化は実体変化ですよ ー 「キリストの聖体」の祝日に想う

2024-06-02 17:52:29 | 神学


 このところ祝祭日が続く。今日は「キリストの聖体」の祝日(B年)だ。基本的にカトリックでの祝日だ(1)。といっても特定の歴史的出来事を祝うというものでもなさそうで、あえて言えば、最後の晩餐、つまり食事に結びつけられる祝日ということらしい(2)。

 神父様はお説教で、主に福音朗読(マルコ14:12~16、22~26)(3)を説明された。今日は初聖体の女の子が一人いてお祝いがあったので(4)、「食事」と「聖体」の説明をされた。だが難しい話だった。

 聖体とはパンと葡萄酒のことだ。聖体拝領でパンをいただくということは、「パンの形で来られるキリストをいただく」ということだ。パン(ホスチア)は文字通りキリストの体で、それを食するということだ。

 これは難しい話だ。ごミサは構造を持っているとはいえ、複雑な構成をもつ典礼だ。なかでも奉献文がミサの中心であり、さらにいえば聖変化の部分が頂点をなす(5)。聖変化とはパンと葡萄酒がキリストの体に変化するということだ。「変化」するとは「実体」が変化するということだ。パンはイエスの体のシンボルだとか、葡萄酒はイエスの血の象徴だ、ということではない。「実体変化」だというのが教義だ(6)。聖変化とは実体変化です、と神父様はおっしゃっておられたようだ(7)。初聖体の子に意味が通じたのだろうか。

 

【菊池大司教のガーナ時代の聖体行列と聖体顕示台】(週刊大司教第169回)

 


1 日本では考えられないが、国の祝日になっている国・地域も多いようだ。「食事」が中心という意味では、仏教国の日本では「お盆」みたいなものかもしれない。聖体はカトリックでの七つの秘跡の一つだが、プロテスタントでは秘跡の意味が異なるので、聖体は入ってこないようだ。
2 定着したのは13世紀以降らしい。それ以前はミサではいろいろな形の典礼があった、たとえば奉献文は定型化されていなかったが、会衆の関心が典礼から聖体そのものへ移っていったということらしい。
3 ここで13~21節はあえて読まれない。ユダの裏切りの予言の話だからだ。
4 初聖体だから、幼児洗礼だとすれば、おそらく小学校2~3年生くらいか。
5 当教会のM神父様は第3奉献文を使われることが多い。奉献文でいえば、聖別の「エピクレーシス」で「聖霊」を呼び求める(「あなたに捧げるこの供え物を 聖霊によって尊いものにしてください」)。そして聖別の祈りが唱えられる(皆、これを取って食べなさい・・・・・皆、これを受けて飲みなさい・・・」)。
6 「実体」とは神学的には人性(体・血・霊魂)と神性のすべてで、通常はトリエント公会議での定式化が用いられるようだ。アリストテレス風のトマス的理解のようだ。キリストはパンと葡萄酒の形をしてそこに「現存」しておられるという説明だ。哲学的には実体とは多様な概念のようだが、カトリックでは存在そのものというよりは、あくまで概念だとされる。パンや葡萄酒の物資としての性質(化学組成など)は変わらなくとも実体は変化すると考える。実体とは概念で、目で見たり触ったりできるものではないからだという説明だ。こういう神学的・哲学的説明より、聖体拝領でいただくご聖体は(パンは)キリストの体そのものだと信じることがキリストの聖体が秘跡だという意味なのであろう。
7 神父様が強く警告しておられたのは、聖体拝領でいただいたパンをそのまま家に持ち帰ってしまう人がいるようだが、それはしてはいけない。その場ですぐに食べなければならない、ということだった。かって口で聖体拝領をしていた頃、侍者はおしゃもじのような聖体皿を顎の下に差し出して、パンがこぼれ落ちるのを防いでいた。両形態で、葡萄酒をこぼしたりすると大変なことになったりしたことを思い出した。パンはパンだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり家に持ち帰るものではないだろう。

 

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なぜ神は「父」なのか ー 三位一体の祝日に想う

2024-05-27 15:34:25 | 神学


 今日は三位一体の主日で多くの方がごミサに与った。神父様はお説教で主に「洗礼」の意味について話されたが、一つ私には興味深く聞こえたお話があった。それは、三位一体のイメージについてのお話で、幼児洗礼の方と成人洗礼の方のイメージは少し異なるのではないかというものであった。
 幼児洗礼の方は三位一体と聞くと「アッバ、父よ」というなにか優しいイメージを抱くが(1)、成人洗礼の方は三位一体と聞くとそれははカトリック信仰の根幹的教義だとなにか難しいもののようなイメージを持たれるのではないかというお話であった。こういう特徴付けができるのかどうか私にはわからないが、三位一体って何だろうと考えさせられた(2)。

 三位一体説はキリスト教がキリスト教である根幹的教義であることはわかっているが(3)、通常は三位一体は「神秘」であり、「秘跡」である、とか説明されて、どうせ自分には理屈ではわからないものと想っていた。神学を少しかじってもわからないものはわからない(4)。

 特に教会での入門講座では三位一体がどのように教えられているのかは興味深い。言葉でいくら説明されてもわかりずらいのではないだろうか。たとえば、小笠原優神父は入門講座用のテキストである『キリスト教のエッセンスを学ぶ』(2018)のなかで、三位一体論の紹介と説明は第5章の「キリスト教の誕生」という歴史の解説の部分でおこなっておられる。具体的には「洗礼」の解説の中で説明している。「唯一の神が「三位一体」という交わりの様相を帯びているということは、人間の思考能力を遙かに超えていることだけに、まことに興味深い問題だと言わなければなりません」(186頁)と延べ、神学的説明には入られない。また、その後続書『信仰の神秘』(2020)でも「キリスト教の人間観」が論じられ、もっぱら神学的人間論が中心で、キリスト論が論じられているわけではない(5)。

 今日の「聖書と典礼」の「三位一体」の解説の箇所でも、小暮泰久師は、「「三位一体の神」は啓示であり、人間の自然本姓たる理性のみでは決して知り得ることのできない神秘です」と、啓示論のテーマだとしている。神学的にはそうなのだろうが、さらなる説明を期待したいところだ。


 われわれはいつも「父と子と聖霊のみ名によって」とオーム返しに唱えているが、もう少しきちんとミサの式次第を勉強しないといけないようだ。

【聖書と典礼】

 

1 マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります・・・」

2 三位一体の教義は結局使徒信条のことであり、洗礼式で用いられる信仰宣言でもある(使徒信条は12箇条、洗礼式用は9箇条)(阿部仲麻呂『使徒信条を詠む』2014)
3 エホバの証人、旧統一教会、キリストの幕屋などキリスト教(系)を名乗る教団教派は多いようだが、三位一体の教義をとらないのでキリスト教とは呼べない。
4 カトリック大辞典、岩波キリスト教辞典、キリスト教組織神学事典、岩波哲学事典などの身近な辞典類の説明をみてもほとんど同じ方が書いておられ、内容もそれほど変わらない。古代教会のでの三位一体論争(アタナシオスの評価)、三位一体のギリシャ型定式(ヒュポスタシス自存とウーシア実体)、ラテン型定式(ペルソナ位格とエッセンシア本質)の比較と説明、K・。ラーナーの自己譲与論、などが説明される。新約聖書に三位一体論が展開されているわけではなさそうで、教義としての確立は、三位一体論ならニケア公会議(325)頃、聖霊論を含めればコンスタンチノープル公会議(381)頃、とすればかなり遅いことになる。
 神が父であるかという問いも、聖霊の発出論(聖霊は父から来るのか、子(イエス)からも来るのか)の文脈の中での問いで、たとえばフェミニズムの父権性批判の意味ではない。
 同じように問題は日本語の訳で、ペルソナを通常は人格と訳すが、神学では位格と訳している。人格という訳語は個(人間)の独自性を連想させるが、位格という訳語を使わないと神の唯一性を表現できないようだ。
5 三位一体論はキリスト論の中で論じられることが多く、キリスト教的人間論では論じづらいようだ。たとえば、「神学ダイジェスト」No.134(2023夏)は特集が「神学的人間論の現在」として組まれ、K・ラーナーの論文「カトリック神学的人間論の提起」が巻頭を飾っている。

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蔵書整理で廃棄処分のカール・ラーナーとハンス・キュンク

2023-08-30 18:31:09 | 神学


 先日教会の図書室で本棚を覗いていたら驚くべき光景に出くわした。
私どもの教会の図書室は図書室といえるほどの独立した部屋ではなく、集会室の壁の一部に本棚が数本置いてあるだけである。


 とはいえ、この書架には、昔の聖書、カトリック大辞典、資料集、製本された過去の月報、他教会からの会報など重要なものがきちんと整理保存されている。図書室をどの程度充実させるかはその時の主任司祭や教会委員会の意向によって変わるので、時代の変化を知ることもできる。

 今回、「蔵書を整理するので不要な本を処分します。ご入用の方はお持ち帰りください」との掲示とともに段ボール箱に数十冊の本が放り込まれていた。何気なく覗いてみるとそこにはなんと、「キリスト教とは何か」(カール・ラーナー)、「公会議に現れた教会」(ハンス・キュンク)が無造作に置かれていた。前者は(邦訳)は1981年、後者は1966年なので、あまりにも古いということで処分の対象となったのであろう。

 それにしてもラーナーの「キリスト教とは何か」はラーナーの晩年に書かれおそらく代表作といってよい著作だろう。値段が高くて私は手が出なかった書物だ(1994年に新版がでている)。後者はパンフレット風だが第二バチカン公会議の立役者キュンクの教会論だ。私は涙を流しながら喜んでいただいてきた(また返すつもりなので借りてきたと言うべきか)。

 ラーナーとキュンクが選ばれていたのは偶然なのだろうか。キュンクは一昨年訃報が伝えられたばかりだ。ラーナーは現在の日本のカトリック神学者のなかで最も影響力のある神学者だろう。『神学ダイジェスト』(1)では繰り返し特集が組まれており、正平協よりの司祭からは偶像視されているように見える。
 ラーナーとキュンク。両者の比較は専門家たちがいろいろやっているようなので、私も学んでいきたいものだ。ラーナーの「匿名のキリスト者」論、キュンクの「下からのキリスト教」論、ラーナーの超越主義に基づく普遍主義説、キュンクの多様性説に戻づく教会改革論、というような言葉が脳裏に浮かんでくる。二人とも現代の混迷するカトリック教会が将来進むべき道をそれぞれ示しているようだ。

 キリストを知らないで死んだ人も救われるのですか。教皇は不可謬だと聞きますが本当ですか。どうして女性は司祭になれないのですか。死んだらお寺のお墓に入ってもいいのですか・・・などなどごく普通の質問への答えは、ほとんど『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』(2)に記されているが、その神学的な意味はラーナーやキュンクにさかのぼらなければよく理解できない気がする。

 蔵書整理でラーナーとキュンクが廃棄処分される時代がきている。日本社会の分裂を反映するかのようにカトリック教会にも分裂の兆しが訪れているのかもしれない(3)。教会の一致を、教会内の一致を、これからも辛抱強く祈っていこう。

【初版】

 

 


1 上智大学神学会誌。現在は年2回刊行されているようで、著名な外国神学者の論文を翻訳紹介している。編集長は光延一郎師。イエズス会で、元上智大学神学部長。正平協の秘書だという。

2 日本カトリック司教協議会 2009

3 キュンク風に言えば、土着派対ローマ派、ラテンミサ派対公会議派、リベラル派対保守派、正平教派対信仰派、などなど教会の分裂の線はいろいろ引くことができるだろう。しかもそれらの分裂は普通の 保守/革新、伝統/近代、右/左というイデオロギー軸できれいに線引きできない。例えば女性司祭は反対だが護憲一本やりという組み合わせもあるようだ。
 それにしてもラーナーの『キリスト教とは何か』は難しい。「現代カトリック神学基礎論」とサブタイトルがついているが、これはもともと講義録のようだ。原題は Grundkurs des Glaubens:Einfuhrung in den Begriff des Christentums 1976 。キリスト教入門という意味なのだろうが、入門書ではない。ただ。論述の仕方は、神論・人間論・原罪論・救済論・キリスト論・教会論・終末論とオーソドックスな議論の進め方(章立て)となっている。

 

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