カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

発達障害は認知症を招くか ー 「横浜オリーブの会」講演会に出て

2024-06-16 13:57:56 | 教会

 6月15日(土)の猛暑のなか雪の下教会で「横浜オリーブの会」(1)主催の講演会がもたれた。演題は「発達障害を知る ~様々な特性と対応について~」で、講師は浦野真理さん(東京女子医科大学病院ゲノム診療科)だった。梅雨入り前の暑さにもかかわらず二階の会議室がいっぱいになるほどの参加者がおられた。ZOOMでのオンライン参加もあった。1時間あまりの講演と、1時間近い質疑応答があった。難しいテーマだったが、多くのことを学ぶことができた。

【オリーブの会講演会】

 講演の内容としては、①発達障害の分類 ②それぞれの特徴と対応 ③支援について、に分かれていた。浦野氏は、発達障害は脳の機能の障害で、本人の怠けや親の養育態度が原因ではない、と繰り返し強調しておられた。つまり、脳の問題だ、というのが論点だった。発達障害は現在は「神経発達障害」と呼称が変わったようだ。

 「発達障害」は、2018年施行の発達障害者支援法では、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」と定義されている。しかし、実際には成人にも発達障害は見られるようになってきているという(2)。

 浦野氏が今回の講演で主に説明されたのは以下の5項目だった。

①知的能力障害
②自閉症スペクトラム障害(ASD Autism Spectrum Disorder アスペルガー症候群など)
③学習障害(LDまたはSLD Specific Learning Disabilities )
④ADHD(注意欠陥・多動性障害(Attention Deficit/Hyperactivity Disorder)

 どれも聞いたことはあるがそれぞれがどう違うのか私は知らなかった。氏の説明は具体的で例示が多く、興味深かった。とはいえ、浦野氏がスライドを使った説明ではほとんど英語の略語(例えばLD,ASD,ADHDなど)をそのまま使われるので私のような素人には話しについて行くのが大変だった。参加者の皆さんはほとんどオリーブの会の関係者の方らしくそういう苦労はなさそうだった。

 わたしは個人的にはSLD(限定性学習障害 )の説明が面白かった。例えば、「図」と「地」の区別が大事だという指摘は、まるで認知症の話しを聞いているようだった(4)。

 講演の後、質疑応答があった。多くの方が質問された。オンラインで質問される方もおられた。質問といっても、もっぱら個別的なケースを浦野氏にぶつけて意見を求める、というもので、あまり一般性のある質問はなかった印象がある。

 私が今日の講演を聴いて一番驚いたのは、浦野氏の発達障害の説明はまるで高齢者の認知症の説明を聞いているような気がするほど類似性があったことだ。症状が似ている印象があった。発達障害と認知症が医学の世界でどのように関連付けられているのかは知らない。ただ、浦野氏が言うように、発達障害が「脳の機能の障害」というなら、もうすこし両者の関連性について触れてほしかったと思う。

 今日の講演では発達障害の二次障害については殆ど触れられなかったが、社会的には引きこもりなどの二次障害が問題視されることがある(5)。二次障害として精神疾患広汎性発達障害(昔は自閉症と呼ばれていた)が言及され、薬物治療、行動療法(「合理的配慮」の提供など)、SST(Social Skill Training たとえばロールプレイイング)などが支援策として提案されていた(6)。認知症は発達障害の二次障害なのか、発達障害は認知症の引き金になるのか、素朴な疑問を抱いた(6)。



1 オリーブの会とは精神障害者をサポートするクリスチャンの会だと聞いているが、詳しいことは知らない。横浜オリーブの会は横浜教区内で活発な活動を展開してきているようだ。
2 だから、逆に、子供に問題行動があると、何でも「発達障害」というラベルを貼って片付けてしまう傾向もあるともいえる。発達障害などという言葉(病名?)がなかった時代の子供のいたずらや粗野な行動を思い起こすと、この言葉がラベリングになる危険性も忘れたくない。
3 関係者にとってはつらいことだが、今でははやり言葉にすらなっているという人もいるようだ。反対に、興味深い話もあった。たとえば、昨今知られるようになったASDのピアニストの話しとか、研究者や医師にはAD/HDが多いとか、聞いて面白い話もあった。モーツアルトやアインシュタインは自閉症の典型例だという話しはよく知られている。
4 たとえば、ディスレクシア読字障害)の問題は、ひらがなとアルファベットの違いもあって複雑な障害らしい(たとえば、文字を逐次読みしてしまう)。ところで、次の絵で、どちらが最初に眼に入ってくるだろうか。人間の横顔か、壺 か。よく使われる絵でご存知の方も多いだろうが、「図」と「地」の識別は必ずしも無意識ではないらしい。

【図か地か】

5 二次障害の例として妥当かどうかわからないが、いわゆる「宗教2世」問題の文脈で、「信仰」や「宗教」を発達障害の一つと見なすような極論が散見されるという。つまり宗教2世は発達障害の症状を見せるという議論のようだ。こういう言説が流されるほど日本社会の世俗化が進んでいることに驚きを禁じ得ない。キリスト教から見れば、宗教2世問題とは実は「カルト2世」問題で、親が子供に信仰を伝達していくこと自体が問題なのではない。親は、自分の政党支持態度を子供に伝達していく(子供の政治的社会化)。同じように、親は子供に幼児洗礼を授け、宗教教育を施す(子供の宗教的社会化)。カルトと宗教の識別が不十分だから宗教2世についてのこういう極論が出てくるのであろう。
6 質問で多く出た個別ケースの問題は、医学的対応だけではなく、社会的な対応を必要としているもののように聞こえた。発達障害への「支援」は、認知症での「介護」と共通する課題を持っているようだ。

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聖変化は実体変化ですよ ー 「キリストの聖体」の祝日に想う

2024-06-02 17:52:29 | 神学


 このところ祝祭日が続く。今日は「キリストの聖体」の祝日(B年)だ。基本的にカトリックでの祝日だ(1)。といっても特定の歴史的出来事を祝うというものでもなさそうで、あえて言えば、最後の晩餐、つまり食事に結びつけられる祝日ということらしい(2)。

 神父様はお説教で、主に福音朗読(マルコ14:12~16、22~26)(3)を説明された。今日は初聖体の女の子が一人いてお祝いがあったので(4)、「食事」と「聖体」の説明をされた。だが難しい話だった。

 聖体とはパンと葡萄酒のことだ。聖体拝領でパンをいただくということは、「パンの形で来られるキリストをいただく」ということだ。パン(ホスチア)は文字通りキリストの体で、それを食するということだ。

 これは難しい話だ。ごミサは構造を持っているとはいえ、複雑な構成をもつ典礼だ。なかでも奉献文がミサの中心であり、さらにいえば聖変化の部分が頂点をなす(5)。聖変化とはパンと葡萄酒がキリストの体に変化するということだ。「変化」するとは「実体」が変化するということだ。パンはイエスの体のシンボルだとか、葡萄酒はイエスの血の象徴だ、ということではない。「実体変化」だというのが教義だ(6)。聖変化とは実体変化です、と神父様はおっしゃっておられたようだ(7)。初聖体の子に意味が通じたのだろうか。

 

【菊池大司教のガーナ時代の聖体行列と聖体顕示台】(週刊大司教第169回)

 


1 日本では考えられないが、国の祝日になっている国・地域も多いようだ。「食事」が中心という意味では、仏教国の日本では「お盆」みたいなものかもしれない。聖体はカトリックでの七つの秘跡の一つだが、プロテスタントでは秘跡の意味が異なるので、聖体は入ってこないようだ。
2 定着したのは13世紀以降らしい。それ以前はミサではいろいろな形の典礼があった、たとえば奉献文は定型化されていなかったが、会衆の関心が典礼から聖体そのものへ移っていったということらしい。
3 ここで13~21節はあえて読まれない。ユダの裏切りの予言の話だからだ。
4 初聖体だから、幼児洗礼だとすれば、おそらく小学校2~3年生くらいか。
5 当教会のM神父様は第3奉献文を使われることが多い。奉献文でいえば、聖別の「エピクレーシス」で「聖霊」を呼び求める(「あなたに捧げるこの供え物を 聖霊によって尊いものにしてください」)。そして聖別の祈りが唱えられる(皆、これを取って食べなさい・・・・・皆、これを受けて飲みなさい・・・」)。
6 「実体」とは神学的には人性(体・血・霊魂)と神性のすべてで、通常はトリエント公会議での定式化が用いられるようだ。アリストテレス風のトマス的理解のようだ。キリストはパンと葡萄酒の形をしてそこに「現存」しておられるという説明だ。哲学的には実体とは多様な概念のようだが、カトリックでは存在そのものというよりは、あくまで概念だとされる。パンや葡萄酒の物資としての性質(化学組成など)は変わらなくとも実体は変化すると考える。実体とは概念で、目で見たり触ったりできるものではないからだという説明だ。こういう神学的・哲学的説明より、聖体拝領でいただくご聖体は(パンは)キリストの体そのものだと信じることがキリストの聖体が秘跡だという意味なのであろう。
7 神父様が強く警告しておられたのは、聖体拝領でいただいたパンをそのまま家に持ち帰ってしまう人がいるようだが、それはしてはいけない。その場ですぐに食べなければならない、ということだった。かって口で聖体拝領をしていた頃、侍者はおしゃもじのような聖体皿を顎の下に差し出して、パンがこぼれ落ちるのを防いでいた。両形態で、葡萄酒をこぼしたりすると大変なことになったりしたことを思い出した。パンはパンだ、と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり家に持ち帰るものではないだろう。

 

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