カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ディアスポラ(離散)と宣教ー現代の啓示論(3)

2019-08-06 10:46:46 | 神学


 8月の学びあいの会はお休みなので、最近話題の啓示論を勉強して、9月の会に備えたい。

 この新しい啓示論は、フランスの神学雑誌『Recherches de Science Religieuse』の編集長のクリストフ・テオバルド師(ドイツ系フランス人のイエズス会司祭、神学者)が、K・ラーナーが第二バチカン公会議以前の1954年に発表した論文を再読して、ラーナーの「ディアスポラ・キリスト教」論を現代の文脈で評価・解釈したもののようだ。論文のタイトルはずばり「ディアスポラ・キリスト教」で、南條俊二氏が翻訳されたものだ。出典は、「カトリック・あい」(catholic-i.net)である。

 わたしが今回この論文に興味を持ったのは、このところ第二バチカン公会議は行き過ぎだったという声がますます強くなってきていて、わたしはそういう声になにか違和感を感じているからだ。
 例えば、ごミサをラテン語に戻してほしいとか、手でいただく聖体拝領はいただかないとか、『典礼聖歌』ではなく『カトリック聖歌集』のみを使えとか、第一朗読で旧約聖書を読むのはおかしいとか、第二バチカン公会議の精神にあわない議論が大手を振って歩き始めており、挙げ句の果てはフランシスコ教皇様の発言を認めない議論まで散見される。ここは少し落ち着いて考えてみる必要があると考えているからだ。

 ポイントは、K・ラーナーの「ディアスポラ・キリスト教」論を再評価することだ。グルーバル化がすすむ現代世界で、ヨーロッパ型の古いキリスト教文化や典礼だけでは世界的な、普遍的な宣教は難しいことを知ることだ。グローバル化が進んでいるからこそローカル化の試みが意味を持ってくる。現代のキリスト教は再びディアスポラの中で宣教活動をしていかねばならないという主張のようだ。
 また、あえて言えば、、フランシスコ教皇さまはいわばヨハネ23世で、第二バチカン公会議の精神を現代社会に生かそうと努力しておられると、もっと肯定的評価が必要だと思う。現代の教会が抱える問題、例えば、聖職者による性的虐待問題、女性の叙階問題、ヴァチカンの財政スキャンダル問題、などへの対応は、古いトリエント公会議(1543-63)以来の伝統墨守では乗り切れないのではないか。

 少し具体的に見ていこう。実際に論文を読むのがよいのだろうが、ここではわたしなりに整理してみたい。

 ディアスポラ Diaspora とは何かの定義はは専門家に任せるとして、ここでは普通に民族やエスニック・グループの「離散」と考えておく。ディアスポラと言えばユダヤ人が思い浮かぶが、キリスト教徒もその誕生の初期はディアスポラであり、シナゴーグで一緒に祈っていたであろう。現在、キリスト教徒は再びディアスポラとなり、宣教の途にたつ、というのがラーナーの議論のように聞こえる。

 ラーナーは、ディアスポラは「歴史における偶然の出来事」ではなく、「救済の歴史に固有の必然の出来事」だと言っているという。カトリックがヨーロッパの、西欧世界の宗教である限り、教会が神学的に、組織的に、西側世界の考え方で支配されている限り、さらなる発展の見込みはない。グルーバル化が進めば進むほど、この矛盾が教会の内部から生まれてくるのは止めようがないという。教会をヨーロッパから解き放つ。「すべての民の教会」に変わる。宣教の基点はここにあるという。ラーナーはなんと半世紀前に、第二バチカン公会議前に、すでにこう言っていたというのだから驚きだ。かれには教会の未来が見えていたのかもしれない。

 テオパルド師はラーナーにならって、この課題に応える方法を三点指摘している。

第一は「教会の伝承の概念」の再検討だという。伝承と言ってもたんに昔のやり方を墨守するのではなく、あらたな普遍性の構築も含む。否定や放棄ではなく、「新たな均衡」を見つけることが大事だという。そして「啓示憲章」こそ、その道筋を示しているのだという(1)。啓示論は抽象的な神学の話ではなく、具体的な宣教の方法として取り入れていく必要があるという。啓示憲章を宣教論として読めということであろう。

 第二は、「文化の役割」だという。Exculturation という言葉が使われているが、キリスト教はヨーロッパにおけるキリスト教文化の衰退・消滅を生き延びることができるのか、という問題のようだ。ヨーロッパにおける宗教的世俗化と多元化の挑戦のなかで、宣教の可能性を問うているようだ。宣教はアジア・アフリカだけの話ではない。ヨーロッパでも新しい宣教が必要なのだという。

 第三は「神学の民主化」と呼ばれている。具体的には南米やアジアにおける「地域シノドス」が抱えている問題だ(2)。女性の教会における役割、女性の叙階、司祭の独身制、聖職者の位階制などの問題は、バチカンや教会の組織を変えるだけではなく、神学上の対応が求められているのだという。例えば、「解放の神学」の評価はまだ定まっていないように思える。

 グローバル化の中でキリスト教徒はディアスポラとなる。そこに宣教の視点を置くということであろう。こういう議論に接すると、日本語ミサはいらないとか、聖体拝領は口だけでとか、トリエント・ミサだけがミサだとかいう主張がどういう文脈で展開されているのかと心配になってくる。もちろん、ラーナー万歳で済む話ではないが、古いとはいえ傾聴に値する議論だと思う。最後に少し長くなるが、テオパルド師を引用しておきたい。

「だが、世界共通の一つの典礼形式、共通の一つの聖職者の規範、一つの神学的律法を持つ、11世紀、12世紀に作られた教会制度に戻る道はない。今日の教会は、当時とはすっかり異なった世界に生きている。過ぎ去った時代に戻ることはできない。それはもう終わったのだ。」



1 啓示憲章は分冊の出版で言えば、「典礼憲章」の付録みたいに納められているので見逃されやすい。『第二バチカン公会議 典礼憲章 神の啓示関する教義憲章』(カトリック中央協議会 2014)(550円)
2 アマゾン・シノドス、アジア・シノドスなど。シノドスとは「世界代表司教会議」と訳される。なお、昨年10月の第15回通常シノドス向けにカトリック司教協議会が2017年11月に提出した「公式回答」は、日本の司教協議会が日本のカトリック教会をどう評価しているかを知るうえでとても興味深い。(https://www.cbcj.catholic.jp/2018/04/03/16516/)

 

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倉沢進先生を悼む

2019-08-04 22:24:36 | 社会学


 2019年7月28日に倉沢先生が亡くなられた。長く病いを患われておられたので、ここしばらくはお顔を拝見していなかった。葬儀の際に最後のお別れをしたが、普段ふくよかだった先生が少しやせた顔をしておられた。忘れないうちに少し思い出を記しておきたい。

 先生に初めてお会いしたのは、先生が岡本先生の後任として東京都立大学の社会学研究室に赴任された時だった。おそらく1970年頃だったと思う。先生は9年生まれ(1934)なので、当時は30代半ばで、都市社会学者として颯爽と赴任してこられたのを覚えている。

 当時の都立の研究室は、小山隆、磯村英一の創設期の時代が終わり、岩井弘融教授、大塩俊介教授、河村望助教授、岡本英昭助教授、助手の私という体制だった。私の前の助手は石川晃弘さんだったが、河村さんが小山隆先生の退官のあと助教授に昇進すると、石川さんは中央に移っていった。私のあとの助手は松井清(明治学院)さんだったが、河村さんのあと都立では助手から講師、助教授への昇進は高橋さんまでなかったようだ。

 岡本先生(産業社会学)は磯村英一先生のあとに赴任され、学生の面倒見のよい先生だった。当時、出稼ぎ問題が大きな社会問題となっていて、新潟県松之山町の調査は研究室あげての大仕事だった。この岡本先生が突然退職され、亡くなり、後任として学芸大から赴任されたのが倉沢先生だった。この人事には磯村先生や岩井先生が尽力されたと聞いていた。この岩井先生もやがて大学紛争の中で事件を起こし、追われるように東洋大学に移っていかれた。学生の執拗な追求に手を上げ、その手がビール瓶を握っていたのはなんとも不運だった。岩井先生の後には古屋野正伍先生が来られる。考えてみれば研究室の草創期で、人事も安定していなかったのだろう。また、安保、大学紛争、70年安保と学生運動の時代で、代々木系と反代々木系の対立は、学生のみならず職員や教員の間でも根深いものがあった。

 社会学研究室は当時は人類学と同居であった。社会学と人類学がどうして同じ研究室に同居することになったのかはいろいろな人が書かれているようだが、人類学研究室もやがて人類学会を先導するような有力な学科に成長していくのだから、両者の関係はいつも緊張をはらんでいた。といって仲が悪かったわけではなく、会議は一緒だったし、同じ図書室で助手も院生も切磋琢磨していた。事務助手の井上さんが名助手で潤滑油だった。

 倉沢先生が赴任された頃の人類学は、馬淵東一教授、鈴木二郎教授、村武精一助教授、竹村卓二助手の時代だった。鈴木、村武両氏は昇進直後で張り切っていた時代だ。会議が長引くと、河村・村武・竹村・私の4人で渋谷に繰り出し、飲んだり、麻雀をしたりしていた。院生が一緒だったこともある。麻雀は河村、村武は強く、竹村さんと私は助手にもかかわらず散々搾り取られたのを思い出す。竹村さんが大阪にできた国立民族学博物館に転出すると小川正恭さんが後任の助手になるが、小川さんも倉沢さんも麻雀はからきしだった。この頃、大学紛争に疲れ切った私と小川さんは偶然にも一緒にフルブライト奨学金でピッツバーグ大学に留学した。ピッツバーグではお互い助け合った。

 私は助手だったから倉沢さんにも河村さんにも等距離で接した。河村さんは昭和6年組(1931)だから倉沢さんとは三学年違いか。東大の社会学研究室では生年月日より学年が序列の基本だから、倉沢さんは河村さんには一定の敬意を表していたと思う。年が近いとはいえ、お二人は研究領域も異なれば、方法論も全く異なる。だが外の人が言うほど対立した関係にはなかったと思う。基本的に先輩後輩なのだ。だが院生たちは異なる。指導教官ごとに院生たちが二つのグループに分かれていくのはどうしようもなかった。わたしもいくつかの大学を渡り歩いてきたので研究室の個性の違いが大きいことは十分承知しているが、都立大のこの二つのグループの切磋琢磨は驚異的であった。両方のゼミに出ていた人も何人かいたようである。こうしてお二人のゼミはともに学会を支える優秀な人材を輩出していった。

 お二人ともアルコールはやらない。だが、どちらかといえば、河村さんの方が性格というか、個性が強かった。学内でも学会でも、味方も多いが敵も多いタイプだったと思う。とはいえ、お二人とも学者の家系のご出身だから、研究室で一緒に、お昼を、弁当を食べるときは、話題が豊富で、学ぶことが多かった。わたしはお二人の大学院のゼミに出たことはないのでお二人から社会学を学んだとはいえないが、研究者のあり得べき姿を学んだと思っている。
 お二人は助手に対しても扱いは普通だった。岩井先生は、助手は研究室の主任教授は車で送り迎えすべきだと言われ、私は急遽自動車の免許を取る羽目になった。池袋の先生のお宅にお迎えに通ったものである。河村さんは自分も助手の経験があるのでそういうことはなかった。

 さて、倉沢さんの思い出である。いろいろ思い浮かんでくるが、『東京の社会地図』調査や、住民運動調査(静清バイパスの調査は長かった)など、都市社会学関連の業績は他に詳しい方がたくさんおられるので、記念論集でも出ればお弟子さんのどなたが書かれるだろう。また、日本都市社会学会や社会学会での活動も他に譲ろう。ここでは個人的な思い出を一つ二つ書いておきたい。

 一番強い印象は、倉沢さんがコンピューターに関心を持ち、プログラミンを覚え、やがてクラスター分析のプログラムを自分でFortranで組んで、社会地図の分析に使い始めたことだ。わたしも「IBM360」が東大に初めて入った頃、安田三郎先生に連れられて、これからはカードソーターの時代ではなく、コンピューターの時代だと大型計算機室に「拝みに」いった頃から興味を持っていたので、倉沢さんとは話はあった。都立大の計算機室で富士通の機械を相手にパンチカードを持って一緒に徹夜していたことを思い出す。シカゴ学派の話よりコンピューターの話の方が面白かった。

 お通夜の時の長男の学君の挨拶によると、このコンピューターへの関心は、囲碁への関心と重なっていたという。先生は囲碁は都立大ではアマチュア4段で通っていて本当に強かったようだが、囲碁とコンピューターがつながっていたという話には驚いた。私には今でもどうつながっていたのかわからない。コンピューターも大型計算機の時代からマイコン、パソコンの時代になってくると、つまり、MS-DOS, Windows の時代になってくると、先生の関心はまた囲碁とお能に戻っていったようだ。学君は将棋に才能があったらしく、かれが子供の頃先生のご自宅で何度か負かされた(教えられた)こをと覚えている。学君はやがて東大将棋部で活躍されたのではないだろうか。
 先生のお能の横笛(能管)は素人の域を超えていたようだ。蓼科の別荘ではよく吹いておられた。能管は単なる横笛ではなく独特の構造をしているようで、われわれが力一杯吹いてもスーの音も出ない。不思議な楽器だった。先生がご自分の体調の異変に気づかれたのも(パーキンソン)、能管を練習している時だったという。

 蓼科の別荘には何度も合宿で集まった。この別荘は先生が結婚記念に奥様に贈られたものとのことで、よく通われたようだ。先生は車はやらないのでもっぱら奥様が送り迎えをされていたのであろう。われわれが研究会で合宿するときは、茅野のショッピングセンターで買い物をし、食事係はもっぱら川本さん(駒澤大学)で、私は皿洗い係。夜は村の共同風呂に通った。お風呂は川本さんは烏の行水だが、倉沢さんは長湯で能弁だった。いつしか「河童風呂」と呼ぶようになり、我々の研究会も「カッパ研究会」と呼ぶようになった。倉沢さんは多くのお弟子さんを育てたが、学芸大・ICU・初期都立大時代のお弟子さんは第一世代のお弟子さんで、「オールドメンバー」と呼んでおられた。わたしもその末席に入っていたのかもしれない。この蓼科の東急の別荘には先生の友人知人が何人か別荘を持っておられ、よく一緒に碁を打っておられたという。

 蓼科に別荘を求められたのはおそらく先生の祖先が佐久のご出身だからだろう。臼田で代々郵便局長の家系だったというが、故郷を思う気持ちが強かったのだろう。学校は幼稚園から中学までお茶の水の付属だったと聞いているが、昭和10年代に幼稚園に通っていたというのだから、先生はエリートコースをまっすぐ歩んでこられたと言えそうだ。

 先生に最後にお会いしたのは、先生が「瑞宝中綬章」をいただいたお祝いの席だった。オールドメンバーが一堂にそろったのだから、先生はことのほか喜んでおられた。わたしたちはこの賞がどういうものかはよくわからなかったが、昔の「勲三等瑞宝章」のことだと誇らしげに話しておられたのが印象的であった。今思うと、病気はこの頃すでに始まっていたのかもしれない。

 科研の調査、研究会、本の出版、先生のご自宅の書斎、都立の研究室など思い出すことは多々あるが、今は先生の冥福を静かに祈りたい。よき人に出会えて私は幸せであった。葬儀は禅宗だったと思う。

 

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