第3部は「現代の神秘的な旅」と題されている。ここは第1部、第2部とはトーンが少し異なる。まず、全体に黙想会の講話風で、特に新しい議論がなされているわけではない。繰り返しの話があり、話題もあちこちに飛ぶので、読みやすくはない。第二に長い。全9章からなっている。全体として十字架の聖ヨハネの議論が中心となっている。第三に、結婚や性の問題が繰り返し登場する。神学上の問題でもあるが、制度としてのカトリック司祭の独身制の問題が問われている。第四に最後の2章はジョンストン師独特の現代社会論、社会正義論が展開される。師の神秘神学の射程の広さを感じさせる。ということで、要約は無理を承知でごくごく簡単に済ませたい。実際に本書を手にとってお読みいただくきっかけになれば幸いである。
第11章 信仰の旅
ジョンストン師の神秘神学は本当にキリスト教なのか、という無言の問いに、師は、K.ラーナーとともに断固として答える。未来のキリスト者はみな神秘家になる、と。
本章は十字架の聖ヨハネの「否定神学」に依拠しながら、「信仰」とはなにかを明らかにする。信仰とは、数多くの神学的命題への同意ではない。理解したから信じる、のでもない(注1)。信仰は、神への従順であるという。信じるから理解できるとまでは言っていないが、全人格を神に委ね、神との個人的関係に入っていくことを信仰と呼んでいる。
この信仰の意味を知るために、師は、啓示論を展開する。聖ヨハネは啓示には2種類あると言っている。宇宙の啓示と受肉の啓示だ。師は、神秘家アブラハム(注2)、聖ヨハネの「不知の知」、禅の「大死一番」(必死で物事に取り組むこと 注3)を取り上げ、啓示の意味を説明する。啓示と同じく、「目覚め」にも2種類あるという。一つは禅の「見性」(けんしょうと読む)のような自然と宇宙を通しての目覚めだ。もう一つはキリスト教的な(受肉と贖いの神秘である)死を通しての目覚めだという。師の信仰論はキリスト教に限定されず、また、宇宙論的な響きをもっている(注4)。
注1神学論争のテーマは多い。原罪、義化か義認か、恩恵か自由意志か、善行か予定か、など。
注2 旧約聖書の英雄のなかでアブラハムは別格である。アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ・モーゼ・ヨシュア・ダビデ・ソロモンと続く続く偉人を、阿刀田高は「アイヤー、ヨッ」と覚えろと言う。わたしもこれで覚えている。「旧約39巻、新訳27巻、合計66巻」の巻名を歌で覚えてすべてすらすらと言える人も多いという。そんなことができても意味が無いと言われればそれまでだが。
注3 「大死一番絶後再蘇」は大河ドラマ「直虎」でも使われ、人口に膾炙したか。生への執着と死への恐怖は神経症や精神障害を誘発する。霊的な死から解放されれば、生物的な死を受け入れられるようになるという禅の教えだ。
注4 ラサール師の『禅-悟りへの道』(1967)がジョンストン師の『愛する』(2004)と同じく祈りのための書とすれば、『禅と神秘思想』(1968,邦訳は1987)は神学書で、本章のベースになっているようだ。とはいえ、ジョンストン師の宇宙論的・汎神論的響きは接心で見性を許されたラサール師のそれとは異なるように見える。
第12章 浄化の道
タイトルは Via Purgativa だ。英訳は a way of purification。ここも十字架の聖ヨハネの神学がベースにある。神秘主義では、神に赴く道に三層(三段階)があるとする。
浄化の道(初心者の道)
照明の道(熟練者の道)
一致の道(完徳者の道)
イエスは「私は道である」(the Way)と言われた。イエスに倣って生きるためには浄化の道を歩まねばならない。浄化の道はまず「回心」から始まる。回心とは神に目を向け直すことだ。具体的には告解と観想だ。告解で許されても、観想のように罪の根を取り去ることはないという。どうしても観想が必要になってくる。
このキリスト教の浄化の道は、ヒンドゥー教や仏教の「解脱の道」と類似点があるという(注1)。だが師は、ただ両者を比較するだけではなく、キリスト教の浄化の道の神学上の基盤を明らかにすることのほうが重要だという。神学論争を避けてはならない。ここから師は、聖ヨハネに依拠しながら、浄化の道、観想の世界を詳しく説明していく。「推論」から「観想」へ進み、「暗夜」へ入っていく。
注1 業からの解脱は輪廻から解放されることだが、欲望が無くなるという意味では涅槃(悟り)と同義だという(岩波哲学思想事典)。キリスト教の罪概念と仏教の欲望概念は対照的だが、キリスト教は欲望を否定しない。
第13章 暗夜
神秘体験を説明するためにジョンストン師は心理学、精神分析学の知見を学び始める。特にC.ユング(1875-1961)には強く影響を受けたようだ。「無意識」という言葉が師の講話にしばしば登場するようになり、わたしは強い印象を受けたことを覚えている。とくに、ユングがフロイトと決裂することになった無意識と性との関係や集合的無意識の存在についてのユングの考えに惹かれたようだ(注1)。師は「社会的な罪」(social sins)という言葉さえごく普通に使うようになった(注2)。
本章から15章まで性の問題が取り上げられる。直接的議論ではないが、背景としてある。神秘神学は性をどう説明するのか。独身の利点・欠点はなにか。カトリック教会の独身制の意味は何か。
だが、この議論に入る前に聖ヨハネの暗夜論が紹介される。暗夜論は神秘神学の重要な柱だからだ。最初、「神の英知は霊魂にとって、夜であり、闇であり、苦しみであり、拷問である」という聖ヨハネの言葉を説明する。。暗夜は「煉獄」(purgatory)にたとえられる。「性欲の抑圧・統合」が語られる。興味深い議論が続くが、性を、暗夜を、肯定的に見るジョンストン師の視点は一貫している。
しかも暗夜は深い悟りの先触れでもあるという。観想が「浄化」の段階から第二段階の「照明」の段階に入ると、つまり、熟練者の段階に入ると、霊魂は解放され、精神の自由と満足を享受するという。たとえば、「恍惚」とか「脱魂」とか「脱臼」が生まれるという。感覚の浄化とも呼んでいる。
注1 ユングは、無意識は性とかならず結びつくわけではない、個人の抑圧体験だけでは説明できない社会レベルでの無意識と呼べるものがある、と考えた。フロイトよりは集団や社会にも眼を向けていたというのが普通のユング解釈だろう。
注2 第二バチカン公会議の成果である。なお、「七つの大罪」はseven deadly sins の訳で教会では「罪源」と呼ぶ。悪徳は罪源から生まれ、高慢・貪欲・嫉妬・憤怒・肉欲・貧食・怠惰の七つとされる。その内容や訳語や並べ方の順序は歴史的に変化してきているようで、現在は『カトリック教会のカテキズム』(第3編第1部第8項)に従う。
第13章 愛のうちにある (Being-in-Love)
本章はロナガン論である。ロナガンの「超越論」という方法論が神秘主義神学の柱になるというのがジョンストン師の主張だ。特に、「愛のうちにある」(Being-in-Love)という概念が中心になる。これは単なる「愛」(Love)とは異なる。それは性愛を説明できるからだ。本章も背景は性の問題である。この 「Being-in-Love 愛のうちにある」という思想はジョンストン神秘神学の中核をなしている。そしてそれは師がロナガンから学び、発展させた重要な神学的貢献である。
浄化の次の段階、照明の段階は、「愛の火、炎、葡萄酒」、として描かれる。こういう状態をもたらすエネルギーを、東方正教会は「造られざるエネルゲイア」と呼んだ。アジアでは「気」と呼ばれ、ヒンズー教では「クンダリーニ」(蛇の力)と呼んだ。
ロナガンは、自己超越は、前述の4つの教えを守ることでかなえられるという(注意深くあれ・知的であれ・道理をわきまえよ・愛のうちにあれ)。こういう愛は、例えば、ロミオとジュリエットの間にあったロマンチックな愛とどこが異なるのか。ロナガンの答えは明解で、ジョンストン師はこの文章を繰り返し引用する。
「愛はどんな愛でも自己放棄であるが、<神への愛のうちにある>(Being-in-Love-with God)という状態は、いかなる制限も資格も条件も留保もなしに<愛のうちにある>ことである」。なんのことかというと、愛のうちにあるとは、超越した方に恋をすること。超越した方とは、恋人かもしれないし、神かもしれない、という。つまり、人間的な愛は同時に神秘的な愛でもある、人を愛するとは神秘的な行為だという。人を愛したことがある者にしか言えない言葉であろう。
第15章 花嫁と花婿
教会はキリストの花嫁という言い方は、カト研の皆さんにはなじみがあっても、一般には余り知られていないのではないか。F.カーはその著『20世紀のカトリック神学』のなかで、20世紀の新スコラ主義神学の再興の試みは失敗し、「婚姻神秘主義」(nuptical mysticism)(注1)に取って代われたと言っている。婚姻の神学はオリゲネスにまでさかのぼれるとはいえ、第二バチカン公会議が打ち出した新しい神学である。婚姻論は現代神秘神学の中枢にある。本章でジョンストン師は神秘主義と結婚、性との関係を論じる。
オリゲネスは婚姻論の始まりだが、その性への否定的姿勢は明らかだった。中世神学では独身制と童貞制は肯定的に受け取られてきた。しかし、実際には守らない教皇や司祭がいたし、結婚した神秘家も数多くいたようだ。ユダヤ教やイスラム教では性的実践は肯定的に受け入れられており、キリスト教の否定的とらえ方とは異なるという。ジョンストン師は、キリスト教神秘神学の中で独身制と童貞制が唯一の途ではないと主張する。ではどうするのか(注2)。
「性は統合されねばなりません」(412頁)という。つまり、性的エネルギーと霊的エネルギーを統合するという。具体的には、禅や道やヨガは、霊のエネルギーを管理し、しかも性的エネルギーを変容させるという。霊的婚姻とは既婚のカップルが主と合一することを意味するという。師はもちろん性的な節制、禁欲が重要だと考えている。神秘主義が性的不健康に堕さないために必要なことだ。それでも性的エネルギーはエネルギーの根源だ。このエネルギーを、解放し、制御し、統合しなければならない。師は、神秘神学は結婚について霊的にも制度的にもさらに書かれねばならないと結んでいる。師は、結論は出していないが、方向性をはっきりと示している。
注1 花嫁神秘主義とも言われる。中世にはクレルヴォーのベルナルド(ベルナール)を中心に、花婿と花嫁との関係を神と教会との関係、または、神と霊魂(人間)との関係の比喩として解釈する伝統が確立した。
注2 独身制は肉体を軽視したグノーシス主義の影響のもとに4世紀以降制度化が進む。東方教会と西方教会とでは発達の形態が少し異なるようだ。カトリックでは第二ラテラノ公会議(1139)で確立する。当然のことながらプロテスタントでは独身制は採用されていない。上座部仏教では僧は妻帯を許されない。肉食妻帯は日本仏教(大乗仏教)の最大の特徴だ。妻帯は制度的には明治以降に確立したようだが、浄土真宗では早くも近世に見られ、日本仏教全体が浄土真宗化していく過程で広く普及したようだ。独身制の議論には日本仏教がたどった道を冷静に見ていく必要がある(末木文美士『思想としての近代仏教』2017など)。
第16章 一致
本章が言う一致は Union の訳語である。unity の話ではない。神との一致 union with God が主題である。主題は、1993年にシカゴで開催された諸宗教の宗教会議で採択された「地球倫理宣言」の意義である。H・キュングが起草したこの宣言は、環境問題、格差問題など地球規模の問題に対して、「諸宗教の教えの中に核となる共通の価値観が見いだせること、ならびにそれが地球倫理の基盤を形成することを宣言します」と言っているという(446頁)。
キリスト教で言えば、「神秘主義は・・・神との一致、すべての人々との一致、宇宙との一致、自分自身との一致への回帰のための道」だという。師はこのおのおのについて順番に丁寧に議論を重ねていく。
この宣言自体には神秘主義についてははっきりした言及はないようだが、現代世界が危機に直面していることを明らかにしている。そして神秘神学はこの危機に立ち向かえる精神を用意している。神秘神学は、ただひとりじっと祈っているだけではない。地球規模の社会問題も射程の範囲に入れていると力強く宣言する。
第17章 英知
本章は本書のまとめのような内容である。おもに二つの論点が提示される。一つは、さまざまな宗教が英知をどのように探究してきたかを比較し、キリスト教の探究の独自性を明らかにする。第二に、英知が科学的知識や常識とどのような関係を持つかが論じられ、英知と科学的知識が両立することを明らかにする。
最初に、さまざまな宗教や分野で観想を実践している人々が求めている英知(wisdom)とはなにかが、改めて整理される。まず大乗仏教における悟りが英知の一つの形態であるという。ジョンストン師は、悟りで強調される「慈悲・空(くう)・気(き)」は仏教的な英知のあらわれであると考えているようだ。
キリスト教、特に旧約聖書(知恵文学 注1)では、英知は女性として擬人化され、聖霊として理解される(注2)。聖霊は「神的英知」(Divina Sapientia)とよばれる。「ですから英知はゴール、愛は道です」(455頁)とされ、このゴールとは「神の直知」(Vision of God)だという。つまり、魂が肉体を離れ、神と、顔と顔を合わせて相まみえる栄光のことだという。
さらに、知には二つの型があるという。一つは科学的知識とか常識と呼ばれる知である。もう一つは英知と呼ばれる知で、キリスト教や仏教の神秘家が探究してきたものだ。キリスト教の場合、この英知は観想によって求められる。観想はまず、「推論的観想」から始まり、やがて「習得的観想」にいたり、そして「注賦的観想」で頂点に達する。
問題は、この科学的知識や常識と、英知とをどう調和させていくか、ということだ。キリスト教の神秘家の中には、科学的知見や日常の雑事を軽蔑し、それらは神の英知と比べれば無知も同然である、と言う人たちがいる(注3)。ジョンストン師は、神秘的英知が科学的知見より優れているという考え方をとらない。「習得された科学的な知識と注ぎ込まれた神の英知の結婚」を主張する。それは繰り返し言及されたB.ロナガンの「超越論」が師の新しい神学の方法論だからだ。
①(愛をこめて lovingly)注意深くあれ ②知的であれ ③道理をわきまえよ ④責任を持て。何か道徳訓みたいに聞こえますが、師はこれを「超越論的な教え」(precepts)と呼んでいる。格言、教訓といってもよいかもしれない。注ぎ込まれた聖霊の賜物である英知は、さまざまな知識、信仰、預言、異言を語る力、霊の識別力などに見られるという。本章では、聖書のなかの預言、異言、ガンジーら現代の預言者が論じられる。続いて、十字架の聖ヨハネの「内なる声」が論じられる。誰でも心の奥底で響く声を聞いたことがある。天使の声があると思えば、悪魔の声があるかもしれない。現代心理学がいうプシケから立ち上ってくる声がすべてそのまま信じられるわけではない。禅では「魔境」とよばれ、人は容易に欺かれる。つまり、英知には慎重な「識別力」が必要となってくる。聖ヨハネは、ここを過ぎると「目覚め」の段階に入り、そして「神の直知」という最終段階に至るという。つまり、浄化を経て、輝かしい婚姻を通って、神秘生活のクライマックスが神の直知なのだという(注4)。
注1 知恵文学とは、箴言・コヘレト・ヨブ記・知恵の書・シラ書の五書
注2 旧約聖書を新約聖書の視点、キリスト教の視点からのみ眺めると、ユダヤ教やイスラム教とは異なった点が強調されすぎる。予型論(タイポロジー)と言っても良いかもしれない。聖書解釈研究の課題の一つのようだ。
注3 逆に、科学の知見と矛盾することをいう(例えば奇跡)宗教なんて馬鹿馬鹿しい、と考える単純な世俗家もいる。現代日本ではこちらの方が多数派かもしれない。
注4 直知はvisionの訳語だ。visionは普通は幻視とか幻覚とか幻と訳され、五感では感じ取れないものを感じ取る超自然的な働きをさす。キリスト教ではvisionは啓示によって与えられ、預言や「内なる声」という形で表現される。これが言葉として現れるか、それとも視覚として(映像として)現れるかで、異なった描写がなされるようだ。
第18章 活動
ここからの2章は活動論である。神秘神学が、十字架の聖ヨハネが、決して触れることのなかった現代的テーマであり、ジョンストン神学の特徴でもある。
現代社会の問題(個人の不安から世界の分裂・抗争まで)に直面して、現代人には、積極的に活動する、運動に参加する人と、人生の深い意味を求めて瞑想の世界に向かう人がいる。観想の優越性と活動の有用性の対立。聖書でいえば、「マリアとマルタの話」(ルカ10・42)で、活動よりは観想が良い、マルタよりマリアがよい、といわれてきた。活動を信頼しないで観想に逃避する人と、観想を犠牲にして活動を過大評価する人との間の争いは終わることがない(注1)。この争いは避けられないのか。
教会は、『典礼憲章』では「活動は観想に従属する」と言っている。他方、『現代世界憲章』では「人間は活動することによって事物と社会を変えるだけでなく、自分自身を完成させる」と述べて、活動の優位性を強調する。ジョンストン師はこの活動と観想の一致を目指そうとする。ではどうするのか。
師は、勇気ある自己決定(言われたままに行動しない)、霊の識別(悪霊からの声と聖霊からの声を識別する)、目覚め(悟り、照らし)、を通して、活動と観想の一致を目指しなさいという。そして重要な発言をする。「ヒンズー教や仏教やイスラム教やキリスト教は、どれも、同じとは言えない・・・神秘体験が宗教間の対話には絶好のテーマであることは確かですが、得られる内容は異なっている・・・安易なエキュメニズムは避けたいものです」(510頁)。師はキリスト教にとどまっている。師はキリスト教を離れることはなかった。そしてイグナチオ・ロヨラにならって次のように言う。「祈りと活動を分離しないこと・・・聖霊の活動の識別を持続的に行うこと・・・神秘神学には社会的な側面がある」。
注1 ジョンストン師が本郷で座禅に打ち込み始めた頃は文化大革命(1966-76)が始まったばかりで、まさか10年におよぶ政治的大混乱になるとは誰も思わず、単純に社会主義を守るための運動と多くの学生は理解していた。師の勉強会の参加者は信者だけではなかったから、赤本(毛沢東語録、赤尾の豆単ではない)片手に座禅を組んでいた学生もいて、座禅と運動は併存していた。今から思えば不思議な時代だった。師がタイプライターでポツポツと著書 Christian Zen (未邦訳 改訂数回)を打っていた時代だ。
第19章 社会活動の神秘主義
キリスト教は、長い間、苦しむ個人ー貧しい人、見棄てられた人、病気のひと、不安を抱えている人ーを支えてきた。19世紀に入り、教会は社会構造に注目し始め、社会的罪(social sin)を意識し始めた。そしてついに、第二バチカン公会議はキリスト教の社会的側面を強調するだけではなく、聖書の精神、福音の精神を世界経済に浸透させるという目標を掲げた。さらに、1993年にシカゴで開かれた世界宗教会議では、社会正義・非暴力・平和・環境保護に関する世界倫理を提案し、すべての宗教が成し遂げねばならないと宣言した。伝統的な神秘神学は神学生に、祈りに専念し、聖書を読むことだけを奨励していた。それでは地球規模の問題に立ち向かう用意ができない。
現代の神秘神学は活動に眼を向ける。その背景として、師は何人かの偉人の貢献を論じる。マハトマ・ガンジー、マーチン・ルサー・キング、トマス・マートン、ペドロ・アルペ、などだ。また、制度としての教会がもつ抑圧的構造を批判する「解放の神学」を肯定的に評価する。最後に、「積極的非暴力」を説いたガンジー、「犠牲の神学」を説いた永井隆(注1)を詳しく取り上げ、平和こそ神秘神学が求めるものだと述べる。次の言葉は師がいかに厳しい平和論者であったかを示している。
「愛の生ける炎に促されて、彼ら(活動的な神秘家)は平和行進に参加し、街頭デモを行い、抑圧的組織を公然と非難し、権力者に抵抗し、投獄され、命を落とすことさえいとわなくなります」(544頁)
この文章には、自分の故郷北アイルランド・ベルファーストのIRA(アイルランド共和国軍)について最後まで否定的評価を口にしなかった師の真の思いがこめられているように読める。
注1 師は永井隆『長崎の鐘』の英語への訳者でもある(1984)