それでは、新しいマリア論はどのような形をとるのだろうか。新しいマリア崇敬はどのような方向に進もうとするのか。それは、プロテスタントからの批判に耐えるものであり、解放の神学やフェミニズム神学の成果を取り入れ、エコロジー神学の展望を見据えるものとなるだろう。光延師は、聖霊とマリアのつながりを強化し、神の女性的側面と三位一体の交わりがつながることにマリア論の新しい展開を展望しているようだ。それは次回紹介する『神学ダイジェスト』(師が編集長である上智大学神学会の機関誌)特集号からも読み取ることができる。
1 解放の神学とフェミニズム神学
解放の神学とフェミニズム神学は、その成立の背景も主張も異なるとは言え、実は「マグニフィカト 聖母の讃歌」(ルカ1:46~56)に描かれる「解放の霊感」に共に注目している(1)という。マグニフィカト(マリアの讃歌)こそ新しいマリア崇敬の基本となる。
ラテンアメリカの司教会議は、1968年のメデリン会議(コロンビア)、1979年のプエブラ会議(メキシコ)で、「解放の神学」を支持する(2)。解放の神学は、このマグニフィカトに、小さき者・貧しい者・抑圧された者の擁護者・解放者としてマリアが歌われていると指摘した。「身分の低い者を高く上げる」ことこそ福音のメッセージではないかと主張した。
フェミニズム神学もマグニフィカトに注目する。教会の神学と霊性にはもともと男性的刻印が深く刻まれ、女性を軽視してきた歴史がある。そもそも聖書は男性によって書かれている。神の母マリアの教義はキリスト中心主義に貫かれている。キリストは神の「息子」だ。神の男性性という考え方には、キリスト教の家父長制的思考が色濃く反映されているのではないか。
カトリックのマリア信心には、男性中心の聖職者位階制が投影されている。女性は隷属的なパートナーとして描かれている。「マリアは第二のエバ」説、つまり、「エバ→マリア」教会説からは女性解放の力は生まれない。カトリックは相変わらず「男の目線」でキリスト教を見ている、というのがフェミニズム神学の主張であった。
代表的なフェミニズム神学者のR・リューサーは、神の女性性・神母性が救いに果たす役割を強調し、マリアの中に「神性の女性性」を探すべきだと主張しているという(3)。
2 マリアと聖霊のつながり
このような解放の神学、フェミニズム神学からの批判にカトリック神学はどのように答えるのか。光延師は次のように述べる。
「それは、マリアを神の三位一体性の具体性が表れる場、神の霊の場、交わりの場として捉える視点ではないか」(4)
具体的にはどういうことかわたしにはよくはわからないが、どうも東方教会のマリア信心などを念頭に置いておられるようだ。
「マリア論に触れない神学は、人間中心的・個人主義的ないびつな神学だ・・・聖霊の創造的・積極的な受容性が信仰の核心に浸透することが、キリストのからだである教会の実現ですが、その共同体の真ん中にいるのがマリアでしょう」(296頁)。
マリア信心を捨て去ることではなく、聖霊との結びつきの中で新しい形でのマリア信心の展開を考えておられるようだ。
聖霊降臨とマリア(イエスのカリタス修道女会)
注
1 きれいな讃歌なので文語訳で読んでみよう(48ー50節のみ)
「わが心、主を崇め、わが霊は、わが救い主なる神を喜び奉る。
その婢女の卑しきをも顧み給えばなり。
視よ、今よりのち万世の人、われを幸福とせん。
全能者、われに大いなる事を為し給へばなり。
その御名は聖なり、その憐憫は代々、畏み恐るる者に臨むなり」
(岩波文庫版『文語訳新約聖書詩編付』2014)平仮名を省いているので読みずらいが、「協会共同訳」(2018)では次のように訳されている。
「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も 私を幸いな者と言うでしょう
力ある方が、私に大いなることをしてくださったからです。
その御名は聖であり その慈しみは代々限りなく 主を恐れる者に及びます」
2 1970年代の日本の教会内では解放の神学に関わる話題はは口にするのもはばかられる雰囲気であった。マルクス主義の一つですと一蹴されていた。、フランシスコ教皇の着座を見たとき隔世の感の思いを禁じ得なかったが、今の日本での議論を見る現在も、その思いは変わらない。フランシスコ教皇を批判し、トリエント典礼に戻れと声だかにに主張するグループがいるとはいえ、時代の流れの方向を変えることはできなように思われる。
3 R・リューサー 『マリアー教会における女性像』(新教出版 1983)
4 光延一郎編著『主の母マリア』(2021) 295頁