カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「躓かせる」とはどういうことか

2024-09-29 22:10:22 | 神学


 今日の御ミサは主任司祭が出張不在のため、前前任の主任司祭のH神父様が司式された。人柄の良さで人望があったH師の久しぶりのミサということで多くの方が集まった。お聖堂が信徒であふれたのはコロナ禍以来初めてだったと思う。

 今日は年間第26主日で「世界難民移住移動車の日」ということで、福音朗読はマルコ9:38~48だった。この章ではイエスが自分の受難を予告する場面が読まれるのだが、この箇所では「誘惑の警告」をしている。地獄の説明などおどろおどろしい表現があるのでのであまり読んでみたくなる箇所ではない。ここの42節はこのように始まる。

「わたしを信じるこれらの小さな者のひとりをつまづかせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」

 ここで「つまづかせる」という言葉が出てくる。H師は今日のお説教でこの言葉の意味や用法、使い方について話された。興味深いお説教だったので少し考えてみた(1)。

 神父様が言われるように、「つまづく」ということばは我々は日常会話ではほとんど使うことがない。だが、「聖書と典礼」では「新共同訳聖書」からこの文言を引用してくる。ちなみに「協会共同訳聖書」でもおなじ訳語がつかわれている。では、つまづくとはどういう意味なのだろう。

 日常用語でいえば、「広辞苑」は二つの用法を挙げている。①けつまづくという意味で、なにか障害物に足先を蹴り当てる(段差でつまづく) ②中途で失敗する(経営につまづく)。つまり宗教的な意味や用法は指摘していない

 宗教的な意味では、例えばキリスト教では、「信仰上の理解を妨げるもの」と説明されている(2)。例として、救い主が人間のかたちをとって現れたこと(マタイ11:6)、神の子の十字架の死が躓きになる(Ⅰコリ1:23)。
 『岩波キリスト教辞典』(2008)では、躓きとは人を転倒させる障害物をさすが、転じて、失敗や過失の原因、神が民に敵対して与える苦難、イエスが期待されたメシア像を裏切ったため人々が信ずることができないこと、を指すと説明している。さらに、「倫理的には、隣人にとって傷害となる言葉や行為」のことと説明している。あまりはっきりしないが、教会内での用法はこちらの説明に近い印象がある。

 問題は訳語だ。「つまずかせる者」という訳語は聖書によって異なる。バルバロ訳では、「小さな人の一人にでも罪を犯させる者」とある(3)フランシスコ会訳は「つまづかせる人」である。新共同訳、協会共同訳でも「つまづかせる」だ。
 H師は英訳では「whoever causes one of these little ones who believe in me to sin」とあり(4)、要は罪を犯すよう誘惑する者・事を意味するようだと説明された。もっともな説明だった。
 でも、なぜ「つまづかせる」などという訳語があえて選ばれているのか。他の言語ではどのように訳されているのか知りたいところだ(5)。

【年間第26主日】

 


1 H師のお説教は以前と同じくわかりやすいものだった。わかりやすく解説するというのは難しいことだが、師は今日の朗読箇所を「我々の信仰生活が不完全なままでもよいのではないか」という趣旨で説明された。もちろんイエスは「完全を求めよ」と繰り返し説いており、完全を求めねばならないが、それでも自分の不完全さを認めてもよいのではないか、と言われた。聞き慣れた「H節」の連発で久しぶりに痛快なお話であった。
2 『聖書辞典』(新教出版社、2007,291頁)
3 バルバロ訳の注では、つまづきについて、「有力な古写本にはなく、書入れがどうか不明である」とある。
4 この訳文は、The Holy Bible English Standard Version, 2014 のもの。
5 『文語訳新約聖書』(岩波文庫)では「躓かする者」とある。聖書の翻訳には聖書学者だけではなく、文学者、言語学者、芸術家など多くの分野の人が関わっているという。「つまづく」という訳語は広く受け入れられているようだ。とはいえ、わたしにはその宗教的意味合いは現在は薄れてきているような印象がある。信仰の障害になるという意味でつまづくという言葉は使われる機会は減ってきているのではないだろうか。

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敬老の日のミサ ー 終油かお彼岸か

2024-09-15 20:37:35 | 教会


 年間第24主日(B年)の今日は「祖父母と高齢者のための世界祈願日」だ。ごミサの中で「病者のための塗油の秘跡」(終油の秘跡)がなされた。日曜学校の子供たちから聖歌を歌うプレゼントが贈られ、ミサ後に記念撮影がなされた。茶話会も盛会だった。

 敬老の日のお祝いもあったのでミサの高齢者の出席者は多かったが、若い方も多かった。神父様のお説教も力が入っていた。今日の福音朗読はマルコ8:27-35で、長い。ペテロがイエスはメシアだと信仰告白し、イエスが死と復活を予告する場面だ。神父様はここをペテロはまだメシアという言葉の意味がわかっていないという視点から解説された。興味深い説明だった。

 敬老の集いには80歳以上の方に招待状が神父様から送られた。そのためか、今日の出席者はあまりにも数が多く、祭壇の前に並んで一緒に写真を撮ることができなかった。2階席からの遠景写真が撮れただけだった。80歳以上の方の出席が多かったというのはこれはこれで教会としては喜ばしいことなのであろう。神父様からはサイン入りのカード(ご絵)がプレゼントされた。

【神父様からのカード】

 


 現在は九月十五日は「老人の日」で、九月第3月曜日(今年は九月十六日)が国民の祝日としての「敬老の日」ということで、なにか紛らわしい。

 カトリックの教会暦では、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は七月第4日曜日で、イエスの祖父母(聖ヨアキムと聖アンナの日の7月26日)に近いのでこの日に祝う国も多いようだ(1)。ところが日本では七月の暑いさなかに敬老の気分にもなれないので九月が選ばれているのかもしれない。9月15日前後は、中秋だし、お彼岸だし、敬老の日に塗油の秘跡も違和感はない(2)。

 塗油の秘跡では司祭は額に聖油を塗るときにつぎのような祈願を唱えてくれているという。「この聖なる塗油により、慈しみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように」。実際には塗油の希望者全員に一人一人この祈りを唱えるのは大変なことだろうからなにか別の祈りがあるのかもしれない。

 ミサ後の茶話会には神父様も参加され、各テーブルを順番に回って話に加わっておられた。信徒との交わりを大切にされる神父様のようだ。教区ではいろいろな役職を割り振られてお忙しいようだが、ミサを立てることを最も大切にされるという姿勢は好ましい。


1 世界祈願日には3つあるという。
①世界平和の日(1月1日)
②被造物を大切にする世界祈願日(9月1日)
③祖父母と高齢者のための世界祈願日(7月の第4日曜日):教皇フランシスコが2021年に制定
2 日本では、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は「敬老の日の前日の日曜日」と定められた。新型コロナウイルス感染症のパンデミックの最中に制定されたものだ。カトリック中央協議会はつぎのような説明をしている。
「この祈願日の教皇メッセージは、とりわけ高齢者自身へと向けられます。教皇は、記憶を保ち信仰を伝えるという高齢者の使命を繰り返し説いています。高齢者には、社会において担うべき役割があるのです。ですから、高齢者にとってはその使命の自覚が、後の世代にとっては高齢者の果たす役割への理解が、それぞれ求められます。家庭にも教会にも、高齢者が活躍する場、あらゆる世代がつながって協働する場が必要なのです。」
 日本ではこの世界祈願日を敬老の日の近くに持ってきたということについてはいろいろ議論もあるようだ。日本のカトリック教会内の信徒の姿勢の違いは様々なところでみられるようだが、一番深い違いはいわゆる土着派と福音派の対立だろう。信者の数をとにかく増やすのが大事でローマの言いなりにならずに日本文化に適応していくことを強調する人々と、カトリックの普遍性を強調する立場の違いとでもいえようか。日本の司教団はどちらかといえば土着派に近い印象がある(七五三や敬老の日のお祝いの導入など)。最近はこの対立軸に加えて、カトリック教会は「日本の教会」なのか「日本人の教会」なのかという対立軸も生まれてきているようだ(三好千春『時の階段を下りながら』2021)。日本の信者数は40数万人とよく言われるが、実は外国人信徒の数は日本人の信徒の数より多いと言われる。外国語のミサを挙げている教会は多い。外国人信徒は日本人信徒と「一緒に」教会で活動するのか、それとも「別々に」活動するのか。日本人のカトリック信徒数が増えないなか、外国人信徒数は着実に増加しつつある。現在のところ移民労働者のなかでカトリック信徒は多い。中央協議会はどこへ日本の教会を導いていこうとしているのだろうか。

 

 

 

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