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遠い昔のTV番組を再現しようというムチャな試み

おっどろきーーー!!

2017-11-13 14:06:37 | 本と雑誌
大塚ひかり「女系図でみる驚きの日本史
いやそんなに驚くことでもないのかもわからんが「女人平家」のストーリーにこんな続きがあったとは・・・というとこが心底意外であったのだ、前にこんな記事を書いた(要は吉屋信子の設定が気に入らんくて「実はこうだったハズ」というツッコミを入れたのであったが)、この年表で母親も実名も正確な年齢すらわからない清盛の娘たち、宗盛と同年かもしれない(ここは女人平家にならった)花山院兼雅室のA子、時子が生んだ白川殿盛子と同年かもしれない(同左)冷泉隆房室のC子の子孫はどうなったのか・・・

そも藤原氏の系図はややっこしい、清盛が時子の産んだ2人の娘を嫁がせた近衛家は摂関家じゃなくなった後も続くけど清盛の血筋はつながってない

花山院家というのは摂関家の道長(これ一番わかりやすいよね)から数えて4代目の分家でA子の夫兼雅はさらにその4代目

冷泉家ってのは・・・
不比等-房前-魚名-末茂-総継-直道-連茂-佐忠-時明-頼任-隆経-顕季-家保-家成ー隆季-隆房(C子の夫)
タハハよくつながったよな、Wikiエライ!!一応藤原北家には違いないが傍流もいいところ、今につながる歌道の冷泉家とは関係ないらしいのよな、何で清盛が娘の婿にこの男を選んだのか吉屋信子がいささか見下した書き方してたのはわからんでもない、だけどそういうのを偏見と言うんじゃあるまいか?

因みにA子と同年の(ということにした)B子が嫁した坊門家というのは
師輔-兼家-道隆-隆家-経輔-師信-経忠-信輔-信隆(B子の夫、再婚)
つまり先祖は道長の兄貴、摂関家じゃなくなっても続いてたんだね

ついでに言えばA子の最初の夫成範は藤原南家の出、清盛は家の格よりオヤジ(信西)の実力を重視したってこと、正解だったかだうかはわからんが

それがだうしたって隆房とC子の孫に当たる貞子というのは西園寺実氏に嫁して後に北山准后と呼ばれた女性、その娘姞子は後嵯峨院の后にして後深草・亀山両帝の母なのである、ヒェーーーー!!いったい何驚いてるんだって?女人平家が中世炎上(瀬戸内寂聴の小説)につながってたなんて(どちらも週刊朝日連載だった)、これが驚かずにいられるか?!
ところで西園寺家って?と言えば
師輔-公季-実成-公成-実季-公実-通季-公通-実宗-公経-実氏

一方花山院兼雅とA子の4代目子孫忠子は南朝後醍醐天皇の母、5代目子孫経子は北朝後伏見天皇の母、信じられる?いやもちろんられるけど

11/14追記-にしてもこの作者エラいよな、後嵯峨院后の母=北山准后というのはけっこう有名人(その時代を知ってるヒトには)だから、その祖父冷泉隆房/祖母清盛女(C子)のカップルにたどりつくのはさしたる難事じゃない(吉屋信子も知ってたかも)、だけど談天門院忠子ってヒトもそれなりの有名人(亀山・後宇多二代の后)とは言え花山院兼雅/清盛女(A子)のカップルはその曾々祖父母、間に男が3代入ってる、簡単にはたどりつけんのじゃないか、もっともB子とC子を時子の実子としておられるのはいただけぬ、ここは私の考察が正しいと思うのであるが・・・

更に追記-今気がついたのだが冷泉隆衡(隆房長男)の室(つまり北山准后の母)は坊門信隆の孫(信清娘)である、義理の祖母B子と母C子がこの結婚をはからった可能性なくもない、そっか吉屋信子はこれも知ってたのかなあ(こちら)


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