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■【きょうの人】 1121 ■ 吉田松陰 長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範 ■ 一休宗純 とんちばかりの一休さんではない

2023-11-21 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1121 ■ 吉田松陰 長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範 ■ 一休宗純 とんちばかりの一休さんではない  ■ 会津 八一 明治から昭和にかけての歌人・美術史家・書家

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 吉田松陰 長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範


 よしだしょういん
 文政13年(1830年)8月4日(西?9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)に生誕
 安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。享年30(満29歳没)


長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範でもあります。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られています。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた人です。


 幕末の志士吉田松陰は、海外事情を学ぶため、鎖国の禁を犯し、密航することを決意しました。

 長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に薦められ急行しましたが間に合わいませんでした。翌嘉永7年(1854)3月、来航したペリー艦隊の後を追って、弟子金子重輔と下田へ来ました。

 機をうかがい、夜中に下田市柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請しましたが、ペリーに拒絶されてしまいました。

 壮図むなしく破れた松蔭等は、潔く自首し、拘禁された場所が、下田市宝光院長命寺(廃寺)でした。

 さらに平滑の獄に移され、同年4月11日は、江戸伝馬町の獄に送られました。

 松蔭等が、下田に滞在した期間は、24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わりましたが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一ページを刻むものであり、後に与えた影響は大きかったといえます。(【Wikipedia】および下田市史蹟紹介立て看板をもとに作成)

  吉田松陰関連ページ

 

■ 一休宗純 とんちばかりの一休さんではない


 いっきゅうそうじゅん
 明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日)


 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧で、誰もが知っている説話のモデルとしても知られています。

 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。

 母親の出自は不明ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられています。三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かりました。

 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位しましたが、この即位には一休の推挙があったといわれています。

 戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。

 名言「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

 巷では、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」といいますが、やはり[門松]がただしいようです。

 

■ 会津 八一 明治から昭和にかけての歌人・美術史家・書家


 あいづ やいち、會津 八一
 1881年〈明治14年〉8月1日-1956年〈昭和31年〉11月21日)


 日本の歌人・美術史家・書家で、雅号は、秋艸道人、渾斎です。

 歌碑が、奈良・薬師寺の西塔のふもとに建っています。

 新潟県に生まれ、中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しみました。東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、その影響も受けたようです。

 この頃すでに「東北日報」の俳句選者となり、卒業論文にはキーツをとりあげ、英文科卒業しました。卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残しました。

 1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなりました。

 坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京、早稲田カンレンの教育者として、英語だけではなく美術史関連の講義もおこないました。

 研究のためにしばしば奈良へ旅行し、1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で文学博士の学位を受けました。

 妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られ、津田事件に巻き込まれたりもしています。

 同僚であり歌人でもある窪田空穂とは二十数年にわたって親交を結ぶ友でした。

 終戦後新潟に戻り、1951年に新潟市名誉市民となりました。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


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