経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

【カシャリ!庭園めぐりの旅】01-katsushika01 邃渓園 寅さんで知らる帝釈天庭園

2022-07-30 14:59:08 | 【カシャリ!庭園めぐりの旅】

 

  【カシャリ!庭園めぐりの旅】01-katsushika01 邃渓園(すいけいえん) 寅さんで知られる帝釈天の日本庭園

 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間に旅をしたのか、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅のテーマは寺社や庭園めぐりです。

 

 日本には「日本庭園」と呼ばれる庭園だけではなく、「イングリッシュガーデン」など、海外の庭園形式をした庭園も多数あります。寺社を訪れたときに、想定していなかったところに、庭園を発見することがあります。

 下手の横好きで、【カシャリ! ひとり旅】を続けていますが、その一環で訪れた庭園を順次紹介してまいりたいと思います。

 

 名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道 仏教 仏像

 

■ 邃渓園(すいけいえん) 寅さんで知られる帝釈天の日本庭園

 𨗉渓園は、日蓮宗の寺院である「柴又帝釈天」「題経寺」の大客殿前に広がる池泉式庭園です。昭和40年(1965年)に、向島の庭師「永井楽山」の設計・作庭による庭園です。庭園へは立ち入れませんが、昭和59年(1984)、庭園の周囲に設けられた100mもある屋根付きの、Z字型に続く廊下から楽しめます。

 池泉には平石橋が架けられ、護岸には石が敷き詰められています。庭の中央には、巨石に松の支柱が乗せられていたり、池泉には、おきまりではありますが、鯉が泳いでいたり、石には亀が休憩していたりします。

 切石に窪みを掘った手水鉢の脇やその先の猿の置物には日本酒が置かれています。

 回廊ができる前は、大客殿から庭園を望むだけでしたが、回廊ができたおかげで、地越しに大客殿を望めるようになりました。

 大客殿では冷茶やお茶のセルフサービスが提供されていますので、一息いれて休憩を取れます。

 庭園そのものは、800平米と中規模程度の大きさです。しかし、柴又帝釈天は「彫刻の寺」ともいわれ、本堂下などに彫刻ギャラリーとして、緻密な彫り物を鑑賞できます。日本庭園と彫刻の両方を楽しめ、訪問者の満足度を高めています。


アクセス

 東京都葛飾区柴又7丁目8−12 電話 03(3657)2886
 京成線「柴又」駅 徒歩3分
 北総公団線「新柴又駅」下車徒歩12分。
 JR小岩駅より京成バス(金町行)に乗り15分程、「柴又帝釈天」下車。
 JR金町駅より京成バス(小岩行)に乗り5分程、「柴又帝釈天」下車。
 JR常磐線 金町駅より徒歩20分

 駐車場
  なし(柴又公園駐車広場から徒歩10分。1日500円)

開園
 午前9時~午後4時
 12月28日~1月3日迄は庭園のみ閉園。同期間は拝観料が半額。

入園料
 庭園・彫刻ギャラリー共通 大人 400円 小中学生 200円


 

𨗉渓園は、「柴又帝釈天」「題経寺」の池泉式庭園です。

昭和40年(1965年)に、向島の庭師「永井楽山」の設計・作庭による庭園です。

 

帝釈天参道

 

寅さんの映画に出て来るのは別のお店

 

帝釈天山門

 

帝釈天本堂

 

𨗉渓園(すいけいえん)には大客殿玄関から入ります

大客殿では冷茶やお茶のセルフサービスが提供されています

 

回廊ができる前は、大客殿から庭園を望むだけでしたが、

回廊ができたおかげで、池越しに大客殿を望めるようになりました

 

庭園そのものは、800平米と中規模程度の大きさです

 

 

庭の中央には、巨石に

松の支柱が乗せられているところもあります。

 

池泉には平石橋が架けられ、

護岸には石が敷き詰められています。

 

池泉式庭園

 

池泉には、おきまりではありますが、

鯉が泳いでいたり、石には亀が休憩していたりします。

 

切石に窪みを掘った手水鉢の脇や

その先の猿の置物には日本酒が置かれています

 

 

 

柴又帝釈天は「彫刻の寺」ともいわれ、

本堂下などに彫刻ギャラリーとして、緻密な彫り物を鑑賞できます。

日本庭園と彫刻の両方を楽しめ、訪問者の満足度を高めています。

 

詳細情報

http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/katsushika/katsushikaku01-teien.pdf

 

 

■ カシャリ! ひとり旅

 

 


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【カシャリ!ひとり旅】 山口県萩市2 幕末・明治期に傑出した人物を輩出 木戸孝允・高杉晋作旧宅

2022-07-30 13:12:17 | 【カシャリ!ひとり旅】写真・旅行 Misc.

 


  【カシャリ!ひとり旅】 山口県萩市2 幕末・明治期に傑出した人物を輩出 木戸孝允・高杉晋作旧宅


 


 



 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。


 


 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。


 


 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。


 


 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・


 


 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。


 


 



名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道


 


 


■■ 山口県萩市 幕末・明治期に傑出した人物を輩出 



  https://www.hagishi.com/

 萩市(はぎし)は、中国地方西部、山口県の北部に位置する日本海に面した歴史の街です。江戸時代に、毛利氏が治める長州藩の萩城下町です。

 日本海に面し、三方が山に囲まれていて、道路・鉄道・港湾の整備も遅かったため、山陽側の市町村と比べると発展が遅れ気味でした。新制の萩市として発足後の2005年国勢調査でも、人口の減少が目立ち、特に合併前の旧町村での減少傾向が目立ちました。

 萩市に限らず、山口県は、幕末から戦前にかけて政財界に多くの傑出した人物を出しています。吉田松陰は、その中でも特筆すべき人のひとりです。

 司馬遼太郎の幕末小説である『世に棲む日日』『花神』や、大河ドラマ『花燃ゆ』は萩市が舞台になっています。

 萩市中心部は、日本有数の規模を誇るデルタ地帯です。旧・川上村から流れる阿武川(あぶがわ)は2つに分かれ、橋本川と松本川となって日本海に注いでいます。また、両河川からは新堀川、藍場川といった小河川が分岐し、市街を流れ、水の豊多町でもあります。

 


■ アクセス



 空路 山口宇部空港または萩・石見空港経由
 鉄道 新幹線新山口駅より高速バスまたはJR山口線湯田温泉または山口駅からバス利用
 



旅行社より配布された地図


 




萩市内ホテルより望む萩港


 


■■ 山口県 歴史を語る萩市 木戸孝允旧宅 ■■


 


 


 明治維新の立役者木戸孝允の生家。藩医であった彼の旧宅は、国の史跡指定であり、木造桟瓦葺き2階建てです。孝允の誕生当時の部屋や庭園が残っています。

 山口県萩市呉服町2 0838-25-3139 萩市観光課
 無料 8:00~17:00 無休 駐車場なし

 JR山陰本線東萩駅から防長交通バス県庁前行きで5分、萩バスセンターで防長交通バス循環西回りに乗り換えて4分、萩城城下町下車すぐ
 


■ 木戸孝允 幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家

 きど たかよし
 1833年8月11日(天保4年6月26日)- 1877年(明治10年)5月26日)
 号は松菊、竿鈴

 幕末の長州藩士、勤皇の志士、明治維新の元勲として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられます。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍しました。

 長州藩藩医和田家の生まれですが、7歳で同藩藩士桂家の養子となりました。1849年に吉田松陰の門弟となりました。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学なども学んでいます。

 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となりました。

 1864年の池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8か月の潜伏生活を余儀なくされました。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜りました。

 1866年には藩を代表して薩長同盟を締結しています。

 新政府成立後には、政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任しました。

 1868年(慶応4年=明治元年)に、五箇条の御誓文の起草・監修にあたり、明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たしたのです。

 1871年には岩倉使節団に参加し、諸国の憲法を研究し、1873年に帰国したのちはかねて建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求しました。内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、その結果、西郷が下野することになりました。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と死の直前に言い残したといわれています。

 憲法制定を建言していましたが、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的で、その他の事情もあり、参議を辞しました。晩年は政府内で、孤立しがちで、その後、病死しました。
 



木戸孝允旧宅


 



木戸孝允旧宅


 



 


 


 


■■ 山口県 歴史を語る萩市 高杉晋作旧宅 ■■


 


 長州藩の200石の中級武士の家に生まれ育ち、倒幕運動を積極的に押し進めた高杉晋作の旧宅です。平屋建ての民家には、写真や書が展示され、庭には自作の歌碑があります。

 山口県萩市南古萩町23 083-22-3078
 大人 100円、中・高校生 50rmm円 小学生以下 無科
 8:00~17:00(12~3月は9:00~16:00) 予約により閉館時間延長可
 不定休(予約が望ましい)
 駐車場なし
 JR山陰本線東萩駅から防長交通パス県庁前行きで5分、萩バスセンターで防長交通バス循環西回りに乗り換えて5分、萩械外堀入口下車、徒歩3分
 


 


■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士

 たかすぎ しんさく
 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉

 幕末長州藩の尊王攘夷志士として久坂玄瑞等とともに活躍した武士です。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を討幕運動に方向付けしました。

 文久元年(1861年)には、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し、江戸に渡りました。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしました。その年に、東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。

 文久2年(1862年)に、藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情などを見聞して7月に帰国しました。

 尊王攘夷(尊攘)派が台頭しますと、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。

 文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。

 文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎますと、長州藩は関門海峡における下関戦争で外国船砲撃を行い、惨敗します。晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成します。

 文久4年(1864年)、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害しました。英仏米蘭4か国連合艦隊が下関砲台を占拠、晋作は和議交渉を任され、ギリギリの線で交渉を成立させました。

 幕府の権威が失墜し、慶応3年(1867年)に大政奉還、高杉晋作は、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。


 



 



 


 


 



  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm


 


 



  ■ カシャリ! ひとり旅




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【経営コンサルタントのお勧め図書】コトラーのマーケッティング「5.0」の時代に備えよう

2022-07-30 07:46:19 | 経営コンサルタントの本棚

本  【経営コンサルタントのお勧め図書】コトラーのマーケッティング「5.0」の時代に備えよう

「経営コンサルタントがどのような本を、どのように読んでいるのかを教えてください」「経営コンサルタントのお勧めの本は?」という声をしばしばお聞きします。

 日本経営士協会の経営士・コンサルタントの先生方が読んでいる書籍を、毎月第4火曜日にご紹介します。

 

本 ■    今日のおすすめ

    『「コトラーのマーケッティング5.0」Technology for Humanity』
       フィリップ・コトラー ヘルマン・カルタジャ

       イワン・セティワン著

       恩蔵直人監訳 藤井清美訳 朝日新聞出版)

本

■  COVID-19で加速したデジタル化とマーケティング5.0(はじめに)

 

【マーケティング1.0~4.0の歴史を振り返る】

 「マーケティング」の言葉の起源ですが、イギリスで18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命により、工業製品の大量生産が可能となったことに起因します。
 アメリカでは大量生産が可能になっても、植民地があるイギリスと違い、気候も風土も価値観も違う広大な国内に販売する方法や計画が必要となりました。つまり、効率よく大量生産し、市場や消費者を分析し、効率よく消費者に届ける戦略や戦術を立てる必要があったのです。この様な背景の中で、アメリカ由来の「マーケティング」の言葉が生まれたのです。1937年にはアメリカ・マーケティング協会(AMA)が設立されています。
 その様なマーケティングが、理論としてどのように進化してきたかを、コトラーの定義に従い1.0~4.0を見てみましょう。


 「マーケティング1.0」(1900~1969)は、製品志向・製品販売を目的とする製品管理に重点を置いた製品中心のマーケティングです。コトラーの先輩であるエドモンド・ジェローム・マッカーシーが1960年に、マーケティングの基礎知識である「4P戦略(Product、Price、Place、Promotion)を発表し、さらに、3P戦略(Personal;現場スタッフ重視戦略、Process;業務、販売プロセス戦略、Physical Evidence;顧客に安心感を与える証明書などの可視化戦略。併せて7P戦略。)を提唱しています。


 「マーケティング2.0」(1970~1989)は、買い手の「ニーズは何か」を探る顧客中心のマーケティングです。戦略的に顧客満足を探る顧客管理が中心テーマで、コトラーの提唱する「STP分析」がフレームワークとして登場した時代です。1980年代、ロバート・ラウターボーンはプロダクトアウトの4Pとは異なった、顧客視点戦略である、マーケットインの「4C;Customer Value、Customer Cost、Communication、Convenience」を提唱します。


 「マーケティング3.0」(1990~2009)は、インターネットの登場やSNSの発達を起因とする社会の変化に伴い、消費者が商品に関する様々な情報にアクセスできる「市場の成熟」と社会問題・環境問題の顕在化に伴い「企業の社会的責任」を問われる時代が到来します。マーケティングの視点では、顧客は商品の機能的・感情的満足に加え、商品が社会的責任に応えているかという倫理的・精神的満足をも求めるようになったのです。まさに人間中心のマーケティングの時代になったのです。また、商品・ブランドを3つの視点から評価する「3ⅰモデル;Brand Identity、Brand Image、Brand Integrity」というフレームワークが生まれました。この様な時代背景の下、2009年コトラーのシリーズ第一作の「コトラーのマーケティング3.0;From Products to Customers to the Human Spirit」が出版されました。


 「マーケティング4.0」(2010~)は、2016年出版されたコトラーのシリーズ第二作、「コトラーのマーケティング4.0;Marketing from Traditional to Digital-スマートフォン時代の究極法則-」にある通り、スマートフォンに代表されるデジタルによる接続に加えてオフラインのチャネルも使うオムニチャネル・アプローチのマーケティングの時代と定義します。製造業におけるフィジカルとデジタルを融合させたシステムが使われる「インダストリー4.0」からヒントを得たものでした。


 シリーズ第二作では、STP分析と共に、顧客理解を深め、的確なマーケティング戦略に繋げるツールとしてのカスタマー・ジャーニーについて、サミュエル・ローランド・ホールの「AIDMA;Attention、Interest、Desire、Memory、Action」、デレク・ラッカーの「4A;Awareness、Attitude、Action、Act again」に替わる、フィジカルとデジタルのハイブリッドな顧客との接点による枠組み「5A;Aware、Appeal、Ask、Action、Advocate」を提案したのです。


 マーケティング・ミックスについては上記「4P」「4C」に替わるコトラーの「4C;Co-creation(共創)、Currency(通貨・ダイナミックプライシング)、Communal activation(共同活性化)、Conversation( カンバセーション・会話によるコミュニケーション)」が提案されました。


【マーケティング5.0の出番が来た】
 COVID-19の影響により社会のデジタル化が加速しました。この結果4.0のオムニチャネルの構築を超えて、ネクスト・テクノロジーがマーケティングのやり方を一変させる可能性が顕在化してきたのです。まさに、内閣府が示す「Society5.0」に対応するマーケティング5.0の時代が来たのです。この様な時代を反映し、シリーズ第三作である紹介本が出版されたのです。
 それでは、これから主流となるネクスト・テクノロジーを活用するマーケティング5.0とはどの様なものか、次項で見てみましょう。

本

■ 次の10年で主流になるネクスト・テクノロジー・マーケティング5.0とは


 マーケティング5.0のスタートは、カスタマー・ジャーニーにおいて、ネクスト・テクノロジーがどこで価値を生み出し、伝え、提供し、高め、マーケターのパーフォーマンスを引き上げることが出来るかのマップを作成することから始まります。加えてこのマップはデータ・エコシステム(相互に連携するシステム)の構築により実現されねばなりません。


 マーケティング5.0を可能にするネクスト・マーケティング・テクノロジーとしては、人工知能・機械学習(AI)、自然言語処理(NLP)、センサー技術、モノのインターネット(IOT)、ロボティックス、拡張現実(AR)、仮想現実(VR)、ブロックチェーンなどがあります。


 ネクスト・テクノロジー・マーケティング5.0のエコシステムは、データドリブンのプラットフォームの下で、予測マーケティンを行いあらゆるマーケティング投資の利益予測を推定し、売り場での顧客へのパーソナライズされたコンテクスチュアル・マーケティングを提供し、営業・店頭販売などの現場に於ける顧客とのシームレスなインターフェースを拡張マーケティングの活用で希少な人的資源の効率的・効果的な活用を設計します。


 このエコシステムは市場の変化にリアルタイムで対応出来るように、アジャイル(俊敏性)とイテレーション(短期間の繰り返しで完成度を高める)が求められます。詳細は紹介本(8~12章)をお読みください。

本
■ マーケティング5.0の時代に備えよう(むすび)


 マーケティング5.0は始まったばかりです。今から、データドリブンで、アジャイルなネクスト・テクノロジー・マーケティングを、インテレ―ションし乍ら取り組んでいきましょう。

本

【酒井 闊プロフィール】

 10年以上に亘り企業経営者(メガバンク関係会社社長、一部上場企業CFO)としての経験を積む。その後経営コンサルタントとして独立。

 企業経営者として培った叡智と豊富な人脈ならびに日本経営士協会の豊かな人脈を資産として、『私だけが出来るコンサルティング』をモットーに、企業経営の革新・強化を得意分野として活躍中。

  http://www.jmca.or.jp/meibo/pd/2091.htm

  http://sakai-gm.jp/

 

【 注 】  著者からの原稿をそのまま掲載しています。読者の皆様のご判断で、自己責任で行動してください。

 

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【話材】 昨日7/29のつぶやき 経営コンサルタントをしていて思うこと 

2022-07-30 07:36:31 | ブログ

 

  【話材】 昨日7/29のつぶやき 経営コンサルタントをしていて思うこと 

 

 

経営コンサルタントとして感じたことを毎日複数のつぶやきをブログでお届けしています。

もし、お見落としがありましたり、昨日のブログで再度読みたいつぶやきがあるというときに便利なページです。

本日も、複数のブログで、つぶやき済です。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/4f40599438d31f97d74002091ad8b279

晴れ

■ 昨日は、下記のリストのようなことをつぶやきました。

konsarutanto   ◇ 昨日のつぶやき ◇ 

>> もっと見る

 【カシャリ! ひとり旅】を映像にして紹介しています。

   ユーチューブで見

 

 バックナンバー

 

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