聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

2020-12-19 12:00:12 | クリスマス
2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝うお祭りです。キリストの誕生日がいつかは分かりませんが、キリストの誕生という尊い出来事をお祝いするのです。特に12月25日は元々冬至のお祭りでした。一年で一番昼が短く、これからは夜明けが早くなっていく、言わば「太陽の誕生日」という異教のお祭りでした。この「太陽の誕生日」に教会は「キリストこそ私たちの太陽だ」と、キリスト誕生をお祝いする光のお祭り、クリスマスを始めたのです。[1]
9すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 その光は私たちをどう照らすのでしょうか。キリストが来られたことで、闇や夜がなくなったわけではありません。文字通りの意味でも勿論、私たちの生活や心の中の闇や痛みが影を落とします。悲しみや悩みで心が真っ暗になるとか、先行き見通せず暗中模索するような不安がなくなってくれたら安心ですが、そうではありません。ここでも、
5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
とあります。光は闇の中に輝いているのであって、闇がなくなったのではないのです。[2]
 ここで「すべての人を照らすそのまことの光」と言われているのは、イエスご自身です。イエスが電球やライトを持ってきてくれるというより、イエスご自身が光だと言われています。
イエスは…人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」[3] 
 イエスが世の光。イエスが来て下さって、私たちに先だって歩んでくださることが、周りが明るく変わるにも増して、私たちにいのちの光をもたらすのです。闇の中を進むような思いをすることは沢山あるのですが、それでもどんな時もイエスがともにいてくださる。必要なら私たちの手を握り、一緒に休んでもくださるし、いつのまにか背負ってもくださる。私たちから決して離れずに、歩んでくださる。イエスこそ、すべての人を照らすまことの光です。また、私たちの心の底まですべてをご存じで、罪からいのちへと方向転換させてくださるのです。
 だからこそ、そんなに照らされることを嫌がって、受け入れない人のことも11節に出て来ます。明るい人生さえあればいい。自分の心には踏み込まないでほしい。そういう拒絶もする。けれども、外側の明るさや確かさだけを追い求めるなら、内側の暗さをますます暗くしてしまうでしょう。神はそれを放っておいて、諦めて見捨てたのではありませんでした。そういう人間の心に信じる心を与え、神の子イエスが近づいて来て、心を開いて下さったのです。
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 「人」に星印があり、欄外に「直訳「肉」」とあります。ぎこちないですが、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」が元々です。これを「人」と訳すとしたら、特に人間の肉体・身体性・物質的な面を言っているのです。私たちのこの体、食べたり排泄したり、痛がったり傷が残ったり、汗をかいたり老いたりする、そう私たちの持っているのと同じこの体に、言葉がなって、私たちの間に住まわれた、それがイエス・キリストの誕生であり、生涯でした。
 神がこの世界を作り、私たちを愛し、私たちを照らしていのちを下さる。神の栄光は、恵みとまことに満ちている。「そう言われても分からない、世界の闇や自分の闇の方が強い気がする、恵みだと愛だの、綺麗事にしか聞こえない」。そんな人間のところに、キリストが来て、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださいました。
 神であるキリストが、肉体を持つ人間になる。それは私だったら、きっと断固として拒みたいような決断です。誰が小さな虫やバクテリアを救うため、自分もその一匹になろうとするでしょう。神にとって、人間になるのも微生物になるのも、たいした差はないでしょう。キリストは、それをしてくださったのです。クリスマスは、神の言葉が肉となった、ぎこちない、大それた、神の有言実行でした。
 キリストは人となって何をなさったのでしょうか。
 貧しい結婚式の欠乏を満たしてやり[4]、悩む老人のお忍びの相談に向き合いました[5]。
 異国の身持ちの悪い女性と屈託なく会話し[6]、ご自分の身が危うい時に、弟の死に慟哭する姉妹のためその死者を生き返らせました[7]。
 そして、弟子たちの汚れた足、誰もお互いに洗いたがらなかった泥だらけの足を、盥に水を汲んで一本一本洗ってくださいました[8]。
 その洗ってもらった一人でもあるヨハネが
「この方は恵みとまことに満ちておられた」
と言わずにおれなかった。それは、イエスが肉となってくださったからこそ、見ることが出来た事実でした。そしてイエスを見ることで、神がどんなお方かをまざまざと見たのです。まことに神は愛だ、この方がいのちを下さるのだと知ったのです。
 キリストがお生まれになったのは、人を愛し、私たちを照らすいのちの光となるためでした。そのため、肉となる道を厭わなかった神の御子は、この体で生き、うめいている私たちにも近づいて恵みを見せて下さいます。今年、いつもと違う、予想外のクリスマスを迎えています。この闇の中だからこそ、こういう世界の中にキリストが来て下さって、神の愛を私たちに届けてくださった。光となってくださった。「わたしが世の光だ、わたしがあなたがたのためにいのちを与える、わたし自身を与える。だから、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と[9]、いのちの道を示し、先を歩んでくださる光が見えるのです。

「闇にそっと生まれた主よ。主イエスを通して、私たちは神を見、天地の主が私たちを愛し、私たちを通して栄光を現してくださることに驚きます。そして、あなたの言葉は必ず肉となり、この世界の中に成し遂げられるのです。どうぞ、このクリスマスに、すべての人を照らす光として、キリストの誕生と御生涯が届けられますように。主イエスが、ここにいる私たちの光として心の闇も照らしてくださり、私たちの歩みを、いのちの光を持つ者として導いてください」

脚注:

[1] そして、神が私たちにイエス・キリストを贈り、罪の赦しと永遠のいのちをプレゼントしてくださったように、私たちも贈り物を贈り合い、人を招いて食事をする、キリストの誕生を歌うカロルが造られてきました。今や世界でお祝いされるようになったクリスマスになったのです。

[2]  1章1~5節でヨハネは、思いっきり遡って、世界の初めのその前のことから語り出します。「1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

[3] ヨハネの福音書8章12節。また、ヨハネの黙示録21章23節「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」、22章5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」も参照。

[4] ヨハネの福音書2章1~11節。

[5] ヨハネの福音書3章。

[6] ヨハネの福音書4章。

[7] ヨハネの福音書11章。

[8] ヨハネの福音書13章。

[9] ヨハネの福音書13章34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」。

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