2019/3/24 創世記15章5~21節「アブラハムとの契約 聖書の全体像13」
聖書の大きな物語の中で、神が最初にアブラハムを選んで、神の民の始まりとなさったことを先週はお話ししました。75歳で子どもがいない。将来を託すにはまず選ばれない人を、あえて神は選んで、新しい歩みへと旅立たせたのです。不思議な予想外の始まりでした。しかし、そんな希望に燃やされても、一向に事態は変わらず時間が経ち、やがて心は失意でジメジメしてくる…。この15章のアブラハムはそうだったかもしれません。75歳で旅立ってから、次の16章の最後は88歳と書かれます。14年、何も変わらない。子どもは与えられないまま時間が過ぎていく。神の約束と現実とは違うじゃないか、と思うような中。1節で主に声をかけられても、子どもがいない現状を並べるだけで、疑問や抗議になるような、そんなアブラハムに、
十五4すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
天の星を見上げさせて、数えられるなら数えてご覧、あなたの子孫はこのようになる、とユーモラスに仰るのです。未だに一人さえ与えられていないことで嘆いているのに、天の星のように数えきれないぐらい、だなんてそんな荒唐無稽な話、到底信じられるか、と思いますが、
十五6アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
アブラハムは信じるのです。その約束を信じる。生きている間に見る事はなく、13節も「四百年」以上先の話を語っています。その大きな将来への約束を、アブラハムは受け入れたのです。そしてそのアブラハムの信頼が「義と認められ」ました。アブラハムの信仰そのものに力があったとか立派な信仰だった、ということではなく、語って下さる主を信じた、その精一杯の信仰を主が認めてくださったのですね。信じがたい状況ですし、到底信じられない約束ですけれども、そういう中に、生ける神は働いて恵みを現してくださる。人には終わりで恐れや諦めしかないように思える中でも、世界を造られた神は働いてくださる。天に数えきれない程の星々を鏤(ちりば)められたお方は、アブラハムとサラにも子どもを生まれさせると仰っている。そう言って下さる主に、疑いも迷いも恐れもある中で、しかし信頼をすることを選んだのです。
18節に「契約」という言葉が出て来ます。9章で神がノアと結んだ「ノア契約」は世界を保持する契約でした。世界の存在そのものを祝福される契約でした。この世界を見るときに、すべてのことに神の御業、御真実が現されています。またこの世界を必ず完成に至らせるご計画があるのです。このノア契約を土台として、「アブラハム契約」は神がアブラハムを選んで語りかけ、この地を所有として与えて、子孫に住まわせるという、具体的な約束でした。土地と子孫を与え、いつまでもそこに住む将来。そしてアブラハムはそう言われた主を信じました。
聖書で「信じる」という言葉が出て来る最初がここです。かつてアダムとエバは、主の溢れる祝福をエデンの園で味わいながら、神はケチだと唆されて、主を信じない道を選んでしまいました。アダムは主を信じず、それは彼の咎となりました。しかしアブラハムは主を信じ、それが彼の義と認められた。神を信じない世界で初めて、アブラハムが主を信じた。それは人の信仰心や意志ではなく、主がお恵みくださった関係の回復に他なりません。主も彼に信仰を求めたのではなく、約束を与え、語りかけ、既に天に数えきれない程の星があることを見させることによって、アブラハムの中に信仰を引き起こされたのです。主に背を向けていた人類の中から、主を信頼する人を起こしました。それも、直接自分の益になるとか、自分が救われて永遠のいのちをもらうとかではなく、神のこの言葉を、約束を、祝福として受け止め、その成就を待つこと、神を神とする生き方に自分を捧げたのです。主が生きておられ、この世界に希望を与えること、自分の人生に祝福を与えること、人には無理だと思うような命の業をなさること、それも人間の願うよりも大きな神の時間の中でなさることを信頼する「信じた」です[1]。
この6節の言葉は、新約聖書でも大事な言葉として何度も引用されています。
ローマ4:2もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。3聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。[2]
信仰によって義とされる。これはキリスト教の伝道では、何かの行いによって罪の赦しは得られず、ただ神を信じれば(キリスト教を信仰すれば)罪が赦されて救われる、という読み方で強調されます。ですが、アブラハムが主を信じたことには、「救い」以上の約束があり、祝福がありました。そして、その神を信じること自体が神との関係の回復だったのです。
この後の奇妙な生贄の儀式を思い浮かべてください。雌牛と雌山羊と雄羊と鳥を持って来て屠り、獣は二つに裂くのです。これは契約を締結するときの儀式でした。もし契約を破ればこのように二つに裂かれる、という意味で、裂いた動物の間を契約を結んだ両者が歩くのです。現代の私たちは契約違反を防ぐため何かを担保にしたりしますが、当時は「生贄」で厳粛に契約を結んだのです。血腥(ちなまぐさ)い中でも、鳥は裂かずに二つを向かい合わせにするのは小さいものへの憐れみを現しているようですし、猛禽を追い払うのも無慈悲な思いで扱わない、ということらしいです。アブラハムは、そうした作業を1日掛けてして、また夜が来ると、猛烈な眠気に襲われて、暗闇の恐怖にも襲われます。そのときアブラハムは何も出来ない。恐れるな、と始まった15章ですが、アブラハムは暗闇への恐怖にどうしようもないのです。しかし、主はそのアブラハムを「恐れるな」と叱るのではないのですね。13~16節で将来への希望を確約します。主の契約は、アブラハムが信じれば守る、恐れなければ果たされる、という条件付きではなく、無条件の一方的な将来への祝福の約束なのです。力強い宣言です。そして、
15:17日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
煙と火があの二つに裂いた生贄の間を通った。契約を破ればこのように殺されても良い、と文字通り命を賭ける儀式が、しかしアブラハムは通らずに締結されました。主は契約を忠実に守られます。破るとしたら、人間です。しかし、主はアブラハムに生贄の間を通らせません。あたかも主がひとりでその罰を引き受けるようでした。そして後に、荒野をイスラエルの民が旅した四〇年、いつも昼は雲の柱、夜は火の柱が先立ちました。そしてやがて、本当の生贄となったのは神の御子イエス・キリストでした。この契約儀式通り、神は人の違反の罰を人に負わせず、ひとり子イエスが十字架で裂かれた事で、人の違反を償ってくださり、契約を果たされました。神はどうしても人間との関係を回復して、恵みによる祝福に与らせたいのです[3]。アブラハムに将来の祝福も約束し、主を信じる心も与えました。
それに応答してアブラハムは主を信じ、猛禽を追い払ったりしました。人には応答する責任があります。でも、恐怖に襲われたり眠かったり、疑ったり約束を破ったりするのも人間です。応答にしくじる私たちを主は深く受け止めてくださる。人が神に背いても、その償いの代価をご自身が命がけで払う。そうして主の赦しと回復を受け取りながら、必ず、神の祝福に与らせてくださることは、主イエスの十字架で果たされ、今アブラハムの子孫が数えきれない程いることにも、私たちがここでその信仰に連なっていること、赦しと約束の福音に与っている事実にも、成就しています[4]。
主を信じる私たちの信仰は、小さいようでも、世界を作られた神が私たちを愛され、希望を約束されている。そんな大胆な信仰です。今ここで主を信じる信仰は、限りない価値があるのです。
「天を作り、命を育まれる主よ。月や星を見上げ、世界に広がる信仰の家族の多さに、アブラハム契約の確かさを覚えます。どうぞ、今ここでの歩みをあなたの大きな祝福の中に受け止める信仰を与えてください。暗闇の恐怖に襲われる時にも、あなたが私たちを支えて導いてください。神ならぬものを神とせず、主にある希望を語り、互いを生かし合う者としてください」
[1] それは神との関係を回復することによる祝福です。神との関係なしに、ただ祝福や利益だけを欲しいと願っても、それを人間は悪用してしまうでしょう。そもそも神や人との関係よりも、自分が自分はと思う生き方自体が、惨めで歪んだもの、そこからこそ救われなければならない生き方です。そして、神に立ち帰って、神を神とすることは束縛や息の詰まるようなことではなく、深い豊かな祝福なのです。でもそれに背を向けてしまっているのがアダム以来の人間の姿です。そのような人の中で、神はアブラハムを起こして、アブラハムに約束と信じる心を与えてくださいました。その末に、今私たちも神の民とされ、神を信じる心を与えられて、礼拝に来ています。今ここに、神は働いておられる。長いご計画で働いておられる。
[2] ローマ書4章9節以下も。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。11彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、12また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。13というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。14もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。15実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。16そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。17「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。18彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。19彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。20不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、21神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。22だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。23しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、24私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。25主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」また、ガラテヤ書3章6節「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。10律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。14それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」
[3] 18節以下の主の宣言が重なって、主はアブラハムにこの地を確かに与えると言われます。この言葉は千年後、ソロモン王の治世の最大領域で成就したのだとも言われます。
[4] 《破った結果は人間が罰を受けるけれども、後からキリストが救済策として身代わりになってくださった》のではありません。最初から、神はご自身が償いを果たすと約束したのです。
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